<2> 可視と不可視
シュウは起き上がる。
理解不可能な現象だ。突如として室内に出現した青年。何故、どうやって――理屈をつけようにも酔った頭は上手く働いてくれない。いや、流石にこの状況は理屈など付けようもない。
それでも額を押さえてシュウは酩酊に沈溺する思考を無理に働かせ、ここまでの経路を思い出す。玄関から廊下、チープな扉を潜りリビングへ……その間、他人の気配は感じられなかった。玄関のドアが開く音も聞いていない。それもそうだ。玄関の鍵は掛けている。更にチェーンロックまで施しただろう。
青年の姿をドアの向こうに残したまま――。
「訳がわからないって顔してやがるな」
妙に楽しそうに青年は笑い、断りもなくカウチの空いたスペースに腰を下ろしてくる。他人に接触、或いは接近されるのを嫌うシュウが許容出来る距離を保った位置に座った青年に、まただ、とシュウは困惑する。
先刻の鍵の件と同様、この青年は自分の性質を知っているような振る舞いを見せる。偶然なのだとは思う。思うのだが、それにしても解せない事柄が多過ぎて、それらをシュウはどうにも処理しきれない。
「簡単な視覚トリックなんだけどなあ」
青年はまるで解いてみろとばかりに、挑戦的な笑みを浮かべている。
「自分はマジシャンだとでも言うつもりですか」
「そう、趣味でさ。ちょっとばかり、な。タネは暇潰しにでも考えてみろよ」
「……すっかり居座るつもりですね」
この状況では何を言っても無駄どころか、下手をすれば更なる不条理な事態に直面させられそうだ。いい加減に眠りたいシュウとしては、これ以上揉める気力もそれに付き合う気力もなく、
「お前の邪魔はしないよ」
それを見透かした風な青年の台詞が止めの一撃だった。
「わかりました。事情は明日聞くとして――今日はもう寝かせて貰いますよ」
「ここで寝るのかよ」
横になろうとするシュウに、青年が言う。それでもさり気なく立ち上がる辺り、呆れた口調とは裏腹に、この手の事態には慣れきっているようだ。
――あなたのお陰で、普段の二倍は疲れました。
シュウは目を瞑り、それだけ言う。
青年の微かに洩れ聞こえる笑い声と、寝室に移動する気配……それを最後に今度こそ、シュウは深い眠りに落ちて行った。
※ ※ ※
翌朝、シュウが目覚めると嗅ぎ慣れた匂いが、キッチンスペースから流れてきた。
起床時間はいつも同じで、目覚まし時計も必要ない程に身に染み付いてしまっている。
起き上がりかけて、シュウは昨日床に置いたままの鞄を先ず探した。残りの論文のチェックを出掛けるまでに済まさないと、今日一日がいつも以上に慌しくなってしまう。
床の上に鞄はなかった。仕方なく起き上がって周囲を見回せば、いつの間にかカウチの脇に立て掛けられている。その瞬間に、体からずり落ちるブランケット。そうだった――と、そこでようやく昨夜の奇妙な出来事を思い出したシュウの気配を察したのか、皿を片手に青年が姿を現した。
「よく考えたら、何時に起きるか聞いてなかったんだよな」
「その心配は無用ですよ。いつでも起きる時間は一緒ですから」
「へえ……」意外、といった様子で目を見開いた青年が、手前のダイニングテーブルに皿を置く。
スチール製の小型のテーブルは、おあつらえ向きとばかりに二人用だ。追加にカップを手にした青年が、シュウを待つでもなく先にパイプ椅子に座る。「一泊の恩ですか」と、シュウが論文入りの封筒片手にテーブルに着けば、乗っている食事は一人分だけだった。
見ればカップもシュウの分しかない。
「この家のキッチンにはインスタントのオートミールとスープしかないんだな」
「食事に手間を掛ける暇はありませんので」そう答えて、おもむろにそれを問い掛ける。「あなたの口には合わない食事ですか」
「飯ぐらい自分で何とかするよ」
肩を竦めて見せる青年に、そうですか、とだけ呟いてシュウは片手で論文を流し読みしながらオートミールとスープを口に運ぶ。濃すぎる味にもそれなりに慣れた。最初は受け付けなかったこの手の食事も、今では抵抗なく口に出来る。それに、胃に入れば何であれエネルギーになるのは変わらないのだ。
予想に違わぬ内容ばかりの論文をシュウが読み進める間、青年はただそれを頬杖付いて眺めているだけだった。昨夜の強引な押し掛けぶりからすれば、何かしらのアクションがあって然るべきと思っていただけに、シュウは途惑う。
こういった集中している時間に、他人に邪魔をされるのが一番鬱陶しく感じられる性質を見抜かれて――いるようで。
「それで――」
片手には論文。
片手にはスプーン。
目線は論文に向けたまま、動揺を悟られぬようシュウは切り出した。
「あなたに何が起こったのですか」
「昨日の夜の便でここに着いたんだよ」
ちらと盗み見れば、青年は微笑みながら自分を見詰めている。
当座の寝床を確保した故の余裕なのだろうか。行く場所がないと訴えた青年にしては、切羽詰った様子が微塵も感じられず更にシュウは困惑する。強盗の手合いであるのなら、今以ってここに居る理由が不明であったし、何故自分のような人間を標的にしたのかも不明だ。小金を持っている風体には見えないだろう。
偶然タクシーに乗り合わせた相手を襲う不条理さがないと言い切れない街ではあるが、ならばそれを先延ばしにする理由は何であるのか。そもそも昨日の夜からして、青年の態度は逼迫しているものとは言い難かったが、それは偶々シュウという日本語の通じる相手を見付けた安堵感からなのかも知れない。
理解不能な態度と現象の数々に、シュウは相当翻弄されている。
考えるだけ無駄か――最終的に辿り着いた結論は昨夜と同じものになってしまった。
その沈黙さえも自然と受け止めているのだろうか。青年は、まるでシュウの次の言葉を待っているように見える。
ただ微笑み、ただ佇み。
またも自分の性質を見抜かれているような気分になり、シュウは「それで」と仕方なく促がした。
「それで、どうしたのですか」
