春幽けき日にありったけのお返しを - 5/6

Scene 4.路地裏で

 セニアに渡された身上調査所によると、ゼフォーラ姉妹は両親に売られる形で大道芸人の一団に加わったらしい。
 流石は情報局の調査報告書だけはある。それはどうやらシュウをして未入手の情報だったようだ。彼はゼフォーラ姉妹の両親という存在に大いに食指を動かされた様子で、出来ればそちらの調査を担当したいとマサキたちに申し出てきた。
「彼らに話を聞ければ、彼女らの能力の真贋も付くでしょう」
「確かにな。そこを確認出来ないことには、身柄の確保をすべきかどうかも決められない」
「なら、僕たちは街の人たちに彼女らの交際範囲について聞き込んでみますよ。そこから怪しい人物が浮かんでこないか洗い出してみます」
 現在のゼフォーラ姉妹の周辺の調査をファングとザッシュに任せたマサキは、シュウとともに彼女らの両親の許へと向かった。
 ザルダバの居住区の片隅にあるこじんまりとした一軒家。そこに住まうゼフォーラ姉妹の実の両親は、マサキたちの来訪の理由を知ると露骨に嫌な顔をしてみせた。どうやら自分たちの子どもにいい感情を抱いていないらしい。兎に角不気味な子たちで――と、怯えた表情で語り始めた母親の脇で、父親は始終渋い表情を崩さなかった。
 どうやら姉妹のうち、成長が少しばかり早いのが姉であるシーシャであるらしい。あの子の方が背が高い分、少し細いんです。流石は母親。姉妹の見分け方を心得ている。それがそっくりな双子である彼女らには不思議だったようだ。姉妹はどちらが姉でどちらが妹かをよく母親に尋ねてきては、答えの正しさに驚いていたという。
 それが五歳のある時を境に、上手くいかなくなった。
 最初はふたりが嘘を吐いているのだと思ったのだという。シーシャと呼べば私はミーシャと云われ、ミーシャと呼べば私はシーシャだと云われる。些細な外見上の違いは変わらないのに、中身だけが入れ替わってしまったかのように、その時々で自分たちの名前を逆に口にするシーシャとミーシャ。幾度か注意をしても態度の改まらなかったふたりは、「どうしてお母さんは私たちの姿しか見てくれないの?」と、或る日母親に訴えてきたのだそうだ。
「そこから注意してよく見てみると、あの子たちの行動そのものにも変化が起こっていることに気付いたんです」
 シーシャの外見をしながら行動はミーシャそのもの。その逆も然りで、ミーシャの外見をしながら行動はシーシャそのものだったりする双子の姉妹に、まさか――と思いながらも、母親は彼女らの中身が入れ替わっていることを認めざるを得なくなっていったようだ。
 ふたりの姉妹が六歳になったある日のこと。夜も更けてからドアを叩かれた母親は、その向こう側に立っていた近所の知り合いの夫婦が、「ねえお母さん、見て! 私たちこんなことも出来るのよ!」と云ったのを聞いて卒倒しそうになった。慌てて姉妹が寝ている部屋に飛び込むと、そこには静かな寝息を立てて眠るふたりの姿が確かにある。「他人にそういった真似をするのは止めなさい!」
 双子を説得して知り合いの家に夫婦の身体を返させた母親は、翌日、その夫婦に昨晩おかしなことがなかったかを尋ねた。夫婦は晩酌を始めて間もなく意識を失いったことと、気付いた時にはベッドの上だったことを母親に話して聞かせた。
「けれどもあの子たちは、私の目を盗んで、その後も方々で他人の身体に乗り移っていたのです」
 双子が九歳となった或る日。ザルダバの地方新聞にある老人の死が掲載された。
 川で溺れ死んだ老人の記事を、ようやく新聞が読めるようになった姉妹は母親に掲げてみせた。お母さん、この人知ってる? 街では有名な商人だと母親が教えると、この人悪い人なのよ。姉妹は口を揃えて云ったという。
