<3> 終わりある夜に
論文の草稿を書き終えたのは、深夜も三時を回った頃だった。
いつの間にか青年の歌う声は消え、テレビの音らしきものも聞こえなくなっている。時刻も時刻、もう寝てしまったのだろう。シャワーは明日――そう思いながら、シュウは崩れ落ちるようにベットに身を沈めた。
※ ※ ※
そうして、夢を視た。
シュウが眠っているベットの傍らで、青年が呆れた表情でブランケットを掛けている。けれどもその口元には、どこか満ち足りた微笑みが浮かんでいて……そう思えば、その眼差しは温かい。
青年に限らず、周囲の人間のそういった表情を見るのは初めてだ。彼のお人よしな従兄弟も似たような眼差しを時折シュウに向けはしたが、そこには微かに――だが紛れもない『憐れみ』が見て取れて。それが優しさ故のないまぜな眼差しであったのはシュウも承知している。彼が割り切れる程に鈍感でいれる性質だったならば、王宮の雰囲気はまた違ったものになっていただろう。
彼に限ったことではなく、王室に関わる良識派と呼ばれる一派もそういった眼差しをシュウに向けた。優しさと憐れみは彼らの中で同一のものであったらしい。それがシュウのささやかな自意識を刺激するものだと彼らは知っていたのだろうか?
憐憫の情といえば聞こえはいいが、一方的な憐れみは相手を酷く傷付ける。それを彼らは知らない。憐れむことで他人の心を理解しているようにみせる愚かさに、気付いていない。彼らの中で、共感は施しに近しい。
薄く、軽い感情。時候の挨拶と同じ響きが、彼らの持つ憐れみの感情にはあるように、シュウには思えてならない。
けれども、そういった一種の蔑みや侮辱とも取れる眼差しとは全く違う何かが、青年の表情にはあった。
この国ならではの宗教――カトリック、プロテスタントと派閥は別れていても、おおよそ九割の人間が信仰しているキリスト教。既に短くない月日をアメリカで過ごしていながらも、シュウは教会に足を踏み入れたりはしなかったが、そのイコンたる宗教画は何かの折に目にしている。馬鹿馬鹿しいとその時は気にも止めなかったが、その絶対なるまでの豊穣たる救済と、それによってもたらされるであろう静謐なる安息が同居した画は、美術品としては鑑賞に堪え得るものだと少し後になって考えたりもしたものだ。
信仰すべき神が定まっている以上、それを宗教として受け入れようとは思いもしなかったが。
救いこそは破壊。
それこそが完全なる救済である。
全ての因業を断ち切り、無へと帰す。世界を浄化させる唯一の手段だ。
力を求めたあの日から宿った意思は別次元の存在として、遥かなる高みからシュウを導いた。
――強さを求める汝に力を与えよう。さあ、その力で己の欲望を果たすがいい。お前は何を望む? この力に、何を望む? 世を愁うのであれば、弱者たる己を愁うのであれば、それを祓ってしまうがいい。胸に燻る怒りを力に変えて、世を祓い清めるがいい。世界を蹂躙する権利を今、お前は手に入れたのだ! 吹き荒べ! 浄化の炎よ。吼え猛ろ! 憎しみを糧として。Nur HuB ist meine Macht! Nur lhr ist mein Beha”lter! Mietfrist beide geben ei!
シュウが自分の内に巣食う存在に答えを求めて辿り着いたのが破壊神サーヴァ=ヴォルクルス……幼少時代から続く奇跡に書物を紐解き、遺跡を訪ね歩き、ようやく手にした答えだった。それ以外の神など誰が信じれよう? キリストがどれだけの奇跡を起こしたとしても、シュウが目の当たりにした奇跡はその神によって成されたものしかない。
希いに応えた神は、ひとり。
ひとりしかいないのだ。
そうして――力は与えられ、賽は投げられた。戻るべき道などなく、眼前に拡がるのは荒涼たる未来のみ。それでも、シュウの覚悟はとうに決まっている。
往くだけだ、この道を。
安息を、全ての生物に救いたる安息を、この手でもたらす。それがシュウの覚悟だ。そう、あの宗教画のように、全ての生物に平等に永遠たる安息を夢見ている。
――お前は……。
その安らぎを得たかのような平穏な感覚を生じさせる青年の表情は、やがて何もかもを包み込むような浮世離れした面差しに変わり、そのままベットサイドに腰掛けて、自分の髪を梳く。
――まだ、心が残ってるんだな。
青年の吐く言葉の意味がシュウには理解出来ない。
心とは何か? 自分は自分、他の誰でもない自分としてこの世に存在し、その意思で生きている。誰に定められたのでもなく、全ては自身で選択した道程であるというのに、この先この心が無くなるととでも言うつもりか。そのような事は決してない。折れぬだけの心を培ってきた自信がある。あるからこそ、こうして今、目的に向かって足を踏み出しているのだ。
遠く、遥かなオリオンに辿り着くのと同じ長い道程を、孤独に歩いて。
だからこそ理解出来ない。心はいついかなる時でも自分自身だけのものであるというのに。
――俺はここに来て、よかったのか?
青年は呟きながら、まだ髪を梳いている。
何かを愛しむように、そうっと、幾度も。
――いや……そんなこと、今更言っても始まらないか。
こうして人に触れられるのはシュウが一番嫌悪する行為だ。他人の温もりは、その交流以上に煩わしい。煩わしいだけでなく、生理的な嫌悪を感じる。椅子を並べて他人の隣りに座るのも、ラッシュアワーの電車に乗るのもシュウには耐え難い。ほんの数ミリの触れるか触れないかの距離ですら厭わしいと思い、日常の大半の行為を煩わしいと感じるのだ。握手、抱擁、当たり前に繰り返される挨拶ですら未だに慣れはしないのに、身体の一部の接触などどうして耐えられよう。
だのに何故か、青年のその行為は心地良く胸を安らがせる。
棘の道を後押しされているような気持ちにすらなる。
オリオン――シュウは思う。天上に霞むあの勇猛な星を潜り抜ける日が来れば、自分の望みが叶う日は遠くないだろう。それはひとつの到達点で、目的の地でもある。地底に無く地上に在る場所、遠く幼き日から夢見ていた、宇宙。
嗚呼、そうだ――この青年の何をも超越したような存在感は、天に弓引く勇者とも似ている。大衆に流されずただ一人で在る強さは、恐れも不安も押し退けて、未知なる世界に足を踏み入れた蛮勇さこそ証明ではないだろうか。
――tell me were you going……か。
気の迷った事を考えていると、シュウは自分でも承知している。けれどもそうやって事象に理由を付けなければ、自らの足元が崩れてしまうような錯覚を感じる。それは理屈ではない本能的な恐れ……原始的な感情だ。
この青年は、シュウの脅威となるものを持っている。
――そんなこと、わかりきってるのにな。
そうして青年の手が止まる。
ゆっくりと髪から頬へ滑り落ちてくる手がそこからベットに沈み、
――おやすみ、シュウ。
軽く触れた口唇が息かかる位置でそう告げると、青年は何事もなかった様子で部屋を出て行った――……。
※ ※ ※
目覚めてしばらくの間、夢と現の狭間にシュウはいた。
窓の無い寝室には薄明るくスタンドライトが灯るだけ。体の一部になってしまっている腕時計を見れば、時刻は朝の六時半だ。いつもより少し早い起床は、多少ながらその慌しさを緩和してくれるものだろう。瞼を幾度か瞬かせ、ぼやけた視界の焦点を合わせると起き上がり、クローゼットを漁る。
衣装を片手にシュウが寝室を出ると、まだ昇りきらぬ太陽が色濃く染まる街並みの向こうから、その光を放たんとしていた。
ビルの合間から貫く閃光に目を細め、シュウは今日のスケジュールを思う。また忙しい一日の始まりだ。
目の前のカウチに青年の姿はなく、キッチンから流れ出る朝食の匂いがその居場所を教えてくれる。シュウがそれを無視して、リビングを擦り抜けた先にあるバスルームに向かうのに邪魔な扉を開けようとした所で、「おはよう」とタイミング良く声が掛かる。
「おはようございます」
些かならずとも不機嫌なのを悟られぬように、シュウは言う。
「シャワーを浴びてきます――そういえば、あなたは」
「浴びてもいいなら浴びさせてもらうけど、後でな。とりあえず飯の仕度しておくよ」
「好きに使って下さい。まさかずっとシャワーも浴びない生活をする訳にもいかないでしょうに」
「そうだな」
テーブルに皿を並べる青年の口元に零れる笑みが、どういった性質のものであるかは二の次。自然とその口唇に目が寄せられているのに気付き、シュウは僅かに動揺する。
