<5> Fantazion
「おい、起きないのか」
揺り動かされて目が覚めた。
何日目の朝だろう。マサキがここに来てから。
窓の外では、ビルの谷間から頭を覗かせた朝日が白々とした光を放っている。薄くも眩く瞼を刺すその光に、シュウが目を細めつつ起き上がると、特に変わった様子もなくマサキが立っている。
カウチで眠ってしまったようだ。
記憶が途切れた時間を探るも、意識は曖昧だ。どのみちマサキが運ぶには大柄な体だ。そのまま放って彼は寝室で寝たのだろう――と、そこで不意にシュウは最後の記憶を拾い上げる。
腕の中で途切れた記憶。
はたと思い至ってまじまじと見上げるも、マサキはその不躾な視線の意味をどう捕えたものか、小首を傾げる仕草を見せて、
「どうした? まだ酔いが残ってるのか」
「いえ……シャワーを浴びてきます」
朝食の湯気立ち昇るテーブルを背中に立つ姿が何も変わらないのに、微かな戸惑いを覚える。
あれは夢だったのだろうか。それとも……マサキには日常なのだろうか?
バスルームに向かい、熱い湯を浴びても小波のような感情は収まらない。今日のスケジュールよりも、これからの身の処し方よりも、頭を占めるのはマサキに対する疑問ばかりだ。何を考えているのか、何を見ているのか、何をしようとしているのか。全てに対して疑問が湧いてくる。
リビングに戻れば、ダイニングテーブルに着いて待っているマサキの横顔がある。その前に食事はない。ただ向き合ってシュウと話をする、或いはその様子を眺める為だけにマサキはこうして食事の席にいるのだ。
行く場所がないからこその人恋しさなのか、その理由すらシュウは聞いたことがない。
あまりにも知らないことが多過ぎる。その空白が、つれないまでの平常を保つ態度と相俟って、シュウを例えようもなく不安にさせる。身分を証明するものを持たないストレンジャーは、このまま消えてしまったとしても、その存在を記憶に留めるのみだ。
日常が稀薄なのだ。
マサキはシュウの目の前で、おおよそ日常らしい営みをして見せたことがない。食事も、入浴も、眠りに就くのも、それらはシュウの目の届かないところでひっそりと行なわれて――いるのだろうか?
そういった妄想すら覚えずにいられないほど、マサキは存在そのものが稀薄だった。
整えられた部屋と、三度の食事の支度。それが無ければ、今この場からマサキが消えてしまったとしても、その存在を現実のものと認めるのは難しい。いずれ記憶が風化した暁には、明瞭りとこの日々を現実とは言い切れなくなるだろう。のみならず、孤独な戦いが見せた幻であったと思いきるやも知れない。
不安も希望もそこから生まれ出るものなのだ。
そう、仮初めの希望を――奇跡を目の当たりにしたからこその動揺なのだろう。シュウは自身の感情の揺れをそうと片付けて、テーブルに着く。白けた光を浴びて佇むマサキを正面に、そうして食事に手を付けようとしたシュウが目にしたものは、
霞んでいる、姿。
背後のくすんだ壁の色合いが、マサキの体に透けて見える。
「――マサキ」
咄嗟に手を伸ばしてシュウはマサキの腕を掴んだ。昨晩の情景がフィードバックする。闇に溶けて消えてしまいそうな姿が、今は朝日に透けて消えてしまいそうに。
――tell me where you’re going……
どこかに行こうとしているのはマサキの方だろう。何ひとつ掴ませない儚さが、現実の存在感さえも不明瞭にさせる。その在り方を選んだのは他でもないマサキだ。
名前も年齢も、それはマサキの口から語られただけで、証明書を見せられたのではない。それが偽りではないと確かめる術が何処にあるだろう? 彼は全てを無くしてここに来たのだ。過去の記憶とて、いかようにも捏造できるものだろう。あの謎だらけのマジックだってそうだ。扉を擦り抜けたり、至近距離の銃弾を避けたりしてみせたそのトリックは未だに聞けぬまま――最初から今に至るまでずうっと、マサキは自分の確かなものを明らかにしない。
――tell me where you’re going……
夢。そう、あれはいつか見た夢だった。マサキは自分の枕元で、自分に向かってこう言った。俺はここに来て『よかった』のか、と。その言葉が妙な現実感を伴って迫ってくる。その後に続けてこうも言った。そんなこと、『今更』言っても始まらないか、と。シュウのイメージの中のぼやけたマサキの像が、一瞬、輪郭を浮かび上がらせた。何かを掴んだ。その手応えがどこから来るのかシュウは探る。
既視感だ。昨晩マサキはこう言ったではないか。
――『まだ』、大丈夫だ、と。
今ここで流れている時間を、過去のもののようにマサキは扱っているのだ。
「……い、シュウ」
呼ばれた名前に我に返り、シュウはマサキをまじまじと見詰めた。そこには不確かではないマサキが存在している。
先程までのぼやけた姿は幻だったのか。掴んだ腕から伝わる温もりは勿論、透けて見えた体も実体を伴ったものとしてそこに在る。「あなたは――」呟いて、シュウは諦めに手を離した。
マサキは何も語るまい。
肝心なことははぐらかしてみせる遣り方を、今までの経験で学習している。核心に触れようとした矢先から話題を巧みに摩り替えて、それが真実であると錯覚させる。――そうでしょう、マサキ。胸の内で呟いて、シュウは怪訝な表情のマサキに首を振って見せた。
「何でもありませんよ」
語られないのであれば、暴いてみせればいい。平静を装いつつシュウは決意した。
その初手となるものは意外にも近くに存在している。問題はシュウの密に成り過ぎた時間から、どうやってそこに割く分を捻出するかだ。研究、講義、ゼミのディスカッション、論文を仕上げる時間に、教授から押し付けられる雑務。それだけで一日が丸々過ぎるこの日常に、自分の自由になる時間がない事実をこれほど恨めしく思うようになるとは、曲がりなりにもマサキと出会ったその日には思ってもいなかった。
人間は万能ではない生き物なのだ。シュベールの言葉を聞いた今だからこそ、尚更にそれを認めずにいられない。自分がどれだけそうであろうと願ったとしても、人の心を完全に捨てない限りは。
それはシュウからすれば、この身に抱える存在に全てを明け渡すことを意味する。
そこまでして完全を求めたいとは思わない。それに……それでは自己を保つのが不可能になる。その存在は自分の全てを侵蝕し、支配するのが目的なのだ。
記憶も、感情も、全て失って得た完全なる人間に何の意味がある?
