(二)
そしてマサキはラングラン東部へ赴くこととなったのだ。
後手後手に回っている今の状況をセニアが面白く感じていない筈がない。次こそは先手を打ちたいというのが彼女の希望だった。
幸い次の予言には虫食いがなく、穴埋めの単語の間違いを気にせずに済む。
黒き果実によって与えられる祝福が何であるのか……こういった話は、存外、地元民の方が詳しく知っていたりするものだ。民間伝承が転じて予言となったもの然り、その逆も然り。だからこそ、セニアは他のいくつかの東を示す予言とともに、そういった内容の伝承が地元民の間に伝わっていないかを調査して欲しいとマサキに頼んだのだ。
「こういうのこそ、練金学士の出番じゃないかね」
「ただの現地調査だったらそれでもいいけれど、藪をつついたら蛇が出るものよ、マサキ。だからあなたたちに頼むんじゃないの。彼らは国の発展に寄与する優秀な頭脳を持つ非戦闘員。あなたたちは身体を張って世界存続に関わる危機に立ち向かう戦士。忘れないでね。まあ、ヴォルクルスが間近に出現したら、研究大好きなあの人たちは飛び上がらんばかりに喜ぶんでしょうけど」
調査の随行者をひとり選んでもいいと言われたマサキは誰にするか悩んだものの、結局、サポート役として優秀なテュッティを連れてゆくことにした。ゼオルートの館に残してゆくプレシアのことが気がかりではあったが、王都の警備を手薄にするわけにも行かない。火力の強い炎の魔装機神を駆るヤンロンや、敵の足止めに効果的な範囲攻撃を持っている地の魔装機神を駆るミオは残しておきたかったし、何よりプレシアだって優秀な魔装機操者のひとりなのだ。
「おかえりなさい、マサキ。東部の調査はどうだったの?」
「訛りがキツくてな――って、なんでお前がここにいるんだよ、ミオ」
部屋に荷物を置いてマサキがリビングに取って返してきてみれば、テーブルにはミオがひとり。テュッティはまだ荷解きが終わっていないのか、それともプレシアと一緒にキッチンにいるのか。どちらにせよ、テーブルの上にお土産の箱が開封されずになっている辺り、お茶の準備にはまだ時間がかかりそうだ。
「王都の厳戒態勢が解除されて暇だから、ちょっとね」
それだったらミルクたっぷりの紅茶が飲みたいと要望を伝えにマサがキッチンを覗けば、カウンターテーブルの上には散乱したボールにへら、バターにミルク。見た目はお菓子作りのようだが、ボールの中には何とも形容しがたい黒い物体が塊になっている。
奥のガスコンロの前に、輝かんばかりの金髪を無造作に纏めてリューネが立っている。こちらに背中を向けているということは、鍋でも火にかけているのだろう。その割には何故か棒立ちだ。
そんなリューネを避けながら、キッチンの中を立ち回ってお茶の準備を進めていたプレシアが、マサキを見て困ったように目を瞬かせた。
「その、黒いガサガサした物体はなんだ? まさかチョコレートとか言わねえよな?」
微かに漂ってくる甘い匂い。ところどころ焦げ臭い。「見ちゃダメ」と、プレシアが口だけ動かしてマサキに語りかけてくるも、見てしまったものは今更どうにもならない。地上の暦では二月も半ば。バレンタインが近いとあっては、不器用さでマサキに勝るリューネもおとなしくは過ごしていられなかったようだ。
「何度教えてもチョコを溶かすのに失敗するのよ。どういうこと?」マサキの隣に立ってミオが言う。「もうあたし、ダメになったチョコを食べられる形にリカバリーするのに疲れちゃって」
「お前ら、去年も一昨年もリューネに同じ失敗をさせてねえか?」
「湯煎でチョコを溶かさせるとチョコにお湯が混じって失敗するから、今年は弱火の鍋でって思ったんだけど、そうしたらこの有様」
「意地を張らずにチョコを溶かすのだけ、お前らに任せればいいのになあ。他のことは雑にせよ出来るんだから。どうせまた最初から全部ひとりでやりたいって言って聞かなかったんだろ」
そんなふたりの会話は聞こえていないらしく、リューネは棒立ちのまま。暫くして、ようやく木べらを持った手をコンロの方に向けた。背中に隠れて見えないが、恐らく、鍋にかけたチョコレートをかき混ぜようとしているのだろう。
