こじんまりとした洋館には、シュウたち各々の個室に少し余る数の小部屋と広めのリビングにダイニングキッチン。そしてバス・トイレに洗面所と、最低限の客をもてなす程度の設備しかなかった。
「また根城を変えたのか」と、以前に彼らが拠点としていた洋館にも訪ねたことがあるマサキが訊ねてみれば、「ひとところにじっとしているのは性に合わないもので」と、隠者のような生活を好む男にしては意外な言葉が返ってきた。
そんなシュウに促されるがまま。朝からテロリストのアジトを探索し、地上に出てはミオの着付けを待ち、立ち食い蕎麦屋で年越し蕎麦を食べ、神社の人待ちの列で除夜の鐘を聴き、年越しと共に初詣を済ませ、しまいには県を跨ぎ海岸に出て初日の出を拝んだマサキは、当然がらここまでの道のりで一睡もしておらず。ミオ共々案内された空き部屋で、一日ぶりの睡眠を貪った。
まだシュウに対する疑念を捨てきれていないらしいミオは、マサキに交代での仮眠を提案したが、さしものシュウも眠気がピークを迎えていたとみえる。「そんなに私を疑うのでしたら、私はリビングのソファで休みますから、好きにどうぞ」と言い切って、そのまま本当にリビングのソファであっという間に眠りに就いてしまった。
眠れるときに眠らなければ急場で身体が持たないことを知っているマサキは、よもやこの状態からシュウが策を弄するとも思えず、そのまま案内された空き部屋のベッドに身体を沈めることにした。ミオもひとりで眠っているシュウの監視をするのは嫌だったとみえる。ひたすらに眠りを貪ったマサキが数時間後、目を覚ましてリビングに足を運んでみれば、ソファに身体を埋めたシュウがひとり。
外に出て、サイバスターの操縦席から情報局に連絡を入れてみれば、サンプルの準備は明日になるとの返事。することもないマサキはリビングに取って返し、そこでようやく起きたらしい。不機嫌が服を着て歩いているような表情のシュウが、気だるそうにソファに身体を起こすのが目に入った。
「サンプルの到着は明日になるってよ」
「そうですか。なら、私は例の付着物の成分の分析を始めることにしましょう」
億劫そうにソファの背もたれにかけてあった上着を取り上げて袖を通すと、シュウは付着物のサンプルが入っている鞄を片手に洋館の一番奥の部屋へと姿を消した。
「あれ? シュウは?」
「例の付着物の成分の分析をするってよ。数時間は出てこないんじゃないかね」
「ふーん。まあ、その結果は教えてもらわないと困るもんだものね」
少し遅れて起きてきたミオに食事をどうするかと聞いてみれば、彼女はキッチンの設備や器具を一通り確認して、「少しぐらいは正月気分を味わってもいいんじゃない?」と、意気揚々。どうやら正月料理を作るつもりらしい。そのまま、夕方の市場へと使い魔三匹と一緒にザムジードを駆って、足りない食材を買い出しに出かけて行ってしまった。
リビングの作り付けの家具の上にラジオが一台。ひとりリビングに残されたマサキは、毛足の長いラグマットの上に場所を変えて惰眠を貪っている二匹の使い魔を尻目に、そのスイッチを入れた。
夕方のニュース番組。代わり映えのしない調子でアナウンサーがニュースを読み上げる。その極めてありきたりなニュースの羅列にマサキは思う。
この世界の平穏な生活を守るのは自分たち魔装機操者なのだ。マサキはニュースに耳を傾け続けた。]
※ ※ ※
一時間ほどで市場から戻ってきたミオは、早速とばかりにキッチンテーブルにそれらの食材を並べ、リビングでラジオを聴きながらくつろいでいたマサキを呼びつけると、あれしろこれしろと姦しく指示を出し始めた。
「何を作るつもりなんだよ」頼まれた野菜の皮むきをしながらマサキが聞けば、「だし巻き卵とお煮しめ。あとは魚を焼いたりなんだり。ラングランに流通している食材じゃね、どうしたって限界があるし」との返答。
「こんなに食いきれるかねえ」
山と積まれた食材を眺めて、溜め息混じりに言う。
「三箇日をのんびりと過ごすのには丁度いいくらいじゃない? それに金魚のフンだって戻ってくるでしょ」
「そういや面倒臭え連中がいたっけなあ」