この自己でなければならないのだ。何を成すのも。
だが、この疎ましいばかりの存在――己の内側を侵蝕しようとするこの存在にも、感謝すべき点はある。
自らの本心を暴くのに一役買い、希望をこの手に掴ませてくれた。自己欺瞞を真実と信じ続けなければ生きてゆけなかった弱い自己に、確かな希望を。
「私は昨日、扱い難い様子でしたか」
暴くよりは語って貰えた方がいい――シュウは最後のチャンスと水を向ける。
「酔ってる時なんてそんなものだろ」
当たり前と言えば当たり前の返答に、「そうですね」とシュウは立ち上がった。
※ ※ ※
昨日のシュベールとの会話が多少ならずとも気になったのか、シュウは自分でも定かではないままにダリアの研究室を訪れた。ダリアは熱心に自分の机に向かい研究に余念がない様子であったが、シュウの訪れに気付くなり相好を崩して出迎えた。今日はダリア直下でもシュベール直下でもない、また違う研究室で一日を過ごす予定であったのだが、そちらに顔を出すのはこの歓待ぶりからして遅くなりそうだ。
普段は出しもしない紅茶を用意し、シュウに席を勧めるとダリアはその口を開かせる間も与えず語り出した。
「お陰でこちらには君への問い合わせとアプローチが殺到しているよ、シュウ。君が他学に興味を持っているという話をしたせいもあるのだろうがね、推薦状を書くという申し出も幾つか来ている。もし君にその気があるのであれば、これがそのリストだ。自分に尤も合うと思われる教授への師事を頼むがいい」
渡されたリストはタイプ打ちされたもので、ダリアの気の入れようが察せるというものだ。それにさらりと目を通して、「考えておきます」とだけシュウは答える。
「若い者に影響を受けるというのはいいものだ。君のお陰で私も俄然やる気が出たよ――実は少々行き詰まっていてね、その突破口を探していたのだが、君の論文がその契機となりそうだ。ところで私の所に来た理由は何かね?」
「そうですね、学会での反省会とでも言えばいいのでしょうか」
取りたてて用事らしい用事がある訳ではないのだ。
強いて理由を上げるならば、あの男に反乱を企てていると同義の会話を正面きって吹っ掛けた翌日に、ダリアがどういう態度を自分に対して取るのか確認したかった――とでも言うべきか。それよりはシュベールの言葉に喚起されたといった方が、まだ正当な理由であったが。
どちらにしても、口にしていい理由ではない。
男は何を言っただろう。シュベールとの会話を話して聞かせた時に。
酔いでよくは覚えていないが、あの男のことだ。その場は豪気に笑ってみせただろう。
そういう男なのだ。自分を優位に立たせる術と保身には誰よりも長けている。そうでなければ学会を掌握することなど出来ない。その為ならどんな大きな嘘だろうと、あの男は息を吐くように放ってみせるだろう。寛大な態度の裏側で、どういった手段を用いるのかは語らずとも知れようというものだ。
それを確かめてみたい気持ちがある半面、それは既にどうでもいい道理に過ぎないと感じている部分もある。
シュウは今までのシュウではないのだ。
根拠のない自信は希望を得た故の蛮勇だろうか。蛮勇で終わらせたくないからこそ、シュウはひとつづつ、自分を縛る枷を外してゆこうとしているのだが。それが果たされる可能性は低いとシュウ自身感じ入っている。
恐らくこの意味を見出せないダリアへの面会という行為もそのステップの、ひとつ。
「帰りの機内で交わした分では足りないかね? それとも賛辞だけでは居心地が悪いとでも? 君も大概疑り深い」
大仰に腕を広げ溜息を洩らしてみせる姿は、芝居がかっているようにも見えるが――それはある意味、こちらの人間ならでは通常のリアクションなのだ。
だからこそ、真意が掴み難いというネックがある。
「まだ駆け出しの課程生には過ぎた賛辞です。そうは思いませんか」
「それだけ傑出した才能を君が既に得ているという結果だよ、シュウ。疑り出しては際限がない。シュベールはどうだね? レスニーは? ブライトンは? 誰が君の才能を疑うと言うだろう? 私は少なくとも君の才能を本物と信じて疑わない」
そのシュベールは、秀才と今のシュウを切って捨てたのだ。
しかし自らの才能を巡って議論を交わすのも不毛だ。シュウは静かに微笑んでみせた。
「自明な話はこれまでにして、もう少し建設的な話をしよう」
それを受けて、ダリアが話を切り替える。
「どういった話でしょうか。実務的な話であれば嬉しいのですが」
「どの道次の論文を審査に上げるのは確定事項だ。学会での成功だけでも私は充分だと思うが、業績は必要なのだそうだ。慣例は破るためにあるものだとは思わないか? 学部の教授会も頭が固い」
「それはそれで、覚悟の上ですよ」
「世に出る前に君の論文を読めるという楽しみが減らないのは有難いがね」ダリアはティーカップに口を吐けて、一息入れると、「まあ、それはこれからの話だ」
「では何の話を?」
「君はもう忘れてしまったのかね? トリックの話だよ。君の聞かせてくれた興味深いマジックの話を忘れてしまったとは言わせないよ、シュウ」
通りで表情が溌剌としている。
「折角観測用の計器があるんだ。君の住むあの一帯のスモッグを計測してみれば、条件を割り出すのは容易いだろう。ちょっとしたトラブルがあったようだがね、何とか計測には成功したよ」
「トラブル……ですか」
嫌な予感に眉を顰めるも、直ぐに思い直してシュウは表情を整える。
ここで感情を露わにするのは愚者の行いだ。
だがシュベールはその予感を裏切らない。下から覗き込むようにシュウの顔を直視すると、「発砲事件があったそうじゃないか」
咎める風に口を開いた。
「私はこの国における銃の重要性を理解しているがね、それが使用される事が日常になるのは良しとしない主義だ。銃はあくまで最後の自衛の手段であるべきだと思わないかね」
「私からすれば銃がある社会こそが歪なものに見えますが」
「そうか、君は我々の社会規範とは違った基準の世界で生きてきた人間だったな」
困惑した様子で腕を組む。
「それを差し引いても――あの界隈は危険に過ぎる。私ですらそう思う程だ。君の価値観からすれば論外だと思うのだが、学生街辺りに居を変える予定はないのだろうね」
「あの場所は気に入っていますから。それなりに利便性が高い場所ですよ。遅くまで開いているストアマーケットが近くにある。破格のクリーニングショップも近くにある。不規則な生活を送っている私からすれば、車が必要になる学生街よりも充分に魅力的です」
よもやここにきて、下らない説教を聞く破目になるとは思ってもいなかった。私生活に食い込まれるのは――どんな内容であれ好きではない。穏やかに述べつつも、シュベールならそうは言うまいとシュウは考える。苦労を好む男は、それさえも日常生活のアクセントとして好ましいと言うだろう。
