Scene 3.ゼフォーラ姉妹の奇跡
全部で100人余りとなった観客がステージ正面にひしめきあっているホールの中で、マサキは前列から三列目にファングやザッシュとともに並んで座っていた。
「思ったよりいい席を確保出来たな」
「ステージには近いですが、首は疲れそうですね」
「贅沢を云うな。これも任務の一環だ」
坂を描くように前方に向かって下ってゆく座席の配置では、前列に近くなればなった分だけ、顔を上げてステージを見なければならなくなる。だからだろう。ステージを見下ろす形になる中ほどの席の埋まりは良かったが、それ以外の席の埋まりはまばらだ。
マサキは後ろを振り返った。
中ほどの席より後方、正面から少し左側に外れた席にシュウが座っている。流石にホールの中に入ってまで本を読む気はないようだ。さりとて、ただ待っているだけでもないらしい。マサキの視線を受けて不敵に笑んでみせたシュウに、気付いたのかよ。と、マサキが口だけ動かして伝えれば、微かに頷いてみせた。
あの位置からであればステージは勿論のこと、観客席も見渡せるだろう。
恐らくは、ステージに目を遣った際にマサキたちの姿が目に入ったに違いない。余裕たっぷりに開演を待つシュウの辺りを憚らぬ態度に、相変わらずだとマサキは苦笑しつつ顔を戻した。偶然とはいえこうして同じ場に居合わせることとなったからには、マサキとしてはシュウに話を聞きたくもあったが、今回の一連の事件を自分の問題と云って譲らぬシュウのことだ。果たしてどこまでの情報をマサキたちに流してくれたものか。
そもそもセニアに連絡をすると云っていた割には、シュウはゼフォーラ姉妹の情報さえもセニアに伝えていない。仮に彼らの間で連携が取れていたのであれば、ファングの情報を待つまでもなく、セニアはマサキたちを動かしていただろうに……やったことといえば、預言書を見せただけ。クリティカルな情報をマサキたちに渡すのを避けているようにも映るシュウの行動は、依存心の薄い彼にとってはいつものことでもあったが、現実に預言に即するように被害が出ている以上、このまま放置しておけるものでもなく。
情報を入手出来るかはさておき、スタンドプレーに関してはひと言云っておくべきだろう。
マサキは開演迫るステージに視線を向けた。見ればわかるとファングは云っていたが、果たしてゼフォーラ姉妹の能力とはどういったものであるのだろう? 先程、目の前で起こったばかりの男の自殺というべき死について考えを巡らせる。あの状況下で名前が出てくるぐらいであるのだ。奇跡の双子の二つ名は伊達ではないのだろう。
胸が騒ぐ。マサキにシュウと揃うべき人間が顔を揃えたホール。そこに預言に関わるとみられる幼い姉妹が加わるのだ。彼女らが教団の人間であるかはわからないが、預言への関りが真実であるのだとしたら、このまま何も起こらずに済むとは考え難い――マサキは自らが感じてしまった不安を宥めるように、左手の小指に嵌まっている指輪を撫でた。
――私はそうなったときに、様々な外的要因や内的要因に抵抗しきれる自信がない。
クリスマスの夜にマサキにこの指輪を渡してきたシュウは、そう語りながらマサキに約束をするように迫った。
自分に何かあった際にはマサキに引導を渡すようにと。
太々しいまでの自信家である彼が、日常生活の範囲で簡単に窮地に陥るとは到底考えられない。特異点を愛機に抱え込んだこともある男の予測だ。きっとそれなりの事態を想定していることだろう。
自ら口にしたその要因の数々が何であるかについてシュウは語らなかったが、マサキにはそれが彼の心を今以て拘束しているサーヴァ=ヴォルクルス、或いはそれを神として祀っている邪神教団であるように思えてならなかった。
――私はあなたより先に逝く。どんな形であろうとも、先に。
そう思っているのなら、何故。マサキは思う。何故、シュウは先を急ぐように、教団に関わり続けるのか。決着を付けたい気持ちはわかる。裏切り者を許さない教団によって命を狙われる日々。彼が自らの決して長くない人生を実りあるものとする為には、教団の殲滅が必要不可欠だ。
