アドホック

 長い付き合いの店主との長話を終えて古書店を出たシュウは、人で賑わう通りを横断しようとして数歩歩いたところで足を止めた。
 野太い野蛮な声が通りの奥から響いてきている。
 待ちやがれ! だの、止まれや! だのといった複数の怒声。徐々に近付いてくるその声に、シュウは顎に手を置いて考え込んだ。
 仮に、これが街の治安維持を担当する衛視のものであったならば、同時に笛の音が聞こえてきている筈だ。それがない以上、声の主らが真っ当な人間である可能性は限りなく低い。厄介なことにならなければいいが。お尋ね者であるが故にトラブルを避けたい立場であるシュウはひっそりと溜息を吐いた。
 とはいえ、性質の悪い人間が起こすトラブルを、それと知りつつ見過ごすのも後味が悪い。シュウはせめてどういった状況か確認しようと、道を空けつつある人々が作り上げた垣根の奥から通りの奥へと視線を向けた。
「てめえら、あんまりしつこくしてると吹き飛ばすぞ!」
 聞き慣れた声が耳に飛び込んできたのはその瞬間だった。
 続いて飛びこんでくる目にも鮮やかなボトルグリーン。長めの後れ毛をなびかせながら、痩せ細ったみすぼらしい少女を抱いて目の前を駆け抜けようとしているマサキに、シュウは人垣を掻き分けると通りに足を踏み出していた。
「何をしているのです」
「見りゃわかるだろうよ! 助けろ!」
 わかるも何も、シュウは今しがたマサキを見付けたばかりである。「無理を云う」シュウは苦笑しつつ、迫りくる怒声の主たちを振り返った。
 人数は三人。どれもがっしりとした身体つきをしている。歳の頃は三、四十代だろうか。浅黒い肌に傷痕が浮かぶ、典型的なならず者。揃って岩のようないかつい顔をしているのが、滑稽さを煽る。
 シュウはマサキと少女を背後に追手と思しき一団の前に立ちはだかった。
「相手をして差し上げればいいものを」
「街外れに出ようとしてたんだよ。こんな人で溢れた街中で剣は振れねえだろうが」
「ご尤も」
 シュウとマサキの会話が聞こえているのか。シュウの言葉が終わるのを待って、三人の中央に立つならず者が、顔をニタつかせながら尋ねてくる。
「なんだァ、兄ちゃん? こいつらの仲間かァ?」
 聞いているだけで不快度が増す野蛮な声。片目を眼帯で覆っている彼に向けて、シュウは極めて静かにええ。と頷いた。
「余計なことに首を挟もうたァ、物好きな野郎だぜ」
 別のならず者が、シュウに顔を寄せて挑発的に言葉を吐く。吹きかかる息に混じる質の悪い安煙草の臭い。けれどもシュウは表情を変えなかった。
 その気になれば勝負は一瞬で付く。
 どれだけ鍛え上げられた肉体を持っていようとも、所詮はならず者。きちんと師に就き剣技を修めたシュウとマサキの敵ではない。相手と自分の力量差を正しく理解しているシュウは、だからこそ即座にならず者を倒すのを避けた。
 力での解決が、必ず最善手になるとは限らない。
 滅多に街に出ないシュウは元より、マサキも多忙な身だ。どれだけ少女が不遇な立場にあったとしても、彼女一人だけには構っていられない。何より、少女の街での生活は今後も続くのだ。ならば、出来る限り穏便にこの場を収めてやるのが、少女の為だ。
「事情を聞かせてもらいましょうか。何故、この少女を追っていたのです」
「お? あんたはそこの戦士さまとは違うようだな」
「御託は結構です。理由を述べなさい」
 げっへっへと下品な笑い声を上げながら、三人目のならず者がシュウの左脇に立つ。頬に傷が走る彼が、借金のカタだ。低く、囁きかけるようにシュウの耳元で言葉を吐く。成程。と、シュウは三人のならず者を順繰りに見渡した。
「親分にこいつの両親が金を借りててな」最初に声を上げた眇目のならず者がシュウの右脇に立つ。「結構な額になっちまったんだが、期日を過ぎても一銭も返してきやしねえ」
「おまけに母親はドロンだ」がっはっは。と笑いながら二人目のならず者がシュウを下から睨み付けてくる。「残ったのはアル中の親父とこの貧相なガキだけときたもんだ」
「しかも、親父は四六時中酔っぱらってて話にならねえ」頬に傷のある三人目のならず者がシュウの肩に手を置いてくる。「となったら、このガキに金を返してもらう算段を付けるしかねえ」
「額は幾らです」シュウは尋ねた。
 同時に上がる下卑た笑い声。シュウが何者かを知らない三人のならず者は、借金の額を云ったところでシュウに返せる筈がないと思っているのだろう。「それを聞いてどうするつもりだァ?」三人のリーダー格であるらしい眇目のならず者が、あからさまに見下した態度でシュウに尋ねてくる。
「随分と回りの悪い頭なようですね」シュウはそこでようやくクックと笑った。「返して差し上げると云っているのですよ」
「ほう」
 表情を変えた眇目のならず者が、一千万クレジットだ。と、通りに響く声を上げた。わかりました。間髪入れずに答えたシュウは、未だ肩に置かれたままのならず者のささくれた手を片手で払った。
「少し待っていなさい。そこの銀行で現金キャッシュを用意してきます」
 本気かよォ! 瞳を見開いた三人のならず者が、顔を見合わせて声を上げる。
 ――とことん下品な連中だ。
 シュウは不快な感情を押し殺して近場にある銀行に入った。気が遠くなるほどの資金が収められている口座からすれば、一千万クレジットなどはした金。とはいえ、一般市民であれば数年は遊んで暮らせる額だ。突然の大金の引き出しに行員は慌てふためいていたが、それを説き伏せて手続きを行うこと暫く。さして時間もかからずに必要な現金キャッシュを引き出し終えたシュウは、律儀に雁首揃えて待っていた三人のならず者に向けて手にしていた札束を放り投げてやった。
「やるなァ、兄ちゃん。わかった。俺も男だ。後で証文をそいつの家に届けさせる。それでこの話は終わりだ」
 返すものさえ返してもらえれば、文句はないらしい。下卑た笑い声を通りに響かせながら去ってゆくならず者たちの背が小さくなるのを見届けて、シュウは少女とともに成り行きを見守っていたマサキを振り返った。

