騒々しい日常 ~それは嘘と真実の積み重ね~ - 6/7

安藤正樹の終わりなき誤解

 ドゴン、と腹部に鈍い衝撃を感じたマサキが、すわ敵襲かと身構えるよりに先に、マーサーキー! と聞き慣れた声が響き渡った。
 目を開かなくともわかる声の主はリューネ。彼女はあろうことかベッドで惰眠を貪っていたマサキの腹の上に、何を思ったか勢いを付けて飛び乗ってきたようだ。どれだけ普段からトレーニングを重ねている身体とはいえ、無防備なところに攻撃を加えられて無事でいられる筈もない。うう。と呻きながらマサキは仕方なしに瞼を上げた。
「ちょっとお、起きなさいよ!」
 既に目を開いた後だというのに、リューネはマサキのシャツの襟を掴みながら、その身体を揺さぶってくる。男でも敵わない怪力の持ち主であるリューネの立て続けの攻撃に、如何に女性が相手とはいえ、マサキは反射的に激高していた。
「この目を見ろよ、起きてるだろ!」
「一度で起きないマサキが悪いのよ!」
 用があるのであればあるなりに、もっと穏便な起こし方があっただろうに。マサキは非を認める気のないリューネを力任せに腹の上から落とした。そして身体を起こすと、派手な音を立てて床の上に転がったリューネを見下ろした。
「痛ぁい!」
「人の腹の上に全体重をかけた人間が云っていい台詞じゃねえ! なんなんだお前は――」
 腹部に残る鈍い痛み。腹を摩りながら怒鳴りつけたところで、マサキはリューネの背後に人影があることに気付いた。テュッティか、それともプレシアかと思えば、黒いタイツに包まれたすらりと伸びる脚が覗いている。もしや――と、マサキはゆっくりと視線を上に向けた。錬金学士協会屈指の才女は、穏やかではない笑顔を浮かべて立っている。
「うふふ。マサキ、ごめんなさいね。私は止めたのだけど、リューネがこのぐらいしないと気が済まないって云うから……」
 日頃、しとやかに淑女然と微笑んでみせる女性にしては慎みに欠ける笑顔。
 笑っていない瞳に、吊り上がった口元。まるで心に獣でも飼っているかのような、恐ろしいこと他ないウエンディの表情を目の当たりにしたマサキは、流石に自分に非があるのではないかと考えた。自分は気付かぬ内に、このふたりの女性を怒らせるような何かをしたのではないだろうか? マサキは急ぎここ最近の出来事を振り返ってみた。
「今ならまだ許すわよ。さっさと白状しなさい、マサキ!」
 そこに、今にも再びベッドに乗り上がってきそうな勢いでリューネが迫ってくるものだから堪らない。そうは云われても、マサキには思い当たる節がまるでないのだ。マサキは首を捻った。唯一思い当たるとしたら、冷蔵庫にあったプレシアとテュッティが作ったケーキを一切れ多く食べてしまったことぐらいだったが、それでこのふたりが怒るのは筋違いだろう。
 うーん。唸りながら色々と考えを及ばせてみるも、やはり何も思い浮かばない。これは流石にふたりの勘違いではないだろうか? そう思ったマサキは、リューネとウエンディに、ふたりがいきり立っている理由を直接尋ねてみることにした。
「お前たちが怒ってる理由って何だよ? 俺には思い当たることは何もないぞ」
「あらあらうふふ。マサキったら。そんな惚けた言葉を吐いて」
「こっちはヤンロンから聞いてるんだからね」
 これがもしミオの名前であったなら、マサキは内容を尋ねることもなく、即座にそれは誤解だと否定していたことだろう。あの傍迷惑な同郷の徒は、人間関係を引っ掻き回すのが趣味なのか、他人のプライバシーに関わるあることないことを、実に良く吹聴して歩いてくれたものだ。
 幸いなのは、魔装機周りの人間たちはそうした彼女の性質を理解しているからか、彼女の話を真に受けることがない。いいとこ話半分。マサキも彼女の話はそういった性質のものだとして聞くことが多い。だからこそ、彼女の勘違いや嘘から端を発した誤解を解くのは容易かった。
