(七)
その日、シュウの家を訪れたマサキがリビングに入ると、テーブルの上にそれは見事なホールケーキが乗っていた。
どこで購入したのかは不明だが、一目で高級品であると知れる格調高さ。チョコレートスポンジの縁に波を描く、ホイップクリームのレースのような連なり。天面には所狭しとフルーツが並べ立てられている。その中央に咲き誇るのは、食紅で色付けされた赤いクリーム製の薔薇。
「何だよ、これ。サフィーネたちからでも貰ったのか?」
市販のものを購入したのだとしたら、かなりの値段になるのは明白。だからマサキはそれが自分の為に用意されたものだとは思えずにいた。
「まさか。私が用意したものですよ」
「こんなケーキを用意するようなイベントあったっけか」
取り敢えずとマサキはソファに腰掛けた。
テーブルを挟んだ正面には、いつも通りに三脚に乗ったアクションカメラが設置されている。マサキが来るのと同時に回し始めたのだろう。起動中を示す赤いランプに、ぎこちなく口元を歪ませる。かなりの本数の動画に映ってきたが、未だにどういった表情をするのが正解なのかわからぬままだ。
「今日は大事な記念日なのですよ、マサキ」
普段よりは幾分柔らかい表情。どうやら機嫌が良いらしい。そう思った直後、思わず見惚れるほどの極上の笑みを浮かべてみせたシュウに、けれどもマサキは警戒心を抱かずにはいられなく。
「……絶対その記念日、俺が覚えてないような些細なことだろ」
優れた容姿を持つのみならず、知に長け、武に通じ、魔力にも恵まれた男、シュウ。けれども彼には欠陥と呼ぶべき重大な問題点があった。
マサキが絡むととかく狂う。
彼にとってはベストショットらしい写真を、焼き増ししてひたすら並べたアルバム。最近仕入れたチカからの情報によると、なんと十五冊もあるらしい。しかもそれをマサキの目に触れぬ場所に隠し、偶に取り出して愛でているというのであるから病膏肓。
しかもマサキが持ち帰った筈のハンドパペット人形も、いつの間にかまたサフィーネたちに作らせて、これまたマサキの目に触れぬ場所に隠しているというのだから恐れ入る。それを使って何をしているのかについては、さしもの使い魔も命が惜しいらしく、マサキがどう脅そうとも口にすることがなかったのだが、それが結果としてシュウ=シラカワという人間の異常性を示してしまっていると感じるのは、マサキの気の所為だろうか。
――それさえなきゃいいヤツなんだがな……
考えるだに身震いがするシュウのマサキへの執着心。覚悟を迫られたマサキは両の頬をぱんぱんと叩いた。そして瞳を閉じると精神統一。胸に深く息を吸い込んで、何度か深呼吸を繰り返す。
「何故、そこまで気合いを入れるような真似をするのです」
「お前、俺が絡むと自分がおかしくなることに気付いてないんだな……」
「心外な。愛情ですよ」
「アイジョウ」
思わず片言の言葉が口を吐いて出た。
決して他人の感情の機微に長けたマサキではなかったし、恋愛に疎いことも自覚してはいたけれども、それでもシュウの一種独特な執着心の持ち方は、普通からかけ離れていることぐらいは理解出来る。
「何か仰りたいことでも?」
にこやかなシュウの顔に、標的とされているマサキとしては云い返したい気持ちもあったが、下手に藪を突いて蛇を出してしまうような事態になってしまっては自身の身が危うい。だからマサキは、それはさておき――と、テーブルの脇に立っているシュウに視線を向けた。
「何の記念日だよ」
「思い出せませんか」
「お前、俺がそういうのきちんと覚えてるタイプだと思うか」
「覚えていて欲しい日ではありましたが、仕方ありませんね」眉間に手を当てて、大仰にシュウが溜息を洩らしてみせる。「あなたと初めて会った日ですよ」
何故だろう。その瞬間、マサキの視界から光が奪われる。
「いや、お前……その頃ヴォルクルスに操られてただろうよ……何で覚えてるんだよ、日にちを……」
「当時の日記を探し出すのは苦労しましたよ」
「そうか……てか、日記に俺のこと、書いてたんだな……」
