ちっちゃいの

「退屈だ」
「テレビでも見ればいいでしょう」
 そう云われたところで、ラングランには国営放送しかチャンネルがない。バラエティやスポーツも取り扱うことはあったが、地上の奔放な作りと比べると、やはりどこか堅苦しい。一応見てみるか――と、マサキはリモコンを手にしてみたが、案の定と云うべきか。スイッチを入れたテレビの画面に映し出されたのは、引き締まった表情でニュースを読み上げるアナウンサーの映像だった。
 退屈を紛らわすのにこれ以上不向きな番組もないだろうに。
 これでは腹の足しにもならない。マサキはリモコンを放り投げた。
 とはいえ、他にすべきこともない。今日も何処かで小競り合いが続くラ・ギアスの国際情勢を、生真面目に伝えるニュース番組を眺めながらマサキは再び口にした。
「退屈だ」
 シュウの答えはない。
 テーブルの上に乗せられた両手で抱え込めるぐらいの大きさの精密機器。それを工具を使って黙々と分解している彼は、マサキの存在など眼中になさそうだ。
「おい、シュウ。退屈だって言ってるだろ」
 すらりと伸びた長躯。上着を脱いで作業に勤しんでいるシュウの背中を、マサキは軽く睨む。
「でしたら本でも読むのですね」
「そうは云うけどな、お前の持ってる本なんて」
 跳ねるようにしてソファアから立ち上がったマサキは、壁際に並んだ書棚の前に立った。
 マサキの上背どころかシュウの上背までも余裕で越える高さの書棚。棚板が抜けそうな勢いでこれでもかと詰め込まれ本の間には、当然のことながら隙間はない。
 マサキは無言でそれらの本を眺め回した。
 軽く読めるようなペーパーバックの類はないようだ。最低でも指二本、どうかすると鈍器にしかならない厚みを持った本ばかりが並ぶ。その装丁はどれも目を瞠るほどに豪華で、軽々しく手を掛ける事を拒否するかのように重厚な存在感を放っていた。

 『カオスとフラクタル』
 『新版量子力学論』
 『練金学辞典』
 『素体と合金』

 背表紙に刻まれている題名タイトルを目にしたマサキは、静かに溜息を吐いた。流石、総合科学者メタ・ネクシャリストと呼ばれるだけはある。マサキが好むような内容の本には一切興味がないようだ。
 題名タイトルからは内容が想像付かない本ばかりが収まっている書棚の有様に、きっとこれらの題名タイトルが中身を裏切ることはないのだろうと思いつつも、それでも一縷の希望に縋らずにはいられない。マサキは試しにと目の前にある薄茶色の本に手を伸ばした。

 ――通常、素体は20時間で分裂を始めるが、ここにP38同位原子体を加えると、その分裂スピードを 1.5倍にまで遅らせることが出来る。この場合のメリットは、システムオーバーフローの規模を縮小することにある。但し、あくまで縮小するだけであり、オーバーフローが生じるのを避けることは出来ない。また、システム効率が下がる為に解析にかかる時間は通常の4.5倍になる。オーバーフロー発生のリスクを失くせない以上、この方法は適切ではない……

 どう逆立ちしても理解出来そうにない単語の羅列に宙を仰ぐ。何を論じているのかなど、若くしてラ・ギアスに召喚されたマサキにわかる筈がなかった。
 ひとつ戦いが終われば次の戦いの場へと。戦い続けることを宿命付けらたマサキは、自身の学が劣っていることには自覚があった。
 桁違いの知能を持つ男の、趣味と呼ぶには些か常軌を逸した知識への執着心。小さな文字が空白を厭うようにみっしりと詰まった本はその証左だ。マサキは額に手を置いた。本を開いた自分も自分だが、勧めるシュウもシュウだ。
 無言のまま、表紙を閉じた本を書棚に戻す。
 背後から聞こえてくる金属の擦過音。システムの分解は順調に進んでいるようだが、不快だ。マサキは耳を擦る金属音に顔を顰めながら、こうなったのは確かに自分の所為ではあるが――と、先程までの出来事を振り返った。

