眠れぬ夜の小夜曲 - 4/6

<4> Nostalgia

 ダリアは終始機嫌が良かった。
 シカゴに着いた直後のランチの席でも、チェックインしたホテルでも、国内学会の会場でも――浮かれ過ぎていると思える程に相好を崩さす、また饒舌だった。普段なら面倒と避けるきらいのある名刺交換も進んで行なっていたし、誘われずとも会食の席に加わり、さかんと自分をアピールしているように見えた。シュウに対しても豪腹と言える程、食費やら何やらと押し付けてきた。
 それが教え子に対する愛情から来るものではないのはシュウだからこそわかる。
 彼はそうやって自分を監視していたのだ。目立つ行為を自ら行う事で、その教え子たる自分の行動を縛る。あの男への忠誠心の成せる技、否、ダリアはそうして保身をするのだ。やがてそれを貸しとする日が訪れるだろうと見越した上で。
 Give and take.
 その精神は間違ってはいない。シュウもそうして彼らを、あの男を利用し、ここから更に這い上がって行くのだ。自らの目的の為に。
 誰しも、とは限らないが、学者ともなればその目的意識は明確だ。自分だけの理論を打ち出し、それを世に認めさせ後世に残る研究の礎とする。知への飽くなき探求と功名心が彼らの胸には常に燻っている。倫理と声高に叫んだところで生物実験を止めない学者、認可待ちの試薬を希望に縋る患者に投与する学者、ある者は議論を摩り替え、ある者は揚げ足取りに熱中する。そのあまりに、根幹たる根源的な出発点――バイブルとも呼べる古来の名だたる学者が積み上げてきた理論を捻じ曲げて解釈、引用するともなれば本末転倒も甚だしい。
 それでも彼らがその不毛な論議を止めないのは、科学の行き詰まりを、その限界を間近に感じているからだろう。知りながら彼らは足掻く。それを認めてしまえば彼らの居場所は失われてしまうのだから。
 加速し、繁栄する科学。その終焉が訪れるのをシュウは知っている。
 彼らがその突破口を科学に頼るからこそ、その終焉の訪れを更に加速させてしまっているのも。
 歴史は繰り返す。幾度も、そう、幾度も。世界が一つではないのもシュウは知っている。知っているからこそ、繰り返されるのだと断言出来る。
 その歴史に楔を打ち込むのは、自分。
 繰り返されるのであれば、破壊を尽くせばいい。それこそが救済であり、再生の儀式でもある。繁栄が人間にもたらしたものとは一体何か、その答えは明確であろう。満たされれば満たされただけ、人間は飢えを忘れ貪欲になり、欲望を包み隠さぬようになり、異端を排斥するようになる。自分達こそが真理と疑わず、それに背くものは全て――……。
 何もかもが統一された世界など夢物語に過ぎない。
 ならば、万人に平等な世界を与える手段とは何か?
 それこそが種の根絶。何もない世界には、平等も不平等も存在しない。異なる価値観に悩まされる必要もない。異端を恐れ、怯え、或いはそれを打開しようと無謀にも決起し、その命を苛烈に散らす必要もない。それは、「無」という名の楽園だ。
 だからこそ、ダリアを責めようとも恨もうとも思わない。シュウの中ではダリアも所詮は手駒のひとつに過ぎなく、あの男も同様に踏み台でしかない。しかし、二度と隙は見せない。それだけは決意する。
 隙を見せれば見せただけ捕食の種を与えるも同等。
 行きずりの他人、それが隙になるとシュウは思ってもいなかった。ダリアや他の師事する教授の全てがあの男の手の内の者ならば、考えてしかるべき懸念であったのに。
 迂闊さを悔いても遅い。あの男はそうやって彼らを通じてシュウを常に監視して、その隙を出来るだけ切り札として手元に残しておくだろう。この関係が端から信頼では結び付いていないのを、あの男は察している。いや、あの男の性格からして、そうして保険をかけておく事でより堅牢な自分だけの世界を作り上げようとしているのに違いない。
 自らの望みを叶えるに相応しい「楽園」を。
 その望みにシュウは興味もなければ、聞こうとも思わなかった。世界でも最高峰の頭脳を誇ると言われた学者、その男に接触したのは、その立場とその研究内容が故に。手土産に持参したのはあるコード。今の技術より更に数十年は先を行く、物質有機化のコード。
 目にした男はそれを即座に解し、そしてシュウの有用性を悟った。
 ――この世界は何よりも肩書きを優先する世界。
 男はそう語った。
 ――必要な肩書きを、認められるだけの肩書きを得たら然るべき立場を与えよう。
 そうでなければ、この技術は今の世界には受け入れられないのだと、快笑して。
 ――一足飛びに未来を受け入れられる程、今の人間は熟していない。
 それこそが危機であるのに、と憂う様子も見せず笑顔を絶やさず男は言った。それが、男の覚悟であるのを知るのはまだ先の話であったが、この瞬間シュウは相手のある意味における残虐性を見抜いたといってもいい。
 己れの信念の為なら、他人を駒にする事も、それを踏みにじる事も厭わない男だと――。