「ふむ、価値観は人それぞれだがね、君をつまらない事件で失うのは惜しい。そう思っている人間がいることを忘れないでくれたまえ」
「心に刻んでおきましょう」
ダリアが失いたくないのはシュウ個人ではなく、複数の博士号を持つ教え子なのだろう。
「それより話の続きを」促がしながら、それこそあの男らしい遣り口だと思う。
こういう回りくどい方法をあの男は好む。
自分は手を下さず、周囲の人間を操ることで目的を達する。あの男の評価が高いのは、それをそれと悟らせない遣り口で対象を意のままにするからだ。
「それだがね、シュウ。数箇所に渡って一時間毎に計測を行なった結果、あの一帯のスモッグは、環境的に私が話して聞かせた効果を生み出すのに充分な密度を持っていたよ。後は光源の位置関係だが、これが実に難しい。スモッグに反射させるとなると、大概はその姿を大きく映してしまうものだ。晴れた日に地面の影を見詰めて、それから空に視線を向けてみたことはあるかね?」
「知識としては知っています。残像が空に残ると聞きましたが」
「そう。あの影も実物よりは大きく映って見えるものだ。余程の好条件――光源の強さや角度、それから湿度など気象条件が揃わない限り、人と見間違うほどにはっきりとした影は」
「映し出せない――と」
「むしろ君の家の前で測定してみたいものだね」
「近所に話を通すのが難しいでしょうから、それは辞退しますよ」
「だろうな。発砲事件の直後だったものだから、職務質問を受けたり、通りすがりの人間にあからさまな疑いの視線で見られたり、中々にスリリングな測定だった。これでは私が撃たれても文句は言えんな。しかし、君の同居人はまだトリックを明かしてくれないのか」
ええ――とシュウは短く頷く。
あれは最早トリックの存在するマジックとは一線を画している。そうシュウに確信させた出来事が件の発砲事件にあるとは、さしものダリアも気付くまい。
そう、トリックなど、今となってはどうでもいいのだ。
それを上回る非日常がシュウの日常を侵蝕している。もしかすると、既にこの精神は自分の内なるもう一つの存在に蝕まれているのかも知れない。それならば全ての現象に、最も解り易い理由が付けられるというものだ。だがその可能性だけは、何があろうともシュウは認めない。
起こり得る全ての不可解な現象の中心にいるのは、マサキなのだ。
※ ※ ※
クラインアーク――バーストポイント――呼び方は色々あれど、それはどれもひとつの事象を指し示す。
それ即ち「始点」。
始まりの場所はバスターミナルだった。酒に酔う体は混み合うバスの振動に耐えらないと、いつもの帰宅手段とは異なる選択をした。その僅かにずれた日常の隙間に、どうやってマサキが滑り込んできたのか。運命などという陳腐な言葉でシュウは片付けたくはなかった。
吐く息は益々色濃くなる。本格的な寒波がこの街を襲うのも、そう遠くないだろう。天気予報では週末にも今年最初の雪が降るだろうと告げている。
じきにクリスマスを迎える街並みは、赤と緑と黄色のイルミネーションに溢れ、バスターミナルもその例外ではない。中央に植えられたモミの木に、四方八方の建物からモールが伸び、街灯りを受けたそれはさながら万華鏡のような煌めきを地面に落とす。つい先日までは、味気無い都会のバスターミナルだったというのに、今や眩いばかりの光の洪水が夜も更けて尚席捲する特等席と化した。
その一角にあったタクシー乗り場は、位置的に薄暗い場所であったが、クリスマス気分の恩寵を受けてめっきり明るくなった。
シュウはそこに立つ。帰路にタクシーを選んだのは、酔っているからではない。
どんなつもりで、どんな意図で、マサキがあの日そこに居たのか。その断片でも得られれば、愚かなこの行為も報われるだろう。
ダリアの元を後にして、シュウは向かった研究室の教授にその日の午後の不在を告げた。急な都合に教授はいい顔をしなかったものの、後ろ盾の強さがものを言ったのか、深く追求されることもなく受け持ちの講義の休講を了承させた。
そうして向かったのは、日本総領事館だ。
シュウにとって、マサキがマサキである確証を得られる場所はそこしかない。訪れた日は間違えようもなく、その特徴と合わせて照会すれば確実に判明するだろう。例えその名が偽名であったとしてもだ。本人以外の照会に職員が応じるかという問題は、自らの居所を証明する書類の呈示でクリアした。シュウの住むアパートメントが連絡先であるのだから、その世帯主が再発行における捗進状況を聞きに来て何の不都合があろう。
実際に職員は応じたのだ。
だのに――該当する人間はいなかった。
何かの間違いだろうとシュウは訊ね直したが、その住所及び電話番号を連絡先にしている人間はいないという。その情報で検索したのであるから間違いないと。同様に日付で検索しても、当日にそういった厄介な事案は受けていないと言う。帰国に関わることであるのだからと、更に範囲を広げて検索して貰ってみたものの、マサキらしい人間を探し出すことは出来なかったのだ。
つまりマサキは、日本総領事館に行っていないことになる。
狐に抓まれた気分とはこれを指すのだろうか。しかし、シュウはどこかでその事態を予測していた。それも在り得る事態であると。思ったほど衝撃を受けなかったのはその所為だろう。
かくして、確証を得られなかったばかりか、思いがけない事実を突きつけられた領事館への来訪は終わりを告げたのだ。
そこから、消化するつもりだった雑事をこなすのにキャンパスへ取って返し、今に至る。
マサキは何者なのか。その答えは行動を起こしただけに、現実から乖離した想像になるのが否めない。それとも、荷物の盗難そのものが――いや、もっと遡って旅行者という言葉自体が嘘であったとでもいうのだろうか。だとすれば、マサキはシュウよりも嘘に長けた人間だ。手放しで賞賛を送りたくなるほどに。
けれども、それまでも嘘であったとしたら、マサキは明確な目的を持ってシュウに近付いたことになる。そもそもが作為的な出会いには違いなかったのだが、それでもどこかで、最初の一点においては偶然の産物であると信じていたい気持ちがシュウにはある。
偶然でなければ、奉仕を当然とするマサキの存在が重過ぎる。いっそ強盗の類であった方が楽だと思えるぐらいに。それに――そうでなければ、自分の思いも報われない。結果的にマサキの望む方向に事態が動いているとしか言えなくなるではないか。
何にも染まらない、束縛されないのは自分の心だけだ。
それをどんな形であれ、他人の力でコントロールされてしまっては、自己とは果たしてどこに存在するものであるのか。