 ※ ※ ※

 時々、それが機体に高負荷を掛けると知りながら、マサキは風の魔装機神サイバスター加速形態サイバードに変形させて曲乗りをした。
 子供の頃に見た航空ショーの真似だ。
 地平に機体を垂直に立て、最大速度max speedで一気に千メートルの上空に昇り詰める。ふわりと宙に浮かんだ身体を、間髪入れずに強烈な重力が押し潰そうとしてくる。ブラックアウトとレッドアウトが交互に襲いかかってくるあの感覚は、麻薬と同等の常習性があるのかもしれない。
 マサキはひたすらに曲技を突き詰めた。
 空中旋回やループバック、急降下からのスピン。目まぐるしく変化する視界を堪能しきったと感じたら、それが止め時だ。調子に乗って命を落とすなどあってはならない。そのぐらいのことはマサキも理解している。だが、命を賭して挑む戦いと比べれば、その緊張感は遥かに易いものだ。
 風と一体化して空を駆ける。
 果てのない加速の先には果てのない恍惚感があった。山を越え、谷を抜け、空に上り、地に下る。ラングランの雄大な自然の一部となったサイバスターは、巨大な人型戦闘兵器であることを忘れさせるぐらいにしなやかだ。
 そのマサキの危険な趣味に、サイバスターの整備を担当するウエンディは気付いていないようだった。そもそも無茶を重ねているサイバスターの消耗は、それなりに激しかった。だのに、それについて彼女は一度も言及してくることはなく。
 尤も、聡明な才女のことだ。気付いていながらも、マサキを信じて黙っている可能性もある。
 とはいえ、咎められなければ増長するのが人間だ。
 マサキは広大な大地を、空を、サイバスターで自由自在に駆け抜けた。危険を承知で曲乗りを繰り返し、加速度的にその行為にのめり込んでいった。曲技の幅が増えれば増えるだけ、楽しさが増す。まるで中毒者ジャンキーのようにマサキは我が物顔で空を飛び回るようになっていた。
 そのツケをついに支払う時がきたのだ。
 直ぐに戻ると二匹の使い魔を置いてサイバスターに乗り込んだその日。主人の勝手の理由に想像が付いたらしい二匹の使い魔は、呆れ果てつつも素直にマサキを送り出してくれた。
 何度か曲乗りに付き合わせた際に、吐くほど酔ったのが堪えているのだろう。
 だからマサキは気兼ねなく、サイバスターで空中を飛び回った。だが、それは長くは続かなかった。加速形態を解いて程なく。機体がコントロールを失って左方向へと流され始めた。慌てて計器類を確認してみれば、どうもバランサーに異常が起こってしまったらしい。
 このままでは立ち往生するしかなくなる。
 マサキは機体のバランスを取り戻すべく、躍起になってパネルを叩いた。だが、失われたバランサーの機能は、そう簡単には戻りはしなかった。
 精密機器の塊であるサイバスターは、それなりのメンテナンスを必要とする兵器だ。叩けば直るような昭和の家電とは訳が違う。結果として、機体の重心が左に偏重したサイバスターは、マサキの努力も虚しく、軸をずらして左方向へと流れ続けていった。
 どうにかして王都に帰り着かなければ。そう思うも、酔っ払いの千鳥足よろしく、真っ直ぐ進む気配がない。
 ――くそ! まともに進めねえ!
 半時間ほどの格闘の後に流れ着いたそこが、幾度か訪れた事のある場所だと思い出せなければ、マサキは今も壊れた機体と共にラ・ギアスの大地を彷徨っていたことだろう。
 山裾にこんもりと広がる森。その中ほどに、古びた洋館が建っている。
 ――この際、相手を選んでる場合いじゃないってか……
 自分の迂闊な行動が招いた事態で他人に助けを求めるなど言語道断。そのぐらいの羞恥心はマサキにもあったが、意地を張り続けた結果、壊滅的にバランサーを壊すようなことになってしまっては。
 その果てにあるのは死だ。
 あの男の口は堅い。ここで頼ったとしても、マサキの失態を他の魔装機操者に吹聴するようなことはしないだろう。だからマサキはサイバスターから降りた。そして、洋館を抱え込むようにして生い茂る近くの森へと足を踏み込ませていった。