 三日に及んだシカゴ滞在の間、結局マサキからの連絡はなかった。

※ ※ ※

 黄昏時の七番街をシュウは歩いている。
 結果として学会でのシュウの発表は成功を収めた。勿論、反論が出るのも学者世界では当然の慣わしだ。そういった流れが出るか出ないかの方が却って重要であったりもする。
 満場一致で認められる論理などこの世には存在しない。細分化された分野に専門、そして学派に派閥。そういった立場や思想の差が時に反論を生み出し、それは壮絶な理屈の応酬になる。だが、そうやって反論が生じるというのは、その論文に意義が存在していると認める人間がおり、それを脅威に考える人間がいるからこその現象なのだ。わかりきった事を述べても、人々はそれを右から左に流すだけだ。予想されていた結末を研究で証明して見せた人間にしてもまた然り。
 そういった意味で、シュウの国内学会デビューは成功であった。D1の研究生が起こした論文、それはまさに台風の目にも等しい衝撃的な存在の来襲とその場にいた学者達は捉えたのだ。
 ダリアはそれも手伝ってか、至極上機嫌で早速祝杯と酒場へシュウを誘ったが、それは今度の機会にと辞して帰路に着いた。理由は単純。明日はあの男に会う日だ。酒の席に突き合わされるのは、それが社交に必要なテクニックであってもできるだけ避けたいのがシュウの本音だった。ましてや二夜連続でその苦行に付き合うなど言語道断。しかも既に男が何を言わんとして酒席に誘ったのか、予測が付いているからこそ尚更に。
 それならばまだダリアと飲む酒の方が美味く感じるに決まっている。視覚トリック――それを彼は考えてくれているに違いない。趣味は何より勝る。ダリアがマジックを語り、実演している間、そこには何の打算も好奇心も存在しないのだから。
 しかし、立場の差がある。
 男はシュウにとっての「援助者パトロン」だ。それぞれの思惑がどうであれ、その公式は今の所崩れる気配もなければ、シュウ自身崩すつもりもない。わざわざ自滅の道を選んでどうする? そこで感情的になれてしまうような器では目的など達せはしないだろう。
 それでも気は晴れぬまま、シュウがアパートメントのステップに足をかけた刹那、それが聞こえた。
 騒ぐ子供達の声の中に、耳覚えのある声がある。少し先のブロックにある古びたバスケットコートは、スケートボートやローラブレード、ダンスに3on3のバスケの練習場にと、その用途には事欠かない。
 そこに、マサキがいた。
 数人のまだロー・スクールと思しき子供達と一緒になってバスケに興じている。
 少しは英語が上達したのかと思いきや、周りの子供達が「Left!」「Go on!」等と叫んでボールを回す中、一人日本語で「こっちだ!」「右に回れ!」と捲し立てている。しかしその身振りも手伝ってか、意思の疎通は出来ているらしい。マサキの声で右に左にと流れる子供達の動きがそれを裏付けている。
「シュートだ! 行けっ!」
 一人大人だからか、マサキが手加減してなるべく子供達に多くボールを回そうとしているのが傍目にもわかる。どうやらシュウが不在の間に、マサキはマサキで格好の遊び相手を見付けたらしかった。
 それがシュウには、少しばかり妬ましい。
 何故かはわからないが、妬ましい。
 そこに向かって声をかけるのは容易いというのに、まるで仲間に混ざるのに二の足を踏む子供のように、アパートメント入口のステップ上に留まって、シュウは遠いその光景を眺めていた。暮れなずむ七番街は、工場の排出する煙で霞んでしまっていたけれども、その煙さえも露を含んだ朝靄と錯誤してしまう荘厳さが、他愛ないゲームに熱中するマサキと子供達から感じられる――ような。
 ――あのイコンと同じ。
 目にした宗教画を思い浮かべる。鈍色の雲間から差し込む黄金の光は、終末が訪れた地上に神の降臨を告げていた。舞い踊る天使に囲まれて、空を舞う女性の姿はまさしくその手に祝福を抱いて訪れし救済の神。
 似ても似つかない光景だというのに、覚えるこの畏敬。
 いや、それは憧憬。
 イコンに秘められしメッセージが救済であるのだとすれば、それこそがシュウの望むべく未来である。その手段は人が声高らかに謳う神の起こす奇跡とは異なってはいたけれども、シュウにとってはまごうことなき希望で起こすべき奇跡だ。
 粛清という名の破壊、それこそが救済。その望みに取り憑かれ、そればかりを追い求めた幼い頃のシュウからすれば、そのイコンはその日々を思い起こさせる昔日の無量。同時に目の前に展開されるゲームは、手に入れられなかった過去。どちらにも通じるのは過去のシュウにとっての楽園、何もかもを知りながら子供でいなければならなかった日々の。
 そこに耳障りな音が響いてくるのが聞こえ、シュウは思考を中断させられた。
 カセットデッキを片手に歩いて来る黒人ニグロの青年は、普段は七番街の奥でドラッグやセックスに興じるグルーピーの一人。売人としてギャングの使い走りもしているらしいともっぱらの噂だ。比較的治安のいいこの場所では、あまり馴染みの薄い存在でもあるが、時折こうして彼らが自分の力を誇示したいが為に姿を現すのも珍しくはない。
 厄介な事になりそうだ――シュウがコートに向かって呼びかけるより先に、青年は騒音を撒き散らすカセットデッキを肩に担ぎコートに乗り込む。乗り込むなり、手近にいた子供を足で蹴り飛ばした。地面を滑るように転がった子供が声を上げて泣き出す。他の子供達は怯えて足が動かない。マサキは指で転んでいる子供を指し、そこに行くように促がす。恐る恐る泣き叫ぶ子供に近付く子供達。それを遮るように動く青年の目の前に、マサキが立ちはだかった。
Fack’in.ふざけるな Get out “Negro”.立ち去れよ It’s not a place in which “Negro”.ここはお前のような奴がいていい場所じゃねえ
 囁くような声だが、明瞭に聞こえた。冷静な顔付きで侮辱の言葉を吐くマサキの声が。
What is said “Yellow monkey”?なんて云った、日本人がよ
 笑いながら青年がジャケットの内側から銃を取りだす。侮辱には侮辱、そして暴力がこの虚飾塗れの街の真理だ。力がある者は例え悪党だろうとも反逆を許されない。汚濁を許容する街の中でも更に無秩序なのが七番街だ。
 止めに入ろうとシュウは足を向けかけて――止めた。
 マサキは嘲笑っている。
 それは黒人ニグロの青年とは明らかに異なる種類の笑みで、それまでにシュウが見たことのない威圧的で好戦的なマサキの表情だ。さあっ……と空気が変わり、それまでの荘厳さは時の彼方と肌が焼け付かんばかりの緊張感が辺りを支配する。
 相手にしてはならない相手だとマフィアの人間なら悟っただろうその変貌を、チンピラ風情の青年に理解しろというのは無理な話か。ニヤついた笑みを崩さぬ青年にマサキは言い放つ。
It did very.それがどうした Have you seen the battlefield?お前は戦場を見たことがあるか ――Did you see a genuine battlefield where the person died?人が死ぬ戦場を
 そして自分の額を指す。
Shoot it.撃てよ
What?はあ? It crazy?気違いか
Shoot it quickly.さっさと撃てよ ――Do not make a mistake.間違えるなよ The target is “here”.標的は『ここ』だ
 青年は笑ったまま銃口をマサキに向ける。
Good bye “Yellow monkey”.あばよ、日本人
 ――銃声。
 小気味良く響くその音に、子供達は一斉に地に伏せ声を上げた。シュウはその場を動けずに、一部始終を見ていた。放たれた銃弾は正確にマサキの額を貫いた。空き地を囲うアパートメントのくすんだ壁は木霊を返した。子供達は誰も顔を上げない。
 周囲が一瞬にして静まり返ると、つんと鼻腔を突く薬莢の匂いがシュウの元まで流れてくる。
How did you do?何してんだ Did you get clumsy?手元が狂ったか
 マサキは立っている。青年の目の前に変わらぬ姿で。
 その背後のコンクリートブロックには、マサキの額の位置と同じぐらいの高さに銃弾がめり込んでいる。一瞬呆けた表情をした青年は、二度、三度と引き金を引いた。その都度鳴り響く銃声。そして響き渡る叫び声。だというのに――。
「Noooooooooo! What?何でだ What happened?何が起こってるんだ
 マサキは立っている。
 その場から一歩も動かぬ位置で。
「――Man who doesn’t know the usage of the gun must not do foolish mimicry.銃の使い方も知らねえ奴が馬鹿な真似をしてるんじゃねえよ
 何が起こったのか理解出来ずに目を見開いて、眼前の人物と背後のコンクリートブロックを交互に見遣る青年の手から銃を取り上げると、マサキは惑わず弾を全て取り除いた。抵抗する気力も残っていない青年に、その弾だけを放り投げて渡すと、
Go out!さっさと行け
 最後の宣告と言い放つ。
 来た時の威勢の良さはどこへやら、青年は脇目もふらずに逃げ出し、マサキはマサキで何事もなかった風にシュウを見た。気付いていてやったのか、と思う間もなく銃がシュウ目掛けて放り投げられる。
「護身用にでも持っとけよ」
 それはもう、いつものマサキの笑顔だ。
 受け取った銃を持て余すシュウの目の前で、泣きじゃくる子供達にマサキが歩いてゆく。ひとり、またひとりと立ち上がってその体にしがみ付いて泣く様を、そして彼らを必死にあやすマサキの姿を見詰めながら、シュウは自分がマサキに対して抱く脅威の意味が僅かばかりだが理解出来た気がした。

