白河愁の輝ける勝利
折角だし、寄って行ったら。そう口にした少女の最高に面白くなさそうな表情が、彼女なりの愛情表現であることに気付いていたからこそ、シュウ=シラカワはプレシア=ゼノサキスの誘いに応じることとした。
プレシアにとって、自らは父ゼオルートの仇である。
如何にサーヴァ=ヴォルクルスに操られてしたことにせよ、その事実が消えるものではない。そもそもシュウは自らの鋼の精神力に自信を持っている。それを屈服させてみせた邪悪なる精神。未熟であった己が超常的な存在に勝てる筈もない。シュウとて人間、人の子であるのだ。けれども、消えぬ思い。人の心、或いは精神というものはそんなにも脆弱なものであるのか。あの輝ける光、マサキ=アンドーを見るがいい。彼は真っ直ぐに、純粋に、汚れなき目標に向けて歩みを続けているではないか!
挫けることも多いだろうその道を、己が天より授かった能力を盾に突き進んでゆく彼は、どんな光よりも眩くシュウの目には映ったものだった。
理想など、所詮は机上の空論。力なき支配以外に世界の平和など有り得ない。魔装機神の存在というものは、武力を否定する平和主義者に決定的なダメージを与えたものであったが、けれども力というものはそれ単体では存在出来ない概念である。それを揮う存在の心によって姿を千差万別に変えてみせる力という概念。武力を支配ではなく、守護することに使い続けている彼の堅牢な精神力にシュウは感嘆せずにはいられない。
そのマサキが追いかけ続けた敵であった己は、果たしてどうだ? 類まれなき能力に恵まれておきながら、愚かにもサーヴァ=ヴォルクルスの誘惑に身を委ねてしまったシュウは、その存在と対峙することを選択したからこそ、それが逃れられない力であったことを認めたくなかったのだ。だからこそ逃れられない問い。本当に自分に責任はなかったのか? ゼオルートの死に限らず、奪ってしまった命の数々。自らの手はその無慈悲な殺戮の感触を覚えている。だからこそ、シュウはそれらの罪に対して、自らの責がないとは云いきれなかった。
―――今日はアップルパイを焼こうと思ってたの。
ぽつりぽつりと言葉を吐くプレシアに返事をしながら、シュウは先を行くプレシアに付いて行った。
―――もう生地は出来てるから、後は焼くだけ。出来上がったら食べる?
勿論ですよ。シュウの返事に、モニターの向こう側のプレシアは少しだけ口元を緩ませてみせた。徐々に表情を柔らかいものとしてゆくプレシアに、彼女が赤子だった時代を振り返る。未だヴォルクルスの支配がそこまで強くなかったあの頃。胸に傷痕を抱えながらゼオルートに師事をすることもあったシュウは、日々色濃くなる自らの中のヴォルクルスの意識に、彼女の未来を憂いずにいられなかった――……。
ゼオルートの館への道を往くグランゾンとディアブロ。滅多にない組み合わせの二体の行き連れを目にしたら、マサキたち魔装機神の操者たちはどう思うことだろう。そう思いながら丘陵地帯を抜け、高原に入り、平原を駆ける。お兄ちゃん、起きてるかなあ。やがて点と果てに映る館を臨んだプレシアがひとり呟く。
周囲にはカラーリングも鮮やかな魔装機の群れ。どうやらゼオルートの館にいるのはマサキだけではなさそうだ。あれだけ賑やかなら、起きているのでは? シュウはプレシアに尋ねた。
―――それでも寝ていられるのがお兄ちゃんだから。
日を近くする御前試合に、マサキの稽古も熱が入ろうというもの。幾度剣を合わせても満足することなく、打ち合いを望んでくるマサキに付き合ったシュウは、いつしか迎えていた朝に彼を宥めて家に帰したものだったが、さしもの彼も夜通しの稽古には疲弊したようだ。帰宅後に素直にベッドに入ったらしいマサキを思ったシュウの口元は自然と緩む。
別れ際、その首筋にそうっと触れた口唇に温もりが蘇る。汗と草と太陽の香り。いつ触れても、彼の肌からはラングランの自然の匂いが漂ってきたものだった。今朝もそう。柔らかく鼻腔を擽る嗅ぎ慣れた香りに、シュウは幾度もその肌を吸った。もういいだろ、とマサキが声を上げるまで。
うっすらと首筋に残った紅斑は、何日の間、彼の肌を彩ることになるのだろう……それが消える前に再び顔を合わせる機会に恵まれ続けているシュウは、この世を支配する運命に感謝を捧げずにいられなかった。
「いい加減、あたしの質問に答えなさいよ、マサキ!」
そうしてゼオルートの館に辿り着いたシュウは、ディアブロと並んでグランゾンを停め、彼女に続いてリビングへと足を踏み入れた。真っ先に目に飛び込んでくるリューネの姿。彼女はマサキの服の襟元を掴み上げながら、その衣服の持ち主に何事かを問い質している。
「どうしたの、お兄ちゃん!」
その周りには魔装機神の操者の面々ばかりか、ウエンディまでもが顔を揃えている。彼らはプレシアの帰着を喜ばしいものとは感じていないようだ。何故か一様に困惑した表情を晒してみせた――……。