シュウたちの仮住まいに立ち入るとき、マサキはその大半をシュウとふたりで過ごしたものだった。それは、それだけシュウが彼らを信頼し、手足として使うことを厭わない証でもあった。西に東に……彼らはその命令ひとつでシュウの望む情報を入手してくる駒でもあるのだ。
今回もきっと。
孤軍奮闘に見えて、その目的を果たすためにシュウがかなりのアドバンテージを得ていることをマサキは少なくない付き合いで気づき始めていた。二つの世界に渡る人脈はその属性も幅広い。好き好んで後ろ暗い生活に身をやつさなくても、本人さえその気になれば、実社会で充分にその実力を発揮できるだろう。
約束されたその未来に背を背けた理由が、ヴォルクルスの存在にあったことは想像に難くない。しかし――マサキは思うのだ。そこまで過去に囚われて生き続けることを自分に強いて、シュウは果たして何を成せるのだろうと。
「マサキ、手が止まってる。ちゃんとセルベス剥いてよね」
「滑るし、痒いし……お前、面倒事を俺に押し付けてないか?」
「男なんだから手間のかかる作業をやるのは当然でしょ? 普段キッチンに立たないんだから、こういうときぐらい役に立たなきゃ」
大量に卵を割り入れたボールを片手に、ミオはコンロの前に立つ。
ゼオルートの館に顔を出せば、必ずと言っていいほどキッチンに立つだけあって、ミオの料理の手際はいい。フライパンに油を馴染ませると、手早く卵を流し入れてひっくり返しては、また流し入れる……厚焼きのだし巻き玉子が出来上がるまで、そんなに時間はかからない。「一丁上がり! どんなもんよ?」
「賑やかな音がしてくると思えば……気を使って頂かなくとも結構でしたのに」
その美味しそうな匂いに誘われたのか。まだ眠気が抜けていないらしいシュウは、動くのも大儀そうな様子ながらキッチンに顔を出した。
「こっちに顔を見せやがったってことは、例の付着物の分析が終わったってことか」
「まあ、そうですね。詳しい分析の結果が出るにはもう少々時間がかかりますが、簡単な結果でしたら」
「結局、あの白い付着物はなんだったんだ? 勿体ぶらずに教えろよ」
聞くまでもないこと――歌うようにシュウはそう言って、やっぱりと呟いて溜め息を吐いたミオに微笑んで見せ、それからマサキの問いの答えを口にした。「カビと火薬と白鱗菌でしたよ。順当な結果ですね」
「ってことは、白鱗病の南下に警戒が必要ってことだな」
「それは早計かと思いますよ。こちらの作物にも白鱗病が出ている以上、この付着物から検出された白鱗菌が作物由来である可能性も捨てきれません。今後、更に肥料のサンプルから白鱗菌が検出された場合には、その遺伝子情報を比較する必要があります」
「遺伝子情報?」
「どちらが先の世代であるかを確定する必要があるのですよ」
「そんなこともわかるのか?」
「わかります。何世代後の菌であるかも、その遺伝子情報から判断することができます」
「それって、どちらの菌からどちらの菌が生まれたかもわかるってこと?」
「その通りですよ。間に何世代の変異を挟んでいるかもわかります。ですから、その結果を待ってからの方がいいでしょうね」
「なるほど。まあ、あたしたちでできることには限りがあるしね」ミオはうーんと唸ると、「その辺はあなたにお任せかな。あたしは情報収集も得意じゃないし……どのみち、肥料のサンプルの到着を待つしかないってことでしょう? ってことで!」言うなり、シュウに向かってボールを突き出す。
「いくらあなたが不器用でも、マサキの切った野菜ぐらいここに入れられるでしょ? あたしがとびきりのお正月用のジャパニーズ・フードをご馳走してあげるから、手伝って頂戴!」
※ ※ ※
だし巻き玉子に煮しめ、紅白なますに大豆の甘露煮。有頭海老の塩焼き。雑煮。種々様々な魚の刺身に色とりどりなサラダと、フルーツたっぷりのゼリー……限られた材料にしてはそれなりの形になった食卓を囲んで、三人で少し遅めの正月料理に舌鼓を打った。
「こんなに量があって、私たちだけで食べきれるでしょうかね」
あまり食が多い方ではないらしいシュウは、一通り箸をつけたことで満足したらしい。一旦、箸を置くと、少しだけ困った様子を見せた。