思考を邪魔されるのは嫌いだ。特に思索を邪魔されるのは、慌しい日常で得られる自由な時間が限られるだけに癪に障る。
シュウにとってその時間だけが、自分の世界を得られるものであるのに。
そういった性質さえも気付いているというのだろうか。シュウの言葉を待っていたのように、促がされてようやく青年は続きを口にする。
「もう少し地方の方に行ってさ、安いホテルを探して泊まろうと思って電車に乗ってたら、気付いたら寝ちまってて」
「……予想が付きました。荷物を盗まれたのですね」
「帰りの便のチケットもパスポートも旅券も全部バックの中でさ。金は最小限だけしか入れてなかったからいいんだけど」
「残りのお金はどこに」
「靴下の中。ところがこれがUSドルじゃなくてTCなもんだから」
「どうしてそういう不合理な真似を――」呆れてシュウは言葉が続かなくなった。
普通は逆だろう。エアラインのチケットや、パスポートにビザ、それこそ身に付けておくべきものであって、割合簡単に再発行が可能なトラベラーズチェックだけをわざわざ隠しておくなど理解の範疇を越えている。
はっきり言えば非常識だ。
事前にどれだけ下調べをしたのか、その程度は非常に怪しいものであると、このエピソードを聞けば思わざるを得ない。この青年が、旅行に必須なその他の知識をどれだけ持っているものなのか――聞かずともわかりそうなものではあるが――考えただけで、シュウは何とも形容しがたい気分になる。
「貧乏旅行だし、一番高額なのがTCだったからこれだけは守っておかなきゃいけないかな、と」
「……逆でしょうに」
この調子では、パスポートの最発行やトラベラーズチェックの現金化もまともに出来るのか怪しい。
話しながらも読み進めた論文の束は、残り四分の一になっている。それを大学への移動中に片付ける事にして、脇の封筒に収める。こうやって、これまで積み重ねてきた自分のペースを関わりない理由で崩されるのは、シュウにとって堪らなく口惜しいものである。
口惜しいものであるのだが――放っておいてどうなる話でもない。
シュウは鞄からレポート用紙とボールペンを取り出し、行くべき場所の住所を先ず書き込んだ。
「この辺りのストアマーケットではTCは使えませんよ。かといって現金化するとなるとパスポートが必要になります。幸いここはニューヨークですから手近な観光地にでも行って、そこで安い土産物を買うなり食事をするなりしなさい。そのお釣りは現金で貰えますから――勿論TCが使えるのか確認してからですよ。場所はわかりますか」
「ガイドブックもバックの中なんだな、これが」
「ある意味予想通りの返事ですね。ちなみに、TCの額面は?」
「日本円で十万が三枚。ちなみにそれが俺の全財産」
「全財産、ですか」
「貯金を全部はたいたんだ」
「だからどうしてそういう無謀な真似を――」顔を上げるとまともに青年の顔が目に入る。
事態を把握しているのか、呑気にも悪戯めいて見える笑顔を浮かべている。
もしかすると根っからの楽天家なのだろうか。どうにも相手にしづらい青年の態度に、何を言っても無駄な気がして、手元に視線を戻す。溜息のひとつも洩らしたかったが、それは流石に自制する。角立つ行為は青年の正体、目的と、どちらも判然としないこの状況では控えるべきだ。
素顔を晒して叩きのめすには、得体が知れなさ過ぎる。
シュウはレポート用紙に地図とそこへの交通手段を書き込む。その下に問い合わせに必須な英語をカタカナで付け加えるのも忘れない。勿論、日本語で意味を付け加えるのも。
「……では取り敢えず、一枚だけ換金しましょう。これが観光スポットのリストです。どれも遠くない場所なのでそれ程交通費もかかりません。そこまでの交通費は私が貸しましょう」
「悪いな、手間かけさせて」
「それが済んだら日本総領事館に行って下さい」別の用紙にまた地図を書き込む。問い合わせ先となる電話番号と、念の為に住所も書き加えて、「パスポートを紛失したと言えば向こうで説明してくれますから」
「日本語通じるのか? そこは」
「通じなければ何の為の日本総領事館なのですか。とにかく、今日中にそれだけは済ませてしまいましょう」
「わかった」
青年はシュウの手からレポート用紙を受け取ったかと思うと、そこに描かれた地図をまるで難解な書物を眺めるような顔付きで見据えている。「解り難いですか」と、シュウが問うと、「いや……」と歯切れの悪い返事が返ってくる。
しかしそれも僅かの事。青年はそれを大事そうにジーンズのポケットに仕舞い込み、
「お前の帰宅って何時になるんだ」
「何故そんな事を聞くのです」
「だってお前が帰ってこないと、俺、部屋に入れないだろ?」
「余計な心配は無用です」
自らの意思と関係ないとしても、部屋に招き入れてしまったのは事実だ。
この闖入者を部屋から追い出すのに一番手っ取り早い手段は、彼が置かれている困窮した状況を改善することだろう。そこまで世話をする必要は、ないと言えばない。いや、間違いなくない。だが、このまま部屋から放り出したとして、果たして青年は素直に引き下がるだろうか? 戸締りに不備のなかったドアを潜り抜けて、室内に侵入してみせたこの青年が。
幾度も不毛な遣り取りを繰り返すぐらいなら、多少の煩わしさには目を瞑ろう。
この問題が片付かない限り、シュウの安全な生活は保障されないのだ。
覚悟はとうに決めている――シュウは席を外し、寝室兼書斎となっているこじんまりとしたスペースに入ると、書物に埋もれた机の一番上の引き出しを開けた。
もし青年が強盗の類だったとして、主の不在に無礼を働いたとしても、どうせ大したものはない部屋だ。一番高い家具がこの机なぐらいなのだから、他の物の価値もたかが知れる。蔵書の数々を持っていかれれば流石に腹も立つが、見た目からして難解な書物に価値を見出す強盗というのも話に聞かない。持って行かれても家具や現金程度。それだけなら、何の問題もないのだ。