 ――おい、シュウ。

 ひっそりと、人目を忍ぶように建てられている二階建ての洋館。クラシカルな外観は、長い歳月人気がなかった事を示すように外壁が蔦に覆われてしまっていた。
 朽ちた木々が点在するばかりとなった庭。錆びたアーチが物悲しい。大理石で設えられた噴水はとうに水を枯らしていて、ただただ煤けるだけとなってしまっていた。
 罅割れたステップを上って、重く軋む扉を開ける。天井の高い玄関ホールに出たマサキは、シュウの姿を探して周囲を見渡した。不在も多い男だ。もしかするとかなりの時間を帰りを待たねばならなくなるかも知れない。
 けれどもそれは杞憂だった。
 マサキの視線が一点で止まる。暖炉の前。かつてはサロンを兼ねていたのだろう。ソファアや小卓が置かれた一角に、書物を広げているシュウの姿がある。
 ――珍しいですね、あなたがここを訪れるなど。
 声でマサキに気付いたようだ。顔を上げたシュウがそう云って口元を緩ませる。
 いけ好かない彼の笑みが、こんなにも頼もしく映ることはそうない。マサキは立て板に水と、目の前に立ったシュウに向けて、ここを訪れることになった事情を話し始めた――……。

 ※ ※ ※

 マサキから事情を聞いたシュウが、携帯情報端末PDAを片手にサイバスターに向かったのが一時間ほど前のこと。
 サイバスターの状況はマサキが予想していた以上に深刻だったようだ。プログラムを弄るだけではどうにもならないと、バランサーを取り外して持ち帰ってきたシュウは、マサキへの説明もそこそこにその分解を始めた。
「暇潰しにもなりゃしねぇ」
 終わりのないニュース番組にうんざりしたマサキはテレビを消した。さて、どうするか……考えてみるも、マサキの話し相手になれる男はここにひとりしかいない。そうである以上、どうにかして彼に自分の相手をさせなければ。
 マサキは修理に時間がかかりそうな様子のシュウを振り返った。
 直後、ボーン……ボーン……と、低い鐘の音が昼を報せてくる。見れば、ホールの正面に巨大な柱時計が設えられている。
 確かにそろそろ腹が減りつつある。マサキは自身の腹に手を当てた。直ぐに戻るつもりだったこともあって、朝食を摂らずに外に出てきてしまった。とはいえ、シュウがこの様子では、直ぐには昼食にありつけそうにない。そうでなくとも気が滅入っているマサキは、陰鬱とした響きと空腹に理不尽な苛立ちを募らせた。
「――聞いてるのか、シュウ?」
 バランサーの修理を頼んだのはマサキ自身である。それは紛れもない事実だ。
 しかし、ひたすら修理に没頭されると、何も役に立てないマサキとしては居場所がないような気分になる。そう、マサキは落ち着かなかったのだ。我儘なのを承知の上で、マサキがシュウに絡んでいるのはだからだった。
「おい、シュウ」
 そもそもが他人の家である。しかもホールひとつとっても身の置き場に困る広さ。マサキはじっくりと内部を見たことはなかったが、外から見える窓の数は三十を下らないようだ。建物の大きさからして、部屋数もそれに劣らずあることだろう。
 尤も、シュウが使っているのはその一割にも満たないらしかったが。
 ホールにキッチン、リビングに寝室、書庫。そしてバスルーム。雰囲気に満ちた部屋の数々を彩る調度品は、その方面の知識に乏しいマサキであっても高価だと一目で知れるほどだ。この洋館の元々の持ち主がどうしたのかマサキは知らなかったし、シュウに尋ねてまで知ろうとも思っていなかったが、シュウ曰く、それらの調度品は元の持ち主が置いていったものであるらしい。
 迂闊に触れるのも躊躇われる品の数々。
 そういった雰囲気に、マサキは萎縮してしまっているのかも知れなかった。
 普段なら勝手知ったる他人の家と好き放題するマサキであったが、さすがにこの洋館では別だ。一度腰を落ち着けた場所からは滅多なことでは動かず、時折、他愛ない会話にシュウと興じる。
 どこかに行くのはシュウが動くのを待ってから。
 まさに借りてきた猫状態――とは、口の悪いシュウの使い魔の言葉であったが、マサキ自身もここにいる間の自分の態度がいつもとは異なっていることに自覚がある。
「聞いていますよ」
 涼やかな声が凛と響く。
 けれどもシュウが手を休めることはない。それどころかマサキを振り返る事こともしない。何て恨めしいことだろう。自身の胸中を慮ることのないシュウの広い背中が、マサキにはこれ以上となく憎らしいものに映った。
「退屈だ」マサキはソファから立ち上がった。
 これ以上は我慢しきれない。シュウの背後に立ったマサキは、続けて彼のシャツを掴み取るとその身体を揺さぶりにかかった。
「……誰の為だと思っているのですか」
 ようやく向けられたシュウの顔。けれども、それは決して穏やかな表情はしていなかった。
 整い過ぎたきらいのある顔の中央で冷ややかな双眸が瞬いている。そこに困惑の色を見て取ったのは、マサキの気の所為ではないだろう。
 当たり前だ。直せと云われたものを直す為に作業をしているのだ。だのにそれを頼んだ張本人は、その作業を邪魔するかの如く退屈だ退屈だと小煩い。その上、それが無視されると見るや否や物理的な干渉に走るときたものだ。
「退屈だって言ってるだろ。お前、話しながら作業とか出来ないのかよ」
「精密機器を扱っているというのに、そんな器用な真似が出来ますか。ほんの少し扱いがぞんざいになっただけでも、幾つかの部品が使い物にならなくなるのですよ」
「何でもいいから暇を潰させろ」
「人の話を聞く気はなし、ですか。傲慢にも程がありますね」
 ふい、とシュウがテーブルに顔を戻す。
 どうやら機嫌を損ねたらしい。
 それきり、何を云っても返事をしなくなったシュウに、マサキは身勝手にも盛大に腹を立てた。本当に、こいつは――。マサキは感情の赴くがまま、掴んだままだったシュウのシャツを思い切り奥へと引き込んだ。ぐらりとシュウの身体が傾ぐ。
「マサキ――ッ……!」
 思いがけない反撃であったようだ。シュウの足が崩れ、その体がマサキに向かって倒れ込んでくる。避けようと後ろに下がったマサキの肘に小卓が当たる。ガタ、ガタン。バランスを崩して床に倒れたマサキの脇で、小卓が左右に大きく振れた。
「あ、ああああっ!」
 卓の上に載っていた手の平大の透明ケースが宙を舞う。ロックがされていた訳ではなかったらしく、台座とケースと中身が空中で分解する。
 マサキは声を上げた。
 続けて、中に飾られていたこぶし大の黒い石らしき物体がマサキの顔目掛けて落下してくる。あんなのが顔に当たったらただでは済まない。マサキは持ち前の反射神経で以て、目の前に迫る黒い石を掴み取ろうとした。
「待ちなさい、マサキ!」
 先に上半身を起こしたシュウが、珍しく声を荒らげてマサキを制するが時既に遅し。
「何だこれ、熱い……!」
 石を掴んだ手のひらから、熱が全身へと広がってゆく。だのに手が離せない。熱さのあまり頭が逆上せる。身動きままならなくなったマサキの視界は暗くなった。

 ――これは、危険だ……ッ!