それがシュウには遣り切れない。尤も、それらの現実の中でシュウが最も遣り切れないのは、それでもシュウがマサキを拠り所に感じている一点である。マサキの口から真実を聞くまでは諦めきれない。そんな己れの浅ましさをシュウは、自分のことながら笑い飛ばすしかない。
わかってはいたが、停車しているタクシーの中にあの日の運転手はいないようだ。とはいえあの日のシュウは酔っていたのだから、行きずりのタクシーの運転手の顔など覚えている方が奇跡的であったのだが。
しばらく待っては見たものの、結局後続のタクシーにもそれと思しき顔は見えず、シュウは先頭車両に乗り込んだ。やはり愛想の良くない黒人の運転手は、声だけは威勢良く行く先を聞いてくる。やがて流れ出す車窓の景色は、温度差で曇った窓には辛うじて光とわかる程度にしか映らない。車内を満たす今日のラジオは、ジャズ&ブルース。黒人らしい――と言えば差別になるが、彼らはリズム音楽をこよなく愛する。同じ研究室に席を置く黒人達も総じてジャズとブルースを嗜み、飲みに行った先で即興のジャズを奏でだすのが慣例だ。
セントラルストリートを抜けて、三番街へ。次第に輝きを減らして行くイルミネーションが、その瞬間へのカウントダウンとなってシュウを脅かす。
マサキは――何と答えるだろう。
それよりも先ず、自分が日本総領事館に赴いたことをどう捉えるだろう。
陽気なジャズは今の気分に合わない。さりとて陰気なブルースは余計に気を滅入らせる。鞄にずしりと重いレポートと書きかけの論文に熱中出来ればいいのだが、時間の経過と共に集中力は削がれ、まるきり手を付けようと思えなくなっていた。
哀歌としてこれ以上、彼らに愛されるジャンルはないだろうブルースを耳に、結局はこのまま帰路を往くしかないのだろう。シュウは目を閉じて、あの日を思う。隣でマサキは窓の外に目をやって、掠れた声で歌っていた。
――tell me where you’re going……
その歌に語った過去以上の思い入れがないと、どうして言い切れよう。
――I am going too……
幾度も耳にしたあの曲に。
――tell me where you’re going……
一緒に連れて行ってと、淡々と訴える。
――I will go with you……
あの歌に。
※ ※ ※
七番街に入り、見慣れた景色がフロントガラスに広がっている。その頃には車内の曲は、跳ねるようなピアノと刻むようなトラペンットが騒ぎ立てるジャズに変わっていた。ヘッドライトに照らされる野良犬が、驚いてけたたましい鳴き声を上げるのも馴染みの光景だ。
程なくしてタクシーはアパートメントの前に停車し、シュウは清算を終えて降りる。
降りて、発車するタクシーを見送った。
どうでもいいと思いながらも、謎は謎で気にはなるものだ。改めて周囲を見回してみるも、人が隠れられそうな場所は道路を挟んだ細い路地ぐらいしかない。シュウが降りて、タクシーが発車するまでの短い時間でそこまで辿り着けるものなのだろうか。試しにそこまで歩いてみて、路地を覗き込んだシュウは沈考する。隠れようと思えば隠れられなくはないが、所狭しと詰め込まれたブリキやプラスチックのゴミバケツの隙間に体を潜めるのに時間がかかりそうだ。シュウと比べれば小柄ではあるが、それでもマサキの身長は高い方であるだろう。酔っていた自分の注意力を差し引いたとしても、物音立てず隠れるのは難しい。
余程練習を繰り返したのであればまだしも、ちょっと思い付いた程度でそれを完璧にこなすのは無理だ。
振り返り、アパートメントを見上げる。言われたことを律儀に守るマサキは、あれからこの場所で夜半にシュウの目の前に立っていたことはなかった。もしかすると子供達とバスケットに興じていたように、それ以外の時間を狙って外に出ていることがあるかも知れなかったが、シュウもそこまで詮索するつもりはなく、今日まで過ぎた。
少しでも聞いておけばよかったと今更ながらにシュウは思う。
マサキが過ごしていただろう「日常」を。
そうすれば数々の謎も、笑い飛ばしていられただろう。実感を伴ってマサキの存在を認めていられただろう。雰囲気を楽しむテレビはバラエティ――それ以上の日常をシュウは知らない。好みの食事も、生活のリズムも。
あの時共に眺めたオリオンは、燻るスモッグにその光を薄れさせていたが、今日の夜空にも瞬いている。それをしかと目に収めてから、シュウはステップを上がった。
謎は、解けるのか。
ポストを覗き、階段を上がり、部屋の前に立ち逡巡する。それ以前に、マサキは既に部屋から姿を消しているのではないか。そんな不安が頭を過ぎる。真実に通じるだろう情報をシュウが手にしてしまった以上、マサキに逃げ場はないのだ。
嘘を重ねてもいい。だがそれは、今までの告白に矛盾を与えないものであって欲しい。
そのどれもがマサキであったとしても、シュウが感じたベースとなる人格はある。ブロークンな英語に、そのつもりはない惚けた素振り。湖面の如き穏やかさに満ちつつ、一皮剥けば苛烈な気性が露わになる。それがマサキらしさを作り上げているものでもあるのだ。
扉を開く。部屋の奥からは、テレビの音が小さいながらも聞こえてくる。
「お帰り。遅かったな」
邪魔な扉にシュウが辿り着くより先に、マサキがそこから顔を覗かせた。
※ ※ ※
――あなたはいつも何をしているのですか?
他愛ない会話の最中マサキに聞いたことがある。
――お前は何をしてるんだ?
――何を……と言われても決まっているでしょう。
それもまた、マサキ得意の話を逸らす手管だったのだろうか。マサキは問いに問いで返す真似をよくやった。
――大学なんて行ってないからな。勉強だけしている訳じゃないだろ?
その上に理屈を重ねるのも上手かった。無知を装って問い掛けるものだから、答えない訳にはいかず、シュウは始終自分の話をする羽目に陥った。
だが、今日はそうはいかない。
「飯、食うだろ?」
「ええ」
話を切り出すタイミングを計りつつ、シュウはテーブルに着く。
並べられる料理もいつもと同じ、好みを正確に把握したものだ。トマトがベースのスープ、生ハムのサラダ、そして濃くならないようにと油を控えたチキンライス。デザートの類があまり得意ではないかと知ってか、それとも経済的な事情からか、それらが食卓に並ぶことは少なかった。料理の隣に並ぶのは、食後の紅茶を用意するティーポットだけだ。
思えば、マサキは一度もシュウの好みを裏切らなかった。スコーンが食卓に並ぶことはあっても、そこにバターやメープルシロップの類を添えることはなかったし、油が忌々しいロースト系の肉料理が出されることも少なかった。それらが出されるときには、なるべく蒸す形に近くアレンジされて――或いは、油を極力控えた状態で出された。勿論、ペッパーやソルト、そして最も苦手とするソース等の調味料でやたらと味付けすることもない。
simple is best.