夢、そうそれは夢の中の出来事なのだ――思わず顔を顰めてしまいそうになり、そのままバスルームに向かう。クリーニング用のビニールボックスに脱いだ衣類を投げ込み、ユニットバスのビニールカーテンを引く。コックを捻れば熱湯が流れ落ちてくるが、その度を越した熱さも少しの事。やがて適切な温度を保つシャワーの雫に打たれながら、下らない――シュウは呟いた。
夢は夢。
ジグムント・フロイトが、カール・ユングがどれ程のものか。無意識などさしたるものではない。そこにはただ、それまでの経験と記憶が無秩序に彷徨っているだけだ。
打ち捨てられた様々な記憶が、意識の表層へ出ようと足掻く混沌の世界、それこそが無意識の無意識たる所以だろう。夢はその発露でしかない。それ以上の意味を持たない。意味付けは愚かな人間の成すロマンティシズムだ。
下らない――シュウはもう一度繰り返す。
偶然、そう、全ては偶然の産物に過ぎない。行きずりの他人を気紛れにシュウがその居所に置いた、それだけの出来事だ。それが後々に尾を引くことなど、今直ぐ世界が滅亡するのと同じぐらい有り得ない話だ。お伽話よりも荒唐無稽ではないか。
誰かに頼りたい? ――否。
誰かに守られたい? ――否。
孤独を恐れている? ――否。
全てはシュウが望んだ事。それらも含めて覚悟を決めた事。誰に強制されたのでもなく、それすら逆手に取って、自分こそが運命を紡いでいるのだ。
だのに生々しい夢の感触がシュウを途惑わせる。憤りに近い感情で。
名前など互いに名乗っていない。知る必要も今の所はない。青年が自分の名を呼んだ、それだけでたかが夢と切り捨てられる。だというのに――夢の記憶継続時間は五分。短期記憶の限界だ。それまでに起きなければ人は夢を忘却する。ほら、時系列的にも不整合を起こしているではないか。
シュウは頭を振り、髪に染み込む雫を払いバスルームを出る。大した枚数もないタオルで体を拭って髪を乾かし、新しい衣類に袖を通す。そろそろシャツもズボンもクリーニングに出さなければと、溢れそうなビニールボックスの口を縛る。そしてタオルをウォッシュマシーンに放り込む。
「お帰り」
リビングを通り抜け、寝室から鞄と論文の草稿を取って返すと、テーブルの上にはまた一人分の食事しかなかった。サラダにトースト、昨日の残りのスープに、フレンチエッグとマッシュポテト、茹でたホワイトアスパラがその脇に乗せられている。
「あなたは食べないのですか」
「もう食べたさ。時差ボケなのかな、変な時間に起きるんだ。昨日も昼間に眠くなるし」
「少しすれば慣れるでしょう」
「慣れないままでもいい気がしてきた」
論文の草稿を頭から読み直しながら、シュウは食事を進める。テレビでも見ればいいものを何をするでもなく、対面に座った青年はそれが至極当然の光景と眺めている。
それはそれで落ち着かないのだとは言えず、シュウはそのまま言葉を継ぐ。
「慣れないままでもいい? 何故です」
「どこか行ける訳でもないし、後は帰るだけだもんな」
「折角なのですから、少しは観光気分を満喫したらどうです」
「懐具合に余裕があればな――なあ、この辺りで安く衣類を扱ってる店ってあるか」
「……そういう問題もありましたね」
シャツやセーター、コートの類なら、その大きさに青年が目をつぶれば貸せないものでもない。しかし、下着やズボンとなると流石にそうも行かないだろう。「メモを」とシュウは、目線を草稿に向けたまま言う。
ものはついでだ。人手が増えたと思えばいい。
差し出されたメモにカジュアルな古着を扱うリサイクルショップへの地図を書き、そしてクリーニングショップを書き足す。
「上着の類でしたら、あなたが不足なければ私のを貸しますが」
「そうしてもらえるとありがたいな。ところでそのクリーニングショップって何だよ」
「ついでですから私の服を出して貰おうと思いまして」
「すっかりハウスキーパーだな」非難めいた言葉の割には楽しんでいる様子だ。
「先にそう振る舞ったのはあなたでしょう」
「そうなんだけど――まあ、いいや。謎の一つが解けた」
「謎?」
「何で洗濯機の中に下着やタオルしか入ってないんだろうって昨日思ったんだよ」
「ああ――」
青年の事だ。掃除だけでは空き足らず、洗濯もしようとしたのだろう。中身が存外に少ないのと、ビニールボックスを見て首を傾げていたに違いない。
彼は彼なりに何かに疑問に感じたりしているのだ。それに気付くと先程までの苛立ちが、呆れる程にささやかなものに思えてくる。
「洗濯をするのでしたら干すのは室内でお願いしますよ。ここはスモッグが酷いですから」
「だろうな。粉塵も酷そうだ。迂闊に窓も開けられない」
街を照らす太陽が霞む窓の外を眺めて青年が言う。
「都市部の弊害です」
そうして訪れる、沈黙。
その沈黙が居心地悪く感じるのは何故なのだろう。昨日まではそれはそれで自分の都合にいいと思っていられた状況であるのに――シュウの思いを汲み取るように、青年は掠れた声で歌い始めた。
――tell me were you going……
たかが歌ひとつで落ち着いてしまえる自分をどうかしていると思いながらも、それを耳にシュウは草稿を読み進める。
――I will go with you……
ざっと見た限りでは問題はなさそうだとシュウが草稿を閉じる頃には、食事はあらかた片付いていた。いつもよりも余裕のある朝に、それならば研究室に向かって時間を活用しようかと思いつつ、シュウは残り少ない食事を口に運び、
「そういえば、昨日言っていましたね」
歌を止めた青年に問い掛ける。
「その曲を聴いてここに来たくなったと」
「テレビで見たんだよ。カンザスかな、だだっぴろい平原を走り抜けるコンボイが映ってて、そのバックで流れてる曲がこれだった。何の曲かはわからなかったけれど、あの平原に圧倒されてさ。いつかはこの国に来ようってずっと思ってた」
「日本と比べれば大概の国は広大ですからね」
「そうだな。でもそれだけじゃなくて、自由を感じたんだ……違うな。解放感、かな」
「ニューヨークには閉塞感しかありませんよ」
「そうかな。ここはここで面白そうな場所だと思うぜ。観光地や表通りはともかく、変に取り澄ましてないじゃないか」
真っ直ぐに見詰めてくる青年の穏やかな眼差しが、酷く気まずい。それでもそこから目を離してしまっては負けを認めるようなものだと、シュウは視線を逸らせずにいる。拘っている『もの』が何かわからぬままに。
「そうでしょうかね。けれども、下町に似た風情はあるかも知れませんね。治安は悪い場所ですが」
「それもまた面白いんじゃないか。綺麗なものばかりだったら世の中に綺麗なものはなくるだろ。黒と白、表と裏さ。醜いものが存在するからこそ、綺麗なものが輝く」
「哲学論者のような事を仰いますね」苦笑しつつ、シュウは続ける。「それで、何の曲か解らぬまま来たのではないでしょう? そのネィティブぶりでは」
「そうそう。俺、喫茶店でバイトしててさ、偶々有線で流れたんだよ。電話して曲名を聞いて、探してやっと見付けた時は結構嬉しかったなあ。それからしばらくはずっとその曲を聴いてたっけ」
「それで覚えた――と」
「まあ、生活していくのに精一杯だったから、行こう行こうとは思ってても実現出来るとは思ってなかった。夢に夢を見てたんだよな、ずっと」
もう食事は片付いていたが、シュウは立ち上がれなくなっていた。
話の腰を折るのは容易いが、このゆったりとした時間を楽しむのも悪くはないと思う。
日々を追い立てられるように生きて、生きて、生きるだけに費やして、それが目的の為とはいえ、何もかもを犠牲にして成り立つ生活は、シュウを確実に疲弊させていた。鋼の精神力がなければとうに潰えてしまっていただろう。それだけの価値ある目的だからこそ、ここまで歩いてこれた。
時間は惜しい。
一分一秒とて惜しい。
惜しいのだが、消化するだけの無味乾燥な日々に、時に潤いを求めても罰は当たらない――そうだ、疲れているのだ。自分は。だからこそ青年の些細な行動に意味を求め、だからこそ余計な夢を視る。
流されるままでいよう。この青年の前では。
何も考えずに、流浪の民となろう。
「それを実現しようと思ったのは何故ですか」シュウは訊ねる。
「街を歩いていて、不意に耳に飛び込んできたんだよ。この曲が。そうしたらもういてもたってもいられなくなった。何でそこまで思い込んだのかはわからないけれど、貯金もあるし行くなら今しかないってさ」
「偶然に背中を押されたのですね」
「それがこんな結果になるとは思ってなかったけどな」
青年が立ち上がる。食器を片付ける傍で、シュウは残された紅茶を飲む。飲みながら何とはなしに窓の外を眺めて、今や太陽の光に明瞭に映し出されるけぶった街並みに、確かに悪くはない景色だと思う。