「同じことを言いやがる」先ほど、似たような台詞を吐いたばかりのマサキが呟けば、
「あの人たちだってこの三箇日に戻ってこない保証もないんでしょ? だったら多めに作っておいた方がいいかなー、って」
金魚のフンといった些か下品な言い回しが、シュウの好まない言い回しであることはわかっているのか。淫蕩だのインモラルだの好き放題宣っていた割に、今回は至って普通に彼らのことを「あの人たち」と表現すると、「酢と野菜は乙女の美容の味方」とかなんとか言いながら、ミオは紅白なますとサラダを自分の小皿に盛る。
「三日はかかるお願いをしたつもりではあるのですがね」
「やだ、確信犯?」
「地上の暦で年末年始ぐらいは、静かに過ごしたかったものですから」
食事そのものには文句はないらしい。それどころか喜んでいる節さえある。「明日もありますし、そんなに酔う訳にはいきませんが」と前置きをしてワインを出してくる程度には、ミオが味付けをした正月料理はシュウの食欲をそそったようだ。
元々他人がいない席での食事は貧相になる傾向があったが、それでも元王族。その舌が一般庶民に比べれば、遥かに肥えているのをマサキは知っている。貧相な食事を口に運ぶときの彼は全くの無表情を貫いたものだったし、きちんとした食事を口に運ぶときには僅かな笑みを浮かべて饒舌にもなる。
そんなシュウの酒に付き合いながら、饒舌な彼を眺めていれば、「その指輪なのですが」ふっとその視線がマサキの左手の小指に止まった。
「なんだ? 指輪がどうかしたか?」
「少しの間、私に預けてみる気はありませんか?」
「預けるって、何をするつもりだよ」
「ひと晩もあれば出来ることですよ」
言うなり手を伸ばしてきては、マサキの左手の小指に嵌った指輪に触れてくるものだから、その手を長く触られたくないマサキとしては、咄嗟に手を浮かせる他なく。
「おかしなことはするなよ」
「大丈夫ですよ。今回の件に関しては、抜けがけをするつもりはありますが、敵になるつもりはありません。そのぐらいは信用してくださってもいいでしょう? この指輪もそれと同じことですよ」
「抜けがけをする気はあるとか、はっきり宣言してんじゃねえよ」
「あなた方に出しゃばられ過ぎては、面倒な事になりかねませんしね」
するりと外された指輪がシュウの上着のポケットに収まる。
「ねえー……いい加減、そのリングについてあったことをあたしに話してみる気ない?」
堂々と目の前で指輪どころかマサキの手に触れたシュウに、ミオは大いに物思うところがあるようだ。そうっと話に割って入ってくる。
「別段、変わった話ではありませんよ。クリスマスのプレゼントに、マサキに少しばかり変わった贈り物をしようと思っただけで」
酔いが回って機嫌が良くなったのか、それとも昨日からイベント続きでハイテンションにでもなっているのか、さらりと恐ろしいカミングアウトをしてのけるシュウに、ミオの目の色が変わる。「プレゼント! ピンキーリングを、あなたがマサキにプレゼント!?」
「別にいいじゃねーかよ……薬指なんつー恐ろしい話じゃねぇんだしよ……」
「どっちでも恐ろしいと思うけど。だってシュウのプレゼントでしょ」
ひとしきり驚いた後に、ミオは涼しげにワインを飲んでいるシュウの顔を、その胸の内を窺うように見遣った。しかし、シュウにとっては些事ですらない。口元を微かに歪ませただけで、さらりとその視線を受け流してみせたものだ。
それで何を言うのも無駄と悟ったのだろう。ミオはどういった意味かマサキには測りかねる溜め息をひとつ洩らすと、横目でマサキを窺いながら、「てかマサキ、ちゃんと薬指の指輪の意味、知ってたのね」
「そのくらいは俺にだってわかるに決まってるだろ。お前、さりげなく俺を馬鹿にしてないか?」
「いやー、鈍感が服を着て歩いてるのがマサキだし……でもまあ、考えてみれば、他にマサキの指に指輪が嵌るなんて理由はないようなもんだし、これはこれでいいのかなあ。てか、意外とあたしショック受けてないのよね」
「お前ちょっと待てよ! 他に理由がないってなんだよ!」
「だってマサキ、着たきり雀のファッション音痴じゃないのよ」
