プレシア=ゼノサキスのいと稚き嫌悪
嫌いで結構ですよ――と、プレシアが決して許す訳にはいかない相手は、そんなことはとうに承知しているとばかりに口元を緩ませてみせた。
笑っているつもりらしい。
屈託なく笑うということをしない男。彼の笑顔はいつ見ても、目が笑っていないように映る。そう感じているのはプレシアだけに留まらないようで、義兄であるマサキなどは良く、鼻持ちならない顔と彼の表情を評していたものだった。
あなたなんて大嫌い。
つい感情的になって口走ってしまった言葉だった。
朝食の席で話題に上った、彼とマサキの現在の関係性についての。どうも彼とマサキは、プレシアの与り知らぬところで、他人にその関係を誤解させるような振る舞いに及んでいるらしい――それを耳にした瞬間、プレシアの鼓動は一気に跳ね上がったものだった。
確かに昔と比べると、両者とも互いに対する当たりが弱くなったようには感じていたものの、彼はあの他者を見下ろすような性格を変えるつもりはなかったようだったし、マサキに至ってはプレシアの義兄だ。遅遅たるゼオルートを彼の凶刃で喪ったプレシアのままならない感情を知っていながら、彼とそういった振る舞いに及ぶことなど有り得るだろうか。
少女に成長を遂げたプレシアは、テュッティが匂わせた行為の内容に想像が及ぶようになってしまっていた。だからこそ、朝の早駆けから帰宅したマサキと入れ違いにゼオルートの館を出たプレシアは、魔装機ディアブロとともに当てもなく流離うこととしたのだ。心を落ち着けなければ、とてもではないが義兄とは顔を合わせられない……いつかはマサキと離れなければならない日が来るとわかっていても、その原因があの男になるのだけは嫌だ。見渡しのいい平原でディアブロを停めたプレシアは、金色の原野の只中で物思いに耽った。
マサキはいつもそうだ。プレシアの気持ちなど考えずに、勝手に様々なことを決めていってしまう。そうして自分自身の気持ちの整理を付けてしまうと、後ろを付いて歩いている他人の存在など気にも留めずに。ひとり道を開拓するように、どんどん前へと。先んじて未来へと進んでゆくマサキの遠くぼやけているように感じられる背中。義理の兄妹である筈のふたりの距離は離れてゆく一方だ。
確かに、意固地になっているとプレシア自身も思っていはいた。真に斃すべき仇は、彼の精神に巣食って父の命を奪うよう囁きかけたサーヴァ=ヴォルクルス。それを彼もまたわかっているからこそ、いつ終わるとも知れない邪神教団との戦いを続けているのだろう。それこそが父ゼオルートに命を生かされた彼がすべき贖罪。その身に背負わされし運命に抗う手段でもある。
わかり過ぎるぐらいにわかっている事実を、けれどもプレシアが受け入れ難く感じてしまうのは、ゼオルートが父として生きることよりも、剣聖として命を終えることを選んだからなのだろうと思う。土壇場で父の愛情を失ったプレシアは、常々そうであると云い聞かせられて育った父の矜持が真実であることに誇りを抱くよりも、蟠りを抱えてしまったのだ。
道に迷った時に、さりげなく答えを示してくれた父はもういない。
ひとりで答えを出さなければならない問題に直面してしまったプレシアは、成長とともに失われてゆく自身の幼児性を悲しく思いながらも、結局は物わかりのいい大人を演じなければならなくなるのだと、今再び、いずれ訪れくるその日に想いを馳せてみた。
……受け入れられる気がしない。
そもそもリューネ然り、ウエンディ然りと、面倒見のいい女性たちにあれだけ想われていながら、義兄たるマサキは全くといっていいほど、そういった意味で彼女らに興味をそそられることはないようだった。プレシアは何度何で? と無邪気な振りを装って、マサキに尋ねてみたことだろう。けれどもマサキの返事はいつでも一緒だ。どこまで本気なのやら。どうやらマサキは、彼女らの気持ちが一過性のものであると思っているようで、そう口にしては、それ以上は無駄話と黙して語らず。
伊達や酔狂で地底世界に定住を決めたり、何年にも渡って愛情を捧げ続けられたりもしないものだろうに。
そもそもマサキは、テュッティやヤンロン、ミオといった他の魔装機神の操者たち、或いは義妹であるプレシアとの家族的な絆は信用しているようであったけれども、それ以外の個人的な付き合いの相手の好意のあるなしには頓着していないようだった。俺が好きだからって、相手が俺を好きとは限らない。世の中ってのはそういうもんだろ。悟ったような口をきくマサキが地上世界でどういった生き方をしてきたのか。プレシアはそれを耳にしたことはなかったけれども、恐らくは他人の愛情を容易には信じきれない環境に置かれていたのだろう。時に有情に他人の死に動揺してみせる義兄は、そのくせ人付き合いには無情な一面をみせたものだ。
その義兄が斃すべき敵として執着し続けた男。そうして助けるべき存在であると赦した男。
マサキにとって、彼はテュッティやウエンディと同様に、自らの力ではままならない精神上の問題を抱えているが故に、支えとなってやる必要のある存在だと感じているだけのなのだとプレシアは思っていた。