鍵付きの引出しの中は二重底になっていて、その下に貴重品の類が入れてある。とはいっても多少の現金とスペアキーだけだ。そこから交通費に必要な現金とキーを手にして、シュウは青年の元に戻る。
「好きに使いなさい。お金は返して貰いますがね」
「そこまで信用していいのかよ」苦笑いの青年に、シュウもまた苦笑で返す。
「どうした所で部屋に入り込んでくる相手に、何を防御しても無駄です」
「だから視覚トリックだって言ってるのになあ」
まあいいや――と、青年は呟いてそしてはたと困った表情になった。
「どうしました」
余計な事をしていた所為で、家を出る時間が間近に迫っている。
シュウは寝室に取って返そうとして、足を止める。
必要な物は鞄に入れっぱなしだが、思い返してみれば着替えもまだだった。そんな単純な営みにさえ気付かない程に動転していたらしい。
酒の匂いが染み付いたこの服ぐらいは着替えないと気が済まない。しかし、
「いや、これどこにしまえばいいのかなって」
渡米するなり置き引きに会った青年からすれば、それは当然の疑問だった。
その単純さにシュウは内心、胸を撫で下ろす。流石に遅刻まではしたくない。
突然の不幸はそれなりに青年に学習させたらしい。日本とアメリカでは治安が全く異なるのだ。それに対して心構えを持つか持たないかで、この国の表情はまるきり異なるものとなる。
ただ危険なだけの野蛮な国か。
それとも自由を謳歌し、奔放に生きれる国か。
「人通りの多い場所にいる分にはスリにでも合わない限りは大丈夫ですよ。内ポケットのあるコートを貸しましょうか」シュウは着替えるついでにと、クローゼットからそれなりの衣装を持ち出し、青年に渡す。「五ドル紙幣は普通にポケットに入れておきなさい」着替えながら外出時に必須の防衛策を伝える。
「どうして?」
袖の余るコートを折り返して羽織る青年の姿は何だか滑稽に映る。それ相応の年齢でありながら子供とも見間違う佇まいは、この国の人間がかくあるべきと望んでいるだろう東洋人そのものだ。
シュウは微笑んだ。
「もしも、の時の保険です。金を出せと脅されたら、It is only the so much. とそれを出しなさい。そうすればあなたは無傷で解放して貰えるでしょう」
「それがここでの生活の知恵って奴か」
「そうなりますね」洗面所に急ぎ、最後の身支度を整える。「私はもう出ますが、あなたはもう少し遅くなってからでも大丈夫でしょう。観光地の場合は人気の少ない早朝の方が危険である事も珍しくないのですから」
そして鞄を手にする。
「この部屋に訪れる人間はいません。迂闊にドアは開けないように」
最後の忠告をすると、テーブルの上に広げっぱなしだったレポート用紙とボールペンを押し込んで、シュウは玄関に向かった。律儀に後を付いて来る足音を聞きながらドアを開き、鍵を閉めるのに振り返ると、
「気を付けてな」
不恰好な姿の青年が、微笑みながら見送ってくれるのがその隙間から見えた。
※ ※ ※
昼食を摂る時間すらも惜しく、シュウはカレッジの大半の人間が食堂に向かう昼時も研究室に篭って論文を作成していた。課程博士の道を選んだD1生徒の中で、その複数の分野の研究室に籍を置きながら論文博士を目指す事を前提に在籍を許されているのが、破格の扱いであるのをシュウは自覚している。それが他の院生からすればやっかみのネタになっているのも。
だがそれが表面化しないのは、あの男の後押しがあるからだ。
勿論、それだけではないと教授たちは言うが、あの男と繋がるだろう教授たちのその言葉を額面通りに受け取れる筈もなく。
だからこそ、借りは最小限で済ませたいのだ。その名を盾に伸し上がってゆくだろう自分、それに実を伴わせる為に敢えて苦労を課す真似をしているのだと。そしてそれが彼らの嫉妬を押さえるある種の中和剤になるだろうと考えたからこそ。
他の院生と共に教授の雑務を――それも複数だけあって膨大な量になるそれを引き受けているだけでも、彼らからすれば自尊心を満足させるものとなる。実際、週に受け持つ授業のコマ数は毎日全コマと言っても差支えない。その空いた時間で研究を進め、論文を作成し、発表する。
どこかの民間研究所にでも入れれば、もう少し楽が出来るかも知れない。だが、それは研究の方向性を限定する上に、知識だけで実践が足りないシュウには務まらないだろう。
こちらの世界の仕組みを知る為にもこの課程は必要なものであり、避けて通れない道なのだ。
技術レベルの違い、根本的な技術に対する考え方の違い……それはかつて自分が居た世界が通ってきた道程であったからこそ潤沢な知識を持つに至ったが、しかし所詮は過去の遺産。それを成す設備は既に失われている。
だからこそシュウには実践が必要だった。遠回りを承知で研究室に籍を置いた理由はそれだ。
「間に合いそうかね?」
資料の欠如に気付き、かと云って図書室に向かう時間も惜しい。無理を承知で教授室を訪れれば、教授は棚から勝手に持って行っていいと言う。
書を手に部屋を去ろうとしたシュウに、こちらも暇さえあれば自分の研究に没頭している、ある意味似た者同志である教授――ダリアは続けてそう声を掛けてきた。片手に掴んだサンドイッチを頬張りながら、机に向かって資料を引き出したり、ノートに計算式を書き込んだりしながらの余裕ある態度は、流石、その分野での権威と言われる学者だけある。
変わりに人使いは滅法荒いので有名だが。
「どうでしょうね……ただ、数理学の論文審査が通りそうなので、それさえ終われば多少時間が空きますから」
「君の論文作成スピードには驚かされる。今は海外の院生と共同研究もしているのだろう?」
「ええ、シュベール教授の紹介で。共同研究は論文博士号取得に向かないのは承知してますが、これも経験と言われましたので。けれども今はこちらが最優先です。その点はご安心下さい」
「国内学会で君がどういった成果を見せてくれるか楽しみにしているよ」
どこぞ含む笑みを浮かべ、ダリアが言う。