「色んな人を脅してお金を巻き上げてたの。だから罰を与えたの」
 それからの姉妹は、自分たちが他人に憑依出来ることを隠さなくなっていったのだという。勿論、彼女らの周囲の人間たちは、その告白を素直に信じはしなかった。けれども、彼女らの予告通りに人が死ぬのを知るようになってからは、母親と同じように現実を認めざるを得なくなっていったようだ。そして、近所や学校の関係者から話が広まること二年。噂が噂を呼び、双子の名前は街中に知られるまでとなった。
「それで良く、今の今まで無事に過ごせましたね」
「治安部隊に訴えたこともあったのですが、そちらには信用していただけなくて。いえ、信用してくださる方もいらっしゃったのですが、証拠が出ない以上は罰せられないと……それもあって、私たち夫婦はあの子たちを手放す決心をしたのです」

 ※ ※ ※

「後味のいい調査じゃなかったな」
「しかし彼女らの能力が本物であるという確証は得られましたよ」
 夕刻を過ぎて、待ち合わせの場所に戻る道すがら。母親の話を振り返りながらマサキが口にすれば、シュウはシュウで思うところがあるようだ。どことなく険しい表情を晒しつつ、それでも前向きに事態を捉える台詞を吐いた。
「ところであなた方は、この後はどうされるつもりです。このまま彼女らの身柄の確保に動きますか」
「お前が自分で云ったんだろうよ。彼女の側には王室のゴシップを吹き込んだヤツがいるって。それを洗い出してからでないと、結局蜥蜴の尻尾切りで終わっちまうだろ」
「それでしたら、明日、もう一度彼女らのステージを見に行きませんか」
 今更収穫もあるまいとマサキが何故と口にすれば、シュウには考えがあるらしい。夕餉の匂いが漂う街角をマサキと肩を並べて歩きながら、自説を開陳し始める。
「既に第三の預言が成就している以上、第四の成就も時間の問題でしょう。あの預言書がサーヴァ=ヴォルクルスに捧げられるものである以上、起こり得る奇跡は彼女らを危険に晒しかねないものである可能性が高い」
 言葉を濁してはいるものの、それはゼフォーラ姉妹の命に危機が迫っていると云っているに等しい。
 マサキはシュウの言葉に考え込んだ。彼女らの能力はそれ単体でも奇跡と呼べるものである。憑依術。それ以上の奇跡など彼女らには望むべくもない。だが、預言は謳う。西の双子は奇跡を起こすと。それも東で祝福が起こった後にだ。
 彼女らの能力の発現は五歳の時だと母親は証言している。だとすれば、憑依術そのものは預言に記された奇跡ではないということになる。この場合考えられる可能性はふたつだ。ひとつはそれ以上の奇跡を彼女らが起こす可能性、もうひとつは預言に関わる双子が彼女らではない可能性だ。
 マサキたちは後者の可能性を全く考慮していなかったが、それは正しいのだろうか? マサキは不安に駆られながら、けれども――と、その可能性を打ち消した。今から全く無名の双子を探すとなると、砂の中から一粒の砂金を探すに等しい。それに、マサキたちはセニアの命でザルダバに赴いているのだ。
 だったら、今得ている情報で勝負をするしかない。
「しかし奇跡って云ってもだな、ヴォルクルスが普通の奇跡を求めるなんてそんなこと」
 そこまで口に瞬間、マサキの脳の片隅で何かが弾けた。
「そうだ……奴が普通の奇跡を求める筈がない」マサキは足を止めた。
 先をゆくシュウの上着を掴み、今しがた頭を過ぎった考えを浚う為に脳をフル回転させる。ヴォルクルスにとっての祝福が、イコール死であるのだとすれば、同じく奇跡もまた逆説的な意味合いを持つものである筈だ。それは何だ?
