Daily life

「あ、ちょっとおにいちゃん、そこのお皿取って」
 朝から戦場と化したキッチンで奮闘しているプレシアが、ふらりと姿を現したマサキに言う。その後ろを通り過ぎてはリビングへと、ミオが出来たばかりの料理を次々と運び出している。ミオとプレシアの二人だけでも充分に慌しいキッチン。居場所もないしとプレシアに云われるがまま、リビングの食器棚へ向かったマサキの脇で、手持ち無沙汰そうな様子のテュッティがキッチンに顔を覗かせた。
「ねえ、ミルクはどこにやったかしら」
 惚けた口調で口にするテュッティの背後では、ミオが並べた料理に何か足りないと首を捻っている。
「あれ? あたしさっきここにドレッシング置かなかったっけ?」
「そこにあるわよ。ほら、そこのポットの脇に」
 耳聡く聞きつけたテュッティに答えられたミオが肩を竦める。食器棚を開いて皿を選んでいたマサキは、ぷんと鼻を突く匂いにどうしても口を開かずにいられない。ミオが陣取っているリビングのテーブルを振り返って云った。
「しっかし相変わらず、凄い量のピクルスの酢漬けだな」
「あたしが好きなのよ、文句ある?」
「ねえよ。けれど、他の料理の匂いを消すからな」
「おにいちゃん、お皿取ってってば」プレシアの声に、思い出したとばかりにマサキは食器棚に向き直る。
 そこで誰の答えも得られなかったテュッティが、ならば名指しでと思ったのか思わなかったのか、「ちょっとマサキ、ミルク知らない? あなたのファミリアが騒いで仕方がないのだけど」
「そこにあるじゃねえかよ。ほら、そこの食器棚の脇に」
「やだ、誰かしら。ミルク缶をここに置くなんて」
「おにいちゃん、お皿」プレシアの三度せかす声。
 マサキはようやく選び終えた皿を手にした。
「ああ、今持ってくって」
「はいはいどいてどいて。料理が通るよ……ってヤンロンさっきから動いてないじゃない! 何一人でお茶飲んでるの?」
 マサキが皿を片手にキッチンに向かうのと入れ違いに、ミオがキッチンから飛び出してくる。皆の喧騒を尻目に一人呑気に茶を啜っていたヤンロンは、非難の槍玉に上げられても何のその。頑固親父よろしくとばかりに、テーブルに近い床の上で繰り広げられている朝の風物詩。フレキとゲリ、そしてシロとクロの諍いを冷ややかに見下ろした。
「男子厨房に入らずだ。それよりこの騒々しいファミリアたちを何とかしたらどうだ」
 マサキとテュッティの使い魔四匹は、生理的に相手を受け付けないらしく、朝に限らず顔を合わせては、犬だ猫だといって罵り合いを始めるのが常だ。
「フレキ、ゲリ、いい加減になさい!」
 ようやくミルクを手に入れ、周囲を見渡す余裕のできたテュッティが先ず一喝。
「シロ、クロ、お前たちもだ。毎度毎度そうやって犬猫で喧嘩しやがって」
 次いで、プレシアに皿を渡して余裕のできたマサキも一喝。
 その効果は目覚ましく、苦々しい表情をしながらも両者は一端そこから離れ、それぞれ主人が座る椅子の足元――彼らにとっては定位置に身体を伏せた。
「もうヤンロンってば、そうやって口ばっかりで何もしないんだから! 本当に手伝ってよ! はいフォーク、これぐらい並べられるでしょ!?」
 めいめいに朝食の準備を進める中で、相変わらず泰然と茶を啜っていたヤンロンに、プレシアを除けば一番体を動かしているともいえるミオの堪忍袋の尾が切れたらしい。彼女は手にしたフォークをヤンロンの前にどんと置くと、肩を怒らせてキッチンに消えた。
 さしものヤンロンも実力行使に訴えられては無視しきれないようだ。やれやれとフォークを手に立ち上がる。とはいえ、手が空いているのはマサキとテュッティも同じこと。さてどうしたものかとふたりで顔を見合わせていると、「おにいちゃん、テュッティおねえちゃん。洗い物手伝って!」
 そういった騒がしい光景が、食卓に限らず、ゼオルートの館での日常だった。

※ ※ ※

 日々繰り返される喧騒と比べると、打って変わった静かな朝食の席だ。皿を運ぶ音と、キッチンとダイニングを移動する足音だけの。二人で朝食を摂るにはいささか広いノーリッシュ作のダイニングテーブル――マサキは知らなかったが、ノーリッシュはラングランではそれなりに名の通った職人らしい。云われてみれば、S字を描く脚のラインとそこに施された蔓の彫刻などは、確かに上品に映る。
 そのテーブルにマサキが料理を運ぶ向こう側で、ソファを舞台に三匹の使い魔が格闘を繰り広げている。そういった使い魔たちのじゃれあいは、何処であろうと相手が誰であろうと変わらないものらしい。「ほら、飯だぞお前ら」マサキの呼びかけに、二匹の使い魔はぴたりと動きを止めると、一目散に床に置かれた皿目掛けて突進してきた。
「チカ、お前も――」それを尻目にソファの背もたれにちょこんと乗って、乱れた羽根を繕っている使い魔にマサキが声をかけると、
「毎度ながら生きた心地がしませんよ」
 彼女は云って、その後ろの出窓の張り出しに置かれた小皿の木の実を突付く。
「あれは猫の本能ってやつなんだろうな」
「そんな馬鹿な。いや、間違ってませんけどね、あたしたち使い魔なんですよ? 形はこうして動物の姿を取ってますけど、あたしはご主人様の、あの二匹はマサキさんの分身な訳でして、それって人間と同じ頭脳を持ってるってことですよね? つまりもうちょっと理性的なのが普通ではないかと」
「お前がこの先、ずっと空を飛べずにいられるなら、その言葉を信じてやってもいいぜ」
 マサキの言葉に何やら感銘でも受けたのか、チカが難しい顔をして考え込む。動物の形を倣っているだけならば、それらの機能は必要ない筈だ。だが、シロやクロはミルクや魚を喜んで口にするし、小さな生き物が動けば飛びつかずにいられない。チカは木の実を好んで口にしたし、実に愉しげに大空を舞う。闊達で多弁で能動的な使い魔たちは、人間の習性とは離れた場所で生きている。
 そりゃあ確かに無理ですよね――そう、彼女が呟いた矢先に、シュウがマサキを食卓に呼ぶ声がした。
 時にその大半に無頓着になるずぼらさを見せながら、時にそれが同一人物かと疑わせるほどの几帳面さを見せる。シュウの日常生活は、そういった面においてマサキよりも気紛れなものであった。