それがマサキの信条だったのかはともかく、彼はシュウに只の一度もこれは食べられないと言わせなかったのだ。
自ら認めるほど偏食甚だしいシュウに。
――勉強だけしている訳じゃないだろ?
あの問いにはどう答えただろう、シュウはそんなことをふと考える。目の前で頬杖をついて見守るマサキの微笑みが、あまりにも穏やかで、あまりにも普段通りだったからだろう。
――時には……そうですね、時には研究室の教授や他の生徒とバーに繰り出したりもしますが、それ以外の日常など、あなたが期待する程ではないですよ。一つではなく、複数の研究室を掛け持ちしていると、そのような休暇は滅多に取れないものでもあるのです。
そうだ。そう答えた。
マサキはどんなリアクションをしただろう。苦笑しつつ、溜息混じりに、「華のない生活だな」とでも言ったような気がする。そうやって時々、マサキは変にシニカルな一面を見せたものだ。
けれどもそれは批判ではなく、それよりも……そう、もっと大きな気持ちの上に成り立っているような温かみをも感じさせる言葉遣いで――シュウはそのシニカルな物言いも厭わしいと感じたことは無かったのだ。
無かった、のだ。
「マサキ」
名前を呼んだ。
顔を上げて。
その先には、やはり透けて見えるマサキの姿があった。
それこそが契機。堰を切って溢れ出てくる感情の、言葉の、群れをシュウは自制しようとは思わない。考えもしない。弾かれたように席を立ち上がると、マサキの腕を掴み、そうして、そうして――。
力任せに抱き寄せる。
テーブルの上のスープが零れ、ティーカップが倒れて床に転がり落ちる。軽い音を立てて割れたカップにマサキが瞬間腕から擦り抜けようとするのを、シュウは腕の力で捻じ込め留める。その体温は確かにここにマサキが「居る」ことを伝えているのに、どうしてこんなに存在感が頼りないのだろう。
スラックスを、熱いスープが滴り落ちている。その染み渡る熱さもシュウに痛みを覚えさせない。それよりも、腕に留めたマサキの温もりの方が、数十倍も熱い。
「あなたは――何者なんです」
「何を言ってるんだ」
笑い飛ばそうとするマサキの顔を掴んで引き上げて、自分の瞳に向かい合わせるとシュウは続ける。
「今、だけじゃない。あなたの姿を私は幾度、消えてしまいそうになるのを見たでしょう。最初は目の錯覚だと思った。ええ、思いましたとも。けれども今はそうは思わない。マサキ、あなたは何者なんです」
「ただの旅行者って言っても……信じてもらえなさそうだな」
「残念ながら」寂しそうに二度、三度と目を瞬かせるマサキにシュウは首を振る。
知ってしまった事実は覆せないのだ。
マサキは領事館へ行ってはいない。なら、マサキという人間はパスポートもビザも旅券も紛失していないことになる。よしんば百歩譲って紛失していたとしても、領事館で手続きをしていないならば、それは不法滞在者になろうとしている犯罪者だ。いかに自由の国であれど、法の下に成るこの法治国家アメリカでそれはあまりにも無謀な試み――いや、それは詭弁だ。シュウはその可能性を微塵も視野に入れてはいない。
もっと不可解な存在で、もっと不可解な現象がマサキであると思っている。
「領事館へ行ったんですよ。いかに特殊なケースであれど、対応が遅過ぎる……いえ、あなたがあまりにも……あまりにも私の生活に入り込んでしまったからこそ、私は、あなたを、不可解な存在のあなたを」知りたいと――とシュウが続けるのを「言うなっ」とマサキが遮った。
目の縁に白く線引く三白眼が潤んでいる。悲痛な叫びにシュウは一瞬怯み、腕の力を解く。と、マサキが入れ替わりに腕を伸ばし、その頭を掻き抱き、肩に顔を埋めて、
――忘れるんだよ、全部。
何を忘れろと言うのだろう。マサキの存在をか? この日々をか? ほんの少し前に起こった出会いから今日まで過ごした時間を全部忘れてしまえとマサキは言うのか。何にせよ、シュウに解ったのはマサキがじき、そう遠くない時間に消え往こうとしていることだ。
「忘れることなど……出来ますか」
何者かも知らない。
そこにただ在った。
だのにそれを当たり前と認識させるに至ったこの存在を、どうして忘れることが出来るだろう。人生においてその出会いが一瞬でも、記憶は鮮やかに残る。それが風化しない限りは、シュウは忘れない。否、忘れなどしない。忘れてなるものか。
「偶然だと、信じていたかった」シュウは目を伏せる。
「自分自身が自分ではない何かに侵蝕されて見ている幻であったならまだ、どれだけ幸福であっただろうかとも」
現実を目の当たりにして、そこから逃亡したいなどと望むのは愚者の行いだ。
けれどもそれを望ませてしまう。愚かだと知りつつもこの瞬間、この時間の中に永遠に閉じ込められたいと渇望する。それは、日常に侵蝕したマサキという存在の重みが成した、変革だ。
かつてのシュウには出来なかったそれらを、成させた――。
「……あなたは私にとって、重くなり過ぎた」
沈黙。それは限りなく、重い。
その重みが今のシュウにとってのマサキの存在だ。行きずりの他人では済まされない同居人としての、重み。自分の日常を侵蝕する共感者としての、重み。冥い内面にまで踏み込む事を厭わない庇護者としての、重み。他人、よりも重い。例えるならそれは、シュウには得られなかった温もりある家族の肖像、その具現だ。
空気よりもさりげなく。しかし何よりも強く確かな絆を持って存在する。
「重く、なり過ぎました」
ややあって、マサキは首を振ると「ごめん」とだけ言った。忘れろと言った言葉が全てを余す事なく物語っている。最初の出会いからこれまでの日々、その積み重ねた奇妙な同居生活はマサキが望み、仕向けたものであったのだと。
ならばシュウが導き出す答えはひとつ、しかなく。
「あなたが真実を話せないというのなら、私が話しましょうか」
それに至る手掛かりは、幾つも目の前に呈示されていた。バラバラのピースはそれ単体では謎を助長させるものでしかなかったが、繋ぎ合わせてみれば浮かび上がる真実がある。タクシーで乗りあったあの瞬間、名前を名乗ったあの瞬間、好みを見抜いたような食事を出した瞬間、黒人に啖呵をきってみせた瞬間、胸の内を吐露した時に反応してみせた瞬間……パズルというより、トリック・アートだ。
マサキはシュウを知っている。