※ ※ ※

 嘘を吐いている。
 それは紛れもない事実。
 だがそれをどうやって問い質せばいいのかシュウにはわからなくなってきていた。

「あんなに形通りのギャングもどきがいるなんて反則だ」
 子供達をなだめすかし、帰路に付かせたマサキが、少し離れた場所で一連の騒動を眺めていただけのシュウの前に立つなり肩をそびやかして見せる。
 黄昏時も終わり近く、夕闇が東の空から徐々に天を覆い隠す。パトカーが駆けつける気配が一向にないのは、相手が「あの」青年だったからだろう。それが例え売人という組織の末端の人間であっても、関わり合いになりたくないと考える人間は七番街では少なくない。この辺りは比較的平穏なブロックだからこそ、余計にその報復を恐れるのだ。
「ああいうのは映画の中の話だけだと思ってたんだけどなあ」
 聞かれもしないのにマサキは喋る。
 それはシュウにそれ以上の詮索をさせないという意思の表れにも取れた。
 けれどもシュウは聞かねばならない。聞いて、その答えを元にマサキという人間の不可解な行動の意味を把握しなければ、それに纏わる奇怪な現象や、自己の愚かしいまでの好奇心を満たす答えは出ないのだ。
「そういう遣り取りでもあるのですか」
「――って映画知ってるか?」
 上げられたタイトルを聞くまでもなく、シュウは知らないと答えられる。そういった一般娯楽の類とは無縁なまま、この世界での生活を続けてきたのだから。最新のムービー、流行のテレビ、人気のミュージカルにビルボードチャート……どれひとつとしてシュウは「知らない」のだ。
 もしシュウに経験している一般娯楽があるとすれば、それは決して楽しんではいない飲酒という行為ぐらいだ。飲酒だけでなく、バーやクラブの良し悪しなら教授達の口に上がる機会も多く、その界隈の話だけならそれなりに精通しているともいえなくもない。
 酷い矛盾だ。
「中学生の頃かな。ああいうのに憧れてた時期があって」マサキは先にアパートメントのステップを上り中へと入ってゆく。「友達と真似して遊んだよ」
 警戒心の欠片もない様子に、溜息を堪えつつシュウは周囲を窺いながらその後に続く。
 見渡せる範囲に青年やその仲間と思しき連中の姿は見えない。通りの端からこちらを窺っている可能性もあるが、それには遠すぎてこちらの居所を確定できないだろう。滑り込むようにドアを潜り集合ポストを覗けば、件の往復書簡が届いていた。今回の封筒は薄い緑色、形は相変わらずの事務用封筒だ。
 そのままボストンバックに納める気にもなれず、銃を仕舞った上着のポケットに捻じ込む。待ち侘びた返信だったが、それの到着よりも目の前の現実をどう処理すべきかの方がシュウにとっては問題だった。
 処理――自分の中で起こった事象に整合性を保つ理屈を付ける行為。
 それをしなければ、シュウは不可解極まりないマサキという存在と、それによって巻き起こされる現象に押し潰されてしまいそうだった。最早多少の偶然と目を瞑っていられる状態から、この現象は逸脱していたし、好奇心で片付けるだけでは収まらない存在に、マサキはシュウの中で昇格していたのだから。
「だからネイティブだと?」
「最初は字幕の日本語で真似てたんだけどな。それじゃあなんか雰囲気が出ないとかって友達が言い出して――そうだ、ビデオを繰り返し見せられたんだった。何を言ってるのか全然聞き取れなくて、最後にはそいつ、学校の先生にまで聞きに行く始末で」マサキは呆れた風に首を振った。「先生がすげぇ嫌そうな顔してた」
「それはそうでしょう」
 スラング交じりの会話を聞き取りさせられたその教師からすれば、どう扱ってよいものやら、――悩んだに違いない。
 毎度ながらのマサキの妙な話の内容に困惑したまま、今度はシュウが先に階段を上がる。まるで煙に巻かれているようだ――いや、実際マサキは自分を煙に巻こうとしているとシュウは確信しているのだが、そう思い切ってしまうには、作り話にしても限度がある誇張や嘘としか取れない内容の話を平気で口にし、且つ、それに対する態度や表情があまりにも自然すぎるのが納得行かず。それらが予め用意されていたとして、それをシュウに仕掛ける行為に何の意味があるというのか。
 そこに意味を求める姿を見て嘲笑うのが目的だと言われれば、それは悪趣味極まりない嗜好だ。だが、それならばまだシュウは許せるだろう。自分がそういう性質を併せ持つ人間でもあるのだから。
 嘘と虚飾を重ね、時に思わせぶりに言葉を紡ぎ、時に鎌をかけては相手の困惑を誘い、その意味なき行為に手玉に取られる人間を見るのは面白いものだ。そこに面白さ以外の意味など存在しない。言い換えれば、表面化しない悪意、といったところか。しかし果たしてマサキがそういった性質の人間であるかという問題になると、それは違う、と否定せざるを得ない。
 同質の人間は相手の本質を即座に見抜くものだ。
 シュウがあの男の本質に気付いたように。
 それは他人には嗅ぎ取れぬ匂いであるだろうが、その瞬間、同質である人間だからこそ醸し出される空気を鋭敏に察知する機能――精緻なセンサーのようなものが反応する。だからこそシュウは、あの男なら利用する相手に相応しいと認めたのだし、男の側からしても理屈は似たようなものであっただろう。口にした理由がどうであれ、相手の本性は手札を見せるまでもなく見抜けてしまう。否応なしに。
 そしてそれはシュウにこう告げるのだ。マサキは違う、と。
 ではどういった性質かと問われると、それこそ砂の中から一粒の砂金を探り当てるよりも不可解な「もの」としか答えられない。何よりマサキは悪戯だけでは済まされない数々の「現象」を起こしている。マサキがシュウと同じ性質の人間であれば、それらに理由も付けられよう。しかし、シュウにはそれらの現象に理屈が付けられない――付けられる筈がない。
「銃弾は――」
 階段を上る間、マサキはそれ以上、自ら語るのを止めた。語るのを止めるのが拒絶の意思とも取れる態度に、その表情を垣間見ようとシュウは振り返りたい衝動に駆られるが、自然な仕草で振り返れる口実が思い付かず、先を行きながらようやくそれだけ口にする。
 靴音だけが響く階段に、シュウの言葉が重なる。
 今、マサキはどういった表情をしているのだろう。
 普段見せる穏やかな微笑みだろうか? それとも先程子供達と遊んでいる時に見せた無邪気な笑顔だろうか? それとも自らに起こった奇禍を話して聞かせた時のような困惑に満ちた表情だろうか? それともあの黒人ニグロの青年に向き合った時の絶対的なまでの無表情だろうか?
 ……どの表情であったとしてもシュウは驚かないだろう。そのどれもがマサキで、そのどれもがマサキではないとシュウはとうに認めてしまっていたのだから。
 それこそがマサキに覚える「脅威」に対するひとつの「答え」――何者にも染まらない価値観と、何者にも与しない意思を持つ存在――と、シュウはマサキを「認識」したのだ。
「……どうやって避けたのですか」
 それだけで聞けると思っていた答えはなく、シュウは言葉を繋げる。
 マサキは立っていた。青年の目の前に立ち、一メートルも離れていない距離で対峙していた。青年が銃を掲げれば額に銃口が当たりそうなまでに接近した位置で、身動きせずに銃弾を避ける術など、シュウの常識からすれば「魔術」に他ならない。
「最初の夜にも言っただろ」
 最上階へのフロアが近付いたのを機に、マサキがシュウの脇を擦り抜ける。その横顔は無邪気に悪戯めいた笑みを浮かべている。
 一気に残りの階段を駆け上がり、さも楽しげにシュウを見下ろしてマサキは言う。
「視覚のトリックだって」
「それが解けないから、こうして聞いているのですがね」
 追い付いて、肩を並べるようにしてフロアを歩き部屋へ入る。シュウが変わらないままの部屋に安堵するよりも一抹の寂しさを感じるのは気の所為だろうか。必要最小限の物だけが置かれた生活感のない部屋、邪魔な扉も、窓の外のけぶる景色も変わらぬままに。
 ソファに置かれた毛布だけが、他人の存在を主張している侘しい室内。
 けれども、それまではそれでよかった筈の世界が、今のシュウには物足りない。
 シカゴの毒気に当てられたのだろうか。確かに、部屋と研究室を往復し、雑事と論文作成に明け暮れる日々が今のシュウの世界の全てだった。折に酒席に参加する事はあっても、それはやはりシュウの限りなく狭い生活圏内に近い場所である。そこから離れた場所での景色が目新しく映ったのも否定はしない。
 だが、ニューヨークとシカゴ、どちらにしてもその都市部しか目の当たりにしていないシュウからすれば、どれも似たり寄ったりのありふれた景色なのだ。これがいつかマサキが口にしたカンザスの平原だったら、また違った感想を持ったかも知れないが、ビルの群れと華やかなネオンに支配された景色は、どこであろうとそうそう個性の差を主張せしめるものではないだろう。
 そこに住まう人々の気質が違おうと、都市は都市。
 雰囲気の僅かな差など誤謬ごびゅうで済む範囲のものだ。
「こんなに早く帰ってくるとは思ってなかったから、飯の仕度まだなんだよな」
 早速とキッチンに篭るマサキに、ボストンバックを寝室に置いてからシュウは言葉を返す。
「別に急がなくても結構ですよ。荷解きもありますし――」
 それに、とシュウは付け加える。ポケットに納めたままの銃が重い。
「警察に行ってきますから」
「警察?」マサキがキッチンから顔を覗かせる。
「先程の件を報告しなければいけませんしね」
 ポケットから銃を取り出して見せ、意味がわからないといった表情でシュウを見るマサキに答える。
「私には必要のないものです。これよりも小型のものですが、護身用の銃なら既に所持していますし、あのブロックをそのままにしておく訳にも行かないでしょう。巡回パトロールに見付けられたら厄介な話になるのは目に見えています」
「別に平気じゃないのか、そのくらい」
「それに巻き込まれるのが面倒なのですよ。聞き込みにでもこられたら尚更――ですから、早い時点で市民の義務を任うしておこうと思いまして」
「自由と暴力の国に住んでる割には几帳面なこと言うな」
「あなたのこともありますからね」
 シュウは言外に匂わせる。これは貸しだと。
「先手を打っておけば、彼らも余計に踏み込んだ真似はしてこない」
「警察が、か? それともあの黒人か?」
「前者ですよ」何やら険しい顔付きになったマサキにシュウは言い放つ。
「理解していますか? あなたは今、身分の証明が出来ない非常に微妙な立場に立たされているのを」
 そこでようやく事の次第を納得したようだった。マサキは俯き加減に顔を伏せると表情を曇らせ、「悪い」と一言だけ呟いた。
 それでいい。シュウは胸の内でひっそりと嗤う。理解さえすれば、後はマサキが自分で解釈する。それがどういう意味を持つのかわからないまでに、マサキが惚けた青年ではないとシュウは確信している。
 嘘までとはゆかなくても、マサキはその身に秘密を抱えている。
 その為に偽っている、「何か」を。
 「何か」が全てであるのか「一部」であるのかまでは判断付かなくとも、マサキが自分を偽っているのは明白だ。
 だからシュウも嘘を吐く。護身用の銃などシュウは持っていない。自分の身を守る術は既にこの身に備わっている。「魔術」という名の、この世界では認知されていない武器が。
 シュウが嘘を吐くのは、立場を明確にさせたいからだ。ここにマサキが留まる以上、自分の方が上であるとシュウは認めさせなければならない。既にそういったコンセンサスは取られていたが、今一度それを明確にする必要があった。何故なら、シュウはその立場を武器にマサキの嘘を暴こうと企んでいたからだ。真っ向から問うただけではいつまで経ってもマサキは真実を語りはしないだろう。そこにシュウの求める真実があるのかないのか――マサキは本当に、あるがままの姿を晒しているだけなのかも知れない。そこにあるのは何か。順当な手段でないのは百も承知で、シュウはその選択をした。
「あなたの事は適当に話しておきますよ」ポケットに銃を納めてシュウは邪魔な扉を開く。
「ですからなるべく、外には出ないように気を付けて下さい。この辺りは治安も悪いですから、話をした所で通り一遍の処理だけで終わるでしょうけれども、念の為」
 そう言い置いてシュウは外に出た。
 視線の片隅に最後に捉えたマサキの表情は、様々な思いを孕む複雑さに満ちているように――見える。