 どうかすると日長一日家に篭って惰眠を貪り続けたり、どうかすると寝食忘れて読書に没頭している。ひたすらグランゾンのシステムメンテナンスをしていたかと思うと、今度はコントロールプログラムを改良している……シュウは、どうやら見た目の穏やかさとは異なり、思いついたら即実行といった性急な性格であるらしい。
 夜中であろうと書庫だの倉庫だのの整理を始めるのだから、その場に居合わせたりしようものなら、騒々しさが堪ったものではない。かといって、マサキがそれらを止めたところで、シュウはのらりくらりとかわし続けるだけ。結局、片付けに区切りが付くまで止めはしないのだ。
 今日のシュウはどうやら日常生活に意欲を覚えたようで、いつもなら延々太陽が高くなるまで眠り続けているところを、マサキより早く寝床を抜け出し、早朝の散歩と洒落込んでいた。浅い眠りで寝返りを打って、そこにあるべき感触がないのに気付いたマサキは、まだ薄暗いカーテンの隙間に、ベットから少し離れただけだろうと思っていたのだけれど。
 そのまま再び眠りに就いたマサキが、徐々に騒がしくなる鳥の囀りに目を覚ますと、空はすっかり白み、これから青さを増していこうとしている頃だった。
 まだ覚めきらない頭にベットの中でマサキが微睡んでいると、玄関の扉が開閉する音が聞こえた。おや――と思いつつ、着替えてリビングに向かうと、昨夜読みかけたままソファに置きっ放しだった本をシュウが拾い上げるところだった……。
「そういやお前、朝何処に行ってたんだよ」
 大人数で囲む食卓と比べると、至ってシンプルな食事風景だ。サラダにターンオーバーの目玉焼き、クロワッサンに薄い豆のスープ。温くなった紅茶を啜りながらマサキが聞くと、シュウは片手間に読んでいた本から顔を上げて、
「散歩ですよ。家に篭ってばかりでは体も鈍る……今日は湿気ばむ陽気ですね。窓を開けて風を通していても室内が蒸している」
「確かに、暑いよな。またぞろ雨期が近付いてるからだろうけど」
「だからでしょう。今朝の外は霧深く、おまけに足元は濡れて滑りやすくなっていた。その中を往くのは、余り気分のいいものではありませんでしたね。けれども霧が立ち込める海に朝日が差し込む様は、それなりに――風情がありましたよ」
「また随分と遠くまで行ったもんだ」マサキは苦笑しつつパンを噛む。
 行儀作法に煩いかと思いきや、シュウはマサキがテーブルに肘を付いて物を食べようと何も云わなかった。それは、彼がこうして何かに目を通しながら食事をするのが習慣付いてしまっていたからかも知れない。
 他人のことを云えないと思いつつ、マサキがそれを指摘した時、人のいる食卓に慣れていないからだ――と幾分控えめな口調で彼は云った。賑やかな食卓に慣れているマサキからすれば、そういうものなのかと思うだけで、それ以上それについて追求したりすることはなかったけれども。
「何とはなしに外を出歩きたくなるという気分は、あなたにこそ理解出来るものでしょう」
「何となくだけどな。けどお前の場合、俺より気紛れだと思うぜ。どうかしなくても、俺がいるのを忘れて色んなことに没頭しやがる。起きる時間も寝る時間も不規則だし、食事だって今日は朝食からありつけたけれど、朝昼一緒くたになるのも珍しいことじゃないし」
「あなたのその言葉を聞いていると、私は案外、勝手気ままに生活しているようですね」
 話し掛ければこうして返事をする。会話を続ける。その様子を見ていると、そういったウェットな理由より、ただ単純に時間を惜しんでいるだけにも取れる。思い立ったら行動せずにいられないあの性急さを見る限り、ゆったりと時間を過ごしているように思える彼の日常は、時間との戦いであるように感じられるからだ。
「今日はどうやって一日を過ごしましょうか」
 気紛れ、という言葉に微笑んでみせ、シュウは本を閉じると、あらかた空になった皿を重ねて立ち上がった。
「どうやって、っていうのは、何をして、っていうよりも難しい話だよな」マサキも後を追う。「漠然としてて」
 朝食を作ったのはシュウだった。皿をシンクに沈め、いつの間にかどちらが口にするでもなく定められたルール――役割分担は公平に――を実行させるように、そのままリビングへと取って返そうとする彼に、マサキは何を云うでもなく袖を捲って水に手を沈める。「考えておいて下さい」シュウはその手元を覗き込むように、マサキの肩越しに顔を寄せて、
「偶にはあなたの為に、時間を使おうと思っているのですから」

※ ※ ※

 三匹の使い魔たちは、食事を終えると落ち着いているのも勿体無いとばかりに外に飛び出して行った。こうして彼らは早くに出て行ったが最後、夕暮れまで戻ってこない。
 特にシロとクロの二匹は、いつ何時召集がかかるかもしれないあの屋敷にいる時よりも、伸びやかにしているように見える。贔屓目ではないだろう。軒上やバルコニー、庭と場所はさまざまだったけれども、あの屋敷にいる間の二匹は、必ずマサキの手の届く場所に居た。
 それがどうだ。ここにいる間の彼らはこの周辺の森だけに留まらず、街に村、山に川にと自由自在に駆け回っている。彼らは彼らなりに日々の生活に気を遣って生きているのではないだろうか。
 マサキにもこうしてここにいる間、他のどの時間よりのんびりとくつろいでいるという自覚がある。
 彼の周囲は彼自身から受ける印象と同じく、ゆったりとした時間が流れているように感じられた。性急に取れるあれらの行動も、口で云う程マサキは厭っていない。傍でああして一人で動くのは、却って自分に気を遣っていない証明のようなものだと――妙な安堵感を覚えていたりもする。
 ただ、その内容に拠るものの、夜中に行動を起こすのだけは安眠妨害になるので控えて欲しいと思っていたけれども。
 下手に顔をつき合わせて一日を過ごすよりも、その方が余程幸福だ。
 話すことが尽きた瞬間の、あの気まずい沈黙に、マサキはいつまで経っても慣れられそうになかった。他人が相手なら、これが契機とその場を離れることができたけれども、彼が相手だと、どうしてもその場にもう少しだけ留まっていたいと望んでしまう。そんな時、どちらかといえば受動的な彼は、次の行動を待つ、或いは探るようにマサキを見詰めているだけで何をするでもなく。かといってマサキには急に次の話題が思い浮かぶ訳でもなく、ただ黙って時が過ぎるのを待つのも気恥ずかしく――もっと端的に云うならば、そのままなし崩しにどうにかなるのを期待してしまっているからこそ、そういった沈黙は生まれるものなのだ。