 サーヴァ=ヴォルクルスは実存する神である。けれどもそう容易くは完全体として現れることがない。だとすればヴォルクルスにとっての奇跡とは、己が完全体としてラ・ギアス世界に降臨することではないのだろうか。その為に必要なもの。まがヴォルクルスは人間の恐怖の感情を何よりも好むと云う……。
 それ即ち、裏切りと死だ。
 マサキはシュウの上着を掴んでいる手に力を込めた。
「……まさか、お前。祝福に続いて奇跡もまた人の命を奪うものであるって考えてるんじゃないだろうな」
「そうでなければ話が通らないでしょう」シュウは足を止めてマサキを振り返った。「いいですか、マサキ。あの預言書はサーヴァ=ヴォルクルスの本体が、その果てに顕現すると断じているのですよ。それは即ち、それまでの預言で起こり得た事象の全てが、ヴォルクルスに対する捧げ物であるということです」
「だから、それは俺たちが考えるような奇跡ではないってことになるんだな」
 そう。とシュウがマサキの手を取った。やんわりと上着からマサキの手を引き離した彼は、そのままマサキの手を引いて、大通りから手近な路地へと足を進めてゆく。
「何だよ、お前。いきなり」
「あなたと話をしたいことがあるのですよ」
 陽も翳る奥まった路地裏。人ふたりが通り過ぎるのがやっとな道に身体を潜ませたシュウは、物も云わずにマサキの身体を建物の壁に押し付けてきた。「おい、シュウ」声を上げた先から口唇が塞がれる。
 クリスマス以来となるシュウからの口付けに、マサキの意識が攫われる。たった一個の指輪に縋った日々。マサキが大事に指輪を嵌め続けたのは、シュウとの縁をその指輪で感じていたかったからだった。けれどもそんな感傷もひとときのこと。路地の向こう側から響いていくる子どもたちの笑い声に、マサキはここが任務で赴いている街であることを思い出した。
「お前、話ってこれのことかよ……」
 胸を押してシュウを引き剥がそうとするマサキの抵抗を封じるように、マサキの身体を抱き締めてくるシュウの腕。次いでその口唇がマサキの耳に触れた。マサキ――低くも心地良いテノールボイスが、端近で誘惑の言葉を奏でる。
「ほら、マサキ。口を開いて。それとも私に開かされたい?」
「……野蛮な手段はご免だ」
「そんな無粋な真似を私がするとでも? ちゃんとあなたに自ら開かせてみせますよ」
 云うなり再び口唇を塞ぎにかかったシュウに、マサキは固く口を閉ざして抵抗した。
 啄んでは包み込むように。繰り返し口付けてくるシュウにマサキが首を振れば、嗜虐心をそそられたのだろう。強情な人だ。と、呟いたシュウが、口唇から頬、頬から耳元へと口唇を伝わせてくる。そして声を発しまいと堪えるマサキを追い詰めるように、耳の中へと舌を差し入れてくる。
「…………ッ!」びくん、とマサキの腰が跳ねた。「お、前……、何するつもりだよ。ホントに止めろって」
 息も荒く訴えるも、マサキを引き寄せるシュウの腕の力は緩まない。場違いにも限度がある愛撫。つい先程までは預言に纏わる情報を追っていた筈だったのに、何故。混乱するマサキの耳を再び舐りながら、シュウは突然の抱擁やそれに付随する行動の理由を口にした。
「今日はホワイトデイですよ。お返しはないの、マサキ」
 バレンタインに各所にお詫びとチョコレートを大盤振る舞いしてみせた男は、それを恩に着せるように云ってのけると、再びマサキの肌に口唇で触れてきた。
 耳に、頬に、こめかみに額。柔らかく吸い上げてくる口唇が心地いい。
「お返しって、お前。あれは別に俺だけに寄越したもんじゃないだろ」
「あなただけに贈って欲しかった?」
「そういうことを云ってるんじゃねえよ。何で俺だけにお返しを求めるんだよ」
「彼らの代表者が誰になるかと訊かれたら、あなた以外にはいないでしょう?」
 揶揄うように言葉を吐いては繰り返し。肌を伝うシュウの口唇に、ああもう。マサキは観念してシュウの背中に腕を回した。
 そして顔を上げる。
 同時に重なる口唇に、マサキはシュウの舌を招き入れるように口唇を開いた。懐かしい温もり。そうっと忍んできたシュウの舌がマサキの口腔内を探り始める。もっと。マサキはシュウの舌の動きに合わせるように緩く舌を動かした。もっと。マサキの身体を抱き寄せる腕に力が込められる。もっと。クリスマスからの三ヶ月分の不足を埋めるように、マサキはひたすらにシュウの口唇を貪った。もっと。