 テュッティであっても同様だ。彼女はいかんせん早とちりが過ぎる性格だ。ないことをあることにしてしまって、勝手に自らの中でストーリーを膨らませ、あたかもそれが真実だとばかりに他人に打ち明けてしまう。マサキも幾度かやられているが、なまじ普段は真面目で通っているキャラクターであるものだから、どんな突飛な勘違いであろうとも彼女が正義。その誤解を解く為の弁明にはかなりの時間が必要となる。
 とはいえ、そこは所詮は脳内で構築されたストーリー。論証を積み重ねれば襤褸がでたものだ。
 しかし、ヤンロンの名前が出たとなっては。
 その戦闘姿勢に似合わず日常生活では慎重派で通る彼は、確証のないことを迂闊に口にするような性格ではなかった。それはつまり口を軽くするにしても、事実のみということを意味する。自らの所見といった余計な情報を付け加えることのない彼からの情報は、だからこそ信用に値するものとして仲間たちからは受け止められていた。
 ましてや他人のプライベートなあれこれなどには、滅多に興味や関心を持たない彼のこと。そうである以上、マサキにとってある種厄介な組み合わせであるウエンディとリューネというふたり組が怒りを感じている問題というのは、マサキが考えている以上に深刻な問題である可能性が高い。
 マサキは表情を引き締めた。ヤンロンが口にした以上、誤解だどうだといったレベルの話ではないのだ。
「おい、本当に何の話だ。そこでヤンロンの名前が出るってことは、俺にかなりの落ち度があったってことだろ」
 マサキの迫力にふたりは気圧されたようだ。本当にマサキ、思い当たる節がないの? と、最初の気勢はどこにやら。どこか落ち着かない様子でリューネがマサキに尋ねてくる。
「あったらとっくに白状してるだろ」
「ヤンロンがマサキはシュウに騙されていると云っていたのだけど」
「騙されてる?」
 ウエンディの言葉にマサキは眉を顰めた。そして混乱した。騙されているとは何だ? 確かにここ最近、マサキはシュウと会う機会が増えていたものの、それはマサキが頼んだものであって、シュウから何某かのアクションがあったことではない。そうである以上、そもそも騙すも騙されるもない話である筈なのだが――。
「何が騒ぎの元になっているのかと思って様子を見に来てみれば」
「恋とは誤解と錯覚の積み重ねって云うけど、そういう話じゃないの?」
 そこに話を大きくしてしまうテュッティが、誤解を振り撒いて歩くだけのミオを引き連れて姿を現わしたものだから、マサキとしては頭を抱えずにいられなく。最早、微塵も話が穏便に済む気がしない。それでもどうにか気力を振り絞ってベッドを出て、先ずはミオの頭を引っ叩く。
「何が恋だ! お前、登場するなりないことないこと口にするんじゃねえよ!」
「そうは云われても。あたしはもう知っちゃった後だしぃ」
 そう云いながら舌を出してみせるものだから憎々しいこと他ない。
 何を知ったのかは知らないが、ミオがしたり顔をしている時点で眉唾物だ。恐らく一しかない話を十に膨らませているに違いない。それならば事実しか口にしないヤンロンとの話にも整合性が出る。騙す、騙されると云っても、それは世界の危機的なレベルの話ではなく、間食のチョコレートの粒の数を誤魔化したといったレベルの話であるのだろう。
 ヤンロンは時にマサキを揶揄うように、一の事実が五になるように含みを持たせた云い方をしてみせるのだ。
 しかし、まるで学習する気配のない女たちにとっては、ミオのこの発言はそれぞれの思惑を煽るのに充分だったようだ。それ見たことかとばかりに、全員が一斉にマサキに詰め寄ってくる。
「ねえ、マサキ。お姉さんは心当たることがあるのだけど、あなた本当に心当たりがないの?」
「そうだよ、マサキ。ゲロって楽になっちゃいなよ」
「ほらあ、マサキ! やっぱりシュウと何かあったんじゃないの!」
「あらあら、どんな話が飛び出すのか楽しみだわ。うふふ」