「あいつが失敗するのは力加減じゃないかね。外させろよあのリストウェイト」
「外したら腕が軽くなるからか、高速でかき混ぜるのよ。それで去年は壁をチョコレートまみれにしたじゃない。ほら、リューネ。マサキもこう言ってるし、もうちょっと静かにかき混ぜようよ。そんなに早くかき混ぜなくてもチョコレートは逃げないから。あと火はもう止めて!」
「ああ、忘れてた……っていうかマサキがいるのっ!?」
コンロの火を止めるより先にリューネが振り返る。そしてマサキの存在が現実であることを認めたようだ。大きく目を見開く。けれどもそれは、再会を喜ぶためのものではなく。
「マサキにあげるチョコレートなんだから、マサキに見られたらサプライズにならないじゃん!」
「お前、俺の家のキッチンでチョコレート作りをやって、どうやったら俺に見つからずに作りきれると思ったんだよ……。
あのな、リューネ。こういうのは形じゃなく気持ちなんだよ。無理して手作りにこだわらなくたって、既製品でも気持ちがこもってりゃ男は有難いって思うもんなんだ。だから力を借りるべきところは借りるか、思い切って既製品のチョコレートを買うかしろ。じゃないとここのキッチンが爆発しそうだ」
強烈に漂ってくる焦げ付いたチョコレートの匂いに気付いたマサキが言えば、「あーっ!? マサキが余計なことを言うから!」慌ててリューネがコンロの火を止めるも、時既に遅し。かつてチョコレートだった物体は、鍋の中で見るも無残な有様になっていた。
「だから溶かすのだけ任せろって俺が今言っただろ」
「マサキだって料理の腕はどっこいどっこいのくせに!」
「切って焼くぐらいしかできないのは一緒だが、湯煎でチョコを溶かすぐらい俺にだってできるんだよ。テュッティやプレシアのお菓子作りに付き合わされてるしな。これでも測って混ぜるだけのスコーンぐらいだったら作れるんだぜ?」
「本当かしら? マサキ適当ぶっこいてない?」不貞腐れた顔でリューネが言う。
「嘘吐いてどうすんだよ、こんなこと。何だったら今ここでやって見せてもいいぞ」
「あー、もう。ふたりとも張り合うのはそこまで!」
不穏な空気が漂い始めたことに我慢しきれななったミオが声を上げた。
好きだ好きだと煩い割には、リューネの愛情表現は子供並み。好きな相手に突っかかるところから一向に成長をみせない。いつだったか、シュウがリューネを評してこう言ったことがあった。「偏った教育と愛情を受けて育った彼女は、私たちが思っている以上に子供なのですよ」と。
それはある面で当たっているのだとマサキは思う。
「リューネ、マサキもさっき言ったでしょ。こういうのは気持ちだって。目的と手段を履き違えないの。ね? だから何かアイテムと一緒に買ってきたチョコをあげたら? マサキ最近、アクセに興味があるんだって」
フォローしているつもりらしい。マサキの小指に嵌められた指輪に目配りをして、ミオが言う。すっかり嵌めるのが日常になった指輪だったが、突然に触れられればマサキも動揺する。「馬鹿、お前……」けれども、リューネはそんなマサキの焦りには気付かなかったようだ。
「へえ。そういや指輪してるね? 自分で買ったの?」
「あ、ああ、まあな。本当はもうちょっとごついのが良かったんだが、気に入るデザインがなくて……」
しどろもどろになりながらもそう言うと、リューネは信じたようだった。ごついアクセ、と何度か口の中で繰り返して、それがどういったものか想像したのだろう。うんうん、と一人納得した様子で頷いた。
※ ※ ※
「って、ことが三日前にあったんだけどよ。今日の俺は腹をくださずに生き残れるかね?」
「ミオがついてるんなら大丈夫でしょ。食べられるものは貰えると思うわよ」
「贅沢な悩みだな。リューネにウェンディにシュウか。お前は結局、誰を選ぶんだ?」
「余計なものを混ぜてるんじゃねぇよ!」
今日も繁栄を極めるラングラン王都。その城下町の一角、表通りから東に入った先の飲食店街にある話題のパン屋は、種類豊富な焼きたてのパンをオープンカフェスペースでドリンク類と一緒に食べられるとあって、昼下がりのこの時間になっても客足が途絶えない。