 満たされない想いを打ち消すように、何度も。飽くることなくシュウの口唇に口唇を重ねてゆくマサキに、シュウはその欲望の深さを感じ取ったようだった。そんなにしたかった? クックと低く嗤い声を上げながら尋ねてくる彼に、当たり前だ。マサキはそう思うも、素直にそれを口に出すことは出来ずに。ただ小さく頷くと、再びシュウの口唇に口唇を重ねにいった。
 すべきことを数多く抱えているマサキとシュウでは、顔を合わせる機会にはそう恵まれない。魔装機操者であるマサキは任務に忙しかったし、自身の柵からの解放を望んでいるシュウはその為の活動に忙しかった。だからこそ、時につれないまでにマサキから遠ざかってゆく男の数少ない気紛れの機会を、マサキは大事に胸に仕舞って次の機会を待ち侘びてきた。
 ひと月ぐらいの間が空くのは当たり前。三ヶ月の空白とて珍しいことではない。
 その都度、マサキはもしかすると――といった疑念に捉われたりもしたものだったが、そうしたマサキの不安を見透かすように、シュウは姿を現してみせては、気紛れにもその口唇に触れてくるのだ。
「ねえ、マサキ」
 ゆっくりと口唇を剥がしたシュウがマサキの額に額を乗せた。間近に寄せられた顔がっとマサキを見下ろしている。滑らかで節ばった手。マサキの髪を撫でたその手が、髪から頬、頬から腰へと下りてゆく。
「聞きたいことがあるのですけど」
「何だよ、急に改まって……」
 腰を抱えている手が、マサキのジーンズの後ろポケットから顔を覗かせているキーホルダーに触れた。嫌な予感にマサキは身構える。そこにはリューネとウエンディから貰った髑髏のペンダントトップがある。
 指輪の件もあって、いつにも増して暴力的だったリューネ。その感情を更に煽るような真似は流石のマサキも慎んだ。だからこそ付けっ放しにしていたペンダントトップ。あからさまにしていたつもりはなかったものの、何かの弾みに顔を覗かせてしまったのだろう。
 それにこの目聡い男がどうして気付かないものか。
 案の定、シュウはマサキのポケットからキーホルダーを抜き取ってみせると、マサキの目の前で、髑髏のペンダントトップを揺らしてみせた。
「あなたの趣味ではありませんね。誰からのプレゼントですか」
「……リューネとウエンディだよ。ごついアクセサリーが好きだって云ったら、何でかこういうことになっちまって……」
 そう。と、マサキの返事に微笑んでみせたシュウは、それきり口を閉ざしてみせる。
 口元は笑っているものの、目は笑ってない。手にしたキーホルダーに冷ややかな眼差しを注ぐシュウは、マサキの次の言葉を待っているのだろう。いたたまれない。気まずさに耐え兼ねたマサキは、何だよ。と、シュウの手からキーホルダーを奪い取った。
「いいだろ、このぐらい。大体お前、人の好意は信用しないくせに……」
 いつだったか好意を伝えようとして、けれども気恥ずかしさにたとえ話で済ませてしまったマサキに、シュウはこう言葉を返してきたものだった。
 ――明日は雪が降りますね。
 一年を通して、温暖な気候のラングランでは珍しい降雪を答えに持ち出してくるぐらいだ。シュウがマサキの好意を信じていないのは明らかだった。いや、そもそも好意のあるなしに興味があるのか……何せ自己中心的に物事を進めるのが常な男だ。もしかすると、ただ欲を発散するだけの相手とマサキのことを思っている可能性もある。
「……もう行くぞ。待ち合わせの時間も近い。あの姉妹の人命がかかってる以上、いつまでものんびりとはしてられないだろ」
 何とはなしに口惜しさを感じながら、シュウに背中を向けて表通りへと。マサキは歩き始めた。
 三ヶ月の空白を埋めるのに充分な時間。飽きるほど繰り返した口付けは、どうしてだろう。マサキに埋められない寂しさを感じさせてしまっている。それはいつまでもこの関係が続く筈がないと、マサキ自身が思ってしまっているからでもあるのだろう。
 気紛れな口付けの理由を、シュウは語らないからこそ。
 それとなく尋ねてみたこともあった。けれどもはぐらかされて終わる。そんな関係をもう何年も続けてしまっている。マサキは今更ながらに過ぎ去った歳月を振り返って、その長さに溜息を洩らした。そうして、シュウの温もりが残る口唇に意識を這わせた。柔らかく甘い口付け。これをよすがに次の機会まで耐えていかなければならないのだ。
「ほら、行くぞ。シュウ――」気の重さを悟られないように、強く言葉を吐く。
 マサキはシュウを振り返った。