けれどもそれを彼はいつもの如く、自らの力で成そうとしている。
それほどまでに、彼にとって魔装機操者というものは頼りない存在であるのだろうか? それとも、それほどまでに、彼は自分の能力に自信を持っているのだろうか? 少なくはない修羅場をシュウとともにしてきたつもりでいるマサキは、だからこそ年月を経て尚変わることのない彼の意固地なまでの孤立主義に焦れったさを感じてしまってしまっていた。
「光あるところに闇あり。闇あるところに光あり。幸いあれ! ――か」
「何です、マサキさん。突然妙な呪文みたいな言葉を唱え出して」
「どういう意味なのかって考えてたんだよ」
何を思い、何を考えて、シュウはこの文言をマサキに与えた指輪に彫り込もうと思ったのか。ある種の救済を約束という形でマサキに求めた男のしたことだ。思い付きで彫り込まれたものにせよ、意味があるに違いない。
なあ、ザッシュ。こういった時には他人の知恵を借りるに限ると、マサキはザッシュにに話しかけた。ウエンディに調査を頼みにくい品である以上、関わりの薄い仲間に尋ねるぐらいしか手立てがない。なんです――とザッシュが怪訝そうな表情でマサキを見た瞬間、開演のブザーがホールに鳴り響く。
はっとなったマサキは居住まいを正した。今はセニアに与えられた任務という名の好機をものにすることに集中せねば。
一瞬にして静まり返ったホールの、どこか張り詰めた空気。観客の視線がステージに集する。
「お待たせいたしました! ゼフォーラ=シーシャ&ミーシャの奇跡のステージの開幕です!」
誰も彼もが奇跡の双子の登場を待ち望む中、ステージ中央に進み出て来た進行役と思しき男が、声も高らかに宣言した。それと同時にステージ両脇のスピーカーから流れ出るポップなBGM。調子のいいリズムに合わせて、手拍子を求められた観客が、オーバーアクションで手を打つ男の動きに合わせて手を叩き始めた。
仕方なしにマサキも手を叩く。
やがて全ての手拍子の音が重なり合い、強く光を放つスポットライトが、煌々とステージを照らし出した。シーシャ、ミーシャ! 観客の歓声がステージに波となって押し寄せる。高まる期待。それが最高潮に達した瞬間、ステージ中央のせりから、ついにふたりの少女が姿を現した。
ほっそりとした小柄な容姿。太陽の光を受けて輝く空色のロングヘア―が、吹き抜ける風にそよいでいる。清楚な白い揃いのワンピースに身を包んだ少女たちは、胸を張って堂々と、進行役の男と入れ違うようにしてステージの前方に歩み出てくると、十一歳とは思えぬ優美な笑顔を浮かべながら無言でステージ袖を指差した。
いよいよだ。しんと静まり返ったホールに、マサキは彼女らが指差した先を見守った。
直後、ステージの右袖から、ガラガラとタイヤの音を響かせながら大型の檻が運ばれてくる。ステージ中央よりやや右手側で動きを止めた檻の中では、何とも形容し難い一匹の獣が低い唸り声を上げていた。
ライオンを思わせる黄金色のたてがみに大きく裂けた口。背中にラクダのような瘤と鷹にのような翼がある。額には山羊を彷彿とさせる角が二本。幾つかの生物を掛け合わせたような猛獣は、大勢の好奇の視線に晒されたことで興奮したのだろう。鋭い牙を剥きながら観客席に向かって吠え猛った。
次いで左袖より運ばれてくる一台のベッド。どちらがシーシャでどちらがミーシャなのかマサキにはわからなかったが、よく似た面差しのふたりの内、僅かに身長が高い方がベッドに横たわった。次いで、残った少女が檻を支えているスタッフに、その扉を開くようにジェスチャーで伝える。
――何が始まるんだ。
マサキは隣に座っているザッシュを見た。これまでも同様の演目が行われてきた実績がある以上、不測の事態が起こる可能性は限りなく低くはあったが、だからといって万が一の事態が起こらないとは云い切れない。観客席に被害が及ぶのだけは避けなければ。そのマサキの考えはザッシュに伝わったようだ。彼は小さく頷くと、腰に下がっている剣に手を掛けた。
次の瞬間、スタッフが檻の扉を開く!
