光溢れる都市にありながら、街中を抜ける靴音が響き渡る。
静かな夜だった。
厳戒態勢が敷かれていると昼間のニュースで聞いた街。街明かりは煌々と夜の闇に光のドームを描いているにも関わらず、猫一匹見つけ出すことが出来ないまでに、生き物の気配が絶えた世界。誰も彼もが家の中で息を潜めて、刻一刻と移り変わる情勢をメディアなりで見守っているのだろう。いつ隣国と戦争が始まるやも知れない緊張状態にある都市というものは、こんなにも静かなものであるのだ。何とも表現し難い感情に捉われながら、ひとり。マサキは人影のない街中を往った。
それはもしかしたら、といった淡い期待だった。目撃談といった有力な情報が絶えて久しい。だからこそ追い続けている男の痕跡を探し求めて、西から東へと。闇雲にマサキはサイバスターを疾らせた。だのに欠片も手に入れられない情報。否応なしに募る焦燥感。どうすればいいかわからなくなったマサキは、キナ臭い噂を聞きつけては戦火の中へと、躊躇うことなく飛び込んで行った。
戦う力を有している男は、いずれ何らかの形で、戦場に姿を現わすに違いない。何の根拠もない獣のような直感に正しさの保証がないと知りつつもマサキが従い続けているのは、あの男が常に騒動の渦中に姿を現わしてみせるからだ。
ひとつの点へと、収束されてゆく戦い。不穏な動きの影にはいつだってあの男の姿があった。そう、そしてマサキの未熟さをせせら笑うかのように、目の前に立ちはだかってみせる……平穏な日々を獲得する為の道程というものは、こんなにも困難なものであるのか。マサキは今更ながらに、自らが身を投じた地底世界の守護神という役割の重みを噛み締めずにはいられなかった。
地底世界ラ・ギアス最大国家、神聖帝国ラングラン。マサキが身を置いているその国に、まるで水道の蛇口を捻るかのように淡々と、災厄を振り撒いて姿を消した男。マサキにわかっているのは、シュウ=シラカワと名乗ったその男が地上に向かったということだけだった。
きっと今頃、ラングランには暴虐な嵐が吹き荒れているに違いない。王都という柱を失った国がどうなるのか。如何に少年と呼称される年齢でしかないマサキであってもわかる。両翼に火種を抱えている国の弱体化は、敵国に攻め込む口実を与えたことだろう……。
その混乱を呼び込んだのは、紛れもなくあの男なのだ。
だからこそ、マサキは成果を上げずして、あの世界には戻れなかった。それは執念であったし、執着であったし、意地であった。もっと明け透けに表現するのであれば、踏み躙られた自尊心を取り戻す戦いでもあっただろう。
ひたひたと人気の失せた道を往きながら、マサキはそれ以外にこれといって変化のない世界を見渡した。様々な街に足を運んだマサキだったが、これから戦争が始まろうとしている街に足を踏み入れたのは初めてだ。温暖な気候のラングランと異なり、冷えた空気。街に灯りが溢れてのに、街頭ビジョンだけがぽっかりと黒々とした画面を晒している。ライフラインに打撃を与えれば絶大な効果が見込める時期の厳戒態勢は、この街が相手にしようとしている敵が知略に長けた相手であることを示していた。
――だったらむしろ行くべきは、敵国かも知れねえな。
何が目的であるのかマサキには察しようがなかったが、それを阻む者を容赦なく屠ってみせる残忍性を有している男は、自ら先んじて手を下す気はないようであった。それよりも、裏で冷酷に糸を引いてみせる。そういった立ち位置を進んで演じているようにも見える男に、この息を潜めて開戦を待つ街は似つかわしくない。だったら長居は無用。マサキは即座に街を出る決心をすると、サイバスターに乗り込む為に、街外れを目指すことにした。
その道の果て、街灯が照らし出す道の上に、人影が映し出された。
もしかすると巡回中の兵士や警官であるかも知れない。マサキは警戒心を強めた。パスポートもなければビザも持たず、世界を我が意のままに駆けているマサキは、方々で自分の存在が厄介事を引き起こしていることに気付いていた。