※ ※ ※
「――で、リューネに詰められていたと」
アップルパイを焼きにキッチンに入ったプレシアに聞こえぬように、小声で事の次第を話して聞かせてきたマサキに、シュウは思いがけず身体が熱くなるのを感じていた。
触れたい。
無防備にシュウに肌を差し出し続けるマサキは、彼自身の特性である類まれなき鈍感力を発揮していた訳ではなかったのだ。彼はシュウの嘘を嘘と気付きながらも、騙される振りをすることを選んだ。その意味せんとするところを察せないシュウではない。
マサキの憮然とした横顔からその感情は読み取れないものの、少なくともマサキはシュウの口付けを受けることを嫌がってはいない。その事実はシュウの胸を激しく揺さぶった。
「彼女らの姦しさに丁度辟易し始めていたところだ。君の登場はいいタイミングだったのだろうな、シュウ」
そろそろ時刻は夕餉の時間に近付いている。ついでに食事の支度を済ませるつもりなのだろう。長くキッチンに篭っているプレシアの手伝いと女性陣は席を立った後。残されているのは、マサキとヤンロンとシュウだけとあっては、遠慮をする必要もないと感じているのだろう。口さがなく自身の感情を述べたヤンロンは、ティーカップに残っている冷めきった紅茶を飲み干すと、ソファを立った。
「何だよ。飯も食わずに帰るのか」
「朝食も世話になっている。度々ここで食事の世話になる訳にもいかんだろう」
それに――とヤンロンは言葉を続けた。お前たちは話し合うことがある筈だ。それに対して、マサキは何をとは尋ねなかった。そのままリビングを出て、キッチンにひと声かけて去ってゆくヤンロンを見送ったマサキは、ソファに腰を掛け直すと、気まずそうにシュウの顔を横目で窺ってくる。
「あなたはどうしたいのです、マサキ」
どう言葉を発すればいいかわからずにいる様子のマサキに、我ながら狡い問いかけだと思いながら、シュウはマサキの耳元で言葉を発した。ぴくり、とその身体が震える。無言を貫くマサキにシュウは言葉を次いだ。
「あなたが嫌なら止めますよ」
それきり絶えた言葉。ふたりの間に沈黙が降る。
マサキの剣の稽古の相手をシュウが務めることとなったのは、偶々彼の悩みに耳を傾ける機会に恵まれたからだった。剣の稽古の相手を探してるんだが、いい相手はいないか。そうマサキに尋ねられたシュウの脳裏に浮かんだのは、自らと知己である数多くの達人たちの名前や顔ではなく、どうすれば自分がその栄誉に与れるかであった。
断られるとは思っていたのだ。
卓越した才能を持つマサキを満足させられるほどの剣技の才が、己にあるとシュウは思っていない。もし仮にあったとしても、その道に専念してきた人間と比べれば、様々な技術に欠けている。それも無理なき事。人間が一日に得られる時間には限りがある。やるべきことを他に大量に抱えているシュウにとって、剣の稽古というものは後回しにされがちなものであるのだ。だからこそ、断られるのを承知でその相手に名乗り出たシュウは、マサキの承諾を受けられたことに舞い上がった。
決して手が抜ける役割ではなかったものの、その日々は、シュウに邪な考えを抱かせたものだった。もっと近く、もっと密に……マサキとの関係を変えたいと望んだシュウは、そうしてささやかな嘘を口にした。ある日の稽古の終わり。帰り際のマサキの手を掴んで、初めてその肌に口唇を這わせたあの日に。
無造作に伸びた襟足の影にひっそりと浮かぶ紅斑。いつしか後を残すまでに強くその肌を吸うようになっても、マサキは嫌がる素振りを見せなかった。それどころか、陶然と。潤んだ瞳でシュウを見詰めてきたことさえもあったのだ。勿論、シュウにそうそう隙を見せないマサキのこと。直後に表情を引き締めてみせたものだったものの、滅多に経験しない行為に彼が恍惚を得ているのは紛れもない。
―――嫌、じゃない。
やがて絞り出すように小さく言葉を吐いたマサキに、シュウは辺り憚らず勝利の快哉を上げたくなった。得たいものを得た。後々、リューネを筆頭にややこしいことになるのはわかりきっていたが、そんなことはマサキを得たことに比べれば些細なことだ。本当に? 尋ねてみればシュウを真っ直ぐに見詰めてくる瞳がある。嫌だったらとうにお前の首を刎ねてる。物騒な言葉遣いは流石の彼らしさ。それでも、その乱暴な物言いさえも、シュウには愛しく感じられて仕方がない。
ねえ、マサキ。シュウは辺りを窺いながら、マサキの耳元に再び口唇を寄せた。
「次は口唇にしてもいい?」
再びぴくりと震えた身体から、ゆっくりと伸びてきた手がシュウの腿を掴んだ。けれども、それ以上は言葉に出来ないらしい。シュウの顔を瞳に映しながら小さく頷いてみせたマサキに、そうしてシュウは早速とばかりに口唇を重ねていった。