「ごついアクセには興味があるし、別に服にだって興味がないわけじゃねえよ。ただ、こっちの服はやっぱ地上とはデザインが違うしなあ。どう何を組み合わせて着ればいいのかわからねえっつーか……」
「そうなの? だったら地上で服買っちゃえばいいのに」
「それで後から山ほど叱られるのは御免なんだよ。っていうか、ショックを受けてないってのもなんだよ……お前もこいつのおかしな行動に順応し過ぎだろ……」
「いやー、だって、思ったほど困ってないのよ。ああ、やっぱり? って感じだし……まあ、バレると面倒な人たちがいることにはいるけど、そこはまあね、マサキがなんとかすればいい話だし」
それもそうなのだ。マサキは宙を仰いで溜め息を吐いた。マサキにその気があろうがなかろうが、構わず押せ押せな二人の女性の顔を思い浮かべる。
ウェンディはさておき、リューネは――暴力的な愛情表現の数々に、あれさえなければ付き合い易い奴なのに、とマサキは思う。
しなければいいものをせずにいられないのは、思いがけないシュウからのプレゼントに舞い上がっているからなのだろう。貰えると思っていなかったものを貰えた。けれども、ではその指輪がどういった意味を持つのかと言えば、所詮は二人の間で通じる程度の約束の証でしかなく。
元々、それ以上の何かを求めていた訳ではなかったにせよ、接点が増えればどこかで具体的な期待をしてしまうようになるものなのだ。その心理的負担は決して快いものではない。だからこそ、マサキはシュウに期待しないことを覚えるようになった。
「なんとかねえ。なんとかなるなら、とっくにあいつらは嫁に行ってると思うんだけどな」
そうかしらね。ミオはそう呟いて、グラスに注がれたワインを豪快に一気に飲み干す。どうやら、いつもの癖が出てきたようだ。
ゼオルートの館で定期的に行われる魔装機操者たちの近況報告会も兼ねている酒の。異性も多いその席で、やはり彼らの目が気になるのではないだろうか。ミオは最初ばかりはゆっくりと、今日は悪酔いしないと宣言してから酒に口を付ける。けれども、それもいつの間にかどこにやら。酔いが回り始めようものなら、絶好調。調子が乗ってくると気が大きくなるタイプなのだろう。後のことを何も考えっていないようにしか思えないハイスピードで杯を重ね出す。そして最後には酔い潰れて伸びてしまうのだ。
これではいつもと同じで時間の問題だ――マサキはミオを止めようとしたけれども、それは間に合わない。そうと知らないシュウが間を置かずに空になったグラスににワインを注ぐ。それを間髪入れずにミオはまた飲む。
明日もあると言っておきながらのこの仕打ち! どうやらシュウは相当に機嫌がいいらしい。
「っていうか、やっぱりお嫁に行っちゃえば? なんだかんだで、あたし、二人は上手くやっていけると思うんだよねえ。そこまですれば、あの二人も流石に諦めると思うけど」
「またその話かよ……」
「女性が悲しむ姿は見たくありませんし、それはそれで生活し難いですから、私としては結構ですよ」
「指輪を贈っておきながら、それ? 何か企んでない?」
「本当に信用のない」珍しくもシュウは、ありありと困った様子が窺える表情をしてみせると、「あなた方に不利益になるような真似は、今回に限っては絶対にしません。約束します」言って、微笑みながら悠然とワインに口を付けた。
※ ※ ※
明けて翌日。いつもの起床時間より僅かに遅れて目を覚ましたマサキは、簡単に身支度を整え、預言書の解読を進めるつもりらしいシュウとそれを監視すると言って聞かないミオを館に残して、酒が残る身体を引き摺るようにして情報局へと向かった。
シュウに預けた指輪は、まだマサキの手元に戻ってきていなかった。「もっと簡単に事が済むと思っていたのですが、思ったより時間がかかるものですね」などと宣うシュウに、マサキは嫌な予感しかしなかったが、元々はその当人からのプレゼント。それではあまり強く催促もできない――と、気掛かりは気掛かりであったけれども、先ずは目の前の用事を済ませるのが先だ、と、マサキは幾分重みの減った小指を寂しく感じながら情報局に足を踏み入れた。