 瞬間、マサキに向けて伸ばされる手。シュウがマサキの身体を抱き留める。
「云って、マサキ」
「何をだよ」
「好意があるのでしょう。それを言葉にして伝えてくださいと云っているのですよ」
「絶対に嫌だ」マサキはシュウの腕を振りほどいた。
 決して短くない付き合いでマサキは悟ってしまっているのだ。シュウ=シラカワという男は、自身の優位性を保つ為なら、恋愛感情さえも利用してみせる人間でもある――と。
 残念。どこか愉し気に呟いたシュウを背後に置いて、本当に行くからな。今度のマサキは振り返らずに。そのまま真っ直ぐ表通りへと、力強く足を踏み出した。

※ ※ ※

「腹が減った」
「考えてみれば昼食もまだでしたしね。彼らと合流したら情報交換のついでに食事を取りませんか」
 そろそろ夕食時だからか。人影もまばらとなった大通り。待ち合わせの場所である娯楽施設の入場門に向かうべく、マサキはシュウを背後に従えて大通りを南下していた。
 ぽつりぽつりと行き交う人々は格好からして観光客であるようだ。きっと娯楽施設を後にしてきたところであるのだろう。吸い込まれるように大通りに並ぶ飲食店に入っていく彼らを後に、そうだな。マサキはシュウの言葉に頷いて、道の先に姿を現した入場門に目を遣った。
 ファングとザッシュは既に着いているようだ。
 いかにも戦士といったいでたち。遠目にもそれとわかる二人組に、軽く手を挙げてマサキは合図を送った。
 思えば朝も早くから情報局に呼び立てられて、そのままザルダバの街に向かうこととなったマサキは、ここまで食事らしい食事を取っていない。
 腹に入れたものは飲み物だけ。立て続けに音を鳴らすようになってきた腹に、意識も散漫になりがちだ。心なしか身体に上手く力が入ってこなくなった気がする。後少しだ。マサキは徐々に近付いて来るファングとザッシュの姿を支えとしながら、気力を振り絞って足を前に進めた。
「いい加減、背と腹がくっつきそうだ」
「朝食は?」
「朝一でセニアに呼び出されてるんだよ。ようやく飯だと思ったら立て籠もりにあっちまって……」
「ついてない」
 よもやそこまでとは思っていなかったのだろう。苦笑を浮かべたシュウが、夕食ぐらいは奢りますよ。と言葉を続けた。奢るならあいつらにも奢れよ。マサキは即座に言葉を返す。
 無骨な武人たるファングだけならまだしも、マサキ相手だと軽佻浮薄になるザッシュがいるのだ。シュウに食事を奢ってもらうなどと彼が聞き付けようもなら、またデートだ何だと煩く云われることだろう。それだけならまだいい。リューネにあらぬことを吹き込まれようもなら、またも彼女の暴力的な愛情の餌食になりかねない。
 折角収まった話をまた蒸し返されるのは、マサキとしてはご免被りたいところである。
 いっそ、彼女らに指輪を受け取ることになった経緯について話をしてみるべきだろうか……マサキは後ろをついて歩いているシュウの端正な顔を肩越しに盗み見しながら、シュウを徹底して恋敵ライバル視するリューネとウエンディをどうあしらうかについて考えを巡らせた。
 そもそも、マサキが約束の指輪プロミスリングを嵌める決心を付けたのは、シュウがそれを望んでいる様子であったのは勿論のこと、そうすることで彼との約束を忘れないようにする為でもある。
 前者はさておき、後者であれば、もしかしたら彼女らも理解をしてくれるかも知れない。サーヴァ=ヴォルクルスとの契約の記憶を持つ男は、強靭な精神でその支配を跳ね除け続けてはいるものの、いつまたその支配下に入って操られないとも限らない。それがどれだけの脅威たり得るのか、如何に彼女らであろうとも理解はしている筈だ。
「遅かったな。何かあったのかと心配していたぞ」
 けれども結局結論は出せぬまま。入場門前に辿り着いたマサキを、ファングが笑顔で迎え入れる。
「悪いな。特に手間取ったりした訳じゃなかったんだが……」
 魔装機操者たちに揉まれたことで、大分肩の力を抜いて活動するようになりはしたものの、本来のファングは頑固なぐらいに頭の固い男だ。彼にとってルールやモラルは遵守する為にあるといっても過言ではない。それが遅刻を笑って済ませるぐらいであるのだ。恐らくはかなりの成果が得られる調査であったのだろう。
「成果はあった、って顔をしてやがる」
「その話をするついでに食事でも取らないか。考えてみれば昼もまだだ。しかもザッシュに話を聞けば、お前たちは朝食も取らずにここまで来たそうだな」