その事実を恐ろしく感じながら、ゆっくりと面を上げる。目の前にでーんと置かれたホールケーキは、マサキが良く知るホールケーキのサイズをしていない。それがマサキの気をまた沈ませる。
何せマサキの顔より大きいのだ。
ありったけの愛情を詰めたとしてもこの大きさにはなるまい。何より当時の関係が関係なだけに、素直にはシュウの気持ちを受け入れられそうにない。あのな――心に深いダメージを負ったマサキは、絞り出すようにして言葉を吐いた。
「わざわざ日記を辿ってまで調べてくれたことには感謝する。けどな、シュウ。こういうのはさ、改めてやるよりかは、気付いた時にちょっとだけでいいんじゃないか?」
「気に入らないですか、マサキ」
「気に入らなくはないけどよ。でも、何て云うんだろうな。それが記念日になるなら、結局毎日何某かの記念日だろ? 例えば三日後だけどさ、俺が初めてここに来た日だってお前覚えてるか? そういうことだって思うんだけどな」
その瞬間、シュウが動いた。
テーブルを回ってソファの隣に腰掛けてくると、無言のままマサキの身体を抱き締めてくる。突然の出来事に、マサキは何が彼を衝動的にさせているのかわからず、ただただ途惑うしかない。
「……きちんと覚えているタイプではないと云った割には、そういったことは覚えていてくれているのですね」
「まあ、その……あの日はすげー緊張してたからな……」
マサキは気恥ずかしさを感じながらも、身を丸くして自分を抱き締めているシュウの背中に手を回した。
情緒に欠けるきらいがあるマサキではあったが、その日のことはありありと覚えている。チャイムを鳴らしてもいいものか悩んで、何度も何度も手を出しては引っ込めを繰り返した。本当にここにシュウがいるのだろうか? 呼吸を整え直すこと十回以上。ようやく鳴らしたチャイムに飛び出してきた男は、今と同じようにマサキの身体を抱き締めてきた。
「毎日が記念日。全くその通りですよ、マサキ。なら、このケーキは一ヶ月分のお祝いにしましょう。そしてまた来月、再来月と、お祝いを重ねてゆくのですよ」
「お前、本当にマメなヤツだよなあ」
「嫌ですか」
シュウが顔を上げる。
嫌になるぐらいの美丈夫。整い過ぎたきらいのある顔が、けれどもマサキにはとても愛おしい。
「一ヶ月に一度ぐらいなら付き合ってやるよ。ただケーキはもう少し小さくしろよ。一日じゃ食い切れねえ」
マサキは笑いながらシュウの頬を撫でた。冷えた温みが手のひらに馴染む。
その手を取ったシュウが、手のひらを自分の方に向けて口元に引き寄せてゆく。
「あなたがそう云うのであれば」
手のひらに口付けながらそう口にしたシュウに、ああ、やっぱり好きだなあ。そう自らの気持ちを再確認したマサキは、「有難うな」と云いながら、今度は自らシュウに抱き付いていった――……
※ ※ ※
訳のわからない言語が並ぶコメント欄。過去最高額の投げ銭を受け取ることとなったシュウは、その金をマサキとの旅行に使うつもりであるらしかった。何処に行きますか。と尋ねられたマサキは、お前の行きたいところでいいと云いながら、「でも、何で旅行なんだ?」と尋ねた。
「その方が視聴者が喜ぶからですよ」
「動画は撮んのな」
「それは当然。彼女らの投げ銭ですからね」
何だと云いつつ視聴者ファーストであるらしい。シュウの返事に、マサキとしては、偶には動画に関係なくのんびりしてえな。と思ったりもしたが、それはまた別に自分たちの貯蓄ですればいいことだろうと思い直す。
そして今一度、動画のコメント欄に目を遣った。
殆ど言葉の態を成していないコメントばかりだったが、中にはきちんとした言葉を残してくれているものもあった。その中でも、マサキの心の琴線に触れたのがこれだ。
――何を見せられているのかわからないけど、とにかく幸せな気分になれた。
マサキ自身も何をしているのか良くわからないカップルチャンネル。でも、時間が経つにつれて、それ以前よりもシュウとの仲が深まっていっている実感がある。そう考えると、意味のわからないことにも意味はあるのだろう。マサキは携帯小型端末をテーブルの上に置くと、隣に座って本を読んでいるシュウの肩に頭を預けるようにして凭れかかった。