その日、ウエンディの研究室を尋ねてきたリューネはあからさまに機嫌が悪かった。
彼女の機嫌が悪い理由は大別してふたつに分けられる。先ずはマサキだ。鈍感が服を着て歩いているマサキは、リューネからのアクションの意図に気付かず、盛大に予測から外れた反応をしてみせることがままあった。彼女候補というより、気の合う同性の友人のような関係。一向にロマンスが始まりそうにないマサキの態度に、リューネが腹を立てたくなる気持ちは、ウエンディ自身も彼に恋心を抱いているからこそ分かち合えた。
問題は次だ。
シュウ=シラカワ――ウエンディにとって旧い知り合いである彼を、何故かリューネは酷く毛嫌いしていた。
その度合いたるや顔を合わせただけでも表情を般若に変える程である。今は亡き彼女の父親の盟友であったらしい彼と、地上で何かあったのかとウエンディが尋ねてみても、どうやらそういった理由で嫌っているのではないようだ。
単純にいけ好かないのだそうだ。
確かにシュウは慇懃無礼の化身のような性格をしていたし、それ故に勿体ぶった回りくどい云い方をするのが常であった。彼は多角的に物事を見てしまうが故に、性急に核心を突くのを嫌うのだ。そう考えてみると、物事をストレートに断じてみせるリューネとの相性は良くないだろう。
けれども、リューネが地底世界に残ることを決意してから既に何年もの歳月が過ぎている。少しぐらいは態度を軟化させてもいいものを――と、シュウを良く知るウエンディとしては思ったりもしたものだが、リューネ曰く、「あたしのマサキに色目を使っているのが気に入らない」らしい。名前が出ただけでも顔を顰めるような関係が続いている。
「でさー、あたしにも花束を寄越しやがったの、あの男!」
そのリューネは、先日、マサキと任務の帰りに、ラングラン州有数の観光スポットであるフラワーガーデンに赴いたようだ。
出来れば自分も誘って欲しかったとウエンディは思ったが、最近は研究室に篭る日々が続いている。練金学士協会所属の仲間との共同研究プロジェクトは、参加人数が多いだけに、スケジュールがタイトになりがちだ。
誰かの思い付きが直ぐに実行に移される活発な研究活動。メンバー全員がここまで意欲的である以上、次期会長候補であるウエンディが私欲を優先させる訳にも行かず。
だからウエンディはリューネの抜け駆けを許した。
だというのに、マサキと花に囲まれてふたりきりの時間を過ごしたリューネはおかんむりなのだ。
それもこれもマサキをマサキたらしめている特徴のひとつ、方向音痴が牙を剥いたからである。フラワーガーデンからの帰り道でマサキとはぐれたリューネは必死になって彼を探し歩いた。
当たり前である。マサキは迷子になった挙句、三日程行方不明になれる稀有な才能の持ち主なのだ。それは豪快磊落な彼女であっても顔色を変える。
けれども、やっとの思いでマサキを探し出したリューネが一時間ぶりの再会に素直に喜べなかったのは、その傍らにシュウがいたからだ。しかも、ふたりの手には、奇跡の薔薇とも呼ばれるブルーローズの花束があったというではないか。
それは穿ちたくもなるわよねえ。そう思いながら、ウエンディはリューネを窘めにかかった。
「ちゃんとあなたにも気を遣ってくれたんじゃないの。それの何が問題なの?」
「マサキの花束よりも本数が少なかったからだけど?」
ああ――と、彼女が不機嫌な理由を知ったウエンディは、同時におきた眩暈に額を押さえた。そして、ちらとテーブルの上に活けたリューネからのお裾分けである一輪のブルーローズに目を遣った。
その花言葉は『奇跡』や『夢叶う』であるらしい。
マサキに執着しているシュウらしいセレクトである。
ウエンディは彼の執着心に長いこと気付けずにいた。女の勘はリューネの方が働くようだ。彼女に指摘されてシュウの行動に注視してみれば、成程、確かに彼はマサキに特殊な感情を抱いているようだ。それが恋慕の情であるのかまではウエンディにはわからなかったが、マサキと対面している彼は、凡そ彼らしからぬ態度や行動に出たものだ。
揶揄い混じりに言葉を吐くのは当たり前。自信家な彼は決して認めることはしなかったが、それでもいざという時にはマサキに全てを委ねるぐらいには彼のことを信用しているようだ。時には自ら頼りに来もする彼に、人は変われば変わるものだ――と、かつての彼を知るウエンディとしては思わずにいられない。
とはいえ、すっかりそういった彼の変調にも慣らされてしまった感のあるウエンディだったが、本来は他人に興味を抱くことのない人間である。天地が逆転する程に革命的な変化を起こしたシュウに、もう少し警戒心を抱くべきなのだろう。
「どのくらい少なかったの? ちょっとなら誤差よ、リューネ」
だからウエンディは尋ねたのだ。その本数を。
「六本よ! 六本もマサキの方が多かったの! あたしなんか五本だもの、倍よ倍! 絶対あれは何か意味があるんだって!」
瞬間、ふ、ふふふ……自分でも思いがけない嗤い声が零れ出た。
その勢いのまま卓上のブルーローズを手に取る。きっと剣呑な雰囲気が伝わったに違いない。あっという間に咲き誇り、あっという間に散ったブルーローズに、ひっ……とリューネが声を上げる。
「十一本の薔薇ねえ……」
そう、ウエンディは知っていたのだ。その意味を。
だからこそ、リューネの目の前でマサキにその花束を持たせたシュウの行動を宣戦布告と受け止めた。
『あなたは私のもの』
十一本の薔薇の花束。きっとマサキはその意味を知らないままでいるに違いない。そうでなければ、どうしてシュウからの花束を素直に受け取ったものか。
それさえも織り込み済みでマサキに花束を渡すのがシュウ=シラカワという男なのだ。
いつかあの人にはお返しをしないとね。歌うように口にしたウエンディに、リューネが壊れた人形のようにカクカクと首を振る。散った薔薇の茎を卓上に収め直したウエンディは、そうして脳裏でシュウにどう対抗してゆこうかと様々に知略を巡らせ始めた。