 女三人寄れば姦しいだが、女四人寄ればその比ではないい。それぞれがめいめいに言葉を発するのを、耳を塞ぎたくなる思いで聞いていたマサキは、話の続きはリビングでしましょうと、テュッティに階下に降りてくるよう促されたところではあと深く溜息を洩らしていた。
 ――これじゃ話がややこしくなる一方だろ。
 ひと足先にリビングへと降りていった女性陣に束の間の平穏を感じながらも、これから始まる不穏な時間に憂鬱も限りなく。きっと山程、勘違いと誤解からくる捏造ストーリーを聞かされるのだろう。吹き抜ける風。ちらと開いている窓に目をやったマサキだったが、そこから逃げ出したところで問題を先送りにするだけだ。
 いつかは詰められるのだ。だったら今誤解を解いてしまった方がいい。
 マサキは仕方なしに服を着替え、リビングへと向かった。

※ ※ ※

 城下でクレープに続けてパフェを食べようとしたリューネとウエンディは、その前に膨れた腹を減らす為にショッピングと洒落込もうとしたところで、情報局に向かおうとしているヤンロンと出くわしたのだという。
 近頃とみに不在が増えたマサキが何処に行っているのかを、朝方、ゼオルートの館を訪ねてまで知ろうとしていたらしいリューネは、その場にいたテュッティとミオから収穫を得られなかったこともあり、ヤンロンにもその疑問をぶつけてみることにしたのだそうだ。
 ――僕は何も知らんぞ。
 堅物たるヤンロンは何かを知っていたとしても、迂闊にそれを口にしたりはしない。案の定な返答は、それを裏付けるに足るものだった。だからこそリューネはしつこく食い下がった。それを軽くいなし続けていたヤンロンは、最後には根負けしたのだろう。呆れ果てた様子でこう口にしたのだそうだ。
 ――マサキはシュウに騙されている。僕が知っているのはそれだけだ。
 一の事実が五になるどころか、火のないところに煙を立てただけにしか思えない。リビングに下りたマサキは、ようやく落ち着きをみせたリューネから、寝ていた自分に対する狼藉の理由を聞き出して、どいつもこいつも俺を玩具にしやがって――と、盛大な溜息を洩らさずにいられなかった。
「大体、俺があいつに騙されてるのが本当だとしたら、俺に聞いたところで答えが出る筈ないだろ」
「それはそうね」マサキの言葉にウエンディがはたと気付いた様子で、「だったらシュウに直接聞くしかないのかしら」
「えー、ヤダ。あの男が本当のことを素直に云うなんて絶対ない。ないって」
 即座に拒否の念を露わにしたリューネは、でも……と食い下がろうとするウエンディの言葉を遮って、マサキに向き直った。
「それにあたしが知りたいのは、マサキがひとりで何処に行ってるかなの! 大方、シュウと会ってるんでしょ」
「人のプライバシーを一々詮索しようとするんじゃねえよ。俺が何処に行ってようが、それは俺の勝手だろ。もしやそんなことでお前ら全員騒いでるんじゃねえだろうな」
 それに対してして、騒いでるのよ、とテュッティ。
 騒いでるんだけどね、とはミオ。
 どうやらこの四人組はマサキが、ひとりで行動することを好ましいものとは捉えていないようだ。
 自分たちとて普段は何処で何をしているか知れない時間が多い割に、それを棚上げしてのこの態度。マサキ自身はそれについて尋ねたことは一切ないというのに、立場が逆になるとこれだ。何処に行っていたのだの、何をしてきたのだの、誰と会ってたのだの……保護者のつもりであるらしいテュッティはさておき、ミオやリューネ、ウエンディは居所をともにしてもいない赤の他人である。マサキが何処で何をしていようが、本来彼女らには微塵も関係のない話だろうに。
 面倒臭えな、お前ら。マサキは自身に対する好奇心の強い彼女らに対して、そう呟かずにいられなかった。
「面倒臭いと思うのなら、私にぐらいは行き先と目的を教えてから出掛けて頂戴。あなたプレシアにも黙って出掛けてしまうのだもの。ご飯の支度だの、お風呂の用意だの、こっちには色々と都合があるのよ」