シュウが他の分野でも水準以上の評価を得ているのを知っているからこその笑みだ。
指導教授としては、国内学会に送り込むD1の院生が他の教授達を驚愕させる論文を発表する光景を期待しているのだろう。彼らは若さと経験の浅さを嘲笑する生き物だ。たかだかD1でしかない院生がその場に現れるのを訝しみはするだろうが、それが彼らの世界の慣わしを打ち破れるとは思えない。
長く続く風習なのだ、それは。
それを鑑みれば、シュウに寄せられるダリアの期待が過大であるのが知れる。
「その期待に応えてみせましょう」シュウが言えば、「それさえ見れれば私も君を論文審査に通そうと思っているよ」と、滅多に聞けない豪快な笑い声が響く。
「ダブルドクターならぬトリプルドクター……いや、君はそれ以上の存在になれる。それを生み出せるのに一役買えるなんて幸運はそうない。私の自慢の種が一つ増える訳だ」
「そして院生と酒を飲む度にその話をするのですね」
「Of course!」
ここにも酒好きが一人いる――シュウは時間の関係上、その席に加わる事は全くと言っていい程なかったが、陽気な酒でジョーク混じりにその手の自慢話をするダリアの姿を目にしたことはある。その話の内容は毎回違うらしいのだから権威者ここに極まれり。ダリアが長く指導教授として勤めてきたことが知れるだろう。
伊達に沢山の院生を育ててきた訳ではない……とは言っても、それが本当か嘘かは当事者にしかわからないものであるのも事実だが、それをお世辞でなく笑って聞ける人間が多いのも事実で、そうなると話の真贋など他人にとってはどうでもいいものなのだろう。とにかく陽気な酒を、が彼のポリシーであるらしい。
それが証拠に、酒の席が興じてくると、ダリアはそれまでの話は前座とばかりに、趣味であるマジックのワンマンショーを始めるのだ。自慢話とマジックとは、全く関連性のない行動であるが、その突飛さが却って面白く映るものでもあるらしい。これもまた同じネタは二度とやらないらしく、院生は元よりバーでの評判もいいようだ。だからか、バーにおける彼への店側の待遇は他の客とは明らかに違う。さして頻繁に酒席に参加しないシュウでも気付いたそれは、頼んでもいない酒やフルーツが出されるのは全て店のサービスだというものだった。他の客をも巻き込まれて行なわれるちょっとしたイベントは、無料で行なわれるものなのだから当然か――シュウはふと、そこであの謎をダリアに聞いてみようと思った。
――視覚のトリックだよ。
青年が言った謎のヒントを伝えれば、ダリアならば解いてくれるかも知れない。
シュウが覚悟を決めた今となっては、知らなくても困らない話であるのだが、謎を謎のままにしておくのはやはり気分が悪い。
「ところで教授。得意のマジックで少々お伺いしたい事があるのですが」
「ほう、君にしては珍しい事を聞きたがる」
「マジックの原理は多少理解しているつもりです。ですが、それではどうにも理屈の付けられない事態に陥ったと言うべきでしょうか……」
そしてシュウは話をする。
降りれる筈のないタクシーから降りたと言い張る青年の話……閉ざされた扉を潜り抜けて室内に入り込んだ青年の話……趣味の話とあってか、椅子ごと振り返ったダリアは身を乗り出して話に聞き入っている。机に向かって研究に没頭している時とは異なる無邪気な瞳は、子供のようだ。彼は余程、マジックが好きらしい。
合間合間に口を挟んで質問を投げかけながらシュウの話を聞いていたダリアは、顎を撫でしばし考え込んでいた。やがて「ふむ、基本的ではあるかな」おもむろに口を開く。
「マジックというのは相手の死角を突くのが基本なのは知っているかね、例えば」
言うなり白衣を着た上着の袖をそれごと捲り上げ、腕を晒すとポケットを漁ってコインを一枚取り出す。そのまま片手にコインを乗せると、ダリアは両手を開いたまま腕を広げてみせた。「ここに一枚のコインがある訳だ。これをこうして――」勢い良く両手を打ち鳴らして合わせると、さっと手を握る。
「ところで君は、ポケットの中のビスケットを叩くと増える話は知っているかね?」
「歌にありますね」
「そう。このコインも同じで、叩けば二枚に増えるコインだ」
そうしてダリアが両手を開くと、そこには一枚ずつコインが乗っている。「成程」とシュウは呟いた。
「他人の目は先ず、コインの乗っている手に向かうだろう。しかしタネは逆の手にある」
「指の間に」
「そうだ。流石に君は目が利く。こうして相手に両手を見せる場合、大抵は手首を反らして掌全体を傾けて差し出す形になるだろう。その裏側にもう一枚のコインがある。ここからは熟練次第だが、手を叩くというアクションに相手が気を取られている間にもう一枚のコインを手に滑り込ます。これを応用すれば、どちらの手にコインがあるかというマジックも簡単に行なえる。まあ、基本中の基本だが、すべからくマジックというものは死角を応用して成されるものである訳だ」
「では、タクシーの件は」
「タクシーの運転手に話が通してあれば容易いものではないかね? 彼は君より先に乗っていた。君が降りて扉が閉まると同時に、彼は手動でドアを開けて降りる。そのまま物陰に隠れ、タクシーはドアを閉めながら走り出す。これならドアが閉まる音はエンジン音に隠されてしまうだろう」
だとすれば、運転手が青年に無関心であったのも納得が行くものだ――とはシュウも思うが、何かが引っ掛かる。それが何であるのか思い出そうにも出てこない。奇妙な齟齬を抱えたまま、シュウは続きを聞く。
「君のアパートメントの話だが、あの辺りは工業地帯も近く、排出される煙が特に酷い場所でもあったな」
「ええ、いつでもスモッグがかかってけぶっているような場所ですよ」
「そこにタネがあるのではないかと私は思う。一番手っ取り早いのは鏡なのだが、流石にそれは後々の始末が難しいだろうし、話を聞くにその青年は荷物さえ持っていなかったというのだから――恐らく、煙に自分の姿を反射させたのではないかね?」
「煙に……?」