こうして窓の外の景色をまともに眺めるのもどれだけ振りだろう。
テーブルの上に何かを置かれる音で、我に帰る。見てみればそこにはナフキンで包まれた小振りな何かが在った。
「昼飯」と青年が笑う。
「どうせ毎度同じような感じで飯食ってるんだろ。中身はサンドイッチだから、片手で抓めるぜ」
「それはどうも」
そろそろ潮時と論文の草稿を鞄に仕舞い、シュウはナフキンの結び目を掴んで立ち上がる。ハウスキーパーもここまで至れり尽くせりだと、どうにも言葉に困る。困るが、それもまたGive and take. だ。
――Give and take. なのだろう。
リビングを出ると案の条青年は後を付いてくる。それが恩義に対する義務なのか聞いてみたくもあったが、シュウはそれを呑み込んだ。替わりにクリーニングに出す品を教え、金を手渡す。
「帰りが遅くなったら、待たずに寝て下さって結構ですよ」
靴を履き変えてドアを開けば、
「気を付けてな」
昨日と同じ送り出す言葉を耳に、シュウは長い一日に向けて足を踏み出す。
※ ※ ※
「君は仕事が早い」
呆れた風な態度ながらも一筋の陶酔が孕む瞳――ダリアは朝一番に教授室を来訪し、論文の草稿を渡したシュウに言った。
「おかしな所があったら御指摘をお願いします」
「君の事だから――」六十頁を越える厚みある紙束を親指でざらっと捲って、「問題ないとは思うがね」
「そうであって欲しいものです」
国内学会は五日後にシカゴで行われる。論文の核を成す理論や論理、それに付随するデータに引用文献など、シュウは逐一ダリアに報告している。論文そのものが成り立たないといった最悪の事態だけは避けるべく、それなりの手は打ってきた。
だが、土壇場で何かが起こらないとは限らないのだ。
院生と教授の関係は――特にドクターコースともなれば複雑さを増す。将来性のある院生の論文を教授が自分名義で発表するなど、よく聞かないにしても一般的にまかり通る院ならではの常識だろう。それに限らず、自らの論文の仕上げを院生に任せたり、学士課程の生徒の授業を任せたりと、院は得てして教授の強権主義で成り立っている。その空いた時間で彼らが何をしているのかと言えば、派閥を拡大しての学内の権力抗争に余念がなかったり、同じ学部内でもその学科での立場の違いからか、表面上はまだしも水面下で足を引っ張り合って相手を引き摺り落とそうとしたりと、魑魅魍魎跋扈も甚だしい。それもこれも学者世界が古式ゆかしき縦割り制度であるのと、研究予算が大学単位で支給されるのに関係してくる。
親、即ち権威であるトップクラスの学者からすれば、子、自分に連なる学者は多ければ多い程いい。学内に留まらず、学会での発言力も強まり、その権威を磐石なものとする。そしてそれは国から支給される研究費の割り当てに大きく影響してくるものであるのだ。
全てが一瞬で水泡に帰すような出来事が起こらないと誰が言い切れよう。ダリアは聡明な学者であったが、あの男に連なる学者であると同時に、学内での派閥争いにも巻き込まれる身でもあるのだ。彼はそれを対岸の火事、或いは遠くの惨事と認識している節もあったが、他人の本心は量れない。よしんばそれが本心であったとしても、他の研究室を統括する教授らが何かしらの邪魔をしてこないとも限らないのだ。
幾つもの研究室に身を置くシュウは、それだけでも目立つ存在だ。
複数の博士号を取得する立場ともなれば、連なる子としてこれ以上に親として誇らしいものもなければ、反面、他の親からすれば目の上のたんこぶとなる。その下にどれだけの子を持てるのか――シュウが親となった時、その数の違いは明らかだろう。だからこそ。
「今日はシュベール博士の研究室の方にいます。何かありましたら、そちらにご連絡を頂ければ」
「OHPの方の準備は出来ているのかね?」
「ええ。データ集計等に関しては既に作成済みです。その論文に問題がなければ特に変更すべき点もないと思いますが――それは後程、そちらをご覧頂いてから」
「抜かりがないな」苦笑しつつ「明日までには目を通しておこう」ダリアは論文を封筒に仕舞い込むと、珍しく引き出しにそれを納めた。
鍵のかかる引出しは、ダリアなりの防衛術だ。自分の研究ノートの類もそこに納めてあるという。勿論それは一時的なもので、重要な研究ノートに関しては自宅に持ち帰るのが慣例だ。情報漏洩を防ぎ、他の研究室を出し抜くにはそれが最も適していると、学内の教授達の大半は考えているらしい。
データを扱うのは紙束の上だけではないのだが。
「エアラインにホテルの手配も済んでいる。と、なれば君は学会まではこちらで案じることはない訳だ」
「そうなりますね。次の論文用にしなければならない追試はありますが」
「慌しくもひとときの安らぎかな?」
「足を止める暇はそうもありませんよ」こうしてひとつの成果を示せる場ばかりとは限らない。「書かなければならない論文は、いくらでも」
シュウは静かに微笑み、では――と立ち去りかけてダリアに呼び止められる。
「昨日の話なのだがね」
「何か新しいトリックでも思いつかれましたか」
「いや、それとは関係ないプライベートの話だよ。その青年は結局どうなったのかね?」
「まだ私の部屋にいますよ」
嘘を吐いた所でどうなる話でもないと、シュウはそのまま口にする。
「ほう」ダリアは目を丸くして、「それは非常に興味深い」
「どういった意味でしょうか」
「その内、トリックを教えて貰えないものかとね。上手く聞きだしてくれたまえ」
何やら含みある調子でダリアは言い、
「Have a good day!」
シュウの肩を叩き、自分の机に向かった。
※ ※ ※
シュベールは人使いの荒い教授として有名だ。その研究室に身を置く以上、その大半は雑務に追われるのが当然であり、資金に余裕のある院生が敬遠しがちな研究室のひとつに上げられる。逆に言い換えれば、それに見合う報酬を与えてくれる貧困院生の救世主だ。本来なら助手が行なう仕事まで院生に回ってくるのも珍しくはないのだから、そうやって敬遠する輩がいるのも無理はない。
しかし、それだけ多くの仕事に触れられるのは、報酬だけでなく実務の面でも利益となる事が少なくはない。将来的に教授職を狙う院生は、野望を持ってこの研究室に籍を置いているし、それだけに競争意識や研究意欲の高い者が多く、学内でも活動活発な研究室のひとつにも上げられる。それだけの苦難を乗り越えて論文を作成するのだから、他の研究室の院生よりも実のある博士号を取得したという自負を持って巣立って行く博士の卵のなんと多いことか。
事実、彼らの残していった論文は、その質の高さに定評がある。
逆境こそが人を育てる礎となる、がシュベールの持論だ。彼自身も苦学生として苦労に苦労を重ねて博士号を取得した過去を持つ。元々修士過程修了の時点で企業就職を考えたらしいが、博士号取得で企業の待遇が変わるアメリカの現状ではその方が得策であると当時の指導教授に諭された事もあり、方向転換。資金的負担の大きさにも挫けず、博士号を取得。その明晰な頭脳に着目した大学側から助教授に任ぜられ、現在に至る。企業就職よりも賃金的には安くもあるが、赤貧生活に慣れているからだろう。ポケットマネーから院生にバイト代を与え、代わりに仕事を任せ、自らの研究に没頭している少々毛色の変わった教授はそうした過去から生まれたのだ。
それにしても忙しい一日だった――最終バスに近い時間にターミナルに到着し、人もまばらなそのバスで七番街近くまで向かい、徒歩でその通りを歩くシュウは空を見上げる。
冬の大寒波到来に厚い雲を落とす空はまだ遠く、燻った排煙の合間で今日もオリオンが瞬いている。
講義にディスカッション、レジェメ作成に、共同研究のデータ取得、その指針と打ち合わせの為の国際電話、もう直ぐ審査にかけられる数理学論文の最終調整、そしてシュベールの論文草稿の仕上げ……受け持ちの学生に提出させたレポートは持ち帰りの仕事となってしまった。研究室に泊り込めば行き帰りの手間を丸々充てられるが、シュウはそれだけは頑なに避けた。今からそういった余裕のない生活をしていては先が思いやられる。最後の手段は易く手に付けていいものではないのだ。ましてやそれに満たない身分ですべき事ではない――シュウはそう思っている。
他人から見れば、馬車馬どころではない働き具合に見えるだろう。
オリオン――シュウは空を見上げたまま呟く。それでもまだこれは、その遠大なる夢に連なる一歩に過ぎない。他人からすれば驕りであり、不遜であり、愚かしいまでの破壊衝動に過ぎないとしても、それこそがシュウの希望だ。けれども天に弓引く勇者は、このスモッグに塗れた治安の悪い一角を、思惑など関係なしに見下ろしている。いつでも変わらず、こうして。この冬が続く限り。