同時に轟く猛々しい獣の咆哮。それまで見世物にされていたフラストレーションが、キメラ型の猛獣をより獰猛にしたのだろう。猛獣は勢い良く檻の外へと飛び出してくると、少女を獲物と定めて飛びかかった。
騒然となる観客席。あちこちから悲鳴が上がる。
まさか――マサキは剣を掴んで腰を浮かせた。そして、1秒……2秒……3秒と事態が動くのを待った。だが、起こるべき事態は起こらなかった。少女を目前にしてぴたりと動きを止めた猛獣は、観念した様子で前足を床に付けた。
少女の小さな手がたてがみに触れる。それが合図だった。猛獣はごろりとステージに仰向けに転がると盛大に喉を鳴らした。甘えた声を上げながら、少女の抱擁を受けている猛獣は、すっかり気を許しているように映る。
何が起こったのか。人が変わったかのような猛獣の変化は、マサキの視線をステージに釘付けにした。
「これがゼフォーラ姉妹が起こす奇跡だ」
ファングが静かに言葉を吐いた。
「嘘か真かはわからんが、彼女らは自らの魂を他の生き物に宿すことが出来るらしい」
成程と、ザッシュが頷く。だから、セニア様は――続く彼の言葉はマサキの耳には入ってこなかった。
――中に何かいる。
王宮武器庫に火を放ったふたりの兵士、アドロスとセオドア。その片割れのアドロスは、意識を取り戻した僅かな時間にそう言葉を遺した。
――助けてくれ。
ビルに立て籠もった男はそう叫び声を上げながら、窓の外へと身を躍らせて行った。
いずれのケースも自らの意思では制御出来ない奇禍に見舞われているという点で一致しているだろう。まさか。マサキは首を振った。死んだ人間でさえも生き返るラ・ギアス世界で起こり得ないことはないとは云えど、それは魔術や呪術、或いは練金学といったシステムが確立されているからこその奇跡でもある。
勿論、確立されたシステムだからといって無尽蔵に使えるものではない。調和の結界然り、ヴォルクルスの召喚然りと、オカルティズムの実現化にはそれ相応の代償が必要だ。リスクを負ってまで万能性を求めるのか? それとも自然の為すがままに生きるか? ……ラ・ギアス世界の秩序は、リスクを持たない万能性を認めないことで成り立っているのだ。
ノータイム、ノーリスク。自らの魂を対象を選んで憑依させられる上に、その対象を自在に操れるなどといった奇跡は、何処の世界であろうとも混沌を生み出すものでしかない。あってはならない類のオカルティズム。如何に地上世界と異なる常識が蔓延るラ・ギアス世界といえども、受け入れられない事象はあるのだ。だからこそセニアは、マサキたちにゼフォーラ姉妹の真実を見極めるようにと云った。それは彼女自身、ゼフォーラ姉妹の奇跡が真のオカルティズムであることを認めているからに他ならない。
「良く訓練された獣って可能性はないのかよ」マサキは座席に腰を戻した。
「さあな。それはショーの続きを見て判断するんだな」
たかだかショー程度に心を乱してしまった。口の端を吊り上げて、揶揄い気味に言葉を吐くファングに、随分な自信じゃねえか――マサキは気まずさを誤魔化すように言葉を継いで、ステージに視線を戻した。それまでステージ上で戯れていたらしい。空色の髪を持つ少女と黄金のたてがみを持つ猛獣は、その瞬間、まるでマサキが視線を戻すのを待っていたかのように、ステージの中央に並んでみせた――……。
※ ※ ※
圧巻というよりは、狐につままれたようなショーだった。
ステージの中央に猛獣と並んでみせた少女は、スタッフが用意した八組の0から9までの数字が書かれたカードを手に、猛獣とともに客席を回った。そして8つの数字をそれぞれ観客に選ばせると、スタッフに命じて4桁の数字を二組作った。
その中の一枚は、マサキが選んだカードでもあった。
8389と6217が一組目。6831と2879が二組目。マサキが選んだ数字は7だ。それらの二組の数字を使って彼女がしたことは単純明快、足し算と引き算だった。
ただ、解いたのは件の猛獣であったが。