のみならず、この世界にも精通している。
そんな芸当が出来るのは誰だろう? どんな人間だろう? その資格は? 前提は? ――無論、それは他の人間であったならば決して解けるものではなかっただろう。「他人」という「地上人」が知らない手札を持っているシュウだからこそ至れた結論でもある。
ただ、それだけでは語りきれない「何か」があるのもまた、事実。
「話しても、いいのですね」
マサキは何も言わない。
だからこそシュウは語る。語って、その真実を暴く。その一枚裏側の更なる「事実」に辿り着く為に。
「私は――」
何も言わないマサキは、シュウがそれでは納得しないことを「知って」いるのだ。
「私はありきたりな神など信じない。不可知な現象などもっての他。幽霊だの生まれ変わりだの馬鹿げている、そう思うでしょう。この世の全ての現象は、この世の理で解けるものである筈なのです。それが、解けないものであるとすれば、それは――」
息を呑む。
この一言を言うのが、これ程に緊張したものであったとは。自分も「そう」であるのに、シュウはそれ以外の例外を認められない己れの狭量さを恥じる。深く、この世界のどこかにあるであろう、自分の世界へ続く道。暗く長く続くその道よりも遥かに深く恥じる。
「別の世界の理に他ならない」
恐らく、生まれて初めて己れの慢心を恥じた。
「あなたは私を知っている」
肩が濡れている。
「私という人間を、誰よりも、知って、いる」
熱い息が布越しに伝わってくる。
声も出さず、身動ぎ一つせず、マサキが泣いているのだと気付くのにはもう少し時間が必要で、それを慮ることもせずシュウは立ちつくしたまま言葉を紡ぐ。口にしたくとも出来なかった、自分の中で組み立てられた仮説を。
予感はあったのだ。そうではないかという予感は既に最初の時点で感じていた。タクシーで隣に乗り合わせたあの時に、シュウは懐かしい匂いを嗅いだ。それが何であるのか、その時は深く考えもしなかったが、こうして日々を重ねるにつれ、そしてマサキという人間を知るにつれ、予感はやがて確証へと変じて行った。ただ、シュウは自分以外の例外を認めたくなかっただけで、その拘りさえなければ、もっと早くその考えに至っていただろう。
「――それは今の私ではなく、恐らくは未来の」
畜生っ、とマサキが呟いて顔を上げた。
涙で腫れた目が自分を見上げているのにようやく気付いて、シュウはその目元にそうっと指を這わせる。
「流石は博士様だ。幼くてもお前はお前ってことだな」
「ようやく本性を見せて頂けたようで何よりです」
口汚い言葉遣いに、シュウは笑う。マサキの幾層にも張られた仮面のその下に、自分は今辿り着いたのだと。そうだ、こういった表情を見たかったのだ。いつもマサキは上から自分を見守るような視線ばかりを向けて、対等に在ろうとはしてくれていなかった。それが例えようもなく他人行儀で、自分もそういった人間であったけれども、いや、あったからこそ、シュウには自らの内面に踏み込ませないしたたかさに映ったのだ。
落ち着いた所作など彼の風貌には似つかわしくない。バスケットコートで見せたあの苛烈さこそが、どんな表情よりも一番相応しく――しっくりくるのだ。他人に対して挑戦的であることこそが、彼のアイデンティティであるが如く。
そしてそれは、シュウ自身にも通じるものであったからこそ尚更に。
いつも誰かを挑発している。そういった生きざまが内と外、現れ方は異なれど、似ているからこそシュウは、尚更マサキを繋ぎ止めておきたいと思った、のだ。
「何で、わかった?」
懐かしい匂い、とシュウはマサキの髪に顔を埋める。
灼けた髪の合間から、草と木と太陽の匂いがする。そこに紛れて、即時には区別のつかない嗅ぎ慣れた匂いがある。それは一際鮮やかにシュウを惹きつける厭わしくも懐かしい、故郷の、ラ・ギアスの風の匂いだ。草原を駆け抜け天高く舞い上がるあの疾風は、雲を運び鳥を乗せ世界を廻る。
スモッグに澱んだこの世界の風とは比べ物にならない澄んだ薫りは、忘れようにも忘れられない。
「風の匂い、精霊に恵まれた世界の匂いがあなたからはする」
「そんなもん嗅ぎ分けるなよ」マサキは笑い、「そんな表情も出来るんじゃないか」とシュウの頬を撫でた。
シュウには自分がどういった表情をしているのかわからない。鏡がある訳でもなし、神の視点で自分を見下ろせる訳でもなし。ましてや別段変わった顔付きをしてみせたつもりもない。
訝しげに見下ろす視線の先のマサキがかつてなく幸福そうに微笑み、その答えを教えてくれるまで、シュウは自分でもどうかと思うほど茫洋と佇んでいて、
「険の取れた穏やかで澄んだ目さ」
単純な、しかしそれは、深い答え。
急いて生きることしか知らなかったシュウにしてみれば、顔立ちそのものが如実にそれを現す鏡となっていたのだろう。
「優しい、瞳だ」
そうしてマサキはしゃがみ込み、床に散らばったティーカップの破片を拾いだす。
「刺々しく見えてたとでも?」後を追って破片を拾おうとするシュウを腕で制して、
「気を張ってるようにしか見えなかった」
キッチンの奥からモップを取り出してきたマサキがそれを片付ける間、結局の所、シュウは濡れたスラックスもそのままに立ち尽くし、
「自分以外は全部敵、みたいなさ。自分だけで事を成す、みたいなさ……誰にも頼らない、っていう気概っていうより気負いか。力の抜き所を知らない子供みたいで……って、そうか」破片を全て新聞紙に包み込んだマサキが顔を上げて、今更気付いたとばかりに目を見開く。「子供なんだな、まだ」
「子供ですよ、あなたと比べれば全く」
「図体ばかりでかいもんだからつい――」
抱き締める。もう一度。
胸に感じるマサキの背中の温もりは、確かにそこに「在る」ものだ。
「……子供、なんですよ。私は、まだ」
「ああ……わかってるよ」
胸に回した腕に手が重なる。子供なんです、と繰り返すとそのマサキの手に力が増す。その力強さがシュウには心地よい。
抱き締めているのに、抱き締めてられているような錯覚がするのは何故だろう。
年の差だろうか? それとも経験だろうか? それとも彼が全てを知っているからか――そうだ、シュウは思い出す。マサキはこれからのシュウの往くべき道も、辿るべき道も全て知っているのだ。知りながらここに来て、知りながらここに居る。その意味は?