そうした存在に対してマサキは誰よりも寛容になる。もしかすると、プレシアの知らない地上時代の義兄は、そうした問題に直面したことがあるのやも知れない。そうでなければ不可解に感じるまでに、マサキは彼女らが、そして彼が抱えてしまっている問題に対して、理解があるように映ったものだった。
それならば仕方がない。時に近しく感じられるマサキと彼の関係性に、だからこそプレシアは目を瞑ってきた。プレシアに触れられたくないと感じる心の傷があるように、義兄にも触れられたくない心の傷がある。彼への妙に馴染み切った態度の数々も、きっとそうしたところからきているのだ。もう直ぐ義兄を追いかけて成人するプレシアは、そこまで考えを及ぼせられる大人になっていた。
――そうやって物わかりが良くなっていくあたしが、あたしは大嫌い。
物煩いもいつかは終わる。いつしか落ち着きを取り戻してしまっていた心に、そうプレシアが思った瞬間だった。
「おや、プレシア。珍しい。あなたひとりですか」
青い機影も鮮やかに。魔神とも呼称される機体の絶望的な存在感は今日も健在だ。ディアブロの直ぐ近くにまで迫って来たグランゾンに、プレシアの胸はさんざめいた。どうしてこの人は、あたしが自分のことを嫌っていると知っていながら、あたしを構いに来るのだろう。
いつまで経っても解けぬ謎。彼は剣の稽古を求めて館を訪れては、その後に僅かに、まだ幼児だったプレシアを構って帰るような男だった……将を射んとする者はまず馬を射よ、だ。だからこそプレシアは、彼が目的の為に自分の関心を買おうとしているだけなのだと思い込むようにしていた。
そうでなければ、プレシアは自分を保てない。
父の無念をひとりで果たしきれないプレシアは、自分の未熟さを、才能の限界を、思い知ってしまっていたからこそ、自らの消化しきれない感情をぶつける先を求めてしまっていた。
「悪かったですね、お兄ちゃんと一緒じゃなくて」
「そういった意味で云ったつもりはなかったのですがね」
稚いものを愛でるような彼からの自分に向けられる視線が、プレシアは嫌いだった。何を云っても、云っても、云っても、子供の云うことのようにいなされる。どうせあたしが何も出来ないと思ってるのよ。ディアブロでは手も足も出ない青銅の魔神グランゾン。プレシアとて成長していない筈はないのに、傷ひとつ付けられる気がしない。
義兄たるマサキと同じだ。追い付いたと思った頃には、遥か先を歩いている。
様々な才能に恵まれた彼は何を目指し、何処に向かっているのだろう。プレシアにはそれが気になって仕方がない。科学と練金学を味方に付け、その技術の全てを注ぎ込んだような機体を乗りこなし、自身もまた戦場に立つ彼は、ある意味才能を側溝に捨てているように感じられもするものだったからこそ。
「どうだか。あなたのことですもの。どうせあたしなんて、お兄ちゃんのおまけぐらいに思ってるんじゃないですか」
「虫の居所が良くないようですね。何かありましたか、プレシア」
「自分の胸に手を当てて考えてみればいいじゃないですか」
「おかしなことを吹き込まれたようだ」
そう云って、その事実が可笑しくて堪らないといった様子で声を潜ませて嗤う彼に、プレシアの気は増々昂るばかり。そこで彼は悪戯心を発揮したのだろう。時として彼は、傍迷惑にも誤解を振り撒くと承知で、そういった意味に捕らえられる言葉を吐いてみせることがある。
「思い当たることが複数あるとはいえ、果たしてどれについてあなたが云っているものか」
だからこそ、しらとそういった台詞を口にする彼に、プレシアは激高してしまったのだ。
「あたしの大事なお兄ちゃんを取らないでって云ってるの!」
「何をどうしたらそういった台詞が出てくるのかはわかりませんが、それはマサキ自身が決めることですよ、プレシア。とはいえ、マサキのこと。あなたを残してひとりで生きていくことはないでしょうが」
そうであって欲しいとプレシアは望んでいる。その望みを見透かすように言葉を吐かれてしまったのが、プレシアには増々癪に触って仕方がない。あなたなんて大嫌い! 思いがけず口を衝いて出てしまった言葉に、けれども彼は動じる様子も見せずに、
――嫌いで結構ですよ、プレシア。
その瞬間に、プレシアは悟ってしまったのだ。彼のプレシア、或いはゼオルートへの贖罪の覚悟と、傾倒するマサキへの感情は、決して同次元で語られるものではないのだと。
プレシアの中ではひとつの線で繋がっているその現実は、彼の中では独立した要素になっている。その考え方を支えているのは、もしかすると義兄たるマサキ自身であるのやも知れない。そうでなければ、どうしてここまで彼は自信を崩さずにいられたものか!
プレシアの知らないところで時間を重ねてきたふたりは、プレシアが思っている以上に共感的な深い繋がりを得てしまっているのだろう――。いけ好かない笑い顔。けれどもきっとマサキにとっては、馴染み深い表情となっているに違いない笑い顔。それを暫く無言で眺めていたプレシアは、次の瞬間、思いっきり顔を顰めてみせると、舌を突き出して。本当にあなたが大嫌い! 彼に向けて声を張り上げながら、精一杯の愛情表現をしてみせた。