※ ※ ※

 自分達の会話が日本語だったのを幸いに、シュウはあくまで自分が通りがかった「善良な市民」であると強調した上で、警察に多少の脚色をして報告した。
 曰く、黒人の青年は雰囲気に呑まれて手元を狂わせたようだ。
 曰く、もう一人の青年は取り上げた武器を自分に警察に届け出るように言い付けた。
 現場の確認に付き合わされ、黒人の青年やもう一人の青年、それに子供達の特徴を聞かれたが、シュウは黒人の青年が七番街の奥に溜まっているグルーピーの一員らしいという噂話をしただけで、それ以外はよく覚えていないと突っぱねた。マサキの事はアジア系であるとは口にしたが、「長くこちらに居て、白人との付き合いばかりを続けていると彼らの顔の区別が付かなくなりますね。以前だったら、もう少し良く覚えていられたのでしょうが……」と濁すと、「それも仕方のない事さ。俺からすれば皆同じ顔に見えるからな」と、自意識を擽られたのか、白人の担当警官は笑いながらシュウの肩を叩いて寄越した。
 子供達に関しては本当に知らないのであるから言いようがない。何しろ普段の生活リズムがリズムだ。休みなく研究やら論文やら、それに付随する雑事やらに追われているシュウが、七番街で子供の姿を見かける機会は稀だ。その稀な機会だけで、それがどこの家に住む誰であるかなどわかる方が不気味である。
 犯人はわかっているのだから、後は裏付け調査ぐらいだろう。辺りの住人が下手に二人連れ立ってアパートメントに戻っている姿を見ていないのを祈るしかない。
 そもそも子供がいるのだ。その子供達の家族が近くに住んでいたのであれば、銃声を聞いて当然飛び出して来るだろう。それがなかったという事は、子供達はそれなりに離れた場所に住んでいて、日頃はあの場所を遊び場にしていた可能性が高い。先ず子供達の家族は除外してもいい。
 他に目撃者がいたとしても、彼らが選択すべき道は、この機会にあの連中を一網打尽にするのに進んで協力するか、報復を恐れて口を閉ざすかの二者択一だ。協力する人間は勿論、シュウがマサキを庇っているのに気付くだろう。実際、マサキに非はない。それよりも七番街の暗部にメスを入れるのに、格好の口実を与えてくれた人物だろう。彼らはシュウの証言を肯定せしめこそすれ、その細部の違いには言及しない筈だ。故に、シュウに災いが降り掛かる可能性は限りなく低い。
 それを大げさにマサキに吹き込んでみせたのは、それこそがシュウの謀略だからだ。
 警察は七番街の癌を一掃出来るチャンスに色めき立っていた。そう、マサキは悪くないのだ。何も悪くはない。その身が潔白であればこそ、マサキは自ら警察に赴いても問題はなかったのだ。身分の問題も領事館がバックに付いている。だのにマサキはそれを避けた。避けたのみならず、シュウにそれを任せた。
 ――意味するものは、ひとつ。
 警察からシュウが解放されたのは一時間後だった。まだ現場の検証は続いていたが、通りすがりの人間にそれ以上の証言を見込めないと悟った警察は早々にシュウを解放した。連絡先を聞かれたが、シュウはアパートメントではなくキャンパスの代表番号を告げた。昼夜問わず、祭日も含めて大半をそちらで過ごしているのだから当然だ。それを警察が不審に思う理由もない。
「何かまたあったらご協力をお願いします」
「勿論です」
 そうしてシュウが部屋に戻って来ると、心配気な表情でマサキが窓の外を眺めているのが目に入る。
 食事の仕度は既に終わっているらしい。
「大丈夫ですよ、問題はありません」
「だといいけどな」
 突然背後から語りかけられるまでシュウの存在に気付いていなかったのか、マサキは慌てて振り返ると早口でそう言って、「食事にするか?」頷くシュウを目にするなりキッチンに早足で潜り込む。
 脅かし過ぎたか、と思いつつシュウは寝室に入り荷を解く。学会で配布された資料の数々はクリアフォルダーに纏めて仕舞ってある。それを机に置き、ついでとポケットに仕舞いっ放しになっていた手紙も置く。そしてボストンバックごと室外に持ち出して洗面所に向かう。旅行用のキットを棚に納め、洗濯物を仕分けする。バックに残るのは、一包みの荷物のみ。
 それをリビングのテーブルに置いて、寝室のクローゼットにバックを片付ける。机からクリアフォルダを手にしてようやくテーブルに着くと、並べられた食事を挟んで座るマサキが早速その包みに目を付けたようで聞いてきた。
「これは何だ?」
 青い包装紙に包まれた大判の辞書ぐらいの大きさのそれは、シュウ自身、気の迷いで買ったとしか説明出来ないものだった。
「シカゴ土産ですよ」
「シカゴ土産?」
 まさに鳩が豆鉄砲を食らったような表情で、マサキが鸚鵡返しに問い返してくる。
「折角アメリカまで旅行に来て、手土産の一つもないまま帰国するのも寂しいものでしょう」
「そりゃあ、そうだけど」
「何か不満でも」
「何から何まで世話になりっぱなしな気がするな」
 包みを手にして中身を窺うように、上を下をと覗き込むマサキの態度はどこかぎこちなく映り、それも尤もだとシュウは微笑う。
 内心さぞや警戒しているのだろう。
 Give and take.とはいえ、今、負い目を感じているのはマサキの方なのだ。
「この軽さで日持ちするものって言ったら、ドライケーキかクッキーあたりかな」
「あまりにも定番ではありますけれども――当たらずとも遠からず。中身を見るまでの楽しみという事で」
「なら、キッチンの戸棚の上にでも置いておくか。目に入ると中身が見たくなる」
 立ち上がったマサキがしきりと首を傾げているのを見て、食事に口を吐けながらシュウは更に微笑う。
 自分でも気の迷いだと思っているのだ。短くも長い日々をそれなりに過ごしてきたマサキからすれば、扱い難い性質の部類に入るシュウの気紛れなど、貸しの押し売りに近い感覚と思っていても仕方がない。用事ばかりを押し付けて、勝手気ままに過ごすのを許しつつも自分の領域を頑なに守るシュウに対して、存在を誇示しようともせず、借りを徹底して返そうとするのがマサキなのだ。立場の逆転した行動に戸惑いを見せない方が、らしくない。
 何とはなしに目に入っただけのそれを、土産に買って帰ろうとシュウが思ったのは何故か。理由などない。気紛れに理由などありようがない。ただそれを目にした瞬間、マサキの顔が浮かんだ。それだけだ。
 けれどもそれは、後から振り返れば、ささやかながらも大きな意味を持った革命の一歩だったのだろう。
「――明日は?」
 マサキが戻って来るなり問う。
「何故?」
「少しは暇になるって言ってなかったか」
「暇とは言っても、忙しいのに変わりはないのですがね。ただ、余裕が幾許か出来たというだけで」
「そうか。じゃあ、いつもと同じペースで食事の仕度とかすればいいかな」
「職務に忠実なハウスキーパーは有難いものですね」
 言ったな――と、笑うマサキに先程までの不安の色はなく、それがシュウには寂しくもあり、安心出来るものでもあった。
 秘密を持つ青年はまだ自分の知らない表情を幾つも持っている。子供達と無邪気に遊び笑う姿、修羅場慣れした余裕に満ちた態度に苛烈な眼差し、それら全てをこの目に捕えておきたいとシュウは思う。自分の手で、自分の言葉で、態度で。
 それが成された時こそ、その秘密が解かれるのだ。
 誰であろうと隙を見せない完璧な自己を保持する為に、最高の鏡がそこに生じたとシュウは最初に思ったものだが――今ではそれよりも、マサキ個人へとより興味が向かっている。何がそこまで自分を狩り立てるのか。その理由が彼が内に抱える秘密の存在であるのならば、それが解けた瞬間のシュウはマサキをどう感じるのだろう。
 勝ち誇るのだろうか。
 今まで騙し、胸の奥底で軽蔑してきた様々な人間達と同じく、相手にそうと知らせぬまま、自己完結の歓びに満たされるのだろうか。恐らくそうなるに違いないとシュウは考える。だが、考えた矢先に、マサキがそれを見抜くだろうと予測しているの自分がいるのを認める。
 それが、恐れ。
 シュウがマサキに感じる本能的な、恐れ。
 見抜いたとしてもマサキはそれを口にはしまい。口にはしないが、態度でそれを露わにするだろう。責めるでもなく、怒るでもなく、ただ、子供を見守るような態度を続ける事で――。
「忘れていました」
 シュウはそこでふと我に返る。
 今日の騒動で忘却しつつあった明日のスケジュールが不意に思い出され、無表情でマサキに語りかける。シュウが考え事をしているのを悟り、黙って食事の様子を眺めていたマサキが、目聡くその変化に気付いたのか、様子を窺うような眼差しで、
「何を」
「明日は遅くなりますから、夕食は要りませんよ」
 それを誤魔化すつもりでシュウは微笑んでみせたが、何故かこの時ばかりは口元が引き攣って上手く笑えなかった。