 次の瞬間、まるで稲妻に打たれたかのような痺れに、マサキの身体は襲われた。

 ※ ※ ※

 シュウの目には、マサキが青い電流に包まれたように見えた。
 初めは水色の膜だった。うっすらとマサキの体を包んでいたそれが、ふいに青みを強くしたかと思うと、バチバチと音を立てて火花を散らすようになった。
「――マサキ!」
 シュウはその石の正体を知っていた。知っていたからこそ、そこに手を伸ばすことが出来ずにいた。
「マサキ! 返事をしなさい、マサキ!」
 自身の呼び声に返事がないことに不安を感じながらも、シュウはエネルギーが放出されきるのを待つしかなかった。素手で触れればマサキの二の舞いだ。それではマサキの処置が出来なくなってしまう。
 マサキの為にもここは耐えねば。
 口唇の端を噛み締めて待つ。一秒、二秒、三秒……永遠にも感じる十数秒。輝かしい青色から揺らぎのある水色、そしてうっすらと靄る白色と、手の甲を眼前に翳してマサキを見遣っていたシュウの視界から、光が引いていった。
「マサキ! 大丈夫ですか、マサキ!」
 ようやく開けた世界に、シュウは先ずその名を呼んだ。そして続けて微かに瞠目した。まさか……見えているものがにわかには信じられない。けれども、そこには確かにマサキだったものがいた――……。