禍々しいフォルムとは裏腹に、繊細にもマジックを口に咥えて、答えをホワイトボードに書き付けてみせた猛獣に、マサキは感心するよりも呆けるしかなかった。そうした芸を可能にしているのが憑依であるとファングに聞かされてはいたものの、認め難い思いが勝る。そう、それは良く出来たマジックショーを見ているような感覚だった。どこかにトリックが使われているに違いない――ラ・ギアス世界の非常識に慣れたつもりでいたマサキではあったが、まだまだ地上世界の常識を全て捨て去るには至れていないのだろう。自分の中にある固定観念の強さを思い知ったマサキは、目の前で起こっている非常識な事態を素直に受け入れているファングとザッシュ、ふたりの純粋な地底人を羨ましくも感じたものだ。
猛獣がホワイトボードに書いた答えは、全て正しかった。
もしかすると、キメラ型の猛獣は良く出来た着ぐるみなのではないだろうか? ホールを出たマサキの脳に今更ながらに邪推が過ぎるも、カードを選ぶ際にそれなりの距離にまで接近している。生臭さの混じった生きた獣の臭い。マサキの目の前に顔を突き出してきたあの猛獣は、人工物では決して出せない匂いを漂わせていた。
「如何でしたか、マサキ」
ホールの後方の観客席に陣取っていた男は、どうやら先に席を立ってマサキたちの訪れを待っていたようだ。かけられた声に顔を上げたマサキは、石壁に凭れるようにして立っているシュウに、
「狐につままれた気分だ」
「これが現実ですよ」
マサキの素直な感想が可笑しかったのか。小さく笑ったシュウは、そのままマサキたちに肩を並べてくる。
「私に用があるのでしょう」
「そう思うんだったらセニアと連携を取れよ。どうしてお前とここで顔を合わせることになるんだ」
「それも含めて話をしましょうと云っているのですよ」
このまま情報交換といくつもりらしい。マサキの言葉を強弁で遣り過ごして、手近な飲食施設に足を向けたシュウに、相変わらずだな。と、ファングが呆れた調子で呟く。いつものことですよ。こちらも呆れてはいるようだ。ザッシュもまた呟く。
「シュウ、お前。本当に――」
身勝手なこと他ないシュウの態度に、マサキは反射的に言葉を返そうと口を開いたが、だからといってここで云い争っても事態は進展しない。マサキは云いたい言葉を飲み込んで、シュウの背中を追った。それに気付いているのかいないのか。シュウは冷然とマサキたちを振り返ると、
「ほら、行きますよ。ゆっくりしていては次の被害が出かねない」
云って、施設の中に足を踏み入れて行った。
Ⅰ-Ⅲ
東に黒き果実が、その実を口にした者に祝福を与えし時
人目を憚る話であるのは承知しているようだ。屋内ではなくテラス席を選んだシュウは、席に着いたマサキたちを目の前にして、既に大半を記憶ているらしい預言の一節を諳んじてみせた。
「預言書の第一篇第三節に記されていた預言ですね」
「そうですよ、ザシュフォード=ザン=ヴァルファレビア。あなた方が成就を食い止められなかった第三の預言ですよ」
「何だって?」マサキは声を上げた。「成就しただって?」
「あなたは東部に調査に赴いたのでしょう、マサキ」
テュッティと調査に及んだラングラン東部。まだまだ未開の地の色も濃い集落の数々では、練金学の叡智たる翻訳機能が正しく機能していたからか。訛りも強く聞こえてくる彼ら住人たちの言葉に、マサキとテュッティは先ず意思の疎通を図るのに苦労させられたものだった。
「まあな。でも、黒き果実って云ってもな。それらしいものは何も」
「破壊神サーヴァ=ヴォルクルスが与える祝福とは何か? と考えてみれば、自ずとその答えは見付かったのですがね」
テーブルに届けられた飲み物に手が伸びる。どこか冷ややかにも映る表情で、カップを弄びながらシュウが口にした指摘に、マサキの脳裏で光が弾けた。あ。と、隣で声が洩れる。ザッシュもまたそのひと言で自分たちの考えの根本的な間違いに気付いたようだ。
「おい、それってまさか……」
「どういうことだ。マサキ」
ひとり、合点がいかないのだろう。答えを尋ねてくるファングを片手で遮って、マサキは脳裏を過ぎった恐ろしい考えを反芻した。
神とは何であるだろうか?