※ ※ ※

 騒動に巻き込まれたりはしたものの、普段と比べれば時間が早い夕餉だった。三日に渡るシカゴ滞在で疲れていたのもあったが、その遅れを取り戻さなければならないと思う気持ちよりも、せめて今日ぐらいは普通の人間が送るであろう日常を過ごしたいと、シュウが望む気持ちが強かったのは、明日に控える男との対面と、マサキが垣間見せた態度に拠る所が大きかった。
 直で疑問をぶつけてみても、その返事が真実であるのか見極められるものではなかったし、既にマサキに懐疑の念を抱いているシュウからすれば、そういった不毛な会話を嗜むのはただ己れの疑惑を増幅させるだけの愚かな行為に過ぎなく。
 ――それで?
 ――そこで彼はこう言ったのです。「It’s foolish!馬鹿げている」と。
 シュウはただ、当り障りのない会話をマサキが寝床代わりに使っているカウチで続けた。並んで腰を掛けた向かいに遠く、点けっ放しになっているテレビが静かに今日一日の出来事を告げている。それをバックミュージック代わりに淡々と話して聞かせるのは、シカゴでの出来事。不在の日々に、この狭いアパートメントの部屋に欠けてしまった「自分」の存在を改めて植え付けるように、シュウは自分が居た場所での話でそこを埋め尽くす。
 「日常」こそがマサキを慣れさせ、彼の持つ秘密に迫る手段最短の手段だ。
 Haste make waste.急いては事を仕損じる The more haste, the less speed.急がば回れ ――そう、ここはじっくり攻めるべきであり、それこそが最上の搦め手となる。シュウはそう確信していた。
 だからこその「日常」。他人の間では当たり前に繰り返される「会話」は、その鬱屈した気分を発散させるにも丁度いい。それは遊戯としてのコミュニケーションだ。
 シカゴの景色……夜の学者達の破目の外しぶり……学会の合間のそういった気楽な話を語り、折を見てそれに聞き入っているマサキに水を向ける。日本での生活……その暮らしぶりや都市、町の景色、そうして日常生活。短いながらも、それらの問いをはぐらかさずマサキは答え、「世界の広さが違うよな」とその都度最後に口にした。
 会話が尽きれば、映しっぱなしのテレビを訳して聞かせ、それにマサキが反応する。納得してみせたり、或いは疑問を口にしたり ――何をしているのだろう、とシュウ自身疑問が脳裏を掠めたりもしたが、一度口火を切った言葉は、その意思でもってしても容易く収められられない奔流となって溢れ出した。
 このまま明日が来なければいい、そう望む程に。
 ――なんだかさ。
 そろそろ明日に備えて寝室に向かう直前、マサキが笑いながら言った。
 ――遠足に行った子供みたいだったな、今日のお前。
 はしゃいでいるようにマサキの目には映ったのだろうか。それがシュウには可笑しかった。
 それまでなら苦々しい思いをしただけだったに違いないその台詞が、何故かどうしようもなく可笑しかった。
 そうして、かつてなく安らいだ気分でシュウは眠りに就いた。

※ ※ ※

「ふむ」
 突然かけられた声にシュウが振り返ると、シュベールが自慢の顎鬚に手をやりながら手元を覗き込んでいた。その視線は片手で捲る研究用資料にではなく、暇を惜しんで口に運んでいるサンドイッチに向けられている。
 時は昼休み。
 何より苦労が人を成長させるが信条のシュベールは、そうそう生徒の様子を見に来ない。それがこういった気紛れを起こしたのも奇跡的だが、時刻も時刻。確かにこの研究室の多くの博士課程生は、その休み時間を削って研究に打ち込んでいる。そうしなければ、とても後期課程の間に論文を完成させられないようなスケジュールを課せられているのに違いはないが、しかしそれに指導教諭であってもシュベールが付き合う必要はない。ましてや彼にとっても貴重な昼休みなのだ。それは、必要とされれば助言を与えはするものの、基本方針はあくまで放任の彼には似つかわしくない行動だった。
 奇跡が二乗になったような気紛れに加えて、興味があるのは研究内容よりもサンドイッチの方であるらしいのだから、どう返したものか一瞬シュウが途惑うのも無理はなく、
「財布でもなくされましたか」
 言えば、シュベールは突然声を上げて笑い出す。
「シュベール教授」
 怪訝な表情でシュウがその突飛な様子を窺っていると、少ししてシュベールは笑うのを止め、日頃のやや神経質なきらいのある剣呑とした顔付きとは打って変わったにこやかな表情で、先ず謝罪を口にした。
「いや、すまなかった。君にしては中々の切り返しだったものだからな。それもこれもその不思議なランチのお陰かと思ってね」
「どこにでもあるサンドイッチですよ」
 続く台詞に不快を感じ、それを努めて露わにしないようシュウは冷静に返す。
 誰も彼も自分の日常生活をこうして監視し、あの男に告げているのだと疑い出せば際限がない。実力だけの世界で日常――プライベートにまで踏み込まれるのは、そしてそれを興味深い現象とばかりに話の遡上に上げられるのはシュウでなくとも面白くない筈だ。過大な干渉はそれが弱味と成り得るからこそ起こるものなのだろうが、そこまで案じられなくともシュウは自らをコントロールする術を心得ていると自尊している。
「そういう面白味のない台詞は頂けない」
 シュベールは笑みを浮かべたまま話を続けた。
「君はその特殊性から嫌が応でも注目を浴びる存在であるのだよ、シュウ。今朝はダリアに会わなかったのかね? 彼の浮かれようといったら目も当てられない程だ。教授として長年何人もの博士を育ててきた彼ですらあの熱狂ぶりだよ。ましてや一般の生徒からすれば、君はどれだけミステリアスで興味深い存在に映るだろう。日々研究に論文に授業にティーティングに雑務とその激務を平然とこなしてみせる君に足りないものは何だと思う? その努力とそれに堪え得る強靭な精神は評価しえるが、人付き合いはそれだけでは済まないものさ。例えば将来、君の論文が元で論戦になったとしよう。それをただ生真面目にやってみせた所で観客――つまり他の学者達は君を、判を押したように真面目な受け答えしか出来ない人間であると判断するだけだ。それもまた一つの道で君の望むものでもあるだろう。だが、人が求める天才学者というものはエキセントリックさを持ち合わせてなければ興味を引かない。興味を引けない学者はどうなるだろう? 凡百の学者に埋もれて、チャンスもものに出来ない平凡な――そう、とても平凡でありきたりな生涯を終えるものなのさ」
「私はそれでもいいと思いますが」
 一気に捲し立てるシュベールにシュウはそれだけ答える。
 目立ちたい、脚光を浴びたい、などと考えてこの世界に足を踏み入れたのではない。博士号を取って企業に行くのを目標とする人間であったり、学者の世界で権威を目指す人間であったりするのであれば自分をアピールする術にも長けなければならないが、シュウの目的はそれらと違い、その時まではなるべく目立たぬように生きて行きていかねばならない性質のものである。
 生真面目で、職務に忠実で、異を唱えない――上に立つ人間からすれば使い易く、それでいて才能も併せ持つという理想の人間像こそが、これからの自分に最も相応しい仮面なのだ。全てを踏み台にして伸し上がってゆく為には、そうして相手の望む姿を体現して、油断を誘うのが手っ取り早い。
 あの男もいずれは――そうして踏み越えてゆく。
 踏み越えて、この世に終末を与えるのが自分の目的だ。その遠大な目的を悟られない為にも従順に、けれども弱味を見せずに生きていかなければならない。敵を作らず磐石な基盤を得るには、非凡である事をそれとなく認めさせつつも、同時に自身は凡百の徒であるかのように振舞う高等な才能を要求される。だが、他人との付き合いが煩わしいものでしかないシュウは、それがいかに自分に向かない方法であるか理解している。ならば、シュウが取れる手段とは、他人との接触をなるべく避け、その大多数の中に自分を埋没させるという消極的手法に限られる。
「天才の条件とは何だろう?」
 シュベールはシュウの答えに異を唱えるでもなく続けて問う。
「さあ……それが発見出来れば、この世に不公平はなくなるのではないでしょうか」
「簡単なことだ」シュベールはまた顎鬚を撫でる。
 撫でて、笑った。
「何故人は学者になる人間とそうでない人間に分かれるのだろうね。知能があろうとも万人が万人、高等教育を受けるでもない。環境の違い? それは間違いではないが、その為に奨学金制度はある。アメリカンドリームを夢見るものであれば、博士号の重みは知っているだろう。それが夢を実現させる手段になるのであれば、こぞって自らの知能に先行投資するのもやぶさかではない。では、何故その制度を活用しない人間がいるのか。そこには知に対する好奇心の有無が関わってくると思うのだが君はどうだね? これも特には学業の場を必要とはしないものでもあるが、ただ巷に溢れる書物を眺めて好奇心を満足させるより、それを自らの手で解明したいという衝動があるからこそ、ここまで来たのではないかね」
「知識を満たすのは好きですが、そこまで考えたことはありません」
「では何故、君は貪欲に様々な分野に手を出す? それらが全て君の目指す物事の解明に必須のものであるからではないのかね。一つの側面だけから物事を見るのと、多角的視点から物事を見るのでは、見えるものの姿は全く違うものになるだろう。君の目指すのはその視点ではないかと私は踏んでいるが、それは見込み違いだとでも言うつもりかな」
 当たらずとも遠からず――シュウは日頃さして顔を合わせるでもないシュベールの洞察力に感嘆する。そして同時に、彼はダリアとは違う側の人間であると悟った。
 あの男にすら媚びない、逞しいまでにこの世界で己れの力で生き抜こうとする強さが見えた、ような気がする。赤貧の生活を経て今の地位を手に入れたシュベールの精神は、ハングリーさで溢れているのかも知れない。いや、学生に対する態度からして、今でも彼はそれを失ってはいないのだろう。
 シュウは、不思議とその考えを打ち消す気にはならなかった。
 陽気なダリアですら信用ならないと自覚せざるを得ない程に、Give and take. の言葉の上に成り立つ合理的主義者の存在を、現実に今宵それを直視させられる状況に置かれていながらも。
 目指すものは神の座であり、視点であると言ったらシュベールはどういった反応を返すのだろう。 great! と感嘆の声を上げそうな気さえもする――場違いにも想像して、シュウはつい零れそうになる笑みを堪えた。
「さあ、本題に戻ろう」
 僅かな間をおいて、返事を待たずにシュベールが語る。
「天才の条件の一つとして好奇心と、それを貪欲に自らの手で追求しようとする姿勢が必要不可欠なのは今述べた通りだ。だがこれだけでは天才は生まれない。何故か? 多くの学者が功績を残せないのは、自らの構築した理論、或いは先人の残した理論に捕われ過ぎてしまっているからだ。コンコルド錯誤と同じだよ。それまでに費やした時間を無駄にしたくないがあまりに却ってそれに拘泥してしまう。但し、キリスト教徒の場合はまた違った問題にもなるのだが、これは明らかに思想上の問題なので無視しよう。その問題は東洋人たる君には関係ないだろうと思われる」
「彼らは矛盾を解消出来ないまま、学術の徒たろうとしていますね」
「神の視点を持ち込んではならないというルールに、思想的背景を抱え込むが故の葛藤だ。それの矛盾を解消出来ぬまま、彼らはそれでも学術の徒たろうとしている。その努力は評価すべきだろう」
「それも然り――」シュウの答えにシュベールは頷く。
「そう、それも然りだ。彼らの抱える内的矛盾も話の本質とは変わらない。一度や二度の失敗であるのならば、実験手順や理論の発展方法に問題があったのではないかとも思えるが、積年に渡ってこれらが続くのであれば、それは根本的な部分――つまりスタート地点から間違っているとしか考えられない。だが、彼らはあくまでそこに拘泥する。自らの過ちを認めたくないのかと思う程に頑なにね! それでは何も発展しない。これでは、神の存在を予め受け入れているのと同じようなものだ!」
「ノーベル賞を取るには発想の転換と、少しの運があればいい、という言葉もありましたね」
「その通り! 流石に君は察しが早い――そこで話を大幅に戻そうか。エキセントリック、ユーモア、これらは発想の自由がなければ発揮されないものだ。精神の自由は発想の自由に通じる。だからこそ天才と呼称される人々はエキセントリックであり、ユーモアとウィットに富む会話を好むのだ。それこそが既存の常識を打ち破るものであるからね」
 何を目指して話をしているのか、シュウにはシュベールの目的は皆目見当が付かなかったが、程々で切り上げてもらわなければこのまま延々と長広舌を揮われるのは目に見えている。次の講義の時間に食い込まれても困る。シュベールにはシュベールの、シュウにはシュウの予定があるのだ。
 どこかで歯止めをかけるべきと判断したシュウは、相槌を打つのもコミュニケーションには不可欠と、一息ついたシュベールに割って入る形で強引に話を纏める。
「つまり、天才である条件というのは知能に関わらず、好奇心を自らの手で貪欲に追求する姿勢と、発想の自由が必要不可欠だと教授は考えているのですね」
「発想の自由にだけではなく、見切りを付ける思い切りの良さもだ」
「それは中々に贅沢な話であると思いますが」
「そうだろうか」シュベールは身を屈めると、そこでようやく本題とばかりにサンドイッチを指差した。「だから私は不思議なランチと言ったのだよ、シュウ」
 食べながら聞くといい――既に乾きかけているパン生地に、シュベールはそう勧めてデスクに寄りかかった。
 相当の長話にランチタイムはそろそろ終わりに近付いている。折角話を終わらせようと割って入ったものの、それではまだシュベールの結論には至らないようだ。次のコマにある自分の受け持ちの講義が気にならないと言えば嘘になるが、シュベールの話をこうして聞く機会は滅多なことでは訪れない。何より、ここまで踏み込んだ話をされた上に肝心の部分が聞けないのは、正直癪に障る。
 多少の遅刻ならば、生徒も気にはしないだろう。逆に諸手を上げて喜ぶかも知れない。そう思いながら、シュウがサンドイッチを口に運ぶと、それを見届けるのを待っていたとばかりにシュベールは話し出した。

