シナリオ2
――シュウとプレシアの邂逅の巻。シュウに殴りかかるプレシア。個人的にはとても穏便に済んでいると思います。シュウのことを「今は敵じゃない」と、マサキに云えるプレシアの胸中を思うと辛いシナリオです。ラ・ギアスの成人年齢が低いことも関係しているとはいえ、こんなに割り切った考えが出来ていい年頃じゃないですよ。
プレシア
個人的見解なのですが、きちんと名前でシュウのことを呼べるということは、この子はいつかシュウのしたことを赦せる日が来るってことだと思うんですよ。(続編ではその辺り、どうなってるのでしょうね?楽しみです)
これは彼女が感情を露わにすることを躊躇わない性質を持っているということでもあるのでしょう。プレシアに限らず魔装機の操者たちは、理屈よりも直感的な感情を優先しているように思えます。それは世の中や自分自身を鳥瞰して見ているシュウとは相容れないものなのでしょうね。
「上から」とプレシアはシュウを評しますが、シュウにとってその視点は生まれもってのもの。彼女やマサキたちがそれに気付く日はくるのでしょうか。
それにつけても、おにいちゃんが過保護だと困りものですよねえ。マサキの気持ちもわからなくはないですが、子供というものは、大人が思っているよりも中身がずっと大人じゃないですか。マサキ自身、自分が子どもだった日がそう遠くない筈なのに、随分と無理解なこと。流石はTHE☆昭和男!
いやー、しかし可愛いですねー。口元ニヤついちゃうわー。
「爛れたシュウマサワールドへようこそ」をしたくないので、私の書く作品ではあまり出番のないプレシアですが、こういうの見ると書きたくなっちゃいますね。だって「おにいちゃん大好き」ですよ!書くよね!こんなストレートに自分の気持ちを表現できる子、書くよね!
シュウ
私は好きなキャラを理解したいが故に厳しい目で見てしまう人なので、どうしても辛口評価になってしまいますが、この場面でのシュウは通すべき筋を通すべきだったと思うのですよ。受け止めること、それもまた筋の通し方のひとつではあるでしょう。ただやはり、そこで考えが止まっている時点で、自分ではない他人がやったこと、とシュウは自分のしてしまったことを思ってしまっている節がある。
勿論それは事実でありますし、そのことを彼なりに消化しようとしているからこそのこの態度ではあるのですが、ならば、その自分ではないけれども自分の中に在った他人がやったことの『現実的な被害』に対する責任は誰が取るべきなのかと。(これはシュウに限らずウェンディもそうです)
それはとても悲しいことではありますが、自分の身体がしてしまったことである以上は、自分でなければならないと私は思うのです。
個人的な話で恐縮ですが、私も自分の意思で自分の身体が動かせなくなることがある人です。ですから、彼らの悔しさや、彼らが感じている理不尽さといったものは理解できているつもりです。私自身、『自分ではない方の自分がやったことに責任を求められても困る』そう思うことがありますので。
でも、だからといってその責任から逃れてしまっていいものか?
それは違いますよね。同じことを繰り返さない為にはどうすべきなのか。それは専門家に任せるだけでなく、自分自身でも考え、そして実行していかなくてはならないものであると思うのです。それこそが本当の責任の取り方でもあるのではないか?そこをシュウは蔑ろにしてはいまいか?と、私はこのシナリオを見て思ってしまいました。
ギフテッドも人間です。笑いもすれば泣きもします。怒りもすれば悲しみもします。奇矯な振る舞いが強調されがちな物語内のギフテッドにおいて、シュウはそういった面では比較的常識人的に描かれていると思います。ただね、彼にはね、知能指数180って設定があるんですよ。それは残念ながら、常人の理解が及ぶ世界ではないんですよ。(私はそれが見たいからこそ、白河愁という男を書き続けているのです)
例えばこのシナリオでのシュウの長広舌に出てくる「個人的な利益を追求することも、最大多数の幸福に~」的な意味の言葉ですが、これは民主主義の最大原則である「最大多数の最大幸福」をひっくり返したものに過ぎません。それに、そもそも個人的な利益の追求は、「法を犯さない」こととセットで語られるべきもの。そこをこの場面のシュウは蔑ろにしているように感じられます。
つまり何を言いたいかと申しますと、あなた、毎回無策でヴォルクルスに突っ込み過ぎじゃないですかね……