 ※ ※ ※

 折角助けた小さな命である。父親の状態が芳しくない以上、シュウとしては今後の健やかな成長が約束される孤児院に少女を入れたくもあったが、両親を亡くしているマサキからすればそれは論外な提案だ。この借りは必ず返す。と、シュウに力強く宣言した彼は、証文を受け取るべく、その足で少女とともに彼女の家に向かっていった。
 ――血の繋がりなど所詮まやかし。足枷にしかならないというのに。
 家族とも呼べる仲間。血の繋がりよりも強い絆を得ているシュウは強くそう思ったが、相手が頑固さに勝るマサキである。何を云っても聞き入れはしないと、これまでの経験則で思い知っていたシュウは、いずれ過酷な現実を思い知るに違いないマサキを慰める心構えをして彼の訪れを待っていた。
 だが、シュウの頭脳をもってしても、予測しきれない事態はあるのだ。
 数週間ほどしてシュウの許に事後報告に訪れたマサキから聞いた話によると、なんと少女の父親は、借金にカタが付いたと知るなりすっぱりと酒を断ったのだそうだ。それだけではない。自力で働き口を見付けてくると、少女の世話も含めて、立派に父親としての役割を果たしているのだとか。
 ――ここまで親切にされた以上は、心を入れ替えなければ罰が当たります。
 元々、借金は母親の散財が原因だった。そこそこの美貌を誇る彼女は自分を飾るのが大好きで、父親が止めるのも聞かず、自らの身体を担保に借金を重ね、その金で贅沢を続けていた。そして破綻したと見るや否や、娘を置き去りにして姿をくらました。
 それは父親も絶望で酒に溺れもする。
「少しずつでも返すってさ」
 全てを語り終えたマサキが渡してきた封筒には、彼らのひと月の食費にも満たない少額のクレジット紙幣が包まれている。これでも父親にとっては精一杯だったのだ。シュウは黙って手にしたその紙幣を見詰めた。
 戦争で疲弊する市民を、シュウは数えきれないほど見てきた。全てを壊された人間は立ち直れないのが当たり前だ。過酷な現実を目の当たりにしてそう思い込むようになっていたシュウは、だから父親の更生の可能性を検討すらしなかった。
 だが、それは大いなる誤解であったのだ。
 ――些細なきっかけがあれば、人は変われる。
 シュウにしてもそうだ。マサキが諦めずにシュウと向き合い続けてくれたからこそ、シュウは自身の新たな人生を思うがままに生きていこうと思えるようになった。今回の件にしてもそうだ。マサキが諦めて少女を孤児院に入れてしまっていたら、この結末は訪れなかった。
「私は世の中を悲観的に見ていたようです」
「今更気付いたのかよ」自分を戒めるべく言葉を吐いたシュウに、呆気に取られた表情でマサキが返してくる。「お前の人間不信って相当だぞ」
「ですが、あなたのことは信用していますよ、マサキ」
 マサキの諦めない気持ちは、周りの人間に奇跡を齎すのだ――シュウは満ち足りた気持ちを口唇に乗せて微笑んだ。
 だが、滅多に吐かない本心だけあって、シュウの台詞はマサキに疑わしさを覚えさせてしまったようだ。気持ち悪いこと云うんじゃねえよ。困惑しきった表情を浮かべたマサキが愛くるしい。シュウは声を殺してひとしきり笑った。