ある者にとっては世界の創造者だろうし、ある者にとっては超越者だろう。ある者にとっては守護者でもあるだろうし、またある者にとっては庇護者でもあるだろう。十人揃えば十人十色。そこには様々な神のイメージがあるに違いなかったが、そのイメージを支えているのが神話世界であるのは想像に難くない。
神話とは創世の物語でもある。そして限りなく続く神から恵みの物語でもある。
彼らがそこで人間に与えた祝福は、総じて限りない幸福を約束するものであった。健康然り、知恵然り、繁栄然り……生きとし生けとせるものに惜しみない愛情を注ぐ存在として、これ以上の慈愛は望めないだろう。だからこそ、そうした神のイメージを裏切ったサーヴァ=ヴォルクルスを、マサキたち魔装機操者は人間世界から放逐すべき存在として認識したのだ。
シュウが持ち込んだ預言書は、そのサーヴァ=ヴォルクルス復活の書である。
――そもそもの在り方が違う。
唐突に襲ってきた喉の渇きを癒すべく、マサキは手にしたカップの中身を飲み干した。そして、破壊神と口の中で呟いた。
破壊神サーヴァ=ヴォルクルス、恐怖と混沌を好む神。マサキたちが相手にしているのは、神話に描かれているような概念上の神ではない。サーヴァ=ヴォルクルスは先史時代にラ・ギアスに存在していた巨人族がひとり。
そう、彼は世界を創ってなどいない。
神話が創世の物語であるのならば、ラ・ギアスに実存する神々は、世界に終末を呼び込む物語の紡ぎ手であるのだろう。破壊神が破壊神と呼ばれるからにはそれ相応の理由がある。サーヴァ=ヴォルクルス。彼は顕現したが最後、世界に徹底した破壊を齎す。それだけではない。その瞬間に渦巻く人間の恐怖の感情を吸収しては、更なる成長を遂げていく。神、などと呼ぶのも悍ましい思念体。彼の在り方は、地上の概念上の生命体に例えるのであれば、The Devilに等しい。
「神に仕える者にとって、死とは一種の救済でしょう」
マサキの向かいで静かに佇んでいるシュウは、破壊神サーヴァ=ヴォルクルスを信奉する人々が作り出した巨大な組織に身を置き、その思想からなる悍ましき教義の数々を実践してきた人間だ。そして、その末に死を経験し、その上で涅槃を間近にして引き返してきた人間でもある。
だからこそ、その言葉には重みがあった。
神に殉じさせられた、悲劇の大公子。決して本意ではない人生を送らされてきたシュウの過去。マサキたちはそれを知っているからこそ、その言葉に口を挟めぬまま。ただ彼が淡々と語り続ける言葉に耳を傾けるのみだ。
「苦難に満ちた現世よりの旅立ち。そして、神の御許に迎え入れられる為の通過儀礼。それこそが死であると説く人間もいるほどです。尤も、その死が安らかなものであるかは、神のみぞ知るといったところでしょうが」
凄味を感じさせるまでに穏やかな声のトーン。座がしんと静まり返った。
シュウは気分が昂れば昂っただけ、冷静であろうと努めようとする人間だ。その態度はまさに理性至上主義者たるラ・ギアス人に相応しい。だが、彼は地上人とのミックスドレースだからか。純粋なラ・ギアス人とは異なり、理性で感情に完全なる蓋をしてみせるまでには至れていないようだ。
「死、こそが祝福だって云いたいのか」
彼から滲み出ている感情が何であるのか――マサキにはわからない。
ただ凄まじく、ただ怖ろしい。
「苦しみ抜いた果てにある絶望的な死。これに勝る祝福もないでしょう」
彼からその話を聞かされる度、マサキは考えてきた。かつて自分が居た教団という場所、そこにどういった感情をシュウが抱いているのかを。
――それは後悔だろうか? それとも執念だろうか? いや、もっと単純な……
マサキは目を見開いた。そう、それは純粋な怒り。それもただの怒りではない。気高くも物悲しい。無実の咎に悶え苦しむ罪人の尽きることのない憤怒。彼は理不尽に定められた己の人生に怒っている。
敬虔な精霊信仰の徒である彼にとって、邪神を祀る教団にひとときとはいえ身を置いてしまった事実は、心に重く圧し掛かっていることだろう。他人の感情に鈍感なマサキをして、そう思わせるシュウの静かな語り口。彼は明白に破壊神サーヴァ=ヴォルクルスに敵愾心を抱いている。
だが、それも束の間のこと。次いでカップに視線を落としたシュウは、その中に映っている自らの表情を見たのではないだろうか。ふっと表情を和らげると、マサキたちの顔を順繰りに見遣りながら言葉を継いだ。
「そういった観点で探せば黒き実の正体にも辿り着けた筈ですよ。ラングラン東部の特産品でもあるパタの実。これは熟れ頃に食す分には何ら問題のない果実ですが、腐りかけの黒ずんだ実を食べると幻覚作用が起こります。発酵で毒性が生じるらしく、ひと口程度なら問題はありませんが、半分も口にすると死に至るようです。その特性から、かつては儀式に用いられていたこともあったとか。それを知っている東部の民は絶対に口にしない果実ですがね」