宇宙。天空の果てにある限りない世界に、シュウはいつか辿り着きたかった。未知なる言葉にどれだけ胸を弾ませただろう。未知なる言葉にどれだけ夢を膨らませただろう。あの幼い日々は遠くに過ぎ去ってしまったが、それでも想いは残滓となって胸に息衝いている。
青年の語った、広大なアメリカという世界への夢。
それに似た感情をシュウも宇宙に対して抱いている。夢に夢を見て、こうしてそこにようやく手が届く場所まで来た。それを叶えれば、何も思い残す事はない。後は、自らの最後の望みをひたすらに、貪欲に追い求めればいい。
果たして――潰えるだけだ。
相も変わらず、似たような光景が繰り広げられる七番街。路地裏には浮浪者、ゴミ箱を漁る犬、ブロック塀の上には瞳が輝く猫の群れ、遠くでは酔って騒ぐアウトローを気取る若者の声が響いている。それに混じって聴こえてくるラジカセからのラップミュージック。彼らか、それとも他の誰かか、宵も更けたこの時刻に集う仲間を前にダンスを披露しているのだろう。怪しげなバーやクラブが点在する七番街の歓楽街で彼らは今宵も一夜を過ごす。その酔いが酒であるならどれだけ喚こうが健全だ。七番街は奥に入れば入っただけ治安が悪くなり、秩序が乱れる。シュウが住むこの辺りはまだ、平和な方なのだ。
アパートメントに近付くにつれ、そのステップに人影があるのにシュウは気付いた。歩を進めただけその輪郭を明瞭にしてゆく人物の姿に、思わずシュウは足を早める。
「何をしているのですか、あなたは」
夜空を見上げている青年は、今気付いたとばかりにシュウを振り返る。
七番街ではまだ平和なブロックであっても、夜が更ければ危険が増すのはどこであろうと一緒だ。ここは銃社会のアメリカなのだ。武器の携帯が自由であるからこそ、人々は力こそ正義と信じて疑わない実力主義へと傾倒し易い。昼夜問わず、誰かがその凶刃に倒れるのが普遍的な世界は、そこに差別的側面が加わったからこそ生まれた。
肌の色で立場が決まると言っても過言ではない、世界。白人の優位性など科学が発達した現在では御伽噺だ。だが、彼らはかつて真面目にそれを論じ、真面目にそれを証明しようとしてきた。今でも彼らの一部は声高にそれを主張しているし、それに迎合する団体は数えきれない程に存在する。差別立法が成されようとも慣習は深く社会に食い込んで、容易にその根を腐らせはしないのだ。
だからこそ黒人の有名人はヒーローに祭り上げられ、その陰で職にもありつけない数多くの黒人を慰める立場を務めさせられるのだ。本人が望む、望まざるに関わらず祀り上げられる姿は贄だ。生贄以外の何者でもない。
生まれた時から優劣が決まっている世界で、這い上がるには二者択一。才能を持つ者はそのアピールを、持たざるものは暗黒の世界へと。犯罪に手を染める人間が後を断たないのは、その差別から生じる貧困が原因の大半だ。
そういった人間がごまんと住むのが七番街の特色だというのに。
「こんな場所で東洋人が一人で立っていては、襲ってくれと言っているようなものですよ」
迂闊にも程がある行動にシュウが嗜めるも、青年はただ笑ってみせただけで。
調子外れな態度に呆れて溜息を洩らす。
「夜空を見てたんだよ」言い訳のつもりらしいが、呑気な口振りだ。
「部屋からでも見れるでしょうに」
「あそこからじゃ見えないからさ」青年が指した先にはオリオンがある。「冬の代表的な星座だろ。こっちだとどんな風に見えるのか知りたかった」
「スモッグであまり良くは見えないでしょう。この辺りは環境が悪い」
「そうかな。日本も変わらないと思うけどな」
戻りますよ、とシュウは青年の肩を叩く。
タイミングの良さは偶然なのか、そういった細事は最早どうでもいい。稀にはこういった人間も存在するのだと自分を納得させるしか方法はないだろう。シュウは何かを考えるのも億劫な程に疲れていた。
「時間も時間ですしね」
物惜しげな表情に再度促がして、先にアパートメントに足を踏み入れる。「昼間、やっぱり寝ちまったんだよな」集合郵便箱を開ける背後で青年がドアを潜る。シュウは手元の郵便物を改めながらその愚痴を聞いた。
「ベランダに出て、外を眺めてたらそういや冬だったって思い出して」
「それで突然外に出たくなったと?」
今日の郵便物に重要なものはなさそうだ。シュウはそのまま踊り場を抜け、階段を上りながら、肩を並べるでもなく後をついてくる青年を振り返らずに訊ねる。
「ああ。何だか星空が見たくなった。星空っていうよりオリオンだけどな」
「何か思い出でもあるのですか」
「別に。オリオンに思い入れがあるみたいな奴がいてさ、それをふと思い出した。どんな想いでオリオンを見ていんだろうって――考えてみりゃ、俺、オリオンって星座は知ってても、それがどうしてオリオンなのか知らないんだよな」
「オリオンは――」シュウは躊躇う。
神話のオリオンは蛮勇だ。勇猛果敢な狩人の姿からは想像も付かない程の乱暴者で、その高慢な態度故に殺されてしまう。
それは果たして他人が口にしていいものなのか。青年の言った人物がシュウと同じように、あの姿に対して特別な思い入れを持っているのであれば、ここで語って聞かせるのは余計な世話でしかないだろう。
その人物に直接訊け、と言うのが容易く、最も筋が通っている。
さりとて一度口にした言葉を撤回するのも、このまま沈黙にかまけて黙殺するのも、何故か躊躇われる。どちらにしても青年はシュウの言葉をありのまま受け入れるに違いないだろうし、その味気ない態度に対してもとやかく言いはしないだろう。彼はどこか達観しきった節がある。物事に対する執着の薄さが、やけに淡白な性格と捉えさせるのだ。
だからこそ、退けない気持ちにもなる。
このまま沈黙を保てば終わる話――わかっているからこそ終わらせたくないのだとは、口が裂けても言えはしない。どれだけ一方的な言い分で、勝手な物言いだろう。
他人ならば歓迎する状況が、青年相手だと焦りを生む。何がそこまで駆り立てるのか、私生活や本心を暴きたてようと隙を窺う他人と比べれば一目瞭然だ。親切を押し付けがましくがなりたてることもない。会話を無理に続けることも割り入ることもしない。彼はただ在って、ただ在るがままに生きている。
僅か三日ばかりでシュウはその性質を把握しつつあった。いや、シュウが把握しているというよりは、青年がシュウの性質を把握していると言った方が正しかったが。
「ギリシア神話では、オリオンはポセイドンの子供であり腕のある狩人として名を馳せています」
シュウは考えた末に口にした。
「じゃあ弓の名手なんだな。今でも空でどこかに向かって弓を撃っているのかもな」
「どうでしょうね。暴れているのかも知れません。手の付けられない乱暴者で、それが原因でガイアに蠍を仕向けられて殺されてしまうのですから」
「サソリで?」
「そう、だからこそ蠍座が天上に姿を現すとオリオンは消えてしまうのです」
「面白いな。暴れん坊にも弱点があるっていうのは親近感が湧く」
「それだけではありませんよ。他にもアルテミスがオリオンに惚れてしまったが故に殺されたという説もあります。だから月に一度、月はオリオンを潜り抜けてゆくのだと」
最上階のフロアに着いても距離は変わらない。青年はシュウの後ろを往き、シュウは振り返らぬまま努めて淡々と語る。
「けれども空に輝くオリオンは、勇猛果敢な姿に映ります。世界に排斥されて、それでも天上で弓を揮うその姿を見ていると、冬の星座の代名詞が何故オリオンに与えられたのか解るような気がしますね」そのポケットから鍵を取り出しながら言えば、「そうだな」と頷く声。
玄関のドアを開けて、電気が点きっ放しの室内に入る。背後で鍵とチェーンをロックする音がする。いつものように寝室に入り、先ずは鞄を机の上に置き、郵便物を解き、不要な紙束を屑篭に投げ入れる。上着をクローゼットに納め、レポートの束を手にリビングに戻ってくれば、シュウの言葉を待つでもなく青年が夕食――というより既に夜食と化している食事をキッチンで温めている。
手伝うべきかと思いかけて、何をどうすべきかわからない自分に苦笑し、シュウはテーブルに着いた。早速レポートを読み込み、評価を書き加えてゆく。それを名簿に写して次のレポートへ……五人も処理した所で、目の前に皿が置かれた。
リゾットとサラダ、野菜に少量のベーコンを加えたスープ。作業の手を休めることなく口にしてみれば、どれも見目より薄い味付けだ。青年の嗜好なのだろうか、それとも……?
