(八)
投げ銭旅行から帰宅した後、二週間ぶりにマサキがシュウの許を訪れたその日。珍しくも機材を用意せずにいる彼は、これまた珍しくもマサキをアフタヌーンティーに付き合わせるつもりらしく、キッチンに立ってその準備に余念がない様子だった。
しかしただ出されたものを口にするだけというのも――と、手伝いを申し出れば、紅茶を淹れるのには繊細さと器用さが必要不可欠だからと断れられてしまった。どちらも欠けている自覚あるマサキとしては、それ以上シュウに強く出られる筈もなく。仕方なしに、マサキはテーブルの上に放置されていた携帯小型端末を取り上げた。
目的はカップルチャンネルの動画のコメント欄。彼女らの声にならない声を表現した言葉の数々は、よくぞそういった表現が出てくるものだと感心するぐらいには、マサキに新鮮な驚きを与えてくれる。勿論、シュウがマサキの自慢をしたいが為に作っている動画である。それを理解出来ない一部の層からの批判的な意見もあったが、今や登録者数七十万人を超える大型チャンネルである。むしろない方がおかしいというシュウの意見を受け入れて、マサキは殆どがコメント欄の下に追いやられているそれらの意見は丸ごと無視ししていた。
ただ、チカ曰く、シュウ自身はそういったコメントとレスバを繰り広げているらしかったが……。
しかしそれをマサキが知ったからといって、出来ることはないにも等しかった。あの理屈でマサキの口に勝る男は、それをひと言窘めようものなら、三十倍以上の言葉で以て反証してきたものだ。これで折れない方がどうかしている。故に、マサキは何も知らない振りをして、ただ自らの愉しみの為だけにコメント欄を眺めることにしていたのだが。
――白河先生! 『白き刃が闇を切り裂きし刹那、迸る朱の血溜まりより生まれ出ずる真理の光に遍く照らされる世界』チャンネルの白河先生ですよね!
スクロールした先に見付けた或るコメント。その壊滅的な厨二病センスのワードを目の当たりにしたマサキは、思いがけず携帯小型端末に伏せた頭をぶつけてしまっていた。
白き刃だの、闇を切り裂きしだの、真似しようと思って真似しきれる単語のチョイスではない。特に朱の血溜まりのくだりが救い難い。マサキは世界が滅亡してもこんな気分にはなれまいという絶望的な感情を胸に顔を起こした。それは紛れもなく、シュウが以前運営していた『高等教育の普及を目的に掲げた』チャンネルの名称だった。何を血迷ったか、シュウはただ『面白いから』という理由だけで、こんな長ったらしく、且つ黒歴史確定な名称を己がチャンネルに付けてしまっていたのだ。
――改めて目にすると、破壊力抜群だなこれ……。
まじまじとチャンネル名を眺めること暫し。どうやらそのコメントに続きがあるようだと気付いたマサキは、携帯小型端末の画面に指を置いた。折りたたまれているそのコメントの先を読むべきかどうか悩みつつも、けれども好奇心には打ち勝てずに、恐る恐る『続きを読む』をクリックする。
――先生がいなくなってから、ずうっと寂しい夜を過ごしていました。けれどもこんな形で再会出来るなんて! しかも以前のチャンネルではどれだけ頼んでも聞けなかった甘い囁き付き! これでまた楽しい夜が過ごせそうです。大事に新たな先生のボイスを堪能させていただきます!