 なら、一つ屋の中に一緒にいようがめいめい勝手に行動して、気紛れに馴れ合う方がどれだけ楽だろう。
 どれだけ、幸福だろう。
 一人と一人、足して二人。更に足せば大勢になる。その一人が抱える孤独と気楽さは、二人になると孤独がなくなり、大勢になると気楽さがなくなるものであったけれども、そこには、他人同士でありながら、随分と長く共に過ごしてきた風な気安さと信頼感がある。
 シュウはマサキのすることに、口を挟む真似をしなかった。
 それでいて、自分の世界に没頭しているように見えても、そこにマサキがいることを忘れはしなかった。
 当たり前のようであっても、いざ同様の状況に置かれてみれば、それがいかに成し難いことであるかわかるだろう。何かに没頭するというのは、それだけ自分の五感を狭めるものなのだ。マサキはよく、自分の存在を忘れているとシュウを揶揄したけれども、話し掛ければ言葉が返る、側を通れば気配を察する、そうして、折に触れ折に言葉を交わす、そういった彼の聡さを気付いていない訳ではなかった。
 ただそれだけのことが、気安さを助長していると知ってか知らずか、つれづれなる生活を送っているシュウの本心は量れなかったけれども。
 一人と一人で成される世界は、こうして、いつでも一定の幸福で満たされている。だからだろう。自分の為に時間を使うと云われたところで、自由気ままに振舞うのに慣れてしまったマサキは、シュウに何をどう求めればいいのか思い浮かばなかった。
 洗い物を片付けながら考えてみたものの、いつも通りに過ごす以外の答えは見付からず。
「――お前、案外体硬いのな」
 その背中に圧し掛かるようにして、押す。
 シュウはソファの背もたれを肘掛けにするように、体を斜めにして膝に置いた本を読んでいる。キッチンからマサキが戻ってみればこの有様だ。「運動だよ、運動。お前に足りないのは運動だ」云いながら更に背中を押すと、僅かに前傾したシュウが可笑しくて堪らないといった笑い声を洩らす。
「運動ならそれなりにしていますよ」
 云うなりマサキの腕を取ると、本が落ちるのも構わず引き寄せ、その体を抱きかかえたままソファに横臥した。咄嗟のことに面食らうマサキに、「ついでに、あなたの体が柔らかいのだとすると、それは――」そのまま耳に口を寄せて、続きを囁く。
「ば……馬鹿かお前!」マサキは弾かれたように体を起こす。
 頬は赤く染まっている。
 その態度でからかうつもりであったのは予想できたものの、シュウの放った睦み事に関わるあられない言葉は、不意打ち同然の効果をマサキにもたらした。
「あながち的外れな言葉でもないでしょう」
「云ってろ」頬を撫でる手を払ってマサキは立ち上がる。
 今更羞恥を覚えるほど、初心な子供でもない。それでも不意に投げつけられるこの手の言葉は、マサキを酷く狼狽えさせた。
 特に最初の内は、どこまでが冗談でどこからが本気なのかさっぱり読めなかった所為もある。笑えばいいのか、怒ればいいのか……さらりと受け流すには、それらの言葉はあまりにも生々しいものだったからこそ。
「ちゃんと片付けろよ」
 先程、落ちて床に転がった本が、風で捲れて頁を広げている。爪先に当たった表紙にマサキはやれやれとそれを拾い上げて、先程の仕返しとシュウに投げつけた。
 笑いながら――。
 シュウはしばらく笑っていたが、やがて胸の上の本を畳むと起き上がった。
「街に買い物に出ようと思いますが、あなたはどうします」
「何を買いに行くんだ」
「食料を――あなたがいると、減りが早い」
 それは愚痴や嫌味というよりも、むしろその事実が喜ばしく感じられるようなさり気なさで。
 早朝の散歩の折にそのまま掛けたと思しき上着を、玄関口に近い壁から取り上げて羽織るシュウに、マサキは云う。「俺はいいや」椅子に腰掛け、ダイニングテーブルに肘を付く。
 特に欲しいものもなければ、そこでやりたいことがあるのでもない。あれやこれやと語り合いながら、目を潤わせる様々な品々を見るのはそれはそれで楽しいものであったけれども、だからといって、目的もなくその後をついて回るのは侘しいものだ。
 何より、その帰りを待ち侘びるの時間の楽しさは、滅多に経験できないからこそ、一緒にいる時間の楽しさに勝る。
 シュウはマサキの言葉を惜しむでもなく、振り返ると微笑んでみせた。
 そのまま、玄関へと出てゆく。
 扉の開く音がすると湿った風が吹きぬけて、マサキの髪を払う……。途端に静まり返った部屋、その静寂が耳に心地いい。窓の外からは鳥のさえずる声が聞こえたし、川のせせらぐ音も聞こえてくる。しばらくは静寂の中の自然の音に耳を傾けるのもいいだろう。
 無為に時間を過ごすことの喜びは、ここでなければ味わえない。
 一人で気ままに魔装機を駆って、西に東に向かっても、そこには自分を知っている誰かがいる。それは同じように西に東に流し歩いている他の魔装機操者であったり、その地方に駐留している軍隊であったりするが、どちらにしてもそうして会ってしまったが最後、マサキは「安藤正樹」という個人にはなれなくなってしまう。
 彼らにとってマサキは「魔装機操者」の冠が先に立つのだから、それは仕方のないこと。
 一人と一人、足して二人。更に足せば大勢――言葉にすれば単純なことであっても、それを成り立たせるのは難しい。ゼオルートの館で家族のように共同生活を送っていても、結局は「魔装機操者」であるように、立場というものは個人の付き合いをそのままにしておいてはくれない。彼らが行なう干渉の多くは、そこから生じるものでもあるのだから。
 さて、とマサキは立ち上がる。
 結局ソファに置かれたままになった本が、どうしても目についてしまう。片付けようと手を伸ばしかけて、彼の温もりを留めるように窪みを残すソファが目に入る。そうすると、今度はそれをそのままにしておきたくなってしまう。