結局、考えてしまう自分に苦笑する。
考えまいと意固地になったところで湧き出る疑問を止められはしないのだ。
「そういえば」
既に食事を済ませてしまったに違いない青年は、何をするでもなくその様子を眺めている。
彼がふと思い出した風に口を開いたのを受けて、シュウは目を休めた。
「何かありましたか」問い返す。
「いや、今日妙な電話があってさ。取ってから気付いたんだけど、俺英語話せないのに何をしてるんだろうって思ってたら向こうが日本語で話してきて」
「領事館から……にしては早いですね」
「ああ、そう思ったから何をどうしていいのかわからなかったんだけど、いきなり『君はそこの住人か』って聞かれて、『違う』って言ったら『同居人か』って」
嫌な予感にシュウは眉を潜めた。
今朝のダリアのあの態度! やたらと青年の存在に拘りをみせる彼に不審を抱いていたものの、こうも早く反応があるとは思ってもいなかった。
その電話はダリアではないだろう。彼は日本語が話せない。
では他に誰がいるかと訊かれれば、答えはひとつ。
「何と答えたのです」
「面白くないから『期限付きのハウスキーパーだ』って言ってやったら笑ってたよ」
「それで――何か伝言でも」
「『家主に伝言してくれ。いつもの場所で』って何日だったけな……えーと、メモがここに」
青年が電話脇のメモを差し出す。
受け取るまでもなく、その電話の主がシュウにはわかっていた。不在時を狙ってわざわざ連絡を入れてくるなど、つまらない趣向だ。ダリアが早速と報告したに違いない。今となっては迂闊に話をしたことが悔やまれる。
ちょっとした茶目っ気だとあの男はしらと言ってのけるだろう。シュウが切り出すよりも先に。
それが例えようもなく煩わしい。
「どうも」
日付を確認すると国内学会の次の日だ。
「ちょっと歳の行った感じの声の男だったけど、結局最後まで名乗らずじまいだったな。聞いても『それで伝わるから』でかわされたし……知り合い、だったか?」
「ええ、一応は。ですが今度からは電話に出る時は気を付けた方がいいですよ」
後で破って捨てようと、メモをポケットに仕舞い、シュウは再度レポートに目を落とす。
片手でこうして何かをしながら食事を摂るのも習慣付いてしまった、が、気を削がれた感は否めなく。それでも仕事と読み進めてはみたものの、読んだ端から内容が抜け落ちてしまうのでは話にならない。諦めて食事に専念する。
自分の動向を逐一監視されて穏やかでいられる人間がいるだろうか。
他人を厭い、一定の距離を保つシュウの性質を知っているからこそ、ダリアは『ちょっとした変事』をあの男に報告したのだろう。そしてそれをあの男は『面白い』と感じたに違いない。
そういった些細な好奇心さえも煩わしいのだと知ってか知らずか、彼らはそうしてシュウを挑発する。他人に対する好奇心など最も下世話な関心だろうに、それを大事とばかりに騒ぎ立てる品性の卑しさときたら、どれだけ対外的に立派な肩書きを有していようとも敬うに値しない。百歩譲って私生活の把握が援助者の務めだとしても、物には限度がある。直接シュウに訊ねれば済む話を何故、こうも回りくどい手段を取って確認せねばならないのか。
意図が読めない行動を好奇心以外の理由で説明出来るのならして欲しい。
だからこその嫌悪、だからこその忌避。
湧き上がる感情を面に出さずにいられるのか……シュウが俯き加減で食事をする傍ら、、
「でも取らない訳にも行かないしな。領事館からいつ連絡が入るかもわからないし」
その不穏当な雰囲気を打ち消すように、青年は自然と話を繋いだ。
「英語で語りかけられたら『What?』と返せばいいのですよ。『I’m Japanese. I can’t speak English.』で後は日本語で話せばいいだけの話でしょう。私の知り合いならば、昼間に電話をかけてくるような真似はしませんよ。尤も、今回はイレギュラーなケースでしたが」
「それが通じればいいんだけどなあ。俺の英語は相当ブロークンみたいだし」
そうして思い出した風にクリーニングショップの受け取り票と数枚のコインを差し出してくる。
「何言ってるかわからないから、全部『Yes.』で返したけど、それでも『What?』だぜ。最後には普通に受け取り票出してくれたけど」
「それは会話が噛み合ってないからという可能性もありますが」
「だったらいいけどな。ストアショップみたいに会計だけやってくれればいいんだって――あ、服着れそうなの借りたけど良かったか?」
袖の余りきったセーターに着古したジーンズと、多少服装が変わった青年にシュウが違和感を感じなかったのは、昨日の上着の所為だ。既に袖を折っているのが当然といったいでたちに、「構いませんよ」とシュウは笑う。
大分、気分も落ち着いてきていた。
馬が合うというのとはまた違うのだろうが、青年はどこかしらシュウを和ませる気質を持っている。使い方さえ間違わなければ最良の薬として働いてくれるだろう。
それは同時に脅威でもあったが――本来、毒は薬となり薬は毒となるものだ。
人生は数多の事象で成り立っている。この生活はやがて終わりゆく事象のひとつでしかなく、これから積み重ねられる事象に埋もれてゆくだろう。そう思えば、限りある月日の脅威がどれだけのものか。
etiam, sic. threat in angustus vicis est non vix procul totus!
下らない好奇心を剥き出しにする輩に比べれば、青年の引き起こす偶然など厄介の数にも入らない。
「そういえば――」
それは何気なく思い浮かんだ問いだった。
国内学会で三日は留守にするのは確定している。その間に領事館で進展がないとも限らない。こちらからの連絡はともかく、青年からの連絡は例文を書き残して置くとしても、それを知らなければ連絡の取りようがない。行きずりの他人であっても、その位は知っておかなければならない最低限の。
「まだ名前も聞いていませんでしたね」
「ああ、そういやそうだったよな。どうせ二人だし、俺は直に出て行くから特に必要ないと思ってたけど」
「私が留守の間に進展があったら知らせて頂かないと困りますから。鍵の始末などの関係もありますし」
「食事や掃除に洗濯も、な」冗談めかして青年が言う。
「そうですね」シュウは笑う。
それも確かに今の生活では重要な問題に違いない。楽を出来る生活はその瞬間に終わるのだ。
「それで、あなたの名前は」
青年は突如として真顔になると、それを口にした。
「――シュウ」
何をどう答えるべきかシュウは迷う。
それは一瞬の戸惑いだったが、遥かに長い沈黙を訪れさせた。
厄介の数にも入らぬと思った矢先にこの有様だ。シュウは青年が生活を掻き乱す存在であるのを改めて意識する。油断ならない存在だ。ダリアやあの男のようにシュウの『場』を脅かすのではなく、『根幹』を揺るがす。
いっそ問い詰めてしまえればいい。
しかしそれは、自意識を捨てろということだ。下らない意地を張っているように見えても、譲れない一線はある。相手に切り込むのと踏み込むのは同義ではないだろうか? 不条理を正すにしても、相手の内側に入り込みかねない行動を迂闊に取ることは――出来ない。否、したくない。
自らが暴かれない為には、他人を暴かないのが前提だ。シュウはそう思っている。
「……それはまた奇妙な」
そうしてシュウはその動揺を悟られまいと、普通の人間が取るべき態度を装う。偶然もあるものですね――と継ごうとしたところで青年が言葉を被せてくる。、
「嘘だよ。知り合いの名前さ。何となくお前に似てるから言ってみたくなった」
「そのお知り合いの方に同情しますよ」
「どういう意味だよ、それ。ハウスキーパーとしちゃ上等だろ」
笑う青年の表情はまるで意図的に行なった悪戯とは見えぬ程に無邪気だ。
「そういった悪戯を真顔で出来るだけでも驚嘆ものです。同時に、その方に会ってみたいとも思いましたが」
「距離的に遠すぎるよな」
「そのような時間的余裕もありませんしね。それで、あなたの本当の名前は」
「名前なんて個人を識別する記号だろ。何でもいい気がするけどなあ。ポチとかタマとかピーとか」
「それは人間の名前としてどうでしょう」
巫山戯ているのか本気なのか、いまいち明瞭りとしない青年の台詞に顔を顰めてしまうのは、それなりにシュウにも常識が備わっているからなのか。
「あなたが私に伝言を残すのに、『ポチ様からです』とフロントから言われるのは――とてつもなく遣り切れない上に、滑稽極まりない光景だと思うのですが」
「お前が最初に言ったじゃないか。ペットを飼っている気分で過ごすって」