「スモッグ効果というものだよ。光の当たり加減で煙というものはスクリーンの役目を果たす。君の部屋のスタンドライトの明かりが点いていたと言っただろう。青年は君と一緒に部屋に入ったのではないだろうか。そして煙に自分の姿を反射させる。酒に呑まれない君が、扉の前で座り込む程なのだから相当酔っていたのだろう? 誤魔化されてしまったとしても無理はないと思うがね」
「確かに酔っていたことは認めますよ。とんでもない酒に付き合わされたものです」
「フォーフィンガーだろうとハイボールだろうと平気な君がね!」
ダリアはそれが余程滑稽な光景に思えたらしく、肩を忍ばせて笑っている。
「飲ませる方に問題があるとは考えませんか」
「酒席で他人を上手くあしらうのも必要な技術さ。まあ、件のマジックに関して今のところ呈示出来る答えはこのぐらいしかないね」
「それはまた不確定な答え、ですね」
「仕方あるまいよ」
ダリアは笑って机に向き直った。「そのくらいの規模のマジックとなると、私も手垢な答えしか知らない。まだまだ勉強しなければならないアマチュアマジシャンだからね。プロには遠く及ばないのさ」チャーミングに言ってのけると、椅子を回転させた。
ペンを走らせる音が即座に響いてくる。その切り替えの速さは、伊達に指導教授という立場に就いていない。彼らは彼らで寸暇を惜しむスケジュールで動いているのだ。
「では、その大掛かりなマジックを今度是非拝見させて下さい。楽しみに待っています」
「君の発表会の打ち上げに用意しておこう」
浮かれ調子のダリアの台詞を背に、シュウは教授室を出た。
出て数歩歩きかけて、それに思い至る。
――やっぱり通じた。
青年は、次に誰が乗ってくるかなど予想が付かなかったのではなかったか。もし、乗ってきた相手が言葉の通じない白人や黒人だったらどうするつもりだったのだろう――そう、そうなのだ。シュウは足を止めたまま考え込む。ダリアの説に奇妙な齟齬を感じた理由はそれだ。
英語が話せないと青年は言った。だとすれば、タクシーの運転手とはどうやって話を付けたのか。そもそも支払いはどうなっていたのか。
彼が持っていたのはTCだけだったのに。
※ ※ ※
その日の帰宅をシュウが早めたのに、特に理由はなかった。
気にならないと言えば嘘になるが、青年の事をあれこれ考えてみたところで自分の生活が変わる訳ではないのだ。その視覚トリックをとやらを解いてみせたとして、それが自らの今後に、或いは研究に光を与えてくれるものであるならまだしも、日常のちょっとした非日常などに構っていられる程、暇のある生活でもない。結果が全ての研究者の卵にはやらなければならない事が山積している。
研究に必要な器具の使い方も大分覚えた。
後は、地上世界の現状に相応しい知識レベルに僅かばかり上乗せした論文を出せばいいだけの話。
技術や思想が先行している地底世界からすれば、地上世界の現状など、何世代も遡った過去も過去。今でも未熟で不完成な地底世界が、更に未熟だった時代の遺物――それこそが、現在の地上世界の科学なのだ。そうして自らが生きてきた世界と比べれば、幾つもの博士号を取得するなど、どれだけ容易い行程であることか。
尤も、それが一番難儀な作業であるのだが。
シュウは地上の書物に対する知識が乏しい。ドクターコースの人間ならば知っていて当然の書物すら知らないことがままある。しかもそれは論文制作にあたって必要になる事が少なくないのであるから、豈図らん。背後にブレインがいるならともかく、それをも自らの手で探し求めなければならない孤独な身では、教授の手足として学士課程の生徒の授業を受け持つのは、そういった意味で理に適っている。
方向性を決め、実験を行い、施行回数を増やして自らの理論を裏打ちする。論文はその集大成である。方向性を定めるのは容易いのであるから、実験に慣れればこれもまた容易くなる。自然、一番手間がかかるのは論文作成とその他の雑務となる。
雑務もなく、実験もスムーズに進めば帰宅が早まるのも当然。研究室で論文を仕上げるより、自宅で山と詰まれた書物に囲まれて論文を書く方がシュウには合っていた。他人との煩わしい付き合いがなくなる分集中出来るからだろう。同じ研究室の人間とさして会話を嗜むでもないシュウにしても、その嫉妬、または幾許かの好奇に溢れた視線に晒されるのは、それだけで煩わしいと評するに充分な環境だ。
アパートメントの階段を上り、鍵を差し込む。時刻は午後九時三分。習慣的に時計を見て、部屋に入ればそこには薄暗い空間が続いている。
窓から差し込む街の灯りが、仄かに照らすだけの――。
照明のスイッチを入れてみると、ここ数週間まともに掃除をしていなかった部屋は綺麗に片付けられていた。
元の場所に戻すのを忘れた小物はあるべき場所に納まり、埃がうっすらと積もったテレビに電話、スタンドライトは元の色を取り戻していた。排煙でくすんだ窓は丁寧に拭われ、タイル張りの床は磨き上げられ、玄関からの間仕切りとなる邪魔なドアも同様に。
煤が張った壁は年季もあり、元通りとはいかなかったようだが、その薄黒い霞はしっかり払われていた。幾分どころか大分明るくなった室内を見渡して、もしや、とシュウは寝室に入り込む。だが、胸に抱いた不安とは裏腹に、掃除をした後はあるにはあるが、机に雑然と積み上げた書物には一切手が付けられていなかった。そんな様子であるのだから、危惧していた部屋からの紛失物もなく、何度目かの不可思議な感覚に、シュウは半ば呆然としつつ鞄をベットに放り投げてリビングへと戻る。
戻って、溜息混じりにカウチに腰を下ろす。
ダリアもそういう人間であるが、学者の中には自らのデスクが資料に埋もれていないと効率が悪いと感じる人間がいる。欲しい資料が手の届く場所になければ、取りに動かなければならなくなる。整然よりも雑然を好むというのは、その数秒の時間のロスさえも無駄に感じてしまうからなのだ。人の目に雑然と映ろうが、本人が場所を把握していれば、やたらと引き出しや棚に資料を仕舞うよりも、作業はスムーズに進む。