 ※ ※ ※

 マサキは上半身を起こした。
 身体が熱くなった後のことを覚えていない辺り、気を失ってしまったのだろう。それにしても助け起こしてくれてもいいものを――と、床の上に放置されていた自分に腹を立てながら、目の前で呆然と立ち尽くしているシュウを見上げる。
「大丈夫……ですか、マサキ……」
 ゆったりとした足取り。いつものようにマサキに近付いてきたシュウが、身を屈めてマサキの顔を覗き込んでくる。端正な顔は歪みが目立つ。その表情で、マサキは彼が自分を案じているのだと知った。
 どうやらあの黒い石は、取り除かれるか消失するかしてしまったらしかった。自由を取り戻した手を、マサキはゆっくりとシュウの頬に伸ばしていった。
「なんて顔してんだよ、お前――……って、あれ……?」
 手が、届かない。
 届かないだけならまだいい。やたらと小さい。自分は正気を失ってしまったのだろうか? 妙に肉付きのいい指に窪みのある甲と、まるでもみじのような手。マサキは自分の目に映っているものが信じらずに目を見開いた。
「何だ……? これ……」
 指を動かす。自分のものとは異なる幼い手が指を曲げる。
 腕を振る。短くも頼りない腕が回る。
「え……?」
 困惑するマサキの肩にシュウが手を乗せてくる。幾度も目を瞬かせ、開きかけては口唇を閉ざす。それは、マサキが目の当たりにしている現実を口にしていいものか悩んでいるような仕草だった。
「いいですか、マサキ。落ち着いて聞いてください」
 けれども、このままでいても話が進まないと覚ったのだろう。頭を振った彼が思い切った様子で真っ直ぐにマサキを見据えてくる。そして、いいですか、と一拍置いてから、その不都合な真実をマサキに告げてくる。
「あなたは今、子どもなのですよ――マサキ」
「嘘、だろ……?」
 無言でマサキの身体を抱き抱えたシュウが、ホールの片隅にある姿見の前へとマサキを連れてゆく。
「これが、俺だと」
 目に映る腕や足の幼さに覚悟はしていたものの、そこに映し出された自分の姿を見たマサキは流石に言葉を失った。
 写真で幾度か見た覚えのある幼き日の自分の姿がそこにある。腕白さを窺わせる顔立ちに、年齢相応にちんまい身体。けれどもそれを懐かしむ余裕など、今のマサキにはない。何故こんな事態に陥っているのか。いや、それよりも、元の姿に戻れるのか。
 様々な思いが脳内に渦巻き、一気に臨界点に達する。
「何で……俺……」
 混乱したマサキは、抱き上げられたまま、シュウの胸元を拳で叩いた。
 ぽすんぽすんと気の抜けた音がする。何で、何で。それが今の自分の全力であるとわかってしまうからこそ、マサキは尚のこと辛くて仕方がない。
「何で、何で何で何で――」
 気持ちの整理が付かないまま、幾度も、幾度も。マサキはただただシュウの胸を叩いた。
「何でだよ、何で俺がこんな、何で」
 シュウは黙ってマサキに叩かれていた。歪んだ眉が、彼の感情をあますことなく物語っている。
「何で――」
 その筋張った大きな手が、不意にマサキの頭を掻き抱いてきた。
 シュウの肩口に埋まる小さな自分の顔。息苦しくも温かい。瞬間、込み上げてくるものを感じ取ったマサキはぎゅうっとシュウの身体にしがみ付いた。
 そして泣いた。
 泣きに泣いた。
 気が済むまで泣いたマサキは暫くの間、例えようのない虚脱状態に陥っていた。何が原因かもわからなければ、どうやれば元に戻れるかもわからない。先の見えなさに不安がどっと押し寄せてくる。それでも、シュウに差し出された飲み物を口にする頃には、大分落ち着きを取り戻していた。