※ ※ ※

 オリオンは今日も燻った七番街の空から、汚れた街を見下ろしている。
 酔っていた、いつも以上に。
 少し離れた場所でタクシーから降り、覚束ない足取りで家路を急ぐ。
 案の定、それとなく探りを入れてくるあの男との対面は、決して快いものではなかった。むしろそれまで無意識下で抑え付けていた忌避と嫌悪を否応なしに自覚させ、シュウにとって、その短くも長いひとときは苦痛以外の何者でもないのだと知らしめた。それでもその感情を押し殺し、堪え、変わらぬ態度で接しなければこれまでの苦労は水泡と帰してしまう。自制心だけでは追い付かず、シュウは結局酒に逃げた。
 いつもより酒の進むシュウを男がどう思ったのか、そんな事はわかりきっている。珍しい、と感心するでもなく淡々と横顔を窺う男に、シュウは微笑った。ただ微笑って、そうしてシュベールとの間に交わされた会話を聞かせた。
 それがもしかすれば、あの孤軍奮闘する明晰なる学者を遠ざける結果になるのも承知で。
 それならばそれでもいい――シュウは思う。
 人脈は自らの手で築き上げるものである。男だけに依りかかり、その立場を甘受するのは如何に目的の為とはいえ、性分に合わない。認められなくとも、自らで切り拓けばいいのだ。それだけの地位を、立場を、シュウは着実に手に入れ始めていたのだから。
 シカゴの学会で手に入れた名刺。文通で繋がった師弟関係。遠く海を越えて共同研究する仲間……縦にも横にもシュウにはあの男に関係のない繋がりがある。それを広げてゆけば、あの男にも劣らないネットワークが完成する。
 情報は与えられるのを待つだけでは先に進まない。
 自ら求め、手に入れてこそ真価を発揮するのだ。
 それが過程であるのならば、手段はあの男でいい。そこに至る過程にまで口を挟ませようとは思わない。いや、思えない。
 否、思えなくなっていた。
 いつしか――そう、本当にいつしか、それまでの歪んだ Give and take. の精神を――それこそが合理的と盲信していた考えを、シュウは覆されてしまっているのを感じた。
 それは誰の所為だっただろう。
 認めまい、認めてなるものかと目を瞑ってここまで生きたシュウを、そこまで変えてしまった「もの」は?
 シュベールは言った。
 ―― 君には確かに才能がある。だが、才能があるだけでは人は天才に成り得ない。努力? そんなものは天才には必要ない。努力さえも至上の歓び足り得るのが天才だ。己の欲望に忠実に知識を貪るのが天才なのだとすれば、いくらでも天才は生まれるだろう。君には才能がある。だが、今迄の君はただの秀才でしかない。
 ―― エキセントリックさとは何だろう? 柔軟性が生み出す無邪気さだ。君はファインマンを知っているかね? そう、あのリチャード・ファインマンさ。物理学で偉大な功績を残したファインマンの逸話を君は聞いた事があるかい? 彼のエキセントリックさ、その無邪気さはあのアトミック・ボム原子爆弾を作った時に発揮された。君は日本人だね、シュウ。私よりもその悲惨さを知っているだろう。あのリトル・ボーイがどれだけの被害をもたらしたのか。
 ――ファインマンはその実験の時、立ち上がるキノコ雲を見て無邪気に喜んだんだよ。解るかね、この意味が。彼は自分の理論が正しかった事を、ただ無邪気に喜んでみせたのさ。何故? 大量の命を奪うだろう兵器を作っておきながら、何故? 答えは簡単だ。実験が上手くいったからだよ。自分の脳内にあった結果と一致したから喜んだのさ。それが学者の本望だろう?
 ――倫理に縛られていたら技術は進化しない。無論、私は戦争を、人の命を奪う行為を肯定する気持ちなど微塵もないよ。だが、時にそういった冒険を、危険を承知で行なってみせる人間が技術の進歩には必要なのさ。頭から宗教を盾にして倫理を説く連中が聞いたらどう思うだろうね。けれども、その罪業に一々胸を痛めていたら、それこそ何も出来はしないだろう。そんな事は倫理の専門家に任せておけばいいのだよ。やるべき事を然るべき方法で成してみせた人間に、賞賛こそすれ責めるなどお門違いの話だ。そうは思わないかね。
 ――傍からすれば、ファインマンの行為は残虐に映るだろう。事実、彼は後に相当その姿勢を責められた。馬鹿げている! 彼がやらなくとも誰かがいずれはやった行為さ。ただ彼の柔軟な頭脳から生み出された方法論が的を得ていただけの話だというのに。
 ―― シュウ、君にはそういった感慨が感じられない。先の見えるレールの上に乗って、何事も成しているようにしか私には見えない。出来て当然――そういった思いを、私だけでなく皆が感じているからこそ、君はよりいっそうミステリアスに映る。不思議な事だね。君は一人の人間であるというのに! 私達と同じ、感情を持った人間であるというのに!
 その弁舌にシュウは言葉を挟めなかった。黙ってシュベールの説く言葉を聞いているしかなかった。
 反論したい部分は多々あったにせよ、それは立場の違いだけでなく、不思議な説得力を持ってシュウの胸に飛び込んで来たのだ。それまでなら、決して受け入れられなかっただろう数々の言葉を、シュウは甘んじて受け止め、その為にレールを踏み外してさえ見せた。どういった事情があれ、自分に課せられた雑事は全て隙なくこなしてきたシュウだったのに。
 午後の講義開始から大幅に時間が過ぎていたのを知りつつも、ずうっと。
 シュベールの言葉に耳を傾けて。
 ――君はいつも時間を惜しむように何事にもあたっていたね。食事の時間さえも削って。他の生徒からすればそこまで時間を惜しむのは当然、という半面、何もそこまで急がずともという思いはあって然るべき。かくいう私もその一人さ。ダブル・ドクターだろうとトリプル・ドクターだろうと、人生とはそこまで有限なものなのかとね。確かに時間は限られている。けれども僅か数年単位でそれを成し遂げる必要は果たしてあるのだろうか? 明日死ぬとしても、それまでの功績が消えるものではないだろう。私が、他の人間が、それを伝えて行く限り。
 ――不思議なランチだね、シュウ。君は昼食を口にするようになった。それは君にとって些細な違いでしかないかも知れない。けれども、私達からすればそれはとても人間らしい営みなんだよ。君がようやく君らしさを見せたようにね思えたのさ。だから、皆、こぞってそのランチを話題にする。君を人間たらしめるその行為に至らせた変革を、気にしない人間はこの研究室にはいないのではないかな。
 ――だから私はそのランチを覗きにきたのさ、シュウ。君は気付いていないかも知れないけれど、そのランチは君をこれから天才に押し上げる一歩になるやも知れないよ。何故なら君は――……。
 オリオンが見下ろしている。シュウは白く濁る息を吐いて、それをまた見上げる。
 幾百、幾千と人がひしめき合うこの街を見下ろすオリオン。地べたに這いつくばるしかない、今日を生きるのに必死な人間を嘲笑うように天上から極上の光を放ち、その高みからすれば、小さな、本当に小さな、砂粒よりも小さな存在を見下ろして――神の視点を持つ、神話の英雄は何を思う?
 そこに辿り着こうと足掻く、この小さな存在を見て何を。