テロリストたちが営んでいた農場はそこそこの大きさだったらしく、押収された肥料は百袋を数えたものの、証拠品としては重要視されていなかったからだろう。軍での扱いはずさんだったようだ。
「あの時点で止めていなかったら、廃棄されていたでしょうね」とはセニアの弁だ。
「何が証拠になるかはわからないもんなんだけどな」
「まあ、スペースの都合もあるのでしょうけどね。とはいえ、軍部にはいい薬になったんじゃないかしら」
律儀にもセニアはその全てからサンプルを取らせたようだった。流石は情報局に君臨し、その影響力を堅持する女傑だけある。魔装機操者では立ち入れない領域でも、彼女の力をもってすれば容易なことなのだ。
袋に小分けにされ、ダンボールに詰められた肥料を、マサキが風の魔装機神で持ち帰るのにかかった時間は二時間ほど。いつものごとく、あれやこれやの用事で局員に引き止められ、足止めを食らったからだった。
預言書の解読を進めると言っていたシュウは、息抜きか。リビングでソファにもたれるようにして座り、本を読みながら、テーブルを挟んでミオと雑談に興じていた。見慣れた光景に、誰が相手であろうと、この男は自分のペースを崩すことはしないようだ――そう思いながら、マサキはリビングにサンプルの入った段ボールを運び込む。
「分析にはどのくらいの時間がかかるんだ?」
「私の組んだ分析用のコンピューターはそこまで処理速度が早くはありませんし、これだけの量となると、一週間はかかるかも知れませんね」
「結構、時間がかかるもんなんだな」
「練金学士協会のメイン・コンピューターにアクセスできれば、必要な遺伝子情報の取得や照会も一瞬で済むのですが、それを大手を振ってできる許可までセニアに求められるとは私は思っていませんよ」
「わかった」マサキはシュウの話を両手を上げて遮った。「つまり不正アクセスを見逃せってことだな」
「話が早くて助かりますよ、マサキ」
そして館の奥の部屋にサンプルと共に姿を消したシュウを見送って、マサキがリビングに取って返してみれば、監視とは名ばかりの寝正月を送っているミオがソファに身体を横たえて、スナック菓子を片手にラジオに耳を傾けているところだった。
「人んちなんだから、あんまり自由に過ごすなよ」
「セレブ用のゴシップ誌や、ファッション雑誌は借りたんだけどねえ」
シュウにしては珍しくも珍客に気を遣ったつもりらしい。恐らくはモニカかサフィーネが購読しているのだろう。ミオには大分不釣合いな雰囲気の表紙の雑誌がソファの端に積まれている。
「あたしはもうちょっと庶民向けの雑誌の方がいいかなあ、って」
「庶民向けねえ……『トラベラーズ・ガイド』だったら、何冊かサイバスターに積んであるけどな」
しかし既にサンプルの運び込みで、サイバスターとリビングを何往復もした後となっては面倒臭くもある。言ってはみたものの、それらの雑誌を取りに行くために再びサイバスターに戻る気にもならず、マサキはミオに差し向かうように対面のソファに陣取った。
「へえ! 方向音痴のマサキが『トラベラーズ・ガイド』!」
「悪いかよ。偶にはな、その土地の名物とか名所とか楽しみたいもんだろ」
「その前に目的地に辿り着けるの?」
「地図がちゃんとしてればな」
「ちゃんとするのは地図じゃなくてマサキでしょ」
ミオが片手に抱えていたスナック菓子の袋をテーブルに置く。「何か飲む? って言っても、牛乳かフレッシュジュースぐらいだけど」と、キッチンに向かいかけて、足を止めた。
シュウのものとは異なる、軽やかな、それでいて慌ただしい足音が、玄関の方からリビングに向けて近付いてくる。「厄介者のご帰還ね」長閑な時間の終わりを告げる足音に、ミオは思い切り顔を顰めてみせた。
「まあ、邪魔者はあたしたちの方こそ、なんだけど」
「あら、自分たちのことをよくわかってるじゃないの?」
今日も今日とて扇情的なボンテージの衣装に身を包んだサフィーネは、その肩口にて羽根を休めるチカを引き連れ、耳聡くミオの呟きを拾い上げると、リビングに足を踏み入れるなりそう言い放った。
「お戻りのお早いことねえ」苦々しげにミオが返す。
「いつもいつもあたしたちの尻尾を追い掛け回してくるボーヤはさておき、なんでションベン臭い小娘までもがここにいやがるのかしら?」