知りたいことは沢山ある。自分の居た世界に時間を超える道標も技術もなかった。マサキは何処から来たのか、それは否定しなかったことからもシュウと同じ世界ラ・ギアスで間違いはない。では、それは何時のラ・ギアスなのか。そしてマサキは其処に還るのだろうか。
時間を超える術があるのであれば、垣間見たい未来がある。
しかし、未来が存在しているというのであれば、それは問うまでもなくシュウ自身の限界を悟らせる結果でもあるのだ。時間が招くパラドックス。アキレスは亀を追い越せないといったゼノンのパラドックスは、どうであれ現実世界では通用しないものだ。アキレスは易々と亀を追い越す。それこそ走り始めて数秒も経たない内にだ!
永遠に亀を追い越せないことなどありえず、それは空想の、いや妄想の世界の戯言に過ぎないものだろう。
シュウの望む未来、目的、それは全てを終わりにする、それだけだ。自らを弾いた世界を、自らが弾く。それこそがシュウの存在証明である。しかしマサキが「其処」から訪れたのであれば、世界はその瞬間まで存続しているという厳然たる事実をシュウに突き付けてしまっている。
マサキは「何時」から訪れたのだ。
この「今」の地上世界に。
そしてそれだけでは説明出来ない数々の謎。玄関の扉を潜り抜けて見せたあのトリックは? 瞬発的に銃弾から逃れて見せたあのトリックは? 自由自在に時を駆け抜ける事がマサキの居るあちらの世界では可能になっているとでもいうのだろうか。
「……なあ、そろそろ食事を」焦れた様子でマサキが呟いた。
「それよりも聞きたい事が山ほどあります」
「言えないことが沢山あるんだ。わかるだろ、お前なら」
そんな矛盾は承知している。それでもシュウは問いたいのだ。
何時から、などという贅沢は言わない。自分の未来を問うなと言うなら問わない。ただ一つだけもしも本当に知りたい事があるのだとすれば、それは紛れもなく、
「あなたが消えてしまう前に」
「何も言わずに消えるつもりだったのに、それをさせてはくれないんだな」
腹の底から絞り出すような苦しげな声が、肩越しに伝わる。
「俺は、多分、もう消える。溶けてなくなりそうになる感覚が襲うようになってからここ数日、その間隔が日増しに短くなってきてるんだ」そして自嘲めいた乾いた笑いを洩らし、
「このままだと、この奇跡はクリスマスまで保ちそうにないな」
本当はそれまでここに居たかった――そう呟いたマサキの姿はやはり儚く透けていて、だからこそシュウは躍起になって抱き締める腕に力を込める。揺らいだ姿がまた現実のものとなるのに時間は左程かかりはしないが、シュウの焦りは消えない。この次の瞬間にも消えてしまいそうなその姿にして、マサキの言葉から読み取るに、消えるタイミングは自身でも計れないということなのだろう。
それまでに伝えたいことがあるのだ、シュウには。そして問いたいことがあるのだ、何もかもを差し置いて。
たったひとつ、ただひとつ、問う事を許されるなら問いたい事。それを聞くまでは、そして伝えるまでは、シュウは突然の別離れを許さない。それが間近に迫っているというのであれば、日常の些事などどれだけのものか。留める腕に力を込めて、一分一秒でも長くこの場にマサキを置いておきたいと望むシュウに、食事や睡眠は必要なものだろうか。
――不要だ。
「服、変えて来いよ」喘ぎながらマサキが言う。「テーブル片付けておくから」
「その間にあなたが」
「消えないよ」首だけ傾げて笑いながら、明瞭りと言い切る。「俺だって消えたくないんだよ」
「けれどもその意思でどうにかなるものでも」シュウの言葉を遮って、
「俺は俺で望んでここに来たんだから、そう簡単に消えてなるもんか」筆で剥いだような意思の強い声が、その満身の力を漲らせて響く。
「すぐ戻ります」
腕を解くと、マサキは大きく息を吐いた。苦しかったらしい。
「子供なんだな、お前」
しみじみとマサキが再度呟く。その時シュウは、自らの腕が紫斑が出る程に変色し、体温を失いきる程に痺れているのに気付いたのだ。
※ ※ ※
寒さで目が覚めた。
カウチから体を起こして、窓に寄れば夜半に降り注いだ雪がベランダに数センチと積もっている。今日の交通網は下手をすればマヒしそうだと思いながら、シュウは洗面所へ向かう。時刻はいつもより一時間程早い。
それでも丁度いい時間だろう。
服を着替え、荷物を纏める間に沸かした湯でインスタントのオートミールを作り、それをダイニングテーブルに戻る暇も惜しいと、キッチンに立ったまま一息に喉の奥へと流し込む。味気無い食事はかつての日常であったのに、初めて口にする食物のようだ。やけに喉に引っ掛かり、上手く飲み込めないのを紅茶で押し込んで、ふとキッチンの戸棚の上を見上げる。
シカゴ土産のドライケーキの包みはその姿を消していて、それに奇妙な満足感を覚えつつ、シュウは片付けもそこそこに家を後にする。
バスも電車も今日は混むに違いない。それならば、早い時間に余裕を持って出る方がいい。
わかっているのに玄関で、行ってきます――と言いかけて、シュウは背後を振り返り苦笑する。そこにはもう誰も居ないのだ。荷物らしい荷物を持たなかったストレンジャーは、その存在を消しただけでアパートメントだけでなく、日常さえも空虚な場と化してしまった。
それでもシュウは今日も家を出て、キャンパスへ向かう。突如として無くなった魔法のランチに、シュベールが何かを言い出すかも知れないと思いながらも。だが、変わった自分をシュウは知っている。それはランチのあるなしで量れるものではない。
穏やかながらも激動の日々が生み出したもの。
譲れない目的に明確な希望。
それをこの胸に抱いている限り、シュウは己れを見失うことはないだろう。
部屋を出て、長い階段を鞄を抱えるようにして降り、一階のホールから扉を開けてステップを降り立つと、どうかすると靴が埋まってしまいそうな積雪だ。ブーツにすればよかったと悔いても時既に遅し。途中のコンビニにて新しいソックスを購入しようなどと考えつつ空を見上げると、雪を降らせた厚い雲はどこへやら、スモッグも見当たらない程に見事な冬晴れが広がっている。
そして足元に気をつけつつ、シュウは一歩を踏み出す。
ソックスを買うついでにサンドイッチでも買うとしようか。不意に閃いた考えに我ながら変わったものだと苦笑しつつ歩を進めると、馴染み深い景色も矢鱈と新鮮に映ってくる。古びた建物の壁も、ブリキのゴミ箱も、それに群がる猫の群れも、遠くに車が行き交う大通りもまるで生まれて初めて目にしたもののようだ。
世界はこんなにも眩しかっただろうか?