その習性を好ましく思わない人間も少なからずいる。というより、そういった人間の方が大多数であるだろう。
シュウは部屋は簡素で、あるべきものがあるべき場所に収まっている状態が一番であると考えているし、実際、そうしてきた。物の少ない部屋であるからその状態を保つのは簡単である。だが、机の上だけは別だ。時間の少ないシュウにとっては、雑然としているその状態こそが一番効率的な作業形態であるのだ。とはいえ、それ以外は前述の通り。
日常の全てといっていい時間を目的の為だけに注いでいるのであるから、いかに部屋を整然と保とうにも綻びは出てしまう。
その点は改善されている。
だのに、机の上だけは、まるでシュウのその性質を知っているかのように手が付けられていない――釈然としない思いをするのはこれで何度目なのだろう。不条理もここまで重なれば、立派に確信犯的行為だ。
それとも、自分という人間は、それ程までに解り易い性質であるのだろうか。
シュウは考えて、カウチに深く凭れかかった。
それは善くないのだ。
他人に本心を、本質を悟られてはならないのだ。
あの男も、その援助によって授かるだろう博士号も、全ては通過点にしか過ぎない。シュウが目指すものはもっと遠く、未だ人が成したことのない偉業――終末、その一点のみ。それを与え、それを担う一手になろう。そう決意していたからこそ、シュウは元老院の思惑に乗ってみせたのだ。
地上と地底は表裏一対。どちらかに綻びが出れば、それはもう片方に惨事をもたらす。
それを危惧した元老院の保守派は、その抑止弁としての働きを期待してシュウを地上に送り込んだ。その裏には、王位継承権争いに最も絡ませやすい立場の自分を、王宮から放逐したいという目的もあっただろう。フェイルロードとモニカとシュウ、継承順位は揺らがなくとも、その能力には歴然とした差が、他者にも認められるものとして存在していたのだから。
人が求める為政者とは、力と才が揃った者である。血縁者に次代が送られる立憲君主制において、それは一元的な意識となって王宮に流れ込んだ。自覚のあるなしに関わらず、誰もが深層心理でそれを解し、望んでいる。
だからこそ、彼らは魔力に乏しいフェイルロードに危惧を抱き、才に乏しいモニカに危惧を抱く。そういった人間が少なからず出るのは、その意識の成せる業と云う以外に何があるだろう。保守派の元老院議員は恐れた。意識の潮流を。支配を。
潮流がやがて激流となり、継承権という壁を突き破るのを恐れた。
恐れて、呈のいい口実を得てシュウを地底から放逐した。
それこそシュウが望んでいた事態とも知らずに。
それにしても遅い――シュウは時計を見る。九時十四分。行って帰って来るだけなら、とうに家に居てもおかしくはないだろうし、総領事館の手配で宿泊施設が見付かったのであれば、連絡やメモのひとつでも残して行くだろう。この地に不慣れな青年は、もしかすると再びの奇禍に遭ってしまったのかも知れない。可能性を否定しきれないのがこの街だ。
それならそれで、明日のニュースでも見ればわかるだろうと、シュウは机に向かうべくカウチから腰を浮かしかけて、
「……お帰りなさいと出迎えるべきですかね」
玄関から鍵の開く音がしたのはその時だった。
失望と諦めと、それからどうにも表現し難い「思い」を抱きつつ、シュウが玄関からリビングへ続くスペースを仕切る嵌め込み硝子の扉が開くのを待てば、案の定、青年が姿を現す。その腕にストアマーケットの紙袋を抱いて、様子ばかりは呑気に、
「ただいま」
無邪気を通り越した無防備な笑みを浮かべて、青年は言う。
「遅かったですね」
「領事館で時間を食ったのもあるし」紙袋をテーブルの上に置いて、気まずそうに笑いながら、「俺、方向音痴なんだよ」
「方向音痴、ですか」
確かにシュウがメモを渡した時、青年は奇妙な表情をしていたのだが、その理由はこれだったのだろうか。食材をテーブルに広げる青年に近付きながら、シュウは今日の結末を聞こうと促がすつもりで相槌を打ち、そして椅子に腰掛ける。
目にも鮮やかな野菜を見るのはいつ以来だろう。
食事は簡素にインスタント。昼食は摂らない。夕食も気が向けばといった按配の生活では、酒宴の席でもなければ目にかからないものばかりだ。
「そう、それも壊滅的な。先ずバス停に行くのに迷って、着いたら着いたでまた戻る道がわからなくなるし、領事館に行くのも迷いに迷って、それでここに帰る道すがらストアマーケットに寄ったら余計にまた道がわからなくなって」それが必要な分量なのか。袋からある程度の食材を並べたところで、青年は残りを紙袋ごと冷蔵庫に放り込む。「実は朝からずっと思ってたんだよ。今日中に帰ってこれるのかなって」
「……それでよく、旅行をしようと思ったものですね」
「何事も挑戦だろ。試してみなきゃわからない世界ってあるじゃないか」
最早、呆れて言葉が続かない。無茶を通り越して無謀な挑戦だ。
「飯、食ってないんだろ?」青年はすっかり機嫌を取り戻した様子で、トマトを手の内で放り上げたり、キューカンバを指揮棒よろしく振り回したりしつつ聞いてくる。
呑気なものだ――シュウはテーブルに並べられた食材を見る。薄いハムにレタスにトマト、キューカンバにオニオン、そしてトマトペーストとビーンズの缶詰とバターロール。それから、申し訳程度のチキン。何が出来上がるのか予想が付かなくもなかったが、シュウはそれについて考えるのは止めた。
「出来上がったら呼んで下さい。片付けなければならない事がありますので」
聞きたいことは食事の時に聞けばいい。
何よりも、シュウはこれ以上青年の行動について考えたくなかった。不条理も不可思議も不可解も不合理も、もう結構――解体も証明も出来ない事象について考えるなど、どれだけ非生産的で不毛な行為だろう。考えれば考えた分だけ、無力感に苛まれる。
It’s not a joke!