「あっらあ、ご挨拶。相変わらずキツイ香水の匂いを撒き散らして。鼻が病気なんじゃないの? この淫売女」
遠慮ない表現の数々でわかってはいたものの、ミオに限らず、サフィーネのミオに対する印象も良くはないらしい。「お子様に大人の女の色香は理解が及ばないものよねえ」「行き過ぎた色香は下品って言うんだけどね」などと、丁々発止。
「……あれ? こんなにお二人さんとも仲がおよろしくありませんでしたっけ?」
少しの間も置かずに威勢良く言葉を継ぐ二人に、口煩い使い魔であるところのチカでさえ首を傾げる有様。その疑問も尤もと、「……うーん……まあ、こいつらがが仲良くやってるところなんて、想像できねぇけどよ……それにしても」暫く黙って二人のやり取りを聞いていたマサキが言えば、
「そりゃあそうよね! こんな歩く猥褻物と同じ空気を吸うなんて!」
「それはあたしの台詞よ! 乳臭い小娘が!」
と、ふたり揃ってにべもない。
「やめとけよ、ミオ。喧嘩をしに来たんじゃないんだぞ」
こうした空気は先手を打って押さえ込むに限る。「サフィーネ、お前もだ」マサキはソファから腰を浮かせると、睨み合うミオとサフィーネの間に立った。「必要があって、シュウの許可を得てここにいるんだから、あんまり煩く言ってやるなよ」
「押しかけ女房ぶりが板に付いてきたこと!」
盛大な溜め息を洩らしながら、サフィーネがソファにどっかと腰を落ち着けると、その肩口から放り出されかけたチカが、「それもこれもご主人様の教育の賜物ですね!」と、場を収めるつもりのまるでない台詞を吐きながら、リビングを舞った。
※ ※ ※
シュウは三日三晩、奥の部屋から出てこなかった。
扱いがナイーブな実験器具やコンピューターが並んでいる研究室を兼ねている室内に、他人が足を踏み入れることをシュウは嫌う。知っていたからこそマサキは、その部屋にシュウの様子を窺いに行くことを避けた。
シュウへの食事を運び込む役目は戻ってきたサフィーネに任せ、マサキはミオと何をするでもなく、のんびりとリビングでミオの作った料理を摘みながら過ごした。すっかり寝正月モードに突入してしまったミオはさておき、したことが野菜の皮むきぐらいだったマサキは掃除や洗濯ぐらいは手伝うつもりでいたのだが、「あんたたちにあれもこれも触られたくないのよ」と、サフィーネに拒否されてしまった。
サフィーネによると、奥の部屋の一角には仮眠スペースがあって、シュウは一応は休みながら肥料のサンプルの分析を勧めているのだとか。作業が進んでいないのならば問題だが、そうではないのだからマサキにできることもなく。そこで、サフィーネに例の男について訊ねてみれば、ラングラン城下町の周辺でどうやら諜報活動を行っているらしいとの話だった。どこの組織に属しているかまではわからなかったらしいが、何らかの目的を持って情報を集めているのは間違いないという。
ミオの作った料理が尽きかけた三箇日の終わり。モニカとテリウスが連れ立って戻ってきた。彼らの話によると、ラングラン国内のヴォルクルス信徒に目立った動きはないらしい。となると、マサキとしては、バゴニアとシュテドニアスの動きが気にかかる。とはいえ、噂話の域は出ないものの、こちらも似たような状況らしい。
地上の暦で正月四日。朝から女三人が忙しなく立ち回るキッチンを脇目に、マサキは久しぶりにテリウスと腰を据えて話をすることにした。
目立って口にすることはないものの、セニアが三人のことを気にかけているのは、時に彼女がシュウに便宜を図ってみせるところからも明らかだった。テリウスに言わせれば、モニカは努めて明るく振舞ってはいるものの、ひとり王宮に残す形となってしまったセニアに物思うところはあるらしい。セレブ雑誌もそのひとつ。彼女は彼女なりに、セニアの動向を気にかけているらしかった。
「目的を果たしたら、セニアの元に戻ろうとかは考えねぇのか」
「今更だよね」顔付きから幼さが抜けて逞しさを増すようになったテリウスは、少しだけ寂しそうに笑った。「戻って何ができるわけでもなければ、やったことが消えるわけでもない。それに、僕にはこの生活が合っているようだよ、マサキ。学べることも多いしね」