その賑わいをみせるカフェスペースで、マサキたちは丸テーブルを囲んで少し遅めの昼食を取っていた。
チーズトーストにウィンナー&エッグマフィン、クラブハウスサンド。デザートにシナモンロール。男ふたりの旺盛な食欲に比べると、甘いものには底なしの食欲を発揮する割に普段の食事は少食気味なテュッティは、ミニクロワッサン二個にバターロールが一個、レーズンブレッドが一切れと控えめな量だった。
「余計なものか。クリスマスのみならず、年末年始も一緒に過ごしたのだろう?」
「クリスマスはさておき、年末年始はミオも一緒だったっつーのによ」
「お前たちは簡単に地上に出過ぎだ。僕などずっと春節を我慢しているというのに」
「なんだよ、結局やっかみか? 爆竹が必要だったら山ほど買ってきてやったぜ」
「ただ爆竹を鳴らせばいいというものでもないんだがな」
「まあ、その甲斐はあったのだから、いいんじゃないかしら。これで成果がひとつもなかったら問題だけれど、マサキが入手してきた情報のお陰で白鱗病の南下は防げたのだし」
甘いものを食べる時と比べると、口の開き方からして違う。楚々とパンを小さく千切っては、ゆっくりと口に運ぶテュッティを眺めながら、三人前のクラブハウスサンドの最後の一切れを食べ終えたマサキは、グラスを取り上げると中身のミルクを飲み干した。
先月末から寝食問わず働き詰めだった所為か、食べても食べても腹がいっぱいになる気がしない。減った体重が戻っても尚、マサキの旺盛な食欲は衰えるところを知らないようだった。
「もう二、三個何か食うかな」
「奇遇だな。僕も同じことを考えていたところだ」
それはヤンロンも同様らしかった。厳戒態勢の王都の警備を十日近く務め上げたのだ。その精神的重圧は計り知れない。少し面窶れした横顔にその苦労が偲ばれる。
最後まで諦めずに手作りチョコレートに挑戦したいと意地を張るリューネの世話がなければ、ここにミオも加わっていたところだったが、残念ながらそうは問屋が卸さない。彼女の苦労だけはまだまだ続く。
ミオはなるべく早い段階で市販のチョコレートを買わせる方向にシフトさせたいと言っていたものだが、さて、どうなることやら。マサキは少しだけ憂鬱な気分になった。ごついアクセと聞いてリューネが浮かべた表情といい、彼女が消し炭にしたチョコレートの量といい、今年のバレンタインも嫌な予感しかしない。
「もうあと数時間もすれば夕食の時間よ。思いっきり食べるのは、あんまり。腹八分目と言うでしょう」
自分が支度する夕食が余るのを気にしたテュッティに窘められたマサキは、パンのおかわりをどうするか考えあぐねて、ふと通りの向かいの建物に目をやった。馬車が行き交う広い通りの向かいにはダンスホール。出入口ばかりは豪華に――でもなかろうが、石造りの意匠も見事な柱が大きめのガラスの回転扉の両側に立っている。昼下がりのティータイムに近い時間にしては、人の出入りは多い。
中流階級層のサロンと化しているところも多いダンスホールだが、昨今は事情が異なるらしい。先日のファーガートン炎舞劇団の公園に触発された人々が、踊りを嗜むために殺到しているのだとか。テレビ中継の瞬間最高視聴率が50パーセントを超えたこともあり、城下町では猫も杓子もダンスブーム。上流階級層は夜のパーティで、中流階級層はこうしたダンスホールで、下流階級層はもう少し格の落ちるホールか道端で、思い思いに自分たちの踊りを楽しんでいる。
「やっぱり、止めとくか。今日は食わなきゃ首を締められるチョコレートもあるし」
「だから早く一人を選べと言っている」
「選ばないって選択肢はないのかね」
「そのうち刺されても知らんぞ。そのときはティアンに任せてやるがな。奴だったらさぞ立派な葬儀にしてくれることだろう」
「お断りだ。あの破戒僧に念仏を唱えられるぐらいだったら、地を這うフランスパン原理教にでも祈ってもらった方が何百倍も有り難みがある」
昼下がりからスポーツ替わりのダンスに興じたに違いない品のよい一団が、回転扉の向こう側から姿を現す。