その内心を悟られぬように、何事もなかった様子を努めながらシュウが立ち上がると、「テレビ、見てもいいか?」と声がかかる。「音は小さくするし、電気代も払うよ」
「好きにしなさい」
振り返らずにそれだけ言って、シュウは寝室の扉を閉める。
昨夜、会ったばかりの青年に、まさか自分の食事の嗜好まで読まれているとは思いたくない。青年のあらゆる態度があまりにも、自分を知り尽くしているように思えて、だからこそシュウは没頭する。
鞄から出した論文の草稿を仕上げる事で、不条理を払拭する。
それしか出来ない。否、したくない。考えれば考えた分だけ、自分が疲弊してゆくだけだ。事象は事象、それが偶々偶然であっただけだと思えば済む話ではないか。お伽話でもあるまいし、青年がそこまで超上的な存在な筈はないだろう。あの間抜けさ加減を見れば一目瞭然だ。そうやって納得させる以外に何が出来るというのか。
似たような知り合いがいるに違いない。現実など得てしてその程度のものだ。
考えまいとしても、思考は溢れ出てくる。
――tell me where you’re going……
テレビを見ている筈の青年の歌う声が微かに耳に届いてくる。
――I am going too……
掠れた声が奏でるメロディは曲調のポップさと裏腹に物悲しい。
――tell me where you’re going……
流行の曲なのか聞いてみるべきなのだろうか。考えてみれば、流暢に英語詞を歌ってみせるその謎も解けていない。
――I will go with you……
考えないと決めた矢先から考えている自分に気付き、シュウは苦笑する。
のみならず意識している。
こうして誰かの事を考えながら生活するのは久しぶりな気がする。手元を休めることなく、シュウは思う。教授やあの男や、地底世界などの自らに関わる人間ならまだしも、行きずりの垢の他人でしかない人間のことをここまで考えるのは、恐らく、人生で初めての経験だろう、と。
自らの目的に不必要な行為でしかないのは理解しているのにも関わらず。
ペンを走らせ、資料を引っくり返し、データと顔を突き合せつつも、その意識の片隅には青年の存在がある。扉を隔てた向こう側に存在する、この部屋に住みだして最初にして最後の客人になるだろう人間が。その存在感は、当初シュウが思っていたよりも大きいものであるらしかった。
他人の居る生活。
だというのに、思っていた以上には不快を感じていない生活。
そう、言う程にシュウは不快を感じていない。いないからこそ腹立たしい。
いや、その結論さえも正しくない。
腹立たしさを煽ることで、快を覚える自分を押し留めようと――しているのだ。
その不条理や不整合を認めたくはないものの、青年の立ち振る舞いはどうしてもシュウを楽にする。垢の他人、だからこそなのかも知れない。これが見知った人間であったならば、どうやっても煩わしさや嫌悪が先に立つだろう。狭い世界でしか生きれなかったシュウには、孤独こそが一番安らげるものであったのだから。
いずれは別れると承知しているからこそ、寛容になれるのかも知れない。どうなったとしても他人だからと割り切れる相手、向こうもそれを承知しているからこそ成り立つ「今」。
いつの間にか、妙な不安は消えて――いた。
これを機会に更に自分を固める術を学ぶのも一興だろう。シュウは微笑む。青年に性質を読み尽くされているのなら、それでもいい。それを上回る仮面を手に入れれば、自分の思惑など誰にも読めるものではなくなるのではないか。
シュウが作業に一区切りを付けたその時、ノックと共に扉が開く。
「飯出来たけど、どうする? こっちで食うか?」
「そちらで食べますよ。ご覧の通り――」
ここにはスペースがありませんから、とシュウは立ち上がりリビングへ向かう。
テーブルの上にはまたも一人分の食事しかなかった。オニオンとビーンの入ったトマトスープに、薄いハムを載せたサラダ、スライスしたチキンをオニオンスライスを下敷きに蒸した上にパセリが添えられた蒸し焼き。そしてバターロールと紅茶。
「あなたはまた食べないのですか」
「道に迷ってる途中でバーガーショップに入ったんだよ。小腹を満たすつもりでMサイズのコーラとポテトを頼んだらエライ目に会った」
「こちらの食事は何よりボリューム、ですからね」
「冗談だと思ってたよ、そんな事」
スープに口を吐けてみると、見た目によらず薄い味付けだった。「コーラなんか頼まなきゃよかった」と愚痴る青年の顔をしげしげと見詰める。「どうした?」と、目を見開く青年に意図的なものは感じられない。
シュウはいい加減驚くのも馬鹿らしくなってきた。
自分の好みに合った味付けの食事に口を吐けつつ、「いえ、それよりも」と話を本筋に切り替える。
「どうだったのですか、領事館は」
「それがさ……結構問題で、時間がかなりかかりそうなんだよな」
途端に曇る青年の顔に、篭る言葉。「何故」とシュウが問いかけても、中々口を開こうとしない。
通常、パスポートの再発行は身分証明書があれば一週間で済む。とは云っても、旅先に身分証明書を持ち歩く人間も早々いないと言えば居ない。保険証ぐらいだろう。気ままな一人旅でレンタカーでも借りようとしているのであれば、運転免許証ぐらいは持っているだろうが、予め大事を予想して旅行する人間はそうそういないものだ。特に円高となり海外が身近なものになった今、国内旅行と同じ感覚の者も多いのではないだろうか。
とはいえ、着くなり置き引きに遭ってしまった青年にはどちらにしても無理な話。事態がややこしくなるのは多少ならずとも仕方のないことだ。それをどうにかするのが領事館なのだから。
躊躇いをみせる青年に幾度も問い掛けて、「それはあなただけでなく、私の問題でもあるのですが」と言ったところで、ようやく覚悟を決めたのか、真っ直ぐな視線がシュウに向けられる。
「いや、何せ俺、何もない状態だろ? それはまあ、警察への盗難届けを出すの手伝ったりして貰って一応形は付けたんだけど、もっと困るのは身分を証明するものが何もないって事でさ。それだけなら日本から送って貰えばいいんだろうけど、俺、天涯孤独なんだよな。つまり、俺が俺である事を証明出来るのが俺しかいないって話になるからこれがややこしくてさ。戸籍は向こうで取り寄せてくれるみたいだけど、それが俺であるっていう証明をどうやって取るのかってなると向こうで調べなきゃならない訳だから、時間がかかるのは当たり前っちゃあ当たり前なんだけど、普通のパスポート再発行より時間がかかるって言われて」
「それで、結局見通しが立たないという話になるのですか」
「手っ取り早く言えばそうなるよな……ホテルも世話してくれるとは言ってたんだけど、これが全財産な訳だし、一時金を借りても返せる余裕がねぇし、かといってビザ再発行にも身分証明が必要だし、就労は出来ないし。半月はかからないって言ってたけど、そんなにかかるのかって思うとさ、ここに居るのも悪いし、けど他に行ける場所もないし、連絡付く場所じゃないと困るっていうからホームレスになるのも無理だし」
そこまで聞いて、シュウは思いがけず吹き出してしまった。
何と小さな事を気にするのだろう! 青年は無理矢理ここに乗り込んできたも同然だというのに!