こんな風に景色を眺めながら道を歩いたことがあっただろうか?
いつも何かに追い立てられて、大切なものを全て見失っていたのだと最後に気付く。改めて独りとなった世界は寂しくもあり、反面、はちきれんばかりの期待を運んでくるものでもあった。これから始まろうとしている長く険しい道程を、希望に向かって突き進むのだと思えば足取りも軽くなる。
――ただの秀才で終わってなるものですか。
手作りではなくなったけれども、ランチの習慣は続けるとしよう。シュウはいつも僅かばかり歩を進める足の動きを緩めながら、白銀の街並みを抜ける。
他の教授とは違う何かがあるシュベールに、容易く見下されたくはない。他人を頼る事を知る事が天才への一歩なのだとすれば、それは人が人となる一歩でもあるのだろう。神は万能ではあるが、それ以上の発展や展望のない存在だ。人には先がある。その寿命が限られていようとも、知識や技術、その経験は世代を越えて語り継がれて行くものだ。そうして今日の繁栄を、地上も、そしてシュウの古巣である地底も手に入れたのだ。
未来に先はないだろうか? その終末を導く担い手となるのを望むシュウは考える。知識に先はないだろうか? いずれ訪れるものが人の世の黄昏、その終焉だとしてもないとは言い切れない。人は人をその先人が成した道を越えて行く生物――考える葦なのだ。未知なる世界を有限と誰が言い切れよう。その果てを誰もまだ目にしていないというのに。
その限りない可能性に満ちた無限の終点にシュウは辿り着く。否、辿り付いてみせる。地底の知識に頼らず、己れの頭脳、この頭部に詰まった小さなブラック・ボックスのみを頼りとして。
神を知るものが神にはなれないが、人を知るものは人になれる。人を超えるには人となる所から始まるのやも知れない。
天に弓引く覇者たれと、望む。天に唾吐く反逆者たれと、望む。その己れの在り方が不遜なのは重々承知だ。だが、シュウは艱難辛苦に満ちたその覇道を諦めるつもりはない。
――私の目指す私になってみせましょう。
何故ならそれこそが、彼の望みであったのだから。
――あなたに、辿り着く為に。
シュウは往く。冬景色のニューヨークを。
シュウは往く。己れの目指す道程を。
「Good morning!」
巡回途中とばかりにサイレンも鳴らさずに通りかかったパトカーが、シュウの姿を見咎めてクラクションを鳴らす。足を止めるとスピードを落とし、路肩に横付けして停まった。運転席から顔を覗かせたのは、発砲事件の事情聴取をした白人の警官だ。機嫌良く白い歯零れる笑顔を見せて、威勢良く声を上げる。
「容疑者が絞り込めたぜ」
「早かったですね。流石はニューヨーク市警……市民の安全な生活を任せるのに相応しい働きです」
「税金泥棒なんて叩かれるのは、毎度の事でも避けたいからな」
皮肉ともつかない言葉に、慣れているのだろう。警官はウィンク混じりに肩を竦めて見せる。シュウは微かに笑いつつ通りの奥を振り返って、
「やはり、彼らの?」
「ああ。前から薬絡みで目を付けてた男さ。大方発砲したのもラリってたんだろ」
「に、かこつけたでっちあげではないでしょうね」
「九割はな。一割は利子だ」いい加減なことを言う。
「税金泥棒と呼ばれても仕方がない」
溜息混じりに大仰に嘆く仕草をしてみせると、「冗談だ」からかわれていたらしい。
アメリカン・ジョークがこういうものだとわかっているからこそ受け流せるが、未だに気分のいいものではない。それでも愛想笑いを返せる程度には慣れてきた。「冗談の質には拘った方がいいと思いますよ」シュウは言う。
「これ以上、ニューヨーク・タイムズの社説で叩かれたくなかったら」やんわりと性質の悪さを指摘すると、「キャロット・ジョーンズの真似さ」深夜のバラエティに出ている芸人の名前が上げられる。ここ暫くの日常では嫌でも目に入った番組だ。
余計な知識が増えたのは喜ばしい事なのか。「それで」苦笑しつつ先を促がすと、
「モンタージュを参考にして絞りこんだんだ。あんたの記憶力の良さには感謝してる」
「それは何よりです」
「後で感謝状が出るかもな」
「市民の義務を全うしただけです。謹んでお断りします」
長話は避けたい。面倒も避けたい。シュウは頃合と話を切り上げ、 「Have a good day.」別れの挨拶を告げて去りかける。「おい、ちょっと――」警官はそれを引き止めた。手招きに運転席に向けて身を屈めると、
「こういう通りの慣わしだが、他の連中がちょっかいかけるかも知れない。告発者はあんただ――気を付けろよ」
声を潜めた囁きに、シュウは艶然と微笑った。
「それを怖がっていたら、この通りで生活出来ませんよ」
生き抜く為ならどんな事でもしてみせる。その逞しさ溢れるこの七番街を、シュウは案外気に入っているのかも知れなかった。
貧困故の雑多。雑多な街は困窮と混沌を抱えている。だがこの街が絶望に支配されないのは、一縷の希望があるからだ。それを目指し、今日を生き抜き明日を夢見る者が集う。アメリカン・ドリームという名の見果てぬ夢を。それこそが七番街、シュウの住まう街。
――まるで今の自分を映す鏡のようではないか。
警官は刹那、虚を突かれた風に呆然とした表情を晒したが、即座にそれを引き締める。
「東洋人だと思って優しくしてみりゃこの有様!」
そうして笑いを堪えるのに必死の形相で、
「あんたは充分にこの街の住人だ!」彼は窓から腕を突き出すと、
――Good luck!
立てられた親指に屈めた身を起こしてシュウは無言で手を掲げた。それが契機と走り去るパトカーのエンジン音を背にしながら再び歩き出す。
天には眩いばかりの陽光。
道には照り返す積雪。
青と白のコントラストが色鮮やかな、目覚めたばかりの街を抜けて、バスストップからターミナルへ……
それがマサキのいなくなった朝。ようやく取り戻した自分だけの日常でありながら、それまでとは違った感慨を胸に、シュウが送り始めた瞬間の記憶。