その一団の中央に立つ、肉感的なボディラインの女性。見事に結い上げられたブロンドの髪に、胸がはちきれそうな白いブラウス。細い腰周りを太めの黒ベルトで強調した深い紅色のフレアースカートに丈の短めの薄桃色のカーディガンを羽織り、笑顔も華やかに。
落ち着いた出で立ちではあるが、遠目からでも目を引く。グループの華らしき彼女は紳士たちの別れ際の挨拶に会釈で答え、そして中央通りに向かう彼らとは逆側、雑多な住宅街が広がる通りの東側へと歩を進めた。
「――マサキ、ヤンロン」その様子を横目で伺っていたテュッティが小声でマサキとヤンロンを呼ぶ。「ああ」「わかっている」努めてさりげない仕草で、三人めいめいにテーブルから立ち上がった。
淑女に擬態しているつもりでも、扇情的な雰囲気は隠せないものなのだ。
サフィーネ=グレイス。紅蓮のサフィーネの二つ名を持つ彼女は、相変わらず城下町で諜報活動に勤しんでいた。
「ところで地を這うフランスパン原理教って何?」
「適当ぶっこいたに決まってるだろ。そのぐらいティアンの生臭坊主ぶりが堂に入ってるって例えだよ」
他愛ない話を続けながら、一定の距離を置いてサフィーネのあとを尾ける。足取りも優雅に道を往く麗しい後ろ姿。その後ろ姿に騙されると痛い目を見る。彼女は不穏な気配に敏感だ。少しでも距離を詰めれば、直ぐにこちらの気配に気付くだろう。
折角の休暇が三日と持たなかったのは、彼女が頻繁に厳戒態勢が解かれた後の城下町に姿を現しているという情報がセニアから寄せられたからだった。
「あの人たちのことだから、例の男を上手く泳がせることで漁夫の利を狙ってるんでしょうけど、あたしとしてはね。今回は武器庫をふたつ駄目にしただけで済んだけど、次はどうなるかはわからないのだし。できれば持っている情報をきちんと共有したいのよ」
マサキは先ず三箇日を過ごした彼らの仮住まいの館に向かった。コンタクトを直接取れるのであれば、それに越したことはない。しかし、既にマサキたちに居所を知られてからひと月半近くが経過しているとあっては、彼らがそこに留まり続ける理由もなく。もぬけの殻となっていた館に、周辺住民や管理者から話を聞いてみたものの、彼らの次の居所に繋がる情報は得られなかった。
後ろめたいことがなければ、早々にその居所を変えたりはしないものだ。
今回の件に関してはある種の共闘関係が成り立っている。まだ何か隠している情報があるのではないか。マサキはそう考えた。だからこそこうして、サフィーネの行先を辿ることにしたのだが。
まばらに商店が点在する住宅街に足を踏み入れる。雑多な街の風景に馴染みにくいサフィーネの後ろ姿が、人いきれに飲み込まれそうになる。瞬間、彼女の足が早まった。
「行くぞ!」ヤンロンの足は速い。人混みを縫って、どんどん遠く。
「あんまり騒ぎにはしたくねぇんだけどなあ」
「警備詰所には話を通してあるし、大丈夫でしょう」
「一般人の目が怖いんだよ」
マサキとテュッティもそのあとを追う。すれ違いざまの相手にぶつかりそうになる身体をなんとか避けながら、先へ。徐々に迫り来るふたつの背中により近づくために、先へ。
ヒールの高い靴で器用にも飛び跳ねるように逃げ回っていたサフィーネだったが、それも少しのこと。「もう! あんたたちしつこいのよ!」ヤンロンに袖を掴まれたサフィーネは、整った目鼻立ちの顔を盛大に歪めて絶叫した。
「お前らがヤサを変えなきゃ、こんな真似をする必要はねえんだよ」
「冗談じゃないわね。あちらもこちらも居所を掴まれるなんて。あたしたちにだってプライベートは必要。偶には誰の目も気にせずのんびり羽根を休めたいのよ。それに何か問題でも?」
うふふ、と声を発したサフィーネの濡れた口唇が、三日月に歪む。流石は二つ名持ち。魔装機神の操者三人に囲まれてこの余裕の態度。常に危ない橋を渡り続けている彼女にとって、このぐらいの窮状は数の内にすら入らないのだろう。
「セニアが例の男の居場所を知りたがっている。あと、できればシュウから直接話を聞きたいとも」
「王宮の武器庫に火を点けられちゃったんでしょう? ご愁傷様。でも、あたしたちにもあたしたちの事情があるのよ。そう簡単に口は割れないわね」