 ソファ脇の戸棚には、その本が抜かれた跡が残っている。
 そこからマサキは一枚のレコードを取り出した。

※ ※ ※

 タイトルは「大地」という。作曲者はバーキュリティ・ヘーネム、二百年ほど昔にラングランを席捲した音楽家だった。
 僅かな残り香を崩さぬよう、ソファの端に腰を落ち着けマサキはその曲を聴く。
 古ぼけた蓄音機がゆったりとした曲を奏で始める。その技術力からすれば、こういったいつかは擦り切れて潰えてしまうだろうアナログな保存方法ではなく、デジタル化した音源をいつまでも留めておくことができるだろうに、ラ・ギアスの人々はそういった方法を好まないらしかった。
 バーキュリティは当時の貴族社会の中心にいて、再三、宮廷音楽家にと王室から招聘を受けたにも関わらず、最後までその要求を飲まなかったと聞く。
 文化や芸術は、時代によって変わるもの。なら、その方法を広く普及するのが担い手としての勤め。曲はその間口を広げる為の手段に過ぎない――バーキュリティはそう考えていたようだ。
 朽ちるがままに、果てるがままに。曲が潰えても方法が失われない限り、時代に合った曲がまた生まれる。
 そういった認識が、最終的にはこのアナログな保存方法に通じるのだと、シュウはマサキの問いに答えた。その時に聴いていたのがこのバーキュリティの曲だ。
 やがて激しさを増し、勇猛なリズムを刻み、荒ぶり、断絶し、そこからゆっくりと静寂に突き進む……例えば音楽、或いは絵画といった芸術を、目の前のダイニングテーブルも含めてマサキは自分から理解しようとは思わなかった。云われればそういったものなのだろうと思う程度のもの。それを愛でる人間の嗜好までとやかく云うつもりはない。
 ただ、そうして目に触れたものの、或いは耳にしたものの好き嫌いはある。
 一見広過ぎるテーブルも、実際使ってみればその余白が必要なものであると知れるし、この冗長で退屈な曲も、通して聴けば実に雄弁に情景を描いていると知れる。好き嫌いでいうならばそれらは好きなものの部類だ。
 尤も、ここで嫌いなものを上げる方が難しいぐらいであるのだから、マサキの好き嫌いなど、シュウの嗜好で左右されるものだと断じても差支えないのかもしれない。
 目を伏せて、じっと聴き入っていた耳に最後の音が通り過ぎる。
 マサキはゆっくりと目を開いて、蓄音機に向かった。なるべく丁寧にレコードをジャケットに収め、棚に戻す。並んでいるレコードの背を指先で引っ掛けては戻し、しばらくして次のレコードを取り上げた。
 とつとつと語るように唄うハスキーボイスが特徴の女性歌手が微笑んでいる。その精緻な筆遣いで描かれたジャケットを少し眺めて、マサキは棚に戻した。
 これを聴くなら二人で。
 それから、床下の食料庫を片付け、軽くキッチンとリビングの掃除をし、鎧戸を締め切った書庫で暇潰しの本を探し、それにも飽きて倉庫に向かう。
 書庫も倉庫も本来なら客間なり応接室なりに使える普通の部屋だ。それをこうして物を置くだけの場所にしてしまう辺り、シュウの性格が知れるというものだ。
 大して部屋数が多い訳でもないこの家だが、一人で過ごすのには広すぎた。二人でまあまあ、三人で丁度釣り合いが取れるといったところだろう。しかし余った部屋を遊ばせておかず、逆に物で溢れ返すのは、整理整頓好きの几帳面な性質とも物を始末するのが苦手なずぼらな性質とも取れる。まさに両極端、シュウそのものだ。
 こちらも鎧戸を締め切った倉庫には、片側に木箱やら長持のような柔いござ編みの物入れが積み重なっていて、その反対側に小間物を収納する木棚がずらりと並んでいる。そこを廊下からの明かりがぼんやりと照らし出す。
 恐らく、この家で使われている品々の大半がいわれのある品々なのだ。マサキはここに来る都度、何かしらひとつ、そういった日用品の由来を聞かされていた。フォークしかり、皿しかり、時計しかり。
 その棚に並ぶ品々もそれらと変わらない。ティーセット、置物、懐中時計、筆差し、絵画、万年筆……シュウがどうやって、日常の品々とここに眠る品々とを選別しているのか基準は不明だ。聞いたこともなければ、聞こうとしたこともない。
 価値の解らないマサキからすれば、どちらも似たようなものに映る。
 それでもこれだけ小間物が並んでいると、それはそれで目を愉しませてくれる。いつ頃作られた品なのか、何処で作られた品なのか、どのような人物が作った品なのか。それらを想像するのもまた良し。退屈しのぎであったとしても、そういったいわれのある品々に思いを馳せられるようになったのは、シュウの影響だろう。
 マサキはその中からふと目に付いた二脚のグラスを取り上げる。
 使い込まれていないからか、曇りのないそのグラスは奥の景色をそのまま素通して映し出す透明度があった。形状そのものは何の変哲もないグラスであり、縁に金色の細い金属製の帯が巻かれているだけで、華美な装飾は一切ない。だがそのシンプルなグラスを見て、綺麗だとマサキは素直に思った。
 空気が動く。
 廊下から足音が聞こえる。
「何か面白い物はありましたか」
 マサキがグラスを棚に戻そうとした瞬間、声が掛けられた。
「食料庫は綺麗に片付けられていましたし、部屋には掃除をした跡がありましたし、私のいない間に随分とかいがいしく働いて頂けたようで――」
 戻すに戻せなくなったグラスをじっと凝視めるマサキの後ろから手が伸び、その両手ごとグラスを掴む。ひんやりとした手の感触が、蒸してじっとりと纏わり付く空気の不快さを打ち消した。
 退屈でしたか――耳を掠める声が擽ったく、マサキは肩を竦めて笑う。
「待ちくたびれた」茶化すように云って、「お帰り」と首を傾げてシュウの顔を見る。
「私は余程、生活能力のない人間と思われているような気がしますね」
「暇だったからだぜ。けど、あてもなく掃除をするってのは楽しいものだよな」
 しなければならないとしなくてもいい、では行為の重さが違う。前者は義務で、後者は選択だ。
 義務は義務でしかないけれども、選択は自発的な行為だ。
 ここに居る間のマサキは、全てを選択する自由がある。居付くも帰るも、掃除をするもしないも、マサキの自由だ。役割分担は公平に――というルールがあったとしても、それは暗黙の了解。したくなければしなければいい、既に家主のシュウからしてそういった態度であったのだから、マサキがどうしようと責められる筈がない。