「そうなんだよ。だから出来ればしっかり食事が出来る場所に行きたいんだが……」
 そこまでマサキが言葉を吐いた瞬間だった。誰か、治安部隊を! そう叫びながら、入場門の奥から人が飛び出して来た。どうした! マサキが彼に事情を聞こうと近付けば、続けて波となって人が押し寄せて来る。
「おい、どうした! 何があった!」
 口々に悲鳴を上げながら門を潜り抜ける彼らに押し流されそうになりながら、マサキが最初に飛び出して来た男の許に向かえば、彼は奇跡の双子が――と、そこまで口にして何かを思い出した様子で身体を震わせた。
「あ、おい! シュウ!」
 それで尋常ではない事態が起こったことを悟ったようだ。先にホールに向けて走り出したシュウに、そのままひとりで行かせる訳にも行かず。この場をファングとザッシュに任せる判断を下したマサキは二人に観客の保護と治安部隊への連絡を命じると、自身もまたホールに向かって走り出した。
「待て! ひとりで行くな!」
 夕暮れ時とはいえ太陽が動くことのないラ・ギアスだ。ザルダバの街に降り注ぐ日差しはまだ強い。全身から汗が噴き出してくるのを感じながら、マサキはシュウを追って、人影の少ないメインストリートを一気に駆け抜けた。
 ゼフォーラ姉妹に何かが起こったのは間違いない。
 尤も可能性が高い事態は、あの猛獣に関わるものだったが、両親も認める憑依術の使い手である。そんな単純なアクシデントが果たして起こり得るだろうか? マサキは距離を近くするシュウの背中を見詰めながら走り続けた。
 歩いても5分やそこらの距離とあっては、ホールが迫ってくるのもあっという間だ。入り口を目の前にして、先行していたシュウが足を止める。観客が雪崩打つように逃げ出した後のホールは、決して静まり返ってはいなかった。
 マサキもまたシュウに並ぶようにして足を止める。ホールを囲う白壁の向こう側からは、先刻聞いたばかりの獣の雄叫びが絶え間なく響いてきている。まさか。マサキは歩を進めると、ホールの入り口を塞いでいるスタッフたちに、自身が魔装機神の操者であることと、事態の収拾を図りにきたことを告げた。
「しかし、今この中は非常に危険な状態で」
「いいから通せ。後の責任は俺が取る!」
 快い顔をしないスタッフたちを強弁で押し切り、道を開けさせたマサキはシュウを引き連れてホールの内部へと足を踏み入れた。鼓膜を揺るがす雄叫び。マサキは客席に下りる出入り口に身を潜めると、腰に下げた剣に手をかけながらステージの様子を窺った。
 遠目にも凄惨な事件が起こったと知れる様相。壁に、客席に、血飛沫が散っている。
 果たして被害はどの程度であるのだろうか? 人気の絶えたホールを動き回るキメラ型の猛獣の血に塗れた姿を目の当たりにして、マサキは口唇を噛んだ。防げたかも知れない事態を防げなかった口惜しさが、言葉を発するのを憚らせる。
「今回も後手だったようだ」珍しくも口惜しさが滲み出る声でシュウが呟いた。
「……まさか今日の今日でこんなことになるとは思わねえ。考え方としては合ってたんだ。次を防げればいい」
 口惜しさは同様であるようだったが、安易に同調するのをマサキは避けた。この件により多く、そしてより深く関わっているのはシュウの方であるのだ。その憤懣やるかたない思いは、マサキの比ではないだろう。
「出てしまった被害は取り消せない」
「それはそうだが――」マサキの口唇にシュウが指を当ててくる。
 マサキたちの気配を感じ取ったのか、吠え猛る猛獣がこちらを気にする様子を見せている。行きましょう。懐から札を取り出して身構えたシュウに、マサキはゆっくりと剣を抜いた。
 詳しい状況は後程調べることとして、先ずはあの獣の始末が先だ。
 人間の味を覚えてしまった獣は、同じことを繰り返すようになる。あの獣にとって人間は、自らを抑圧する存在から食料へとランクアップしたのだ。どういった経緯で何が起こったのか、血塗れのステージは何も伝えてきてはくれなかったが、あの猛獣が人間の敵となったことだけは明らかだ。貴重な獣であるかも知れなかったが、人間社会を乱す存在となってしまった以上は仕方がない。同様の被害を出さない為にも、この場での処分は必須だった。
「バックアップは任せた」
「わかりました。気を付けて」
 シュウの言葉に頷いたマサキは、剣を強く握り締めた。そして身を潜めていた壁から飛び出すと、辺りを揺るがす猛獣の咆哮を一身に受けながら、一気にその血濡れの身体を目指して斬り込んでいった――……。