「その実を食べて死んだヤツが出たって?」
「残念ながら腐りかけのパタの実はとてつもなく美味らしく、食通の間では幻の果物として有名なのだそうですよ。それもあって年に何人かは病院送りになっているのだとか」
シュウの説明で合点がいったようだ。マサキの隣で深く溜息を吐いたファングが、ややあって絞り出すように言葉を吐く。
「……巫山戯た話だ」
「その巫山戯た話で死人が出たのが二週間ほど前の話ですよ。食通を気取った一行がグルメツアーと洒落込んだ結果、八人が命を落としてしまった。食通が食で命を落とすなど、笑えない冗談ですね」
微笑みながら言葉を紡ぐシュウに対して、ファングの表情は険しい。当たり前だ。マサキは唸った。祝福=死であるのであれば、あの預言書は人類にとっては殺人予告状にも等しい。それもただの殺人予告ではない。死に方まで指定された予告状であるのだ。
預言書の詩編の数は千四百四篇。ひとつの預言で最低一人が死ぬとしても、千四百四人が悍ましくもサーヴァ=ヴォルクルスへの贄として命を落とす計算になる。
とんでもないものを書き遺してくれやがって――マサキは舌を打ち鳴らした。王都に潜み、表向きはラングランの下級貴族として暮らしていたアザーニャ=ゾラン=ハステブルグ。彼が呪いに満ちた祝福の数々を書き記すことがなければ、それを利用しようとする輩は生まれなかった。
「しかし、それでしたら、セニア様が情報を掴んでいてもおかしくはないと思いますが」
ファングの向かいで考え込んでいたザッシュがおもむろに口を開く。
「新聞では集団食中毒の扱いだったのですよ」
「食中毒ですか? 副作用ではなく?」
「毒性があるとはいえ、腐った果実。もしかすると記事を書いた記者は、パタの実の特性を知らなかったのかも知れませんね。かくいう私も、情報を漁り直していた時に気付いたのですよ。そのぐらいに扱いの小さな記事でした。きっと、教団にいた頃の知識がなければ見過ごしていたことでしょう」
「ちょっと待てよ」マサキは会話に割って入った。「どうやって集団食中毒事件を必然的に起こしたんだ」
白鱗病や王宮武器庫への放火事件に関しては、確たる証拠は揃えられていないものの、状況的に作為的なものであることがわかっている。奇跡の双子に関しても実在していることがわかった。では、黒き果実がパタの実であるとして、どうやれば食中毒を人為的且つ作為的に起こせるのか?
マサキの問いにいい質問ですね。と、シュウが微笑った。その口ぶりからして、彼は既にその点に関する調査を済ませているのだろう。手にしているカップを置くと、穏やかに言葉を継いだ。
「グルメツアーを計画したのはアルバ=アルフォートという貴族崩れの男ですが、彼はグルメツアーに参加した仲間に、パタの実の知識を屋敷に出入りするようになった商人から聞いたと吹聴していたそうです」
「偶然じゃないのか?」
「まさか。これは屋敷に勤めているメイドから聞いた情報ですが、事件後、その商人はぱたりと屋敷を訪れなくなったそうですよ。これでは蓋然性に頼ったと考えざるを得ない。商人はアルバがパタの実を食べに行くだろうと見込んだ上で情報を吹き込んだ。勿論行かない可能性もありますが、その場合には次の食通が狙われたのではないでしょうか。何といっても預言を実現させるペースを作っているのは彼らです。計画の進みが遅れても訳はない」
「抜け目ないですねえ」溜息とともにザッシュが呟く。
「気持ちが悪いくらい巧妙だ」ファングが唸りながら言葉を吐く。
「蓋然性の殺人……か」
そうなる可能性が高いという可能性に賭けた殺人計画。シュウの調査に基づく推論が正しいのであれば、今回のテロの首謀者は相当に頭が回る人物だ。これまでのどの事件においても、状況的にはそうであると道を示しておきながら、決定的な証拠を掴ませることがない。
そういった敵を相手にしなければならない絶望感。
マサキたち魔装機操者は武力を行使する相手に対しては効果を発揮出来る実効的な抑止力であるが、知恵を駆使して逃げ回る悪党には殆どといっていいほど役に立てない存在であるのだ。
適材適所とは良く云ったもので、何かを成すには相応の能力が必要だ。知恵を駆使する相手に力任せで当たっても、一方的な暴力にしかなり得ないのだ。預言書という謎に直面したシュウは、即座にこれが知能と頭脳の戦い――即ち自分が立ち向かうべき問題であると認識したのだろう。
だからこそ彼は、マサキたち魔装機操者の助力を期待しなくなった。
預言に纏わる一連の事件に対して、マサキたちでは主役になれないからこそ。