「だからって全部云う必要はねえだろ。帰りが遅くなるならまだしも、最近は夕方までには帰ってるぞ。それにしたって、遅くなるからのひと言で済む話じゃねえか。何でもかんでも云えばいいってもんじゃねえ。そもそも俺はお前らにプライベートのことなんて聞かねえぞ。お前らばっかり俺に聞きたがるっておかしいだろ」
「よく云うわね。この間だって、あなたプレシアが寝てから帰宅したじゃないの。それも何の断りもなしに。それで結局作った夕食は明日の朝食べるって」
「食べるって云ってるんだからいいだろ。食べないからお前らで始末しろとは云ってないんだ」
「それが問題だって云ってるんじゃないの」
「プレシアが文句を云ってないんだからいいだろ」
「あなた、プレシアに甘え過ぎなのよ。あの子がしっかりしてるとはいえ、何もかもを押し付けていい筈がないでしょう。家族といっても他人の集まりなのよ。そこはちゃんと線引きをして」
「だから俺だって、わかってることはちゃんと云ってから家を出てるんだよ。それともちょっとそこまで買い物程度にまで、お前らは帰宅時間を云ってから出ろって云ってるのか? そもそも俺が方向音痴だってこと忘れてるだろ。王都に行くのですら、迷子になりかねないのが俺だぞ」
 まさにマサキの日頃の行動の是非を挟んで一触即発。テュッティとの間に漂い始めた剣呑な空気を、シャラップ! と、払い除けるようにミオが声を上げた。
「その云い分にも一理あるけどね、マサキ。あたしたちが聞きたいのはそういうことじゃないの。大体、この間のシュウが云ってた秘密の用事って何? あたしたちに隠れて何かよからぬことをシュウとしてるんじゃないのって、そういう心配なんじゃないの」
「あー? ああ、あれか。お前がシュウと一緒にいた時のあれな。大したことじゃねえよ。話す必要も感じねえぐらいに大したことじゃねえ」
「何、その態度。大したことじゃなかったら云えるでしょ。それなのにそれって」
 怪しいわ。とテュッティが呟く。次いで、何それ、初耳なんだけど。とリューネも呟く。そして、あらあらうふふ。とウエンディが喜々としながら口にする。
「……ひとりだけ、反応がおかしいヤツがいるな」
「うふふうふふ。ふたりでラブ・アフェアなんて、羨ま……じゃなかったわ、いいご身分ね、マサキ」
「こっわ。何かわからないけど、ウエンディがこっわ」
 身体を震わせて怖がるリューネに、そんなことはないわよー。間延びした声で、呑気にも本人たるウエンディが云ってのけた。
「ウエンディ、もしかして喜んでない?」
 思えばマサキが姿を目にしてから一度も表情を崩すことのなかったウエンディ。マサキはその笑顔を、彼女が怒っているからだと捉えてしまっていたが、いましがたミオが口にしたように、喜んでいる可能性もなきにしもあらず。
 ウエンディ=ラスム=イクナート。錬金学協会所属の不世出の練金学士として、名誉を思うがままにしている彼女は、どうも男同士の友情だの付き合いだのに、夢や浪漫を感じがちな人間であるようだ。マサキとシュウのことにしても、穿った物の見方をして拗ねた様子をみせるリューネとは対照的に、ウエンディはその事実に恥じらいを感じてしまうらしい。それは紛れもなく、マサキとシュウの関係にそういった要素を見出しているからに他ならない。
 性格上黄色い声を上げて騒いだりすることはないものの、男同士の彼是あれこれの話となろうものなら、好奇心を隠せないといった様子でひっそりと話に加わってくるウエンディ。どうやら彼女が今回この場に姿を現わしたのは、マサキがどうこうというよりも、マサキとシュウのどうこうを知りたいから――なのだろう。
 馬鹿々々しい。マサキは心底どうでもいい気分になった。