「揚げ足ばかりを取りますね」シュウは苦笑する。
アパートメントの郵便受けには名前を示すものがない。そこには何号室とだけ表示された薄汚れたプラスティックの表札が嵌め込まれているだけだ。玄関ドアにしても、ネームプレートを入れるべき場所は空白のまま。シュウは出来る限り自分の存在を主張しないように努めてきた。
それは最低限の自衛で、最低限の反抗でもある。誰が尋ねてくる宛てのない部屋だが、突然の来訪がないとは言い切れないのだ。入り組んだブロックの番地を把握するのが難しくとも、表札が出ていれば行き当たることもある。大学に登録された連絡先を頼りに詮索好きな輩が来ない保障はどこにもない。この場所を選んだのは人付き合いを避ける為でもあるのだ。
青年がシュウの名前を知る手段があるとすれば、郵便物ぐらいだ。それならば納得もゆく――青年のちょっとした茶目っ気に目くじら立てる自分も滑稽だと、出来るならシュウは笑い飛ばしたい。しかしならば何故、即座に真意を明かさないのだろう。何故、本名を明かさないのだろう。
そこがシュウには納得が行かない。
それとも最初に告げた名前こそが真実であるとでもいうのか。
どちらが悪戯であったとしてもシュウは今更驚きはしないが、もし同名だとすれば、その偶然はあまりにも不条理で不可解で――理不尽、過ぎる。
「ジョンとフレッドっていうのはどうだろう」
「何ですか、いきなり」
「お前と俺の名前さ。今日テレビを見てたら、そういう名前の二人組が司会をしているバラエティ番組みたいなのがやってたからさ」
「あなたはともかく、私の名前がそれでは通じる話も通じなくなりますよ」
冗談であって欲しいが、この青年の事だ。本気で言っているとも限らない。
シュウは万事笑顔な青年に合わせて微笑み絶やさず、さり気なく釘を刺す。
「何の為に名前を聞いているのか思い出して下さい。私の不在時に連絡を取る必要性が生じた時の為ですよ。しかも英語がブロークンなあなたがジョンやフレッドと名乗るのは、いかにも偽名としか思われない気がしてならないのですが。偽名を名乗るにしてもアジア系の名前にした方が混乱も少なくて済むでしょう」
「ああ!」ようやく気付いたとばかりに青年が声を上げる。
「そうだった。俺、すっかりその話忘れてた」
惚けているのかいないのか、気まずそうに頭を掻く青年に、
「先に私の名前から言わせて頂きましょうか。その間にそれらしい偽名でも考えて下さい。但し、領事館からの電話を私が取らない保障もないとだけ付け加えさせて頂きますが」
「あんまりその可能性はなさそうだけどな。お前ひたすら忙しそうだし、領事館の窓口時間と合わないだろうし」
「そうでしょうかね。あなたの場合、特別事例として緊急措置が取られる可能性もありますから」
「まあ、いいや。偽名を使う意味もないし、ちょっとした冗談も済ませたし」青年は、先に言うと言ったシュウの言葉さえも忘れてしまったのか、そのまま続けて、「マサキ。俺の名前はマサキだよ。ファーストネームだけでいいよな」勝手に進めてしまう。
「こちらの文化ではファーストネームが個人を表すものですから、それで結構ですよ」
「お前の名前は?」
「本気で言っていますか? 先程私の言葉を遮った所為だとしても、想像が付いていておかしくないでしょうに」
気付いていて当然と思っていただけに、思いがけずシュウは語気を強めてしまう。
惚けているだけか。それとも本当に知らず、嘘を吐いてみせたかっただけなのか。何せ、パスポートを守らずTCを守るような性格だ。どれであってもおかしくはないだけでなく、どれであっても納得してしまいそうになる。
「……もしかして」
少し考えた後に青年は言った。
「シュウ――で、合ってるのか」
「その通りですよ。ですから奇妙な偶然もあるものだと私は口にしようとしたのですが」
「奇妙っていうより」肩を竦めて青年――マサキは言う。
「嫌な因縁だ」
「知り合いなのでしょう」
「それに慣れるのに時間がかかったんだよ。お陰でこうしてお前とも上手くやっていけてるみたいだけど、最初はやっぱり、な。自分と違う価値観を持っている人間と付き合うのは骨のいる作業だろ」
「でしょうね。私もあなたが理解出来ないですし」それとなく本音を洩らす。
「俺には少しだけわかる気がするけどな」
既に空になっている皿を手にマサキが立ち上がる。「紅茶、もう一杯飲むか?」問い掛けに、「そうですね」とシュウは答え、手慰みにレポートを捲る。
捲って戻す。
今まで目にしてきたどの人間とも違う性質、ましてや普通の物差しでも計れない突拍子のない発言に行動。マサキはシュウの常識の範囲外に存在している。だというのに、調子を狂わされるのならまだしも馴れ合いつつある。自分が一番どうかしているとシュウは思う。
それなのに――。
それなのに。
「それ程似てますか。私とその方は」
程なくしてキッチンから戻ってきたマサキが紅茶を差し出す。
買い込んでいたティーパックとは違った味わいは、マサキが調達してきた葉だろうか。
振り返れば味気のない生活だった。目的の為とはいえ、娯楽の全てを放棄してきた生活に一抹の寂寥感を覚えながらシュウはマサキを見る。
頬杖を付いて、自分を見詰める柔らかな眼差しを。
「似てるといえば似てるし、似てないといえば似てない」
「曖昧な返答ですね」
「年月は人を変えるって事さ。俺も変わったし、そいつも変わった。けれども根本的な部分はどうなんだろうって考えると、変わってないのかもしれない。そういう意味では似てる、のかもな」
「成程。そう言える程度には長い付き合いであると」
「そうだな――長い、付き合いだったな」
違和感を覚えて目を止めた。
遠い眼差しを、向けている。
始め、シュウは自分を眺めながらも何処か遠くに向けられている眼差しは、海を隔てた故郷への懐募かと思った。旧来の知人の話題が出れば思慕の念も強まるだろう。帰るにも帰れない状況に置かれている彼ならば、ふとした瞬間にそういった感情が湧き上がってもおかしくはないと。
けれども、そうではない。そうではないのだ。
『何か』が引っ掛かっている。
結局、それが何であるのかわからぬまま会話が途切れる。出会って日もなければ話題もない。マサキも自ら話を振る気配を見せず、これが区切りとシュウはレポートに目を落とした。今日の仕事を明日に持ち越してしまっては、先の予定にも差し障る。
しかし、この場を立ち去って机に向かう気にもなれず――その方が効率的であるのを認めながらも、シュウは留まることを選んだ。ありふれたレポートの山、どうかすると突拍子もないくらいに的外れな内容もある。論理の筋道が立っていればまだしも、聖書の教えを根拠にしていたりするものだから堪らない。敬虔なクリスチャンは、時に科学を置き去りに自論を展開するものだ。
斬新な驚きをもたらしてくれる知識は早々目にかかれないものなのだろう。地底と地上の差は、発想にも表れている。
慣れに慣れた作業は単調なルーチンワークですらなく、これならいっそ機械にでも任せた方がいいのではないかと思える程に、内容が虚ろなレポートをシュウは流し読みする。
マサキは何処を見ているのだろう。ペンを走らせる音だけが響くリビングで、その存在は空気だ。
確実に存在しながらも、その気配はあまりに稀薄。だのに一度行動を起こせば鮮烈に記憶に刻まれる。
不可思議な存在だ。
先の見える学問よりも、目先の不確定な存在の方がより面白味があるように思えてしまうのは、シュウが日常に疲れているから、が理由ではないだろう。
明確に、明瞭に、疑いようもなく確かに――そこに関心がある。
ようやく萌芽を覗かせた幾許かばかりの好奇心だったが、それでもそれは、シュウにとってひとつの革命だった。他人は他人。それ以上でもなく、それ以下でもない。Give and take. が当然のこの国であろうとなかろうと、シュウが他人に何かを求めるのはそれに見合った利益が得られる場合に限られている。興味? 関心? 好奇心? そんなものに何の価値があるだろう。世界は常に自己を中心に回り続けているのに。
自己に寄せられるそれらの感情を下らないと思うならば、他者に寄せるそれらの感情も下らないものであるのだ。
だからこその革命。『脅威』に対する興味。
この一見思慮浅い青年のどこからそれが発されているのか。時折見せる鋭さからか、それとも雰囲気を読む術を心得ているからか、それとも謎多き行動の所為か。それがどこから来てどこへ向かうのか、シュウは知りたかった。
「――ついでですから聞いてもいいでしょうか」顔を上げずにシュウは問い掛ける。
それは純粋なる好奇心の成せる技。
「何を?」
革命の、一歩。