「ほらほら、あんたたち。朝食の準備が出来たからテーブルについて」
サフィーネに急かされるようにして、テリウスとふたり。キッチンの食卓に顔を揃えてテーブルの上に置かれた朝食メニューを見れば、魚の煮付けに味噌汁。浅漬けや卵焼きといった日本の朝食に相応しい副菜も並んでいる。
「日本料理を食べるのは久しぶりですわ。どうでしょう、マサキ。ミオに教わりながら作ってみたのですが」
「へぇ。いつもサフィーネに任せてる割には珍しいこともあるもんだ」
「シュウ様にとっては第二の故郷の食事でもあるのでしょう? でしたら、この機会にきちんと覚えるぐらいしないと。お役に立てる機会はそうないのですから」
ミオが教えておかしなものが出来上がる筈もなく。地上での生活が懐かしくなる程度には、郷愁の念をそそってくれる素朴な味わいの料理を、マサキはゆっくりと味わった。
色鮮やかな食材を使用するラングランの食文化とは異なり、華やかさはないが、このこじんまりと纏まった感じが日本料理の醍醐味なのだろう。
「暇を持て余しているのなら、お願いしたいことがあるんだけどね。どう? ボーヤたち」
朝食後。サフィーネに請われて、マサキはテリウスに魔装機の操縦技術を教え込んだ。「敵に塩を送るってこういうことだよねえ」こちらもサフィーネに請われたミオが、簡単な護身術をモニカに教えながら言う。
掃除に洗濯と忙しく立ち回っているサフィーネは、その合間に茶菓子を運んできては、「監視だなんだって言ったって、あんたたちただここでリゾートしてるだけじゃないの。そのぐらいの宿代は払いなさいよ」などと焚きつける。チカはチカで、「この光景はむしろご主人様がびっくりするんじゃないですかねえ」と、いつになく平和に過ぎる時間に首を傾げながらも、五者五様な館の一日を眺め続けていた。
※ ※ ※
一週間と口にした割には、ほぼ不眠不休で分析に当たったのだろう。ラ・ギアス世界有数のスパコンとデータベースに不正アクセスしてまで急いだだけあって、翌日の昼過ぎにはシュウは詳細な分析結果のレポートを片手に居間に姿を現した。
「肥料のサンプルに含まれていた菌は、地下室の壁から検出された菌の一世代後の菌でしたよ」
「地下室が先になるの? ってことは……」
「恐らく、あの地下室で白鱗菌の保管をしていたか、培養をしていたかだったのでしょうね。それを肥料に混入させた。そしてその肥料を近隣の農家に分けたのではないでしょうか」
「肥料の流通ルートの洗い出しをしないとな」
少し長めの休暇もこれで終わりだ――マサキはソファの背もたれに掛けていたジャケットを取り上げて、袖を通しながら立ち上がった。
「流石にそれは私では対処しきれないので、あなた方に任せますよ」
「そのデータのコピーはあるのか?」
「どうぞ。セニアでしたら、もう少し踏み込んだ内容も読み取れるでしょう」分厚いレポートの束がマサキに手渡される。「とは言っても、かなりの大規模な流行病になっていますからね。対策をしたところで自然発生的に南下を始めるのも時間の問題な気がしますが」
「そこをどうにかするのが奴らの仕事だ」気にならないと言えば嘘になる。マサキは細かい数値の並ぶレポートを捲って少しだけ中身に目を通してみたものの、それが自分には理解の及ばない内容であるのがわかっただけだった。「適材適所とはよく言ったもんだ」
「使うべきものを正しく使うのもまた、才能ですよ」
「そんな才能は欲しくねぇんだがな」マサキはレポートを小脇に抱え、「行くぞ、ミオ」
「言われなくても」
ミオはにっこりと微笑んで、「じゃあ、またね!」シュウに軽く手を振って、一足先にリビングから出た。マサキも後を追う。ほんの数歩。リビングの入口を潜り抜けようとしたところで、「マサキ――」シュウに呼び止められて振り返る。
放り投げられた銀色の指輪。
片手で受け止めて、手のひらをそうっと開いて眺めてみれば――。
「古代語ですよ。暇なときにでも解読してみてください」
わかった。そうとだけ答えて、何がしかの文言が彫り込まれた指輪を左手の薬指に嵌め込む。そして、マサキはミオとともに館を後にし、王都への帰路に就いたのだった。