 とどのつまり、テュッティにしても、ミオにしても、リューネにしても、ウエンディにしても、知りたいことはひとつしかないのだ。マサキとシュウの関係性に恋愛感情が持ち込まれているのか否か。それが本当だったとして、彼女らの生活に何の変化があったものか! ああ、ホントお前ら面倒臭え。マサキは呟きながら、どっかとソファに腰を落とすと頭を掻いた。
「面倒臭いのはマサキの方じゃないの。後ろめたいことがなければ、シュウと会ってた理由云えるでしょ?」
「そうよ、マサキ! あたしたちに内緒であの男と秘密の用事を済ませてるって何!?」
「それはやっぱりあれなんじゃないかしらね。いい加減、吐きなさい。マサキ」
「あらあらあら、楽しみだわ。どんな用事が飛び出してくるのかしら」
 わらわらとマサキの周りのソファに腰を落として、今一度。彼女らは口々に言葉を吐き出すと、マサキの言葉を待つようにその顔をっと見詰めてくる。これは云わずに終われる状態ではない。マサキは秘密にしておきたかったシュウと頻繁に会っている理由について、口にすることにした。
「本ッ当に、本ッ当に、お前ら面倒臭えな! 少しは黙って俺の話を聞けよ!!」
 黙ってるよ。リューネの言葉に煩えと返して、マサキは秘密にしていたことを打ち明け始めた。
 もう直ぐ行われる戦士たちの祭典。剣技を競い合う戦いにエントリーしていること。御前試合でもあるその戦いに出る以上は、無様な姿を晒したくないと考えていること。その為にも対人戦の練習の必要性を感じていること。かといって、同じく試合にエントリーしている兄弟子ザッシュと稽古を重ねても、お互いの手を知り合うだけの結果にしかならないだろうと考えていること。そこで、試合に関係なく、且つ剣の腕が立つ相手を探していたところ、偶々顔を合わせたシュウが名乗りを上げてくれたこと。
「それって、じゃあ、ただ剣の稽古をしてただけってこと? 秘密にしておく必要なくない?」
「何でだよ。恥ずかしいじゃねえかよ。剣聖ランドールの名前まで授かってるっていうのに、今更こつこつ影で練習を重ねてるなんて。ファングならまだしも、他の参加者には絶対に知られたくねえだろ」
 ミオの言葉に応える形でそうマサキが口にした瞬間、何故か場にいた全員が期待を裏切られたような表情をしてみせた。
 結局の所、彼女らは何だかんだと口では云ってみせても、マサキとシュウの間に恋愛感情があることを期待しているのだ。マサキはげんなりした気分にならずにいられなかった。そうなったらそうなったで、彼女らはやいのやいのとまた大騒ぎをしてみせるのだろうに。げに他人の好奇心とは身勝手なものである。
「男のプライドって難しいわね」
 ややあって、はあ、と溜息を吐き出しながらテュッティが呟く。
「でも、じゃああれは……?」
「あれって何だよ、テュッティ」
「傷痕なんじゃないの?」
「あんなところに? 手足ならまだわかるけど……」
「何を云ってるのかわかんないけどさ、テュッティ。それがマサキがシュウに騙されているってことなんじゃないの?」
 リューネの言葉にテュッティは、ああと頷いてみせた。そして、マサキには心当たる節のないそれを、とことん突き止める決心をしたようだ。やけに深刻な表情をしてみせると、拍子抜けした様子のリューネやウエンディ、そして興味を失った様子のミオには構わずに、
「これはヤンロンと話をしないとね」
 決然と。立ち上がったテュッティの凛とした後姿に、マサキはどうやらこの騒動がまだ終わりにならないらしいことを感じ取って、ただただひたすらに――深い溜息を吐かずにいられなかった。

※ ※ ※

 何とはなしに気まずさ漂うリビングで、テュッティが用意したスコーンと紅茶を口にしながら待つこと暫し。ファッションにコスメ、グルメ、スキンケア……もうこのままティータイムを終えたら解散でいいんじゃないかと、ようやく普段通りの話題で会話が弾み始めた女性陣にマサキが思い始めた頃、タイミング悪く玄関のチャイムが鳴った。
「五人で顔を揃えてご挨拶だな」