「…………っ」
 胸が騒いで、その痛みにも似た混迷感と腐食感にシュウは胸元を掴んだ。
 暗く、心の深淵に潜み、常に己れを寝食し続ける「もの」が騒ぎ出す――何故、自分が誰よりも強い自己統制力を望んだのか。何故、酒を頑なに拒み続けたのか。何故、他者との交わりを忌避して生きてきたのか。何故……。
 棲んでいるのだ、ここに。
 自分を突き動かす「もの」が。
 けれどもシュウはその存在を認めない。不可知たる存在に己れの行動を、意思を、感情を制御されるなど誰が望むだろう。ここに居るのは、たった一人の他に存在し得ない自己。シュウという名を名乗る事で過去の柵を断ち切った、孤独なるも孤高に在る自己なのだ。
 「それ」を決して表に出したくがない故に強さを望み、「それ」に決して支配されていないと確かめたいが故に頑なに自己を保持した。
 シュウが神の視点を望むのは、「それ」に対する挑戦でもある。
 それを自分が成したのであれば、「それ」に自己の意思が打ち勝った証左となる。「それ」は既にその視点を持ち、その視点からこうしてシュウに介入しようと働きかけてきている。ならば、今のこの身のままその視点を手に入れ、その立場に君臨出来れば、それは己れの意思以外の何者でもないと言い切れる。言い切れる筈なのだ。
 A≠Bシュウ≠それであるのを証明するのには、AがB以外のものであると証明しなければならない。A=Cであったとしても、A=Dであったとしてもいいのだ。AがB以外の「もの」であるとさえ証明出来れば。
 それに最短で辿り着く証明方法はAがBシュウがそれになる事だ。
 AがBとなれば、それまでのAはBでない事になる。他にも方法はあるだろう。だが、シュウの持つそれ以外の目的、信念が合致するのはその方法しかない。だからこそのパラドキシカルな証明方法。逆転の公式。
「それでも……私は……私、は」
 怖い。
 恐怖に押し潰されそうだ。
 それを抱えて生きて、生きて、己れの力だけでどうにかしてみせるとここまで来た。それが当然だと思っていた。いや、今でも思っているのだ。なのに――。
 スロープを上がる足が震えている。
 壁に着いた手が震えている。
 自分が自分で在る。たったそれだけの事さえも、ままならないこの身が怖い――シュウが明確な恐怖を感じたのは、自分で思いつく限りでも初めてだ。いや違う、その感情さえもひたすら押し殺して生きてきた。そうして生きるしかなかった。
 誰かにその心情を吐露してしまえれば、もっと楽な生き方を選択していただろう。こうして故郷を離れ、孤独に戦いもがく日々を送る必要もなかっただろう。シュウがそうしなかったのは、信頼に値する人間を得られなかったからだ。上辺だけは穏やかに、しかし本心は計れない入り組んだ人間関係を、既に垣間見てしまっていたシュウからすれば、それは猜疑に塗れた世界観構築の礎に足る過去だ。
 誰であろうと、血縁であろうと、信用してはならない。
 信用すれば、その隙につけ入れられる。
「長い……ん、ですよ。この階段は」
 鉛のような体を引き摺って階段を上る。その一歩一歩がひたすらもどかしいが、思うように動かない体は焦れる心を助長させはしても、緩和させはしてくれない。
 呪文のように繰り返したシュベールの言葉も、既に伸びきってしまったカセットテープのように心を空回りするだけだ。呑んでいるのにも関わらず凍える体。それを無理に奮わせてシュウは階段を上る。
 ニューヨークの冬の寒さがいっそう身に染みる。
 このまま階段に身を横たえてしまえれば……そう思いながらもシュウは先を行く。一歩、また一歩と階段を上る。酩酊状態でありながら、どこかが奇妙に冴えている脳はそこで足を止めるのを良しとはしてくれない。
 そこ、に辿り着きたい。その一念がある。
 その空間を、シュウは自分のスペースだと思ったことはなかった。自分の物で溢れるアパートのさして広くもない部屋は、一人になれる格好の場所ではあったけれども、所詮は奉仕の産物だ。身銭を切ってそこを選んでいたのであれば、ここだけは自分の居場所なのだと愉悦に浸ることもできただろうが。
 そうではない。
 そうではないのだ。
 Give and take. 付き纏う言葉はいつでもそれだ。
 シュウは妥協してその空間を選択した。七番街の比較的治安のいい場所にあるこのアパートを、援助を受ける身であるのを踏まえた上で敢えて選択したのだ。あの男は居所にこそ踏み込んではこなかったものの、シュウにとって援助という現実は、だからこそ「そこは自分の場所であって、自分の場所ではない」という奇妙な空間と認識させた。
 どこであろうと心は休まらず、追い立てられるがままに過ぎた日々。そこに置かれたのは、必要に迫られてシュウが買い求めたものばかりだった。二人掛けのスチール製のダイニングテーブルも、テレビから程遠い位置にあるカウチも、その脇のスタンドライトも――一見無駄に見えようとも、必要だったから買い求めたまでの事。
 そこに「遊び」はなかった。テレビは緊急時のニュースを知るのに必要だからと買い、電話は連絡を取るのに必要だから買った。食材があったためしのない冷蔵庫も、飲料用のミネラルウォーターを入れるのに必要だから買った。取捨選択の基準は、要不要、それだけだ。娯楽など入る余地はない。
 ほんの二週間ほど前までは、それが当たり前だったのだ。
 インスタント以外の新鮮な食材で自炊する、そんな余裕を持とうなど思いもしなかった。
 点けもしないテレビでニュース以外の番組を目にする、そんな考え自体がなかった。
 予想外の闖入者はそれを悉く破り、新たな風を室内に呼び込んだ。食材が詰め込まれた冷蔵庫、バラエティが流れるテレビ、そして、その存在そのもの――他人という新風。「会話」という最大の遊びは、それまでのシュウなら特に厭ったものだっただろう。
 だがそれは、その部屋の持つ空気を和らげてくれた。
 一人で住むにはいささか広いアパートメントの一室には、奉仕と代償という気詰まりする空気がいつも立ち込めていたのだから。
 ――長い階段を上りきって、十階のフロアへ出る。
 薄暗い照明の下に人影はなく、罅割れた壁を挟み込むドアの群れが光を受けて、うっすらと無機質な姿を晒している。悪趣味なペインティングが随所になされた壁を拠り所に、シュウは先を進み、ようやく自分の部屋の前に立つ。夜も遅いこの時刻、時差ボケが治らないとぼやいていた闖入者はまだ起きているのだろうか? ――起きているのだろう。思い返せばシュウは彼が寝ているところを見た覚えがない。カウチの上のブランケットはいつでも丁寧に折りたたまれたままだ。彼がそこに腰を掛けることはあっても横になることはない。自分が起きている以上は彼も起きているのだ。そんな確信めいた錯誤をさせるぐらいに、この部屋での彼は何かしらのアクションで以って存在を主張している。歌い、聞き、語り、沈黙し……それでもシュウはポケットから取り出した鍵を、なるべく音を立てぬよう注意を払って静かにドアに差し込む。
 そうっと――回し、開く。
 玄関に一歩入るなり目に入るあの邪魔なドアは、スタンドライトのものと思しき儚い光を滲ませていた。