 ただ、それ以前にマサキがそのだらしなさに堪えられなくなるには違いなかったが。
「もしかして、お前がやるつもりだったか」
「多少は」
 その気があるのかないのか解り難い返事に、マサキは溜息を洩らす。
「云うと思った。むしろ全くその気がないんじゃないってことに安心するのはどういうことだ」
「すべき時にすればいいのですよ、日常の細事など」
 シュウにかかれば、自分の興味の範疇外のことはすべからく細事なのだ。しかしそれでいて、自分が生活能力のない人間だと思われるのは心外らしい。
 勿論、後者については、彼なりの冗談であると思ってはいるけれども。
「好きにすればいいさ。俺も好きにするし」マサキは笑う。「それに、そういうのは嫌いじゃない」
 シュウは微笑みながら手の内のグラスを爪弾いた。
 透き通った音が鳴る。
「ラーダットグラスですよ」
「どこかで聞いたような名前だな」
「ラーダット王国の工芸品です。ガラス産業におけるラーダット王国の知名度は、彼の国で作られたガラス製品全てに国の名が冠されることで知れるでしょう」
「ああ、それで聞き覚えがあるのか」
 ラングランの北方に位置する大陸に群集する小国家のひとつ、その名を聞いてマサキは得心する。
「その質と加工技術は他国など足元にも及ばない世界随一のものです。これなどは一見平凡なグラスに見えますが、光の下で見てみれば、その透明度の高さに驚くと思いますよ」
 云って、シュウはマサキの手からグラスを取り上げると、棚の端に置かれている小箱を取り上げた。そこには大ぶりのブローチとも見間違う精巧な細工で、グリフォンを模ったガラス細工が収められている。
「これは俺でもわかるくらいに細かいな」
「ガラス細工特有の目の粗さがないのに加えて、鋭角をこれだけ鋭く、そして深く掘り込んでいるのですからそう見えるのも当然でしょう」
「ラーダットはどんな国なんだ」
 迂闊に触れることすら躊躇わせる精緻な工芸品に、マサキはその蓋を閉じた。これは確かに、表に飾っていいものではない。そう思わせるだけの品格がある。
「雑多でおおらかな国ですよ。生きるも死ぬも富めるも貧しきも全ては精霊の御心ひとつ――そういった他動的な人生観が広く浸透している上に、輪廻思想があるものですから、楽天的な気質が強く、諦めが早い。自殺率は世界一を誇ります」
「それは……いいことなのか悪いことなのか、判断に苦しむな」
「変わりに、結果が目に見える物事に対して彼らは貪欲です。ラーダットでは他にも織物などが有名ですが、そういった作業の積み重ねに、彼らは驚く程の根気強さを発揮します」
 考えてみれば、マサキはラングランから外の国々に出ることがあまりない。バゴニア、シュテドニアス領内には足を踏み入れたことがあったけれども、海を挟んだ向こう側の大陸ともなると、殆ど未知の領域だ。
 そういった意味で、シュウの持つ知識は、マサキの不足を補って余りあるものだ。
 逆に、シュウからすれば、マサキの知識はその不足を補うものであるらしい。何かの折に、そう云っていたのを覚えている。どこが、と聞いても微笑むだけで答えてはくれなかったが。
 さて――シュウは話に区切りをつけるように云った。
「少し遅い昼食にしましょうか」そのままグラスを手に、倉庫を出ようとする。
「それ、どうするつもりだ」
「物は使ってこそ真価を発揮するものでしょう」
 その説明を聞いた後では、素直に頷き難い台詞でもある。
 余程怪訝な顔をしているように映ったのだろう。シュウは可笑しなことをするとでも云いたげに首を僅かに傾げ、それから静かに微笑むと、
「――以前、あなたが私に云ったように」
 マサキがまだ、物に使用目的以外の価値があると認めていなかった頃の話だ。

※ ※ ※

 そもそも朝食も、さして手の込んだものではなかったのだが、昼食はそれに輪をかけて手を抜いたものだった。
「そういう食い方をすると思ったよ」
 どんな気紛れか、街に出たついでとシュウが買い求めてきたのは、フィッシュ&チップス。それだけでは偏っていると思ったのだろうか、お慰み程度のサラダが付いている。使われている野菜に変わり映えがない辺り、朝食の残り物なのかもしれなかった。
 あのラーダットグラスに注がれているのは、炭酸水にレモンを絞ってシロップを加えた手製のジュースだ。些か――というより、大いに本人の嗜好を反映していない昼食は、面倒さにかまけたというよりも、マサキの嗜好に合わせたのだろう。小さく切り分けたフィッシュ&チップスをフォークで突付きながら、相変わらず片手の本を読み耽るシュウにマサキは呆れつつ云った。
「本に油が付いては困りますからね」
「だったら本を読むな」
 ハトロン紙に包まれたフィッシュ&チップスの最後の一口を口にする。とうに空になったサラダの小鉢にそれを丸めて押し込んで、「怠け者が」
「早い内に読み終えてしまいたいのですよ」
「お前、もしかしてまた――」
 マサキが室内をぐるりと見回すと、ソファの傍らにある小卓の上に、買ったばかりと思しき本が数冊積み上げられている。「……面白い本はあるのか」
「あなたにとってという意味なら、どうでしょうね」
「それでよくわかった。ないってことだな」
 ご明察――と云ったのか、笑うシュウの言葉は聞き取り難く。マサキは立ち上がるとその手からフォークを取り上げて、僅かに残るだけとなったフィッシュ&チップスに刺す。
「片付けるからさっさと食え」
 それを苦笑しきりで口に運ぶシュウを見届けて皿を片付ける。
 いつでもそう、傍から見れば下らない紋切り型の会話の応酬でも、それは気軽に話を続ける方法のひとつ。不愉快そうに顔を顰めてみせても、マサキはそれを存分に楽しんでいた。
 じれったく思ったこともあった。もどかしく感じたこともあった。いつまでも変わらない他愛ない会話に、今までとこれからを真剣に憂いたことも。けれども、こうしてシュウの側でゆったりとした時間の流れに身を任せて、くつろいでいる自分を感じた時、変わらないものほど幸せなものはないのだと気付く。