 居丈高な態度でのあいさつも変わりなく。テーマカラーの赤い人民服に身を包んで姿を現わしたヤンロンは、リビングに一堂に会しているマサキたちを見下ろすようにしてソファの切れ目に立つと、まあ、座りなよと誰の家だかわかっているのか。さも当然とばかりに席を勧めたリューネの隣に腰を落ち着けた。
「で、僕に何の用事だ」
「マサキが騙されてるって話よ」
 形ばかりは優雅に、ティーカップの持ち手を抓んで、ひと口。紅茶を啜ったテュッティは、砂糖が足りなかったのだろう。舌に感じた紅茶特有の苦みに顔を顰めてみせると、「一体、何が騙されている、なのかしら?」
「本人に聞けばいいだろう」
「それを本人がわかってないんだけど」
 時に鋭く裏を読んでみせるミオでも、マサキが何に騙されているかは予想が付かないようだ。テュッティとともに何かを知っていそうな態度を見せていたが、それとヤンロンの言葉が上手く結び付かないのだろう。首を傾げながら尋ねる彼女に、
「流石はマサキだな。鈍感さに磨きがかっているようで何よりだ」
 いつの間にかキッチンに姿を消していたウエンディが差し出した紅茶を受け取りながら、ヤンロンがどう聞いても褒めてはいない調子で言葉を吐く。自身が鈍感であるらしいことぐらいは、これだけ云われているのだ。マサキとて自覚はある。
 煩えな。マサキは再び居心地の悪さを感じながらもヤンロンに向き合った。
「勿体ぶらずに云えよ。俺が何をシュウに騙されてるって?」
「僕はお前に聞いた筈だがな」
「聞いた? 何を――……」
 そこでふとマサキはいつかのヤンロンとの会話を思い出した。気難し屋な男は滅多に厳めしい表情を崩すことはなかったものの、その日はそれに輪をかけて難しい表情をしていたように感じられたものだった。どうマサキに話を切り出したものか悩んでいるようにも映ったヤンロンの表情。それでも愚直に言葉を吐いた彼の話から察するに、どうやらヤンロンはマサキに対するシュウの親愛表現を恋人同士のそれと勘違いしたようだ。
 場所を弁えるようにとマサキに忠言してきたヤンロンに、だからマサキは正直に説明した筈だった。
 それが王族の習わしであると。
 マサキの説明に納得したらしかったヤンロンは、それでも誤解を受けかねない行動を取るのは人前では慎むべきだと考えたようだ。「一般的な慣習でないものを、大っぴらに人目がある場所でしていれば、あらぬ誤解を受けても仕方ないだろう」と、とにかく場所だけは考えるようにと重ねて云ってきたものだった――……。
「それについてはちゃんと云ったじゃねえかよ」
「それがそもそも騙されているという話だ」
「騙されてる? 何が」
「この期に及んでそれか。時々、僕はお前がどこまで本気で鈍感で、どこから本気で惚けているのかわからなくなる。普通は気付くだろう。普通は。いや、お前に普通を求めるのが無駄なことなのは、僕とてわかっているつもりだが」
 溜息混じりにそう呟いたヤンロンは、その会話の行く末を興味津々と耳を傾けている女性陣を見渡した。そうして自らの持ち札カードを開陳することが、厄介事を招く結果にしかならないとでも思ったのではないだろうか。云わずに済ませられるのであれば、僕としてはそうしたい。と、苦虫を噛み潰したような表情で口にすると、自棄酒を煽るような仕草で紅茶を飲み干した。
「そもそも僕はお前に云っただろう。場所は弁えろと。そうでなければ、どんな誤解を受けても仕方がない」
「だからちゃんと場所は弁えるようにって云った――」
 そこで場所を弁えなければならないようなことにシュウとマサキが及んでいるということが引っ掛かったようだ。
「場所を弁えるって何の話よ、マサキ!」
 瞬間、弾かれるように立ち上がったリューネが、今にも掴みかかりそうな勢いでマサキに詰め寄ってくる。しまった、と思ったものの、時既に遅し。リューネを筆頭とする女四人組は聞いてしまった話を、そのままで済ませる気はないようだ。聖徳太子とて聞き分けに苦労するだろう勢いで、それぞれがめいめいに言葉を吐き始めた。