※ ※ ※

 マサキはカウチの肘当てにもたれるように体を預け、窓の外を見ていた。
 スタンドライトの光に照らされて淡く浮かび上がる姿は、どこか退廃的に映る。テレビも点けず、毛布に包まる気配も見せず、寒さ染み入る室内で、そうして独りで景色を眺める背中がやけに頼りない。寄る辺を持たない青年は、何処にも行けぬままここで過ごしていたのだろうか。まるで今にも消えてしまいそうな雰囲気に、シュウは思わず息を呑む。
「――ああ、帰って来たのか。遅かったな」
 その気配に気付いて振り返ったマサキが変わらぬ笑みを浮かべて、
「水、飲むか?」立ち上がろうとするのをシュウは制する。「いいえ。要りませんよ――」
 怪訝な表情で腰を戻すマサキの目の前で鞄を床に落として、シュウはカウチに歩み寄る。一歩一歩がずしりと重く感じられるのは、酒の所為だけでは決してない。
 シュウを真正面から見据える双眸は、薄闇の中でうっすらと新緑の光を湛えていた。怪訝な素振りを見せながらも、変わらぬ温もりを孕んで。その縁に線引く眼差しに、黒人の青年を退けたあの勢いがあったのならば、シュウもたかだか数歩に怯えずとも済んだものを。
 消えてしまいそうだったのだ。
 そのまま透けて。
 他人として存在している筈のマサキの気配は、それ程に稀薄で――酷く、現実感のないものとしてシュウには捉えられた。
 帰りたかった理由は、そこにある。自分の部屋でありながら自分のものではなかった部屋に、ようやくそれらしい彩りを添えてくれた存在。それがどれだけ、自分を自分としてこの世に繋ぎ止めてくれるものであるのかマサキは知らないだろう。
 シュウも知らなかった。
 闇に呑み込まれる意識が、光を求めるその瞬間まで考えもしなかった。
 おい――、とマサキが非難めいた声を上げる。カウチに体を投げ出すと同時に、それまでの緊張感から解放された所為だろう。視界が一気に暗くなったかと思うと、シュウはそのままマサキを巻き込む形で倒れ込んでいた。
「……何だよ、急に」
 そこには確かな温もりがある。
 消失を恐れたのは、拠り所を失うと思ったからだろうか。それでも不安に怯える心は消えはしないのに。けれども頼りたい存在も、頼れる存在も、シュウにはそれしかなかった。それ以外など範疇の外だった。――どうした、と不安げに問い掛ける声を聞きながら、シュウは求めるがままマサキの服を掴んで、それを手繰り寄せようと指を掻く。けれども弛緩しきった体には、上手く力が入らない。二度、三度、四度……試しては無力に外れる指をまた服に掛け、それでも外れる指に構わずがむしゃらに掻く。
 誰にも話せぬまま、自らの内にあるもう一つの意思と戦ってきた消耗は、シュウが意識しまいとしたところで確実にその心と体を蝕んでゆく「感情もの」だったのだ。それを愚かな考えだと一刀両断するのは容易い。しかし――自嘲しつつもシュウは止められない。
「――怖い」
 掠れた声で呟いて、シュウは自分の放った言葉の重みを知る。
 意思の力などどれだけのものだろう。こうして弱きを突かれれば直ぐにも本性を曝け出す。たかだか酒に溺れただけでも、こうして無様に。疲弊――そう、もうずっとシュウは疲弊していたのだ。抗い続ける運命に捕えられたその日から、ずうっと。
「――怖い」
 マサキは何も答えなかった。口に出しては何も。
 その手を伸ばしてシュウの手に重ねただけで、他には何ひとつ言葉を挟まず、まるでそれが最善だとでもいう様子で居る。
「自分が自分でいられなくなるのが――怖い」
 シュウはその手を払い除けて、改めて掴む。それが年齢相応なのか、それとも彼が歩んできた道がそうさせたのか判断は付かない。だが、マサキの掌には思いがけない厚みがあった。
 それを掴んで、それに縋って、シュウは言葉を吐く。
「私が私以外の何かに――」
 胸の奥に蟠る闇は深く、躰ごと呑み込んでしまいそうだ。
 躰の芯からせり上がってくる不快な感触が、じわり……じわり……、と四肢に染み出す。それは一思いに弾けて、うねり、猛り、襲い掛かる。感情も思考も全て喰らい尽くそうと縦横無尽の網を張る。この有様と、蜘蛛が牙剥く巣の上で絡み付いた糸を解けずもがく獲物は何処が違うというのだろう。一瞬の隙を狙い「それ」は常にそこに控えている。
 漆黒の闇の侵蝕は激しい。一筋の光さえ差し込まぬ冥くかそけき世界の中にシュウはいて、現世との繋がりを掌に留めた温もりだけに求めている。
 それは行きずりの他人だからこそ成せる技なのかも知れない。ただ酔いに身を任せただけの蛮行なのかも知れない。けれどもシュウが、今、他の誰でもなくマサキを必要としているのは紛れもない事実。それだけは何にも変えられない、事実なのだ。
 ――そうか、お前はずうっと……苦しんで。
 声は紛れもなくマサキのものだった。
 ――……大丈夫だ。
 黒く塗り込められた視界の隅に、白い何かが過ぎった――ように感じた。
 それはいつしか見た終末の景色。イコン。鈍色の街並みに橙と灰に薄くグラデーションを描く空が覆い被さり、その雲間から光が線となって降り注ぐ世界。そこに白い翼をはためかせ降り立つ神の使徒。聖女の微笑みアルカイックスマイルを浮かべて天上より救済の手を差し伸べる神の助力たれとロンドを舞う。
 その白い翼より、零れ落ちた一枚の羽根、の、ように。
 それは緩く不均衡な曲線を描いて冥い視界から過ぎ去っていった。
 白い軌跡の名残を眺めるシュウの手から力が抜ける。
 奇跡など信じはしない。それは自らの手で成すものだ。けれども闇に出現した白い軌跡は、それらを超越した存在として映る。錯覚であったとしても、夢幻であったとしても、闇に舞う白い羽根のそのイメージは消えない。

 ――大丈夫だ。お前はまだここに居る。

 名付けるならば、希望。

 ――お前はまだここに居る。

 白い翼から零れた羽根の名は。

 ――だから、大丈夫だ。まだ、大丈夫だ。

 ほどかれた手がシュウを抱いていた。その腕の中で弛緩した躰を預けきって、胸板越しに直に響いてくる言葉を聞く。
 強さと優しさを兼ね備えた穏やかな声だ。
 最初から彼――マサキはこうして穏やかに声を吐き、穏やかにシュウを凝視めていた。ひとかけらの打算もないままに、ただそこに居た。見返りなど求めないと全身で訴えつつ、無償の奉仕を続けて。
 目的など知らない。秘密などわかりようもない。
 それさえもどうでもいいと思わせる力を持った言葉だった。

 ――何故ならお前は、
 ――何故なら君は、

 その声に被さるように聞こえてくる、もうひとつの言葉。
 シュウの心を覆っていた壁にいつしか入っていた亀裂に楔を打ち込んだ――。

 ――何故なら君は、ようやく他人を頼ることを覚えたのだから。

 シュベールの言葉は正しい。