「あなたの年齢を」
「変なことを聞きたがるなあ」
その顔を見ずともマサキが笑っているのが感じられる。
呆れた風な、面白がっている風な、どちらとも取れる声だ。
「予想と合っているのか確認してみたくなりましたので」
「その予想が先に聞きたい」
「それは後程のお楽しみと言う事で」
「勿体つけるな」
シュウが笑っているのに気付いたのだろう。マサキは少しばかりむくれた表情で身を乗り出し、シュウの顔を覗き込んだ。
「23、4歳と思いましたが」
「近いけどハズレだな」満足気に椅子に体を戻し、「27だよ」
「また嘘を吐いているのではないでしょうね」
思いつきの悪巫山戯を重ねられては堪ったものではない。シュウは自然非難めいた口調になる。もしかするとその年齢は、件の『似ている知人』のものであるかも知れないのだ。
「もう嘘を吐いてもしょうがないだろ」
マサキは、笑っている。
「先程の件もありますし」
「疑り深いな、俺も悪いんだけどさ」
笑いながら肩を竦めている。
縁に白目が浮かぶ三白眼が左程きつい印象を与えないのは、瞳の大きさとバランスの所為なのだろう。野性的と言えば野性的、粗暴と言えば粗暴、そう取れなくもない瞳が団子に目鼻――とは過剰であるが、面長に足りず、丸顔にも足りずといった顔立ちでは傑出している。
何よりも先ず、瞳。
瞳が先に目に入る顔立ちは、だからこそ童顔にも映ったのだけれども。
「正直、そこまで年上だとは思っていませんでした」
「だろうな。こっちで生活してると、東洋人ってやっぱり幼く見えるだろ」
「それを抜きにしても、ですよ」
そしてシュウは再びレポートに目を落とす。好奇心からくる探りの初手としてはこのぐらいで上出来だろう、と。あまり先を急いても、それはそれでマサキの心証を悪くもしかねない。
何故か、そう思った。
踏み込むタイミングが悪ければ、この手から逃げてしまいそうな印象が、何故か。
マサキには、どこか自己という存在を掴ませたくないと望んでいるような雰囲気が、この部屋に奇妙に馴染んでいるにも関わらずある。部屋に雪崩込んできて三日が経ち、こうしてリビングにいる間中顔を合わせているというのに、シュウを自らに慣れさせようとしている節は多々あれど、自らをシュウに慣れさせようとはしていない。それはいずれこの部屋を去るからだとシュウは思っていたし、それに対して関心を払ってこなかったからこそ気にはならないものだった。
だが、今となっては事情が違う。
マサキは自らの名前を口にするのを躊躇っていた。これだけは確実に言える。
偽名でも、よかったのだ。だのに何故、それさえも回避したがるような素振りを見せたのだろう。行きずりの他人にそこまで必要ないと本気で考えているのであれば、それで充分だったのに。それは所詮、連絡用のものであり、マサキが自ら口にしたように『個人を識別する記号』でしかないのだ。だのに。
「なあ――」
そうして考えを巡らせながら、シュウがレポートを片付けているとマサキが声をかけてくる。
「何でしょう」
「今日はこっちで作業するのか?」
「いえ、一段落したら向こうに行きますよ。これが終わってもまだやらなければならない事がありますし……眠い、ですか?」
「いや、昼間寝たしな。ただ俺が邪魔だったら向こうに行ってた方がいいのかなって思っただけさ」
「邪魔なら邪魔と言いますよ。テレビを見たければどうぞ」
それは半分が本心で、半分は嘘だった。
このレポートの束を採点して評価一覧を作成するには、寝室の机は書物に占拠され過ぎていて適さない。軽く見積もって一時間半ぐらいかかるだろう作業の為に、それらの重要な書物を片付けるのは面倒であったし、それにかける一分一秒の時間も惜しかった。
それに、その間だけでもシュウはマサキを『観察』していたかった。片手間に出来る仕事であるからこそ、それだけの余裕もある。
つまりは逆だ。
マサキがシュウを自分が存在している事に慣れさせるように、シュウはマサキに自分が存在している事を慣れさせたかった。
「テレビもいいんだけどさ……結局雰囲気なんだよな。俺、何を喋ってるのかわからないんだから、見れるとしてもオーバーアクションのバラエティとか子供向け番組とかそのぐらいしかなくってさ」
「その時間で英語の勉強でもしたらどうです。次にまたこの国へ来る時の為にも」
「次、か……」
それはさり気なくも寂しさを含ませた声音で、シュウは思わず顔を上げる。
マサキは次第に灯りが消えて暗さ増す、窓の外の夜景を眺めていた。微かな笑みを浮かべてはいたが、それはどちらかといえば自嘲に近い侘しい横顔だ。
それは景色を眺めているようで見ていない無機質な眼差しで、間近にいるシュウさえも忘却してしまったかの如く、マサキが呟く。
「――次はいつ、ここに来れるんだろうな」
※ ※ ※
それから三日は慌しく過ぎた。
前日までにはシカゴ入りし、現地のスタッフと打ち合わせをしなければならなく、シュウはその為の調整に雑務を優先的に片付けねばならなかった。
ただ研究だけに没頭していられるのであれば、安穏と学会を指折り数えて待っていられたが、そこが複数課程を平行して履修しているD1生の悲しさか。ダリアからは多少の文章訂正だけで、論述や構成そのものに対しては特に注意もなく。既にOHP用の資料は作成してあったが、論文の清書と学会参加者への配布用概要作成はかなりの手間だ。シュウは平時の研究や受け持ちの授業、その他の雑用の合間合間に暇を見付けてはそれられを進め、完成に漕ぎ付けたのは三日目の深夜。明け方近くになってからだった。
それでもシュウは研究室に泊り込む事をせず、律儀にアパートメントに帰り続けた。流石に朝、家を出る時間は一時間ばかり早くするようにはなったが。
マサキはどうやら時差ボケを治す気はないらしく、食事の時間は相変わらず合わないまま、シュウ一人が食事をする真向かいに腰掛けてそれを眺めているという奇妙な光景が日常的になってしまっていた。マサキへの好奇心に対する収穫は、取り立ててこれといったものもないまま――強いて言えば、彼の住居が東京にあるという事ぐらいで、会話の大半は他愛ない無駄話に終始していたし、実際、この時期のシュウにはそれだけの余裕がなかったのだから、無言の時間の方が多く、これでも上出来と自負出来る成果ではあった。
「よくまあ今まで一人で生活してこれたよな、お前」
クリーニングの引取りを頼んだ時、マサキは笑いながらそう言った。
今となっては、それまでどうやってこういった困難を乗り越えてきたのかシュウにも思い出せない。それは独りだったからからこその無頓着さだったのかも知れなかったが、空気に等しい存在が一人増えただけで認識や環境が変わるものであるのかとも考えると、それはやはり否定すべきだろう。ルームシェアをしている他の学生達はどういった生活を送っているのかシュウは知らなかったが、それと似たようなものであると思えばいい。互いにルールを定め、不可侵の領域を作る。それは一人暮らしの人間が稀に近所の人間と顔を合わせるのとそう変わらない。
シュウとマサキの空間もそれと同じだろう。
顔を合わせる時間は限られていて、言葉を交わす時間も少なく、コミュニケーションらしいコミュニケーションも取れていない。もしかすると、近所付き合いより互いを知らない可能性も高い。少なくともシュウは、隣の部屋の住人が何をしている人間であるかぐらいは把握していたし、顔を合わせれば挨拶をする。階段を共に上がる事になれば、世間話ぐらいは付き合う。それもまた、この世界での身の守り方であると学習したからこそ。
そういった距離の縮まらない関係の中で、一つだけ変わったことがある。
深夜遅くまでそういった処々諸々の雑事を片付けたり、論文の清書に追われたりしていたシュウの元に、折を見てマサキが飲み物なりを運んで来るようになったことだ。「ハウスキーパーもここまで親切なのでしょうかね」とシュウが問えば、「家政婦って場合によってはそこまでするんじゃないかな。特に住み込みだったりするとさ」と、至って真面目な答えが返ってきた。
何を期待していた訳ではなかったが、シュウはその台詞にまだ解けぬ謎の深さを実感させられたような気がした。近くに居るようで、遠い存在――そこに手が届くのはいつになるのだろうと思いながらも、時は無常に過ぎてゆく。
せめて、学会が終わってこの部屋に自分が戻ってくるまで、彼には居て欲しい。
いつになるかわからない別離れの日を思い、シュウは微かな望みを抱く。マサキに感じる「脅威」の意味が、それとは対極にある「慣れ」の意味が解けるまで、その存在を失いたくはないのだと。それは今後の自分の糧となり、同時に自己の弱点を克服する手段、なのだ。