「マサキ、テュッティ。サフィーネをちゃんと抑えておけ」
サフィーネの身体をマサキとテュッティに預けたヤンロンは、その前に仁王立ちになると、人民服の懐から一冊の薄い書を取り出した。その表紙を捲る。「また故事成語か」マサキは呆れつつも、サフィーネの腕を強く抑えた。「最近、新しい技を編み出したんですって」テュッティも、どこか物憂げな表情になりながら強くその腕を掴む。「覚悟してね」
「覚悟って言ってもねえ……」サフィーネは余裕綽々だ。「そんなに何度もあの手は食わな」
「では、聞かせてやろう。孔子とその門弟たちの有難い言葉の数々だ」
そう宣言し、一息吐くと、ヤンロンはよく通る凛とした声で手元の書を読み上げ始めた。
「――子曰く、言、物有りて行、格有り、是を以て生きては則ち志を奪ふ可からず、死しては則ち名を奪ふ可からず。この意味だが」
「やめてよ! 延々経文を聞かされたあの日々が蘇るじゃないの!」
「経文ってなんだ」
「破壊神を崇め奉る経文でもあるのかしら」
言った割には早々にリタイヤしているサフィーネの台詞に、マサキとテュッティはぽつりとそれぞれの疑問を吐き出した。まさかヴォルクルスの本尊像でも目の前にして、神官が経文を読み上げている訳でもあるまい。謎深き破壊神信仰の全容が気になるところではある。
「ああ、悍ましい! このあたしに理を説こうなんて!」
本当だったら両手で耳を塞ぎたいところなのだろう。両腕をマサキとテュッティに取られているサフィーネは、それが叶わないからか。激しく頭を振った。
しかし、炎の化身でもある火の魔装機神に愛されし操者だけあって、攻撃的なヤンロンには嗜虐嗜好の気があるのだ。その程度で手を緩めるようなヤンロンではない。サフィーネやマサキたちの胸の内にはお構いなしに、書の頁を前に捲ると当然至極とばかりに、
「ふむ。ならば、最初から聞かせることにしよう」
ただ書を一定のリズムで読み上げられているだけのことでしかないのに、彼女には耐え難い苦行であるようだ。ひぃ……っ、とサフィーネの口から細い悲鳴が上がった。つくづく、相性がいいのか悪いのかわからない組み合わせである。
「子曰く、学びて時に之を習う。亦た説ばしからずや。朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや。人知らずして慍おらず、亦た君子ならずや。次はお前のためにあるような話だな。有子曰く、其の人と為りや孝弟にして、上を犯すを好む者は鮮し……」
「やめてやめてやめて! やめてって言ってるじゃないの!」
「乱を作すを好む者は未だ之れ有らざるなり。君子は本を務む……」
「あ、ああああんた! か弱い乙女がやめてって頼んでるのに、この✕✕✕✕✕✕野郎が!」
往来の真ん中で、聞くも耳に憚る台詞を絶叫したサフィーネは、そのまま力果てて項垂れた。
「か弱い乙女ねえ」
「か弱い乙女が往来で叫んでいい言葉ではないわね」
それは常識人のテュッティには堪える台詞だったようだ。柳眉を顰めて言い放つ。
そんなふたりの間で、力尽きたように見えても懲りないサフィーネは、「……あんたそれ以上やったら、あんたの✕✕✕を二度と✕✕✕✕できないように切り落とすわよ」などと、最後の抵抗とばかりにまだまだ聞くに耐えない言葉を呻いていたが――哀れなりかな、そうした彼女の下品な言行の数々を物ともしないのが、難攻不落の堅物であるヤンロンなのだ。
「子曰く、千乗の国を道むるには、事を敬みて信あり、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす……」
「わ、わかったから止めて頂戴……シュウ様と連絡が取れればいいんでしょう」遠巻きに出来た人垣もなんのその。顔色一つ変えずに論語を読み上げ続けるヤンロンの言葉を、左右をマサキとテュッティに支えられながら上半身を折り、声なく聞き続けていたサフィーネはここでついに降参。「例の男についてはそれからよ。あたしの一存であんたちに勝手に情報を吐くわけにはいかないのよ」