 シュウはとうに気付いているのだろう。
 いや、もしかすると気付いていないのかもしれない。
「やっぱり勿体なかったな」
 マサキがテーブルに戻ると、ラーダットグラスの中で、気の抜けた炭酸水が途切れ途切れに泡を浮かせていた。なんとなく惜しいと思いそれを口にする。
 宝物のように、あの暗い倉庫の片隅で、ひっそりと眠っているのがこのグラスには似合う――気がして。
 シュウが未だ途中の本を閉じた。
「いわれや由緒というものは、それを認める他人の存在を得て、初めて機能するものですよ。つまり、意味を求める愚かさが見せる幻です」
「また突飛なことを云いやがる」
「そうでしょうか」
 シュウは殆ど減っていない炭酸水を、また少し口に含む。やはり口に合わないらしい。
「この世の様々な事象に意味を求める生物など、人間しかいないのですがね。生きること、生きてゆくこと、死ぬこと、死んでゆくこと――最後のその一瞬まで、あらゆることに意味を求める……生命に限られた時間を与えられた人間は何をしますか? 先ず自分の人生に意味付けを行なうでしょう。死す瞬間に意識のある人間は何をしますか? 自分の人生に意味を持たせる為に遺言を残すのでしょう」
「けれど意味のない人生なんてつまらないだろう」
「だから意味を求めるのですよ」その骨ばった長い指が、本の表紙を叩く。
「人間は本能だけで生きている生物ではありません。理性がある。快不快だけでは割り切れない複雑な感情がある。即ち、本能だけで生きていけない生き物であるのです」
「それで、意味を求めるって?」
「それ以外に理由がありますか」
「ならお前は――そう思うのなら何故」
 マサキはグラスを持ち上げる。何故いわれや由来を求めるのか、と問おうとしたが、質問を先回りしたシュウに言葉を封じられる。
「私はそれらの品々に、価値が生まれる瞬間を知りたいのですよ。下世話な好奇心です。それ以上でもそれ以下でもない」
「それも意味を求めるってことじゃないのか」
「そう――」満足げにシュウが微笑む。「無意味と知りつつ意味を求める……私も人間なのですよ」
 彼はよくこうして、様々な事柄に長広舌を揮った。
 マサキにとって以前は嫌味或いは皮肉にしか聞こえなかったそれらの言葉だったが、今では素直に耳を傾けていられる。議論をふっかけるのではなく、そうやってマサキを相手に語ることで、自分の考えを纏めているように見えるからだろう。
 釈然としない結論に至ることもしばしばあるものの、それはシュウと自分の考え方の違いだと、マサキは認めている。それをどうのと蒸し返すつもりもない。
 一人と一人、足して二人。それぞれは他人だ。
 どれだけ近くに居ても、同じ世界を見ていたとしても、ひとつにはなれない他人。全てを解り合うなど無理な相談だ。それに、互いの謎や秘密は多い方が楽しいに決まっている。一つづつ解き明かして、一生退屈しない時間を送れるなら、どれだけ実益を兼ねた愉しみだろう。
 しかしそれは、かなり難解なものであるのだけれど。
「だからこそ、それらは使われてこそ真価を発揮するものに成り得るのです」
「そういうもんか」
 マサキは毎度の講釈を、それなりに知恵を振り絞って聞く。
「そうでしょう。それらに他人が与えた価値を、私は無意味であると思っている。なら、私がそれらを集めたのは、好みの問題でしかないことになります……そうである以上、使わなければ意味が保てないでしょう」
「ああ――つまりお前が云いたいのは、使うことで価値を与えるってことか」
「その通りですよ」
 シュウはまた少しばかり炭酸水を口に含んだ。最早、泡も出ないくらいに気の抜けきった炭酸水は、どうやらようやくその口に合う味になったらしく、二口、三口と続けて飲む。
 だったら自分のだけ水で作ればいいのに――マサキは思ったが、口にはしなかった。
 それが彼なりの思いやりなのだ。
「もう昼も大分過ぎた時間ですが……午後はどうやって過ごしましょうか」
「どうやって、か」そこではたと気付いてマサキは顔を顰める。「それは難しいって朝に云ったよな」
「そこまで難しく考えなくともいいと思いますがね」
 そうは云われても、それはやはり難しい。
 まるで判じ物のようだ。より捻って穿った答えを示した方が評価を得られる問答にも似ている。
 マサキはここでゆったりと過ごすのに慣れてしまっていたし、では忙しなく過ごしてみようとしたところで、逆にその方がやり難いものであるのは容易に知れる。何をしようが、それがどれだけ手際よく進もうが、シュウの周りの空気はゆったりとしたものであるのだから。そもそも忙しなく過ごすなど、望むものではないだろう。
 楽しく、であるなら、ここに居る時点で充分にそうであるし、明るく、であるなら、今日の天気は充分それを満たしてくれるものである。静かに、であっても、ここに居る限りはやはり叶っているものであるし、のんびりと、であっても、同様に。
 不足がない――マサキは困り果てて、不意にそれを思い付いた。
 彼は今日、日常生活に意欲を見せている。

※ ※ ※

 それから夕方遅くまで、二人で書斎に使われているらしい部屋の壁を補修した。
 らしい、というのは、デスクや書棚など書斎として体裁を保っているにも関わらず、マサキはシュウがこの部屋を使っているのを見たことがなかったからだ。
 台が必要となる場合、彼はダイニングテーブルを使用した。物を書くのに、図面を引くのに、コンピューターを扱うのに、細かな部品の修理をするまで。ノーリッシュのダイニングテーブルは、作った本人も予想していなかっただろうほどに活用されていた。
 使い勝手がいいのだと云う。その黒檀のデスクは、それと変わらぬ広さを誇っているのに何がどう違うのか、マサキには区別が付かない。
 この家の主人はそうしてあまり寄り付かない部屋であったが、床一面に敷かれた毛足の長い絨毯は寝転がるのに最適で、マサキは度々ソファからクッションを持ち出したり、ベットから枕を持ち出したりして横になると、何をするでもなくぼんやりと時間を過ごした。
 思い出した風にこの部屋を使うマサキに、シュウはそれ程時間が経たない内に気付く。