ただ、不安は残るのだろう。サーヴァ=ヴォルクルスとの契約の記憶が残るシュウにとって、教団への関りは自身の人格に影響を及ぼしかねないほどのリスクを負う行為だ。故に彼はマサキに約束をさせることで、万が一の事態に保険をかけた。
「……お前のことだ。どうせその商人の身元の洗い出しは済ませてるんだろ」
だからといって何もせずに、ただシュウの監視を続けるだけで済ませられる問題ではなかった。放っておけば死人が増えるだけの預言を、それを利用して悪事を企む輩が存在しているというのに、正義を旗印とする魔装機神の操者たるマサキがどうしてそのまま放置しておけようか。シュウがマサキたちに期待をしないのであれば、マサキたちはマサキたちで動くしかない。そう、今のこの関係のように、付かず離れず情報を共有し合いながら……
「相変わらず勘だけは良く働きますね」
マサキの直感任せの言葉に、ご明察ですよ。謳うように口にしたシュウが、懐から小さな茶封筒を取り出した。
「これをセニアに渡してください」
中には数枚の紙片が収められているようだ。恐らくは商人の正体に関わる情報が記されているのだろう。こんなまだるっこしいことをしなくても。セニアと共有出来る情報網を持っている筈のシュウの思いがけない行動に、ぼやきながらマサキは封筒をジャケットの内ポケットに収めた。
「お前、いつからこんなアナクロな人間になったんだ」
どれだけ情報局の通信網防壁が強固なものであるとはいえ、従妹たるセニアが構築したインフラである。シュウならばアナログな手段に頼らなくとも、防壁を破って連絡を取るぐらい容易いことだろう。それを当て付けるようにマサキが口にすれば、シュウはシュウで事情があるようだ。
「最近、幾つかの情報網が潰されたのですよ。その中にはセニアが利用しているものもあった。恐らく、私たちがこの件に首を突っ込んでいるのを快く思っていない輩がやったのでしょう。只の見せしめであればいいですが、他の情報網が無事と見せかけて実は制圧済み……ということも考えられます。そうである以上、情報網を使わないに越したことはありません」
「だからお前、セニアに情報を流せなかったのか」
「それもありますがね」シュウはテーブルを指先で叩いた。「私としてはもう少し確証を得てからにしたかったのですよ。何といっても、魂を憑依させられる姉妹という触れ込みですからね。ご存じの通り、この手の話にはインチキも多い。だからこそ、彼女らの能力が本物であるかを見極めてからにしたかったのですが、ファングの働きが優秀だったものですから」
「俺たちが追い付いちまったってことか」
そう。と頷いたシュウの表情は、その割には満足気に映った。
自らの自尊心を傷付けられる事態に直面しようものなら、返す刃で相手の自尊心を叩き潰してみせる。マサキの良く知るシュウと=シラカワとはそういう人間だ。だのに、まるでマサキたちが確信に近付くのを喜んでいるかのような笑み。自信が服を着て歩いているような男にしては珍しい。
「今のところ、彼女らが本物であるか否かの確率は、五分五分といったところですかね。獣に憑依してみせたぐらいでしたら、良く訓練された猛獣を使ったイカサマで片付けられますが、四桁の足し算や引き算を即興でこなしてみせるとなると、それなりの仕掛けが必要です。例えば、カードに仕掛けを施し、任意の数字を引かせるといった……」
「訓練したからって猛獣がホワイトボードに数字を書けるようになるもんかね」
「そこなのですよ。仮にあれが訓練の成果であるのだとしたら、そこまで訓練された猛獣がいるのに、わざわざ憑依する姉妹という心霊現象を付け足してしまったことになる。どれだけ魔術や練金学が発達しているラ・ギアスでも、オカルトを実現するのには限度があります。蘇生術にしてもそうですよ。特異な効果を齎す代わりに、被術者に大きなリスクを背負わせる。だからこそ、体系付けられない心霊現象をラ・ギアスの練金学は否定します。そしてだからこそ、練金学で裏付けられない心霊現象は一般の民衆にも懐疑的な目で見られます。
故に、姉妹の奇跡が作られたものである説は、その不合理性から否定されるものになります。わざわざ疑惑を招く真似をするよりも、訓練された猛獣のショーにした方が受けはいいですからね。まあ、預言の実現を目論んだとも考えられますが、その場しのぎのイカサマに手を染めるなど、彼らの遣り口にしてはお粗末でしょう。こちらも合理的ではありません」
もしかするとシュウは、忌憚なく語り合える相手を欲しているのかも知れない――マサキは彼に追従する仲間たちの顔を思い浮かべた。シュウを主と仰ぎ、その命に従うサフィーネ。シュウに恋焦がれるがあまり、王室を飛び出して行ったモニカ。そして、シュウに付いてゆくことで、利用されるだけの立場からの解放を得たテリウス。彼らのシュウへの関わり方は盲従的だ。それは危険を省みずに、協力を続ける姿勢からも明らかだ。