マサキはそうっとコメントを折り畳み表示に戻した。
これだけ派手に動き回っているのだ。いつかはこういった日も来るだろう。何せ動画の本数の割に登録者数の伸びが異常なチャンネルである。だからマサキは覚悟は決めていた。けれども実際にシュウが以前運営していたチャンネルの視聴者の存在の目の当たりにすると、何故だろう。胸が締め付けられた。
「――見て、しまいましたか」
息苦しさに宙を仰ぐ――と、いつの間にか気配を殺して背後で様子を窺っていたようだ。シュウとまともに視線がかち合う。
「うん、まあ……」
どう反応すればいいかわからぬまま、マサキはそう呟くことしか出来なかった。
情緒に欠けるきらいがあると評されるマサキは、自身が他人の感情や、やもすれば自分自身の感情にも疎いことに気付いていた。特にまるでといっていいほど理解が及ばなかったのが恋心だ。マサキにとって、周囲にいる人間は皆気の合う仲間。そこに優劣など存在しなかったし、そうである以上、そこから誰かを選ぶなど有り得なかった。
けれども今は、そうした感情にも理解が及ぶようになった。
それはマサキを見下ろしているこの男――シュウとの付き合いがあるからこそ。
だからといって、マサキは自分を変えた男を疎んじたり、厭わしく感じたりすることはない。稀には嫉妬を感ずることもあったが、基本的には穏やかな日常。それは、さらさらと流れゆく清い川のように澄んだ心持ちと表現するのが相応しい。
だから苦しいのだ。
マサキはかつてのチャンネルでシュウに懸想していたらしい、所謂ガチ恋勢の彼女らを思った。行き場を失くした彼女らはこれまでどう日々を過ごしていたのだろう……。
「今日、機材をここに持ち込んでいないのは、あなたと今後のチャンネル運営について話し合おうと思っていたからなのですよ、マサキ」
けれどもシュウは、彼女らの気持ちはお構いなしな様子だ。どこか思い詰めたようにも映る表情で話を切り出してくる。
「何だよ、お前。まさかチャンネルを閉鎖しようとか考えていないだろうな」
「あなたはどう思いますか」
ソファを回り込んできたシュウが、マサキの隣に腰を下ろす。
「私のことをこういった目で見る視聴者がいる。それについてどう感じます」
「それは俺がどうって話じゃないんじゃないか? お前がどう感じるかって話で」
マサキの返事に、シュウが苦笑いを洩らす。
シュウのかつてのチャンネルを見ていた彼女たちは、科学には特段思い入れはないようだった。それでもスーパーチャットの額でデイリーの世界一を取らせるぐらいに、シュウ=シラカワという人間に惹かれているようだった。
幼い頃から容姿に纏わるエピソードに事欠かない男だけはある。彼は自己防衛の策のひとつとして、以前のチャンネルではVであることを選んでいた。気品高い女性のモデル。自身の容姿に対するめくらましとして使用していたバーチャルな人物像は、けれども、その向こう側を必要としない女性には何ら意味を持たなかった。
彼女らを惹き付けたのは、耳にするだに心地の良いシュウの声だ。
それをシュウがあまり面白く感じてないようであることに、マサキは気付いてしまっていた。でなければ、高い目標を掲げたチャンネルをあっさり終わらせるなどということはしまい。
「私はあさはかだったのですよ、マサキ。彼女たちがこのチャンネルの存在に気付かない保障などなかったのに」
重苦しく言葉を吐いたシュウが、マサキの答えを待つように凝っと双眸に視線を注いでくる。
「俺は、別に」
「嫌な気分になったりはしない?」
「むしろこいつらの方だろ、それは。次にお前を見付けたら俺がいたってさ……」
マサキが見ていないコメントの数々。コメント欄の下方に沈められているそこには、もしかしたら、彼女たちの嫉妬に塗れた意見も紛れているのかも知れない。
「お人好しですね、あなたは。自分のことより彼女らの心配ですか」
「お人好しか……そうだな。そうかも知れないな。でも、それは昔の俺じゃわからないことだった」
マサキは目の前にあるシュウの顔に手を伸ばした。彼のしなやかな手に比べれば無骨な己が手。それで冷えた温もりの頬を包む。
「全部、お前が教えてくれたんだよ。シュウ」
そう。と、口元に笑みを浮かべたシュウの瞳に、温かな光が灯る。
「なら、一生続けますよ」
彼が何故カップルチャンネルを始めようとしたのか。マサキにはその本当に意味するところはわかってはいなかったが、少しずつ前に進んでゆき、そして少しずつ縮まってゆく距離に記録が残されているということは有難いことだと思う。
何せ、何十、何百万人という証人付きだ。
これを裏切ることなどマサキには出来ない。
腹はとうに括っていた。一生、こいつと一緒にいる。その覚悟なしに、どうして動画に顔出しするなどという巫山戯た事態を許せたものか。そう、それもまた愛だ。マサキはシュウの傍にいる自分を誰かの目に晒されたとしても、そんな小さなことと笑い飛ばせるぐらいにはシュウと過ごすこれからの人生に覚悟を決めている。
「一生かあ。そこまで見続けるヤツ、いるんかね」
「少なくとも結婚式と赤ん坊は見たいのだそうです」
「後者は絶対に無理だろ、それ……」
「わかりませんよ」
クックと嗤いながらシュウが席を立ち上がる。キッチンのカウンターの上に並ぶプチガレット。それを甲斐甲斐しくリビングに運び込みながら、「里親になるという手もありますからね」妙案これに極まれりといった表情でシュウが口にした。