「何だよ、笑い事じゃないだろ。お前の問題でもあるっていうのに」
「昨夜、無理矢理押し掛けて来た人間の台詞とはとても思えませんけれどね」笑いを噛み殺しつつシュウは言う。「半月でカタが付くなら結構。その間に私は三日ばかり留守にしますし、今日のように早く帰ってこれる事もそうないでしょう。おかしな事さえしなければ、ペットを飼っている気分で過ごす事にしますよ」
「それでいいのか?」
「あなたはどうやら私の領域を侵す人間ではないようです。今のままでいるのであれば、歓迎とまでは行きませんが、居る事に不満を表明する理由もありませんよ」
ペット呼ばわりに怒るかと思いきや、青年はそれはさらりと流してしまったようだ。「じゃあ――」と電話脇のメモ用紙を手に戻って来ると、
「ここの電話番号を教えてもらえないか。領事館から連絡先を教えてくれって言われてるんだ。考えてみれば、俺、ここの住所も知らないから、迷った時の為にそれも教えてもらえるとありがたいんだけど」
「貸しなさい」
シュウは食事の手を休め、それに電話番号と住所を書き付ける。メモを受け取った青年は、珍しいものでも見るようにそれを眺めていたが、ふと思い出した風に脱いで椅子にかけっぱなしだった上着から紙幣を取りだす。
「借りた金、返さないとな」
「食事代と帳消しでいいですよ。結構な出費になったのではありませんか」
「それは世話代だろ。貸し借りはきちんと清算しないと後が怖い」
笑いながら紙幣を差し出す青年に、よくわかっている――とシュウは受け取る。あの男は貸しに対する見返りを求めている。無償の保障など、Give and take. のこの世界には存在しないのだ。
誰だって、奉仕には見返りを求める。
そうでなければ論文博士を目指す者に、余計なボランティア精神を発揮してその審査を行なう博士など存在しない。彼らはその後の見返りがあるだろうと予測するから、無償でそれを引き受けるのだ。高潔な魂が学術に根ざさないのは、そういった精神が常にどこかに存在しているからであって、ダリアにしてもあの男とのパイプを強くしたいからこそ、シュウを受け入れているのに違いない。資本主義が隅々まで行き渡っているアメリカならではの風習だ。
「そういや、聞きたかったんだけど」
その紙幣をテーブル脇に置いたまま食事を進めるシュウに、青年が珍しく自分から話し掛けてきた。
シュウの様子を察しているのだろうか。今なら話をしてもいい、という見極めが青年には付いているようだった。今朝の余裕漂う様子の窺い方とはまた違うアクションは、シュウがそれを受け入れられると察したからこそ起こされたもの。いや、それもまた偶然の産物なのやも知れなかったが、シュウにはそう取れた。
「何でしょう」
「何で五ドル紙幣なんだろうって、さ」
「何故でしょうね」シュウは微笑む。
こちらの風習にはとんと疎い青年を見ていると、不条理などどうでもいい気がしてくる。と、いうより挑発的なそれらの態度がそれで緩和、或いは相殺されてしまう。安心感もある。相手がただの人間である、という安心感と優越感が。
――誤魔化されているのだろうか。
「根拠は私も知りませんよ」どことなくむくれた表情をしてみせる青年に、笑みを崩さずシュウは続ける。
「ただ、こう伝えられてはいるのです。『一ドルでは少なすぎる。出し惜しみしていると思われるから殺される。十ドルだったら多すぎる。もっと持っていると思われるから殺される。五ドルだったら現実的だ。だから命は助けられる。』とね。現実にそれで命が助かった人間の話だったら幾らでも聞けますよ。ですからただの迷信ではないのでしょうね」
「へえ……面白いな。おばあちゃんの知恵袋みたいな感じだ」
「他にもありますよ。『安いホテルに泊まるなら、金は枕の下に置け。但し全額は置くな。多少は荷物に遺しておけ。そして侵入者に気付いても目を開けるな。』など、恐らく誰かの経験がそうやって伝わっていったのでしょうね。そうしてそれが身を守る常識になったのでしょう」
「成程なあ。銃文化のアメリカらしい考え方だ」
素直に感心している青年に、今なら聞けるとシュウはそれを口にする。
「ところであなたは何故、あの曲をあれ程ネイティブに歌えるのですか」
「歌はメロディだからだろ。耳で繰り返し聞いてれば嫌でも覚えるんじゃないかな」
その素早さはまるで用意された答えにも聞こえる。
「そうでしょうかね。中々に流暢な英語でしたが」
「そんなにそれらしく聞こえたか? 今日だって俺の発音が相当怪しかったみたいで、『What?』の連続だったんだぜ。観光地で日本人の対応に慣れてる筈なのに、っていうか他の日本人だってそんなに変わらないじゃねーか、って内心思ってたんだけど。それってつまり、俺がそいつらより駄目だってことなんだよな。多分」
「LとRの発音は、日本人には難しいですからね」
「それ以前の問題な気もするけどな」青年は苦笑した。
「それ」が発音だけを指しているのではないように聞こえたのは、シュウが穿ち過ぎているからなのだろう。
「しかしこの国は厄介だな」
危機意識が足りないという根本的な欠如を、青年は自覚していない。
「日本の無防備さの方が、世界的には異常なのですよ」
そうして青年会話を重ねる内に、気付けば食事は全て空けられ、紅茶を残すだけになっていた――穏やかに、ただ穏やかに、それは青年が姿を見せるまでの懸念を払拭する勢いで過ぎた。
久しぶりにまともな食事をしたと、シュウは紅茶に手を伸ばす。「片付けは俺がするから」今更のように宣言するのが可笑しく、シュウは笑う。
勝手に朝食を用意し、勝手に部屋の掃除をし、勝手に食材を調達し、すっかりハウスキーパーよろしく動いておきながらのこの台詞!
「何だよ」目を見開いて問う青年に、「勝手にあれこれしておいて今更何を、と思うのは私だけではないと思いますよ」
言ってシュウは立ち上がる。
「今日はまだ机に向かわなければならないので、寝るのはカウチでお願いします」
「言われなくても居候はそうするさ」
皿を集めて立ち上がる青年はまたあの曲を口ずさんでいる。
――tell me where you’re going……
どこに行こうとしているの? ――寝室への扉を開く直前にシュウは最後の問いを発した。
「その曲は流行っているのですか」
「いや、俺が好きなだけだよ」
キッチンの狭いシンクに食器が沈む音が聞こえる。ブランケットをカウチに置くべく、シュウが一端リビングへと戻ると、その気配に気付いたのか洗い物をする音に紛れて、青年が呟く声が聞こえた。
「この曲を聴いて、ここへ来たくなったんだ」
それにシュウは答えなかった。