 マサキとともに倒れた小卓は元の位置に戻され、あの正体不明な物体を納めたケースはもまた元の位置に戻されている。あの黒い石は何であったのだろうか? 掴んだ瞬間に自分を襲った異変。ケースの土台に敷かれた保護用の綿に付着している石の欠片らしきものを眺めながら、マサキは自分の身に何が起こったのかを把握すべく、シュウに黒い石の正体を尋ねた。
「あの石はなんだったんだ? 俺がこんな風になるのと同時に消えちまったけど」
「以前、ビムラーの特性を分析していた時に作成したエネルギー結晶体です」
 こうなってしまってはサイバスターの修理どころではないのだろう。バラバラになったバランサーが置かれたテーブルもそのままに、シュウがマサキの隣りに腰を落ち着けてくる。
「ビムラー……って、あれか。お前がグランゾンのブラックボックスをどーたらこーたらって……それにしてもそんなもの、なんで後生大事に取っておいてあるんだよ」
 記憶の底に沈みかけていた古くも懐かしい単語。それをマサキは掘り起こした。
 新宿。かつてその街で対峙した異星人は、悍ましいまでに地上人を利用することに抵抗のない男だった。
 マサキの記憶が確かであれば、ティニクェット=ゼゼーナンという名であった筈だ。
 思い出すだに腹立たしい小悪党。賢しさだけは一人前だったが、性根が腐り果てていた。その、自らの手を汚すことを避けた男が狙ったのが、シュウが乗機するグランゾン。不条理な性能を誇るあの機体には謎が多い。それは、ゼゼーナンが大いなる仕掛けをグランゾンに施していたからでもあった。
 グランゾンのブラックボックス。特異点というシステムを僅かに弄るだけで、運命は大きく歪められ、多数の血が流されることとなった……。
 シュウに頼まれてロンドベルの面子を新宿に集めたマサキは、そこでゼゼーナンの目論見がどういったものであったのかを知った。その、歪み続ける運命の軌道を修正する為に一役買ったのが、時空をも越える力を発する自己展開型の有機エネルギー『ビムラー』だ。
「研究の副産物だったのですよ」
 シュウとは異なり、科学者でなければ学も足りないマサキではあったが、ビムラーが如何に強大で未知なる力を秘めているかは知っていた。何せ戦場で幾度となく、そのエネルギーを有する機体とともに戦ってきているのだ。その絶大なる効果を持つ力は嫌というほどに思い知っていた。
「元々ビムラーは発されるエネルギーであって、単純に固体化出来る物ではありません」
「つまり、動力炉と同じようなもんか」
 同じも何もそれですよ、とシュウが笑う。
「純粋エネルギーとしてのビムラーの特性は把握出来ましたが、固体が果たして同じ特性を持つのかどうかは不明でした。ですから、後学の為に解析しようと思って残しておいたのですが――こういった作用を引き起こすとは思いも」
「しねえだろうなあ……」
 シュウの後を引き取って呟き、マサキは宙を仰いだ。
 そうでなくとも高い天井が、よりいっそう高く映る。自分の小ささを思い知らされたマサキは、これまでと異なり広く見える世界に呑み込まれそうになりながら、怯える心を押し殺した。
 そして、覚悟を決めて、知らねばならないことをシュウに尋ねた。
「俺、元に戻れるのか」
「戻してみせます」
 間髪入れずに返ってきた言葉に、マサキは笑った。
 戻れる、などという楽観的な台詞を安易に吐かない辺りが現実主義者リアリストのシュウらしい。何より、戻してみせると言い切るその力強さ! それなら俺はその言葉を信じるだけだ。服の上からでは決してそう見えない彼の逞しい腕に凭れたマサキは、安らかなその鼓動を聴きながら目を閉じた。