「これは話を聞かずに終わらせられない展開になってきたわね」
「うふふ、愉しみだわ。ヤンロンはどんな話を聞かせてくれるのかしら」
「場所を弁えなきゃならないことって、あたしたちの想像が当たってるってことじゃないの? 何でヤンロン、朝に教えてくれなかったの?」
 姦しいこと他ない。マサキは「煩え! お前ら少しは静かに」と、彼女らに割って入ろうと試みたものの、好奇心の塊となった女たちの暴走が簡単にその程度で止まる筈もなく。どういうことなの、だの、早く聞かせなさいよ、だのと、騒々しくも一様にヤンロンに詰め寄ってゆく。だのに鋼の心臓を持つ男と来た日には安穏としたものだ。いや、開き直ったとでも云うべきか。我関せずと呑気にもスコーンを割った彼は、続けてそれにはちみつを塗り始めた。
 これでリューネの堪忍袋の緒が切れない方がどうかしている。
「ちょっとお、ヤンロン! 何、呑気にスコーンを食べようとしてるのよ! 出なさいよ、外! あたしにその面貸しなさいよ! じっくりと話を聞いてやろうじゃないの¡!」
 云いながらリューネがリストバンドを放り投げた。ドスンと物騒な音を立てて床に沈んだリストバンドに、その床の修理をするのは俺だとマサキは声を上げたものの、今更そんな些細な不都合に耳を寄せてくれる面々でもない。むしろヤンロンに掴みかかってゆくリューネに続けとばかりに、全員がソファから立ち上がると、今まさにスコーンを口に運ぼうとしているヤンロンを取り囲んでしまった。
「大体、何でマサキとヤンロンがシュウのことで秘密の話をしてるのよ¡?」
「そうよ、そうよ! そんな面白い話、独り占めするなんて狡いわよ!」
「プレシアの教育の問題もあるわ。あの子だって兄が嫁になるとでもなったら」
「あらあらうふふ。面白そうな話ねえ。是非、その辺りのことも含めて聞かせて欲しいわぁ」
 それにも構わずスコーンを食べ続けているヤンロンに、成程、ああやって無視を決め込めばいいのか。マサキが感心した刹那、恋する女たるリューネははついに無理矢理ヤンロンの手からスコーンを奪い取ると、その目の前に仁王立ちになって絶叫した。
「あたしのマサキの一大事なのよ!」
 いつ俺がお前らのものになったんだと、マサキとしては口にしてしまいたくなったものの、それを耳聡く聞き付けられて更に話がややこしくなるのだけは御免被りたい。何だかんだと云ったところで、自分の機嫌を自分で取ることを知っている女だ。リューネにはやりたいようにやらせておくのが一番いい。
 彼女は放っておけば、その内、勝手に気持ちの収まりを付ける。そして何事もなかったかのように、あっけらかんと振舞ってみせるのだ。若しくは、気持ちを落ち着かせる為に、マサキと同じようにひとりでヴァルシオーネRに乗って遠駆けと洒落込むか……。
 そう、マサキはマサキでリューネの処し方を知っていた。
 だからこそ、ヤンロンもまたリューネを放置することを選ぶだろうと思っていた。だというのに――。
 よもやスコーンが物惜しかった訳ではないだろうが、リューネにスコーンを取り上げられた瞬間、ヤンロンは世界が終わったかの如き剣呑な表情になった。なって、それに虚を突かれて言葉を失っている彼女らを見渡して、よせばいいのにその好奇心を擽るような台詞を吐いてみせたのだ。
「知らずにいた方が幸せなこともある。それでもお前たちは僕の話を聞きたいのか」
 勿論と一斉に頷いた彼女らににたりと笑ってみせたヤンロンに、嫌な予感がしたマサキが慌てて止めに入るも、そもそも一の話を十にするのが好きな彼が、マサキの言葉ばかりの制止を聞き入れる筈もなく。
「マサキはシュウの親愛の情を受けている。それ以上詳しく知りたくば、今度こそきちんとマサキに聞くんだな」