そうして四日目の――マサキが来てから一週間目の朝が訪れる。
※ ※ ※
いつもと変わりない朝の光景だった。
やるべき事をやった後の束の間の平穏は、シカゴに到着すれば終わってしまうものだったが、僅かながらでも余裕があるとないとでは、こうも朝の時間が異なった印象を持つのだと――シュウはテーブルに着く。荷物を纏めたボストンバックを手に。
今日もハウスキーパーよろしく朝食を並べるマサキは、最近のシュウの忙殺ぶりに慣れてしまっているのか、特に話しかけるでもなく歌っている。
――tell me were you going……
掠れた声ながらもネイティブな発音で、それは口癖になっているのやも知れなかったが、そのままにしておくのも収まり悪く、耳に覚えた曲をシュウは答えに使う。
「――I am going Chicago.」
「字余りだぜ、それじゃあ」
笑うマサキに、そうですね、と微笑みを返して食事に手を付ける。
クルトン入りのオニオンコンソメスープ、バターロールにサラダ。生ハムで巻かれたアスパラとスクランブルエッグにミックスベジタブル。なるべく肉類を避け、野菜をメインにしようとしているのが良くわかる食事は今日も健在だ。
「シカゴに行くのか」
「ええ。言っていませんでしたか」
「留守にするとは言ってたけど、行き先までは聞いてないぜ。あんまり最近会話らしい会話してなかったしな」
「そうですね。これが終わればようやく一段落ですが、多少ばかり楽になるだけで忙しいのに変わりありませんが――少しはあなたと会話をする時間は増えるでしょう」
「どうだか」マサキが微笑む。
いつものように頬杖を付いてシュウを眺めたまま。
その当たり前と化した眼差しが、シュウには何故か新鮮に感じられる。それ程に余裕のない生活は周囲に対する関心を薄れさせてしまうものなのだ。例え、シュウがマサキに好奇心を抱いていたとしても。
「その間に領事館から連絡がくるかも知れないしな。このまま会えずに別れるのだけは後味悪いから勘弁して欲しい所だけれど」
「その可能性はない、とは言えませんね」
お役所仕事とはいうものの、領事館の仕事はあくまで在留邦人の保護だ。どれだけレアなケースであっても、型通りに済ましてしまう程に彼らは柔軟性を欠いてしまう「役人」ではないだろう。レアなケースだからこそ、最優先事項として処理している可能性の方が高い。
もしかしたら――それこそこれがマサキの顔の見納めになってしまうのかも知れない。そう考えると、それはそれで自分を悩ませる存在の消失と安堵する反面、このまま何も知らずに別離れを迎えてしまうのは後味が悪いと不安を覚える自分がいる。より強い感情は後者で、その比類なき自分の気紛れな好奇心の発露ぶりにシュウは苦笑する。
全ては偶然でいいものであろうに、何をそこまで拘泥するのかと。
「――手紙の遣り取りでもしてみましょうか」
何も考えずに口を吐いた言葉だった。
「何言ってんだよ、お前」マサキが一瞬呆けた表情を見せた。
かと思うと直後には微笑む。微笑んでそう言って、「今時文通ってのも流行らないぜ。それに、絶対途中で終わるに決まってる」それが当然の結末だとばかりに、挑戦的な物言いでシュウを見る。
その眼差しは微笑みに相応しく細められたまま。
「そうでしょうかね」
挑発されれば反発したくなる。
そこまで後を引く付き合いを望んでいないにも関わらず、思いがけず口を吐いた言葉は無意識に本心に近い心情を吐露していた。だから、なのやも知れない。シュウは自分でも持て余し気味な好奇心を満足させたかった。その為なら、その僅かな繋がりも必須とさえ思えてくるのだから、げに話の流れとは恐ろしい。
「お前はお前で忙しい。俺は俺で忙しい。根気良く手紙を続けられるような性分じゃないと思うけどな。特にお前は――」
「行きずりの他人にそこまでする性格ではないとでも」
「違うか?」
「違うかも知れませんよ」
シュウは手帳を取り出す。
「今や、私の生活はあなたなしでは成り立たなくなりつつある。その見事なハウスキーパーぶりは手放しで賞賛したいくらいです。Give and take. とはいえ、もしかすると借りは私の方が多いのかも知れません。シェアリングパートナーがあなたのような人間だったら喜んでシェアしますね」
「そりゃ妥協の産物だってあるだろうよ」
「他人と生活する以上はそれは必須でしょう。あなたにどう見えているか解りませんが、私も一応は妥協していますよ」
「まあ、それはなあ。妥協がなきゃ他人と生活なんてできやしないしな」
「物は試しの言葉もあります。あなたの住所を」
そこでマサキはシュウが何をする為に手帳を開いたのか意味を解したらしい。
珍しく眉を顰めると、「ちょっと待った」その手が手帳に伸び、ペンを走らせようと待構えるシュウの目の前で閉じる。
「俺がお前の不在の間にいなくなるって前提で話が進んでるじゃないか」
「そうなるかも知れないと言ったのはあなたでしょう」
「いやだからって、気が早い」
マサキは立ち上がるとメモ用紙を手に戻ってくる。
「それより先に、お前の連絡先を聞かないと。それから――その呼び出し方や言付けする時の英語も。その時でいいだろ、俺の住所を聞くのは」
「……その問題もありましたね」
果たして自称ブロークンな英語使いのマサキが、無事連絡を寄越す事が出来るのだろうか。そう考えただけでシュウは暗澹たる気分になる。
聞かされる話は英語が話せる話せないのレベルではないものばかりだ。
例えば電話。
教えられた通りマサキはかかってくる電話全てに「What?」で応酬したらしい。だがその「What?」はおろか「I can’t speak English.」さえ通じていない節がある。何を言おうと相手が「What?」ばかりを繰り返すので、頭にきてこちらから電話を切ったというのだから、既に会話の形を成していない。
クリーニングショップに荷物を引き取りに行かせた時もそうだった。
たかが引き受けに何をどうすればそうなるのか理解不能な「What?」の応酬。用紙を見せればいいだけだというのに、何故会話が発生するのか。マサキが言うには「Thank you.」と言って店を後にしようとしたらしいのだが、それがどうやら通じなかったようだ。通じないなら通じないでそのまま店を後にすればいいものを、向こうが「What?」の後に何か言葉を続けたものだから、妙な律儀さを併せ持つマサキは、それを聞かねばならない話と思い込んでしまったらしい。かくて不毛にも五分余り、両者はひたすら「What?」の応酬をしたのだとか。不毛の極みだ。
いっそテープレコーダーを用意して、必要な会話は録音しておき、それを電話越しに流させた方がいいのではないかとシュウは思うが、自分に連絡させるのにそれは流石に憚られる。体面的にも、性格的にも。
上手く話を逸らされた気がしなくもなかったが、シュウはマサキに言われるがまま宿泊先のホテルの電話番号と予想される遣り取りに対する英文を書き、数度それを発音させてみる。
そこまで問題のある発音には思えないが、やはりLとRの発音が怪しい。
しかしそれはまだ許容出来る範囲だ。人種の坩堝であるこの国なら、見た目がそのまま東洋人であるマサキのブロークンぶりは多少目を瞑って貰えるものであるのだが――。
「英語で話し掛けられるとパニックにでも陥っているのではありませんか」
「そうかな。そういうつもりはないんだけどな」
「私が聞く限り、そこまで問題があるようには思えないのですがね……苦手意識が染み付いてしまっているのかも知れないですよ」
少し唸って、考える素振りを見せたマサキは、
「まあ、頑張ってみるさ」肩を竦めて、「それより、時間いいのか?」
シュウの腕時計の針は八時十分を指している。そろそろリミットだ。
定刻通りにバスが来ないのも珍しくはない朝のラッシュアワーでは、余裕を持たねばどうなるか――エアポートには、遅くとも三十分前には着いていなければ、搭乗手続き等の煩雑な作業に時間を取られる。バスは遅れようとも飛行機は遅れないのだから、交通事情は不条理の塊だ。ボストンバックを手にシュウは立ち上がる。
「弁当はいらないんだよな」
念を押すようにマサキが聞きながら後を追って立ち上がる。
「ええ。向こうで教授と食べますので」
いつものようにシューズボックスから今日の靴を取り出して履き替える。それを後ろでマサキが見ているのも日常だ。「気を付けてな」と扉を開くシュウに声をかけるのも。
「あなたこそ、気を付けて」
その日、いつもと違ったのはシュウがそう返して扉を閉めたことだった。