そうでなくとも未確認機として最大限の警戒をされているのだ。こんな場所に居る所を発見されようものなら、どんな嫌疑をかけられてもおかしくない。マサキは取り急ぎ建物の影に身を潜めた。こんな夜に限ってやけに月明かりが眩しい。逃げ込む暗がりのなさに、憎々しい月の姿を確認してやろうとマサキは空を見上げた。
「誰だッ!」
鋭い声が飛ぶ。
巡回中の兵士らしい。迷彩服を身に纏い、ヘルメットを目深に被っている。彼は肩から掛けた銃を構えながら、マサキが身を潜めている方角へと向かって来た。仕方がない。マサキは足音を潜めながら、建物の影となっている路地の更に奥へと急いだ。
半身が月明かりに照らし出されている。そんなマサキの姿を見付けだすのは容易であったようだった。路地の入口から顔を覗かせた兵士が、止まれと声を上げる。
「止まらなければ撃つぞ!」
身分を証明するものを持たないマサキが止まった所で、問題が増えるだけだ。マサキは角を折れた。最早足音を気にしている余裕などなかった。ただただ足を速め、自らの足音が響き渡る街を往く。
――とにかくサイバスターに乗り込める位置まで逃げなければ。
せせこましい住宅街に魔装機神を呼び入れる訳にもいかない。そんなことをすれば、無傷の街に悪戯に被害を与えてしまう。タタタタタ……背後で銃声がした。直前で道を折れていたマサキに被害はなかったものの、あの兵士は不審者をそのままにしておくつもりはないようだ。マサキは銃弾を避ける為にひたすらに目の前の角を折れた。
タタタタタ……追いかけてくる銃声が時に髪や肩を撫でる。くそ。マサキは時に後ろを振り返りつつ、建物の影から影へと。そうして銃の脅威から逃げ続けた。しかし、どれだけ運動神経に天賦の才を持っていても、所詮は人間のすること。音速を超えるスピードの銃弾に、走るスピードが勝る筈もない。避けきれない。脚を掠めた銃弾に焼けた痛みを感じながらも、マサキは走り続けた。
そうして十分は時間が経っただろうか。
それは細い一本道での出来事だった。ビルの谷間を駆け抜けるマサキの視線の先に、人影が映った。すらりと伸びる長躯。シルエットからして兵士ではなさそうだったが、街明かりを従えて立っている姿は顔立ちやら衣装やらを不明瞭なものとしていた。
背後からは迫り来る兵士。いずれまたマサキは銃弾に晒されることとなるだろう。藁をも掴みたい気持ちであったものの、厳戒態勢の街。正体不明の人影に、救いの手は期待出来そうにない。前に進むか、後に退くか。悩みは尽きなかったものの、ええい、ままよ。マサキは踏ん切りを付けた。正面突破を仕掛けるしかない。
「――何を、しているのです。あなたは」
聞き覚えるのある声が、凛と響く。けれども今更マサキが止まれる筈もない。待てと追いかけてくる兵士の靴音が迫る。マサキは覚悟を決めた。いずれは戦わなければならない相手を目の前にして、どうしておめおめと背を向られたものだろう。マサキは持てる力の全てを振り絞って目の前の人物に踊りかかった。
一陣の風。白い衣装の裾がひらめく。
瞬間、見えない何かに弾かれたマサキの身体が地に転がった。肘や膝が擦れて痛む。指一本さえも触れることを許されずに、身体を打ち払われた屈辱がマサキの怒りに火を点けた。
「てめえ、この……!」
即座に身体を起こして、もう一度。マサキが彼に挑みかかろうとした瞬間だった。ご無事ですか、博士! と兵士の口から彼が既知の人間であると知れる言葉が吐き出された。
「私は大丈夫ですよ。それより、あなたは何故この男を追っていたのですか」
「戒厳令が敷かれております。その上で私の姿を見て逃げ出した男です。不審な人物と認めざるを得ませんでした」
成程、と彼が頷く。
「ましてや博士に無礼を働いたとあっては。身柄を確認する為にも、取り調べが必要です」
「武器を携帯していない一般人に、武力を振るう遣り方はどうなのでしょうね」
「しかし隠していることも考えられます」
「武器を隠し持っているのであれば、私に飛びかかった際にでも使用している筈。気を付けて欲しいものです。あまり手荒い真似をされては、組織の沽券に関わる事態になりかねない」
マサキの背後で銃を構えている兵士にそう訴えかけた彼、シュウ=シラカワは、そうして片膝付いて自分を見上げているマサキに視線を落とすと、