 そしてその言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかっているリューネの手からスコーンを取り戻すと、平然と口に運んでみせた。ひと口、ふた口、三口……半分も口にする頃にもなると、流石にテュッティやミオはその意味せんとすることに思い至ったようだ。まさか、あなた――テュッティが猛烈に困った表情をしながら、マサキに向き直ってくる。
「あなた、シュウに騙されているのをわかってるんじゃないの?」
 どきんと、鼓動が跳ね上がった。顔に出るのではないかと思うほどに全身が熱くなる。
「ふーん。良くはわからないけど、マサキも納得ずくのことなんだあ」
 そこにミオがひょいと顔を覗かせて訳知り顔で云ってのけたものだから、マサキとしては増々顔を熱くせずにいられなく。
「だからそれはお前らが思ってるような意味じゃなくてだな」
「うんうん。それがつまりマサキが騙されてるってことなんでしょ」
 相変わらず意味が通じていないらしいリューネやウエンディが怪訝そうな表情で見守る中、どんどんと勘違いを加速させてゆくテュッティとミオに、マサキはどう答えたものか悩む。
「まあ、初心な子だとは思っていたけれども、ここまで鈍感だったとはね」
「だからそういう意味じゃねえって云ってるだろ! 聞けよ人の話!」
「じゃあ、どういう話だって云うの? それがシュウの親愛の表現だって云うなら、それでいいって話じゃない? だからマサキだって納得ずくなんでしょ。だのにそれってまるで――」
 実の所、マサキは薄々それが嘘ではないかとは――思っていたのだ。シュウの言葉が真実だったとすれば、セニア辺りがとうにそうしていてもおかしくない。彼女はスキンシップを厭わない性格だ。異性にそうした風に触れるのを避けたとしても、同性相手なら自然にそう振舞ってみせそうではある。
 ましてやシュウにはモニカやテリウスが付いている。どうして彼女らがそうした行動に出ないと云えたものか!
 しかも口付けの激しさが気持ちに比例するのだとか云っては、マサキの肌を吸って、これみよがしな跡を残してみせる……。だのシュウの肌にそうした跡が残っているのを、マサキは目にしたことがない。長く付き合いを重ねてきたいとこたちが、シュウに親愛の情を抱いていない筈がないというのに! 
 これで疑いを挟まない方がどうかしている。
 けれども、それをシュウにぶつけることをマサキは躊躇ってしまった。
 嘘でも本当でもいい。マサキはシュウとの一風変わったコミュニケーションを少しでも長く続けていたかった。それは愉悦だった。マサキはシュウが自らに敵意を抱いていないどころか、従属さえも厭わない態度に出てきたことに、どうしようもないくらいの優越感を感じてしまっているのだ。 
「それは、あいつがそういうもんだって云うから」
「それをそのまま鵜呑みにしたの、あなた。そんなんじゃ、いつか取り返しの付かないことになるわよ」
 いや、だから、だってだな。そう言葉を重ねれば重ねただけ、マサキは自らが抱いている感情に自覚を促されてゆくのだ。
 その行為に考えを及ばせた瞬間に、胸を占める甘やかな感情。
 それの名が何であるのかマサキは知らない。いや、知っていて目を瞑っているというべきか。そう、テュッティの云う通り、少しずつ行為をエスカレートさせているシュウは、いつかマサキの口唇に辿り着くことだろう。だから何だって云うんだよ。マサキはもしシュウとっそうなったとしても、抵抗しようとは思えない。
「あー、もういいじゃねえかよ。俺が騙されててもいいって云ってるんだから!」
 ついに音を上げたマサキが自らの感情の赴くまま、そう口にした瞬間。マサキ! と、どうやらこれまでの会話でその内容を悟ったらしいリューネが、目を輝かせているウエンディとともに輪となっている三人の中に飛び込んで来た。
 ――もう、いい加減にしてくれよ。何でこの程度のことでこんな騒ぎになるんだよ。
 リューネに襟を掴まれて詰め寄られながら、マサキは自らに振り掛かった受難にそう思わずにいられなかった。