 部屋の存在そのものは忘れていないのだ。のみならず、マサキの隣りに落ち着けたかと思うと本を読んだり寝ていたりするのだから、その部屋の雰囲気を嫌っているのでもないらしい。
 よく見れば、デスクを使った跡もあったりして、まるきり使っていないというのではないようだったが、マサキがそれを口にすると、「偶には」「それよりも」といった――彼にしては歯切れの悪い言葉が返ってくる。それならば、何か都合が悪いものでも隠されているのではないかと、マサキはこっそりデスクや書棚の中身を漁ってみたりしたのだが、そもそも鍵を掛けられる引出しを、そのまま開けられるようにしてあるくらいなのだから、仕舞われているものの程度も知れる。
 案の定、それらしいものは見付からず、謎は謎のまま。今日に至るまで、使われているらしいが使われていないとしか云えない書斎の秘密は明かされていない。
 そんな部屋であるから、壁の隅から雨水が洩れ出しているのを見付けたのも、家主たるシュウではなくマサキだった。家など朽ちるがままにしておけばいい――冗談ではなく、本気でそう思っているのだろう。真顔で云い切ったシュウに、壁が乾いたら補修しろとしつこいくらいに云い含めて、その時、長逗留になってしまっていたマサキは帰ったのだが――。
 やる気にだけはなったらしい。やる気にだけは。
 ただそれは、材料を買い集めたところで潰えてしまったようだが。
 かくて、ようやく彼の部屋の壁は修復され、丁度良い頃合と帰宅した三匹の使い魔と夕餉を過ごし、マサキは寝間までのひとときを、チカの途切れないしゃべりに付き合っている。
「それでですね、このカラスの野郎がもう憎らしいったら」
 シュウはシャワーを浴びている。
 マサキの使い魔たちは、夕食の席までが我慢の限界だったらしく、リビングの隅に置かれた籐籠の中で既に眠っている。朝から晩まで外を遊び歩けば当然だ。チカも口だけは元気だが、そろそろ疲れが体を支配しだしているのだろう。話の合間にしばしばと、瞬くように瞼を閉じる。
「……あたくしを見てせせら笑いやがったんですよ、カラスのくせに! お前らスズメの仲間だろと! あたくしみたいな高貴な血筋とは違うんだよと! 庶民のくせに何様だと――あたくしはこう云いたい訳ですよ!」
「そんなにローシェンって珍しい種類なのか」
 マサキはソファに体を預けきって、膝の上のチカを見下ろす。
 返事がない――彼女は僅かなマサキの言葉の間に眠ってしまっていた。首を二度三度こくりこくりと揺らして、びくと体を震わせたかと思うと、目を開く。
「珍しいんじゃないですかねえ。ご主人様があたくしの容れ物に選んだくらいですし」
「いい加減だなあ」ぞんざいなチカの台詞にマサキは呆れる。
 豊富な知識を持っている割に、妙な部分で物を知らない。使い魔だけに主人に似るのだろう。シュウもこと世俗的なことになると、無知を曝け出し、マサキを驚かせたりするものだ。
 例えば壁の補修にしても、シュウはやり方を知らなかった。元々そういったこととは無縁の世界で生きていたのだから、それはともかくとしても、花は枯れないものだと信じていたと聞かされた時には、流石にふざけているのだと思った。
 本気だったのだ。
 園丁が枯れる前に花を植え替える、女官が毎日花瓶の花を生け替える。枯れた花を目にする機会がなかったシュウにとって、花は枯れないものだったのだ。
「猫を使い魔にしたマサキさんに云われたくありませんて」
「馬鹿お前、あいつらあれでもちゃんと役に立つんだぜ。斥候とか囮とか、テュッティだのヤンロンだのミオだののファミリアじゃあそうはいかねえ」
「そりゃあ――」チカは思案するように瞳を上向きにして、「そうでしょうね」
「だから俺の思いつきは正しかった訳だ」
「思いつきなんですか……しかしだったらもうちょっと、質のいい猫にしてもよかったんじゃないでしょうかね。だってあれ、雑種でしょ――」
 チカはまた云い終わるか終わらないかのうちに、船を漕ぐ。
「おい」マサキは足を揺らした。反応して目を開いたチカに云う。
「もう寝ろよ。無理して起きてる必要もないだろ」
「何だかしゃべり足りない気がするんですよ」
 云いながらもチカは羽ばたいた。さしもの能弁振りを誇る使い魔も、襲い掛かる睡魔には勝てないものらしい。天井の梁目掛けて飛び上がりつつ、
「食べられるならせめて血統書付きの猫に食べられたいですよ――じゃあまた明日」
 最後に皮肉を残して、彼女はそのまま梁の上の寝床に消えた。
「血統書付きって……どんな猫ならいいんだか」突如として部屋が静かになる。マサキは天井を見上げたまま、ただシュウの戻りを待った。
 夜の静けさは昼の静けさと違って、もの恐ろしく聞こえる。草木のさざめく音、川のいななく音……僅かな物音が数倍大きく、萎縮させるように響く。けれどもそれに、不安は感じない。
 うにゃ……と使い魔が寝言を吐く。
 鼾なのか、小さく囀るような声が聞こえる。
 最初はやたらと囃し立てた三匹の使い魔は、やがて遠慮するようになり、一時は家に足を踏み入れることさえしなくなった。こうして部屋で眠る三匹を見ていると、過ぎた時間の長さを思い知らされる。
 マサキはよくチカと話をしたが、シュウは至って普通にシロとクロに接していた。
 マサキがいい顔をしないのを承知で、何かにつけてはシロとクロに高級魚を与えたりしてはいたものの、将を射んとすれば先ず何とやら――といったつもりで餌付けをしているのではなく、彼の中で猫の餌というのは元々そういうものであるらしい。
 それでも牛乳で充分とマサキが云うにも関わらず、それを続けているということは、それなりに彼らを遇しているのだろう。マサキがチカを構うのと同じように。
 ひところにじっとしているのを嫌う二匹の使い魔は、チカのようにマサキにじゃれつくことはしなかったけれども、シュウがソファで眠っていたりしようものなら、すぐさまその胸元や足元に擦り寄ってゆく。寝返りの酷い主人より、遥かに寝心地がいいのだそうだ。
 過去からすれば、考えられぬほど、二人と三匹は上手くやっている。
「もう、寝たのですか」
 やたらと静かになった部屋を見渡して、戻ってきたシュウはソファに腰掛けた。当然のように本を開く。
「眠るだろ。半日も遊んでたんだから」