「私の知り合いですよ」
薄ら笑いとも取れる微笑を浮かべながら、そう口にした。途端にマサキの背後が騒がしくなった。ガシャガシャと銃の構えを解く音が聞こえたかと思うと、失礼しました! 兵士は直立不動で声を上げた。
「構いませんよ。どちらかと云えば……いえ、知り合いであることに違いはない。余計なことを口にするのは止めておきましょう」
クックと鼻持ちならない嗤い声がシュウの口元から洩れ出る。顎にかけた手で口元を押さえつつ、そうして静かに嗤い終えた彼は、顔面蒼白といった態の兵士を悠然と見遣り、
「こんな情勢下だというのに、出歩く方が悪いのですよ。迷惑をかけましたね。あなたは持ち場に戻ってくださって結構ですよ。彼には私からきちんと云い聞かせておきますから」
どういった気紛れかは不明だが、どうやらシュウはマサキの窮状を救ってくれたようだった。はっ! と、短く声を上げた兵士が、足早にその場を立ち去ってゆく……その姿が角を折れるのを見届けてから、マサキはいけ好かない男を振り返った。
眩いばかりの光を放つ月を従えて立つ男の変化に乏しい表情が、凄絶なもののように映る。この表情だ。マサキは歯を食いしばった。王都が壊滅したあの日に、マサキの前に姿を現わしてみせたシュウが浮かべていた表情は。
憎むことを忘れたことなどなかった。
温かで穏やかだったラングランでの日々。再び奪われた居場所に、マサキは絶望するよりも怒りを覚えた。今の自分には魔装機神という力がある。だからこそ地上に出て、この男を追い続けた。
だと、いうのに。
敵たる男に助けられたなど、屈辱以外の何物でもない。シュウ=シラカワという男は、ずっとそうだ。16体の正魔装機の頂点に君臨する魔装機神サイバスターの操者となったマサキ=アンドーという人間を、歯牙にもかけないように振舞う。まるで、マサキの存在などどうでもいいとでも云いたげに……
「わかったでしょう。あなたにこの世界で戦うのはまだ早過ぎると」
「だからって、てめえを目の前にして、このまま尻尾を巻いて逃げ出せるかよ」
「強情な人だ。その無謀な勇気が、あなたの足元を掬わないように願っていますよ」
そのまま立ち上がることを促すように差し伸べられたシュウの手を、マサキは即座に払い除けた。そのまま無茶を承知で、再び。シュウに飛びかかる。けれども、その拳がシュウに届くことはない。まるで全身に電流が走ったかのような痺れを感じるとともに、またもマサキの身体は地面に打ち付けられていた。
「諦めの悪い人だ」
「巫山戯ろよ……俺はてめえを斃す為に、ここまで来たんだ……」
「その台詞は、自分の力量をよく見極めてから口にするのですね」
カツカツと近付いて来る靴音が、高らかにビルの谷間に響く。彼はそうしてマサキの目の前で腰を落とすと、力が入らなくなっている腕を取り、身体を起こさせた。その次の瞬間、だった。ふふ……と忍び笑いを洩らしたシュウの顔が、ふっとマサキの顔に重なった。
柔らかくも冷えた口唇の感触は、僅かにマサキの口唇を奪って離れてゆく。
「な……っ、何を……しやが……」
「嫌がらせですよ。借りを返していただいたと言い換えてもいいかも知れません」
長い衣装の裾を払いながら立ち上がった男は、そうして「早くこの街を出るのですね」そうとだけ云い置くと、姿を現わした方角へと。振り返ることなく立ち去って行った。
――冗談じゃねえ。
マサキは路上に身を投げ出した。全身に痺れが残っているような感触がある。兵士の銃撃にシュウの魔法。身体に負ったダメージが回復しきるまでには、まだ時間が必要なようだ。ふと、ビルの合間から覗いている夜の空を見上げたくなった。煌々と差し込む月明かりが、星々が放つ淡い光を払ってしまったような闇に覆われた空。まるでこの街の不穏な行く末を暗示しているかのような。
はあ、とマサキは深い溜息を吐いた。
そうして、暫く。身動ぎひとつせず、まるで歯が立たなかった男を想った。口唇に残る僅かな温もりを噛み締めながら。
それが、純色も眩い月が天に浮かんでいたある夜のこと。
マサキが初めてシュウの身体に触れた日の記憶だった。