唯々諾々とシュウの言葉に従ってしまう彼らは、シュウにとって都合の悪いことを口にすることがない。シュウが時にマサキ相手に議論を吹っかけるような真似をしてみせるのは、そうした彼らとの付き合いに閉塞感を感じていることもあるのではないだろうか。だからこそ、こうして預言の実現というひとつの事象を共有出来ている環境に、彼は満足を感じたのではないか……。
「街の人たちの話によれば、彼女らのステージは週替わりで内容が変わるそうですね。出来ればそれを確認した上で結論を出したくもあったのですが、第三の預言が成就した後とあっては、悠長に構えている暇はないでしょう。しかも、彼女らの能力が本物であると仮定した場合、彼女らは自らの能力を抑えるつもりがないように感じられます」
「それはどういった意味で、ですか?」
「この街では彼女らに逆らうなと云われるぐらい、彼女らが関わったと思われる不審死の噂が絶えません。火のない所に煙は立たず、ですよ。全てに関わっているとまでは私は思いませんが、幾つかの不審死に彼女らが関わっているのは間違いないでしょう」
「ああ、それだったら俺たちも見た。と、いうか現場にいた」
ほう、と頷いたシュウが興味深げな視線をマサキに向けてくる。どうやら先にショーの列に並んでいたシュウは、立て籠りが起こっていたことを知らなかったようだ。話を聞かせるように促してくるシュウに、マサキは簡潔に立て籠り犯の事件の経緯を説明した。
投降する意思をみせていた男の突然の死……その死に際に彼が吐いた助けてくれという言葉……それはシュウの好奇心を擽ったようだった。成程。と呟いた彼は、ファングとザッシュの顔を交互に見遣りながら、彼らに他に気付いた点がなかったかを尋ねた。
「特にはないな。酷く途惑った表情をしていたことは覚えているが」
「あれは自分の意思で飛び降りを選んだ人間の態度ではなかったですね」
「そうなると――」シュウは宙に視線を彷徨わせた。「彼女らは彼女らの正義に従って行動していることになる」
「彼女らの正義?」
マサキの問いに視線を戻して、シュウは再び座を見渡した。
「彼女らが奇跡の双子とある種肯定的な二つ名で呼ばれているのは、不審死を遂げた人間たちが犯罪者であったり、黒い噂が絶えなかった人物であったりしたからなのですよ。私としては都合の良い脚色だと思ってもいたのですが、あなた方がその現場に立ち会っていたとなれば話は別です。彼女らが教団の関係者であったならば、餌食となるのは一般的な市民に限られていた筈。悪漢退治といった善行など、教団からすれば忌むべき行為ですからね」
「となると、武器庫に火を放った理由は……」マサキは考え込んだ。
わかり易い勧善懲悪を好むのは大人も子どもも一緒だ。とはいえ、経験の分だけ悪意や悪行に寛容になった人間と世間ずれしていない人間とでは事情が異なった、前者は多少の行いには寛容であろうとするし、不満を感じながらも司法に誠実であろうとする。後者は多少の悪行を見過ごす人間に疑問を感じているからこそ、時には司法を無視して私刑とも思える行動に出ることもある。
子どもは純粋であるからこそ、後者に染まり易くもあるのだ。
奇跡の双子と呼ばれ、街で英雄視されてもいるらしいゼフォーラ姉妹が後者であるのは想像に難くない。そういった気質である彼女らが、自らの正義を行使する以外の理由で、遠く離れたラングラン王都に魂を飛ばすだろうか? 有り得ない。マサキは口唇を結んだ。そこにあるのもまた純粋な正義心である筈だ。
「成人まではまだ微妙な年齢ですしね。王室に関わる噂話を彼女らが正しく判別出来るとは思えません。恐らく、彼女らの側には王室の善からぬ噂を吹き込んだ人間がいる。その上で、その人物は王宮武器庫に火を点けるよう彼女らをそそのかした。青い正義感に駆られている彼女らであれば、その話に乗ってくる可能性が高いと踏んで」
マサキたちは顔を見合わせた。その人物を確保出来れば、武器庫への放火事件の全容が明らかになる。
「周辺の調査が必要ですね」
「いずれにせよ地道な調査は避けられんか」
今を逃してはならないとばかりに、ザッシュとファングが立ち上がる。
この好機を逃せば、不気味な動きを繰り返す組織のことだ。より一層潜んで計画を遂行してゆくようになってゆくだろう。シュウの言葉で事態が差し迫っていることを悟ったからこそ、即座に調査に赴こうとするふたりに続いて、マサキもまた席から腰を浮かせた。
マサキ――と、その手を掴んだシュウがマサキを呼び止めた。
「調査には私も協力しますよ。三人で固まって動くより、ふたりずつ組んで動いた方が効率がいいでしょう」