「彼らの生活は私より優雅なものですね」
「優雅だよな」マサキは立ち上がった。「壁の補修はしないで済むし」
 そのまま戸棚に向かう。マサキがシュウを待っていたのはこれが理由だ。
「なあ、レコード聴いていいか」
「どうぞ」
 盤面に針を落とすとノイズが続いて、やがて鼻にかかるハスキーボイスが流れ出した。
 マサキはソファに戻ると、邪魔になるのも構わずシュウの膝に頭を乗せて横になる。街に騒げば人が唄う……街に騒げば人が笑う……彼女の唄を聴きながら、口を結んで本を読み進めるシュウの顔を見上げる。
 髪から肩へ、肩から指へ。頁を捲る合間にその手がマサキに触れる。
「いいものにはやっぱり価値があると思うぜ」
「そうでしょうかね」その口元が緩む。
「だと思うけどな――ただそれは、こうして見て、触れてみなければ解らないもので。触れてみて初めて、価値の意味を知るっていうか。つまり、その時に価値は本物になるんじゃないかってことなんだけどな」
「認知の問題ですね。林檎は赤ければ甘いといった風評が立つ。それが真実であったとします。けれどもその林檎を口にしたことがない人間は、それを口にするまで真実と認められない――あなたの云っていることはそういうことですよ」
「それとは少し違う気がする」
「前提として、他者による意味付けが行なわれているのは一緒でしょう――」
 シュウはマサキの頬を撫でながら、身を屈めて――。
「気に入りましたか」滅多に自ら進んで耳にしない曲について聞いた。
「気に入ったってことになるのかどうか……好き嫌いでいうなら好きなんだろうな」
「曖昧ですね。あなたの嗜好の問題でしょうに」
 煮え切らない台詞が可笑しかったのか、シュウが声を上げて笑う。
 他のことには先を読んで答えるだけの聡さをみせるのに、その明晰さはこういったことに対しては発揮されないらしい。そういうものなのだろう。賢者がすべからく全てに通じているのではないのと同じように、シュウにも伝わらないことがある。
 マサキはどうやってそれを伝えたものか考えた挙句、「俺の好き嫌いの問題じゃなくて」
 怪訝な顔付きで――シュウが見ている。
「俺からすれば、お前が聴いてるってだけで価値が」
 指が口唇に触れ、マサキが言葉を途切れさせると、顔が引き寄せられた。
 されるがままに口唇を合わせて、その感触を確かめるように舌を這わせる。生々しい熱さが、幾度も口に入り込む。ただ身を任せて、意識がぼやけてしまいそうになる恍惚の中で――マサキは、云いたいことは伝わったのだろうと思った。
「……本、読んでくれよ」
 そうっとその頭が膝に下ろされる。「レコードを聴いているのに、ですか」
 全部を聴けば、たっぷり一時間はかかるレコードは、ようやく二曲目を奏で出したばかりだ。
 マサキが頷くと、シュウは苦笑しつつも本を読み上げた。
 ――ラグランジュポイントとは、円制限三体問題における、正三角形解および、直線解の五つの点のことを指す。二体の天体が、その共通重心の周りでケプラー運動を行なっている時、それらの天体よりも極めて微小な第三の質点を置いた場合、この運動が円運動であるならば、質点の軌道を単純化することができる。これが、円制限三体問題の概要である……。
 こうしてその声を聞いているのは心地いい。
 何が契機だったのか、いつだったのか、明瞭りとしない過去。マサキはこうして、シュウに読んでいる本を朗読するようせがんだ。当然のことながら、シュウはあまりいい顔をせず――戯れだと思ったのだろう。マサキの要求をさらりと撥ね退けた。
 それが幾度か繰り返すうち、数行、また数行と読み上げるようになり、今となってはマサキが止めるか眠るかするまで、その語りを途切れさせることがなくなった。
 ――質点の軌道は二体の天体と相対位置を変えず、これら二体の天体によって作られた重力場が遠心力と釣り合っているからこそ、単純化が可能となっている。ラグランジュポイントの直線解は三つあり、それぞれ、L1・L2・L3と呼称される。L1は二体の天体を直線で結んだ内側に存在する点、L2はその質量の小さい天体の外側に存在する点、L3は質量の大きい天体の外側に存在する点となっている……。
 シュウの低い声を聞いていると、暗い海の底にいるような気分になる。
 ゆらゆらと揺られて、海底に降り積もる海藻のように――落ちてゆく。
 ――この二つの天体を、太陽―地球とした場合、L1・L2・L3と共に、質点の公転周期は地球と同等のものとなる。正三角形解におけるポイントは残る二つとなり、それぞれL4・L5と呼称され、二体の天体を底辺とした正三角形の頂点に存在する。この質点は、二体の天体が、主星―従星であり、従星が主星の周りを公転する場合において、従星に先行、或いは追従する位置を取る……。
 ゆっくりと眠りに誘われてゆくマサキの髪を撫でる手が止まる。
「……眠りますか」
「う、ん……そうだな。眠い」
「先に行っていなさい」
 浅い眠りに落ちていたのだろう。ぼんやりとした頭を抱えながら、マサキはシュウに促がされて起き上がった。
 暗い廊下を抜け、月明かりで灰暗い寝室に辿り着く。マサキがベットに潜り込むと、程なくして隣りにシュウの重みを感じた。
 日中は蒸していても、夜になると幾分肌寒い。外にはそろそろ這い出した霧が薄く立ち込め、窓ガラスを雫で濡らして流れゆく。
 僅かにベットが軋み、マサキは引き寄せられるまま、その胸に顔を埋めた。
「明日はどうやって過ごしましょうか」
 梟の鳴く声が聞こえる。
 どこかで夜狩の銃の音がしている。
 そぞろ聞こえるそれぞれの音を、その中で一番耳に残るシュウの声を聞きながら、マサキは一日を振り返る。何かをした、というなら壁の補修ぐらいしかしていない一日だったけれども、
 ――今日も楽しい一日だった。
 明日のことは明日のこと、またその時に考えればいい。それを考えるのも楽しみのひとつなのだから……楽しいことはできるだけ先送りしたくなるものだ。
 明日にしようぜ。そう云うマサキに、そうですね、とシュウが答えて沈黙が降る。
 一人と一人、足して二人。
 こうしていつもと変わらぬ今日の夜が、二人の間で、静かにゆったりと過ぎてゆく。