昔の夢で目が覚めた。
政治的な局面や戦いにおける風向き、世界各地に散らばる組織の動向といった難しいことを何も考えることなく、ただただ穏やかに毎日を過ごし、ひたすらに心から笑っていられたあの頃の夢。今はもう顔を合わせることもなくなった立場様々な人間たちが、懐かしい風景の中で、何事もなく過ぎる日常を過ごしていた。
家族も、友人も、誰一人として欠けずに翌日を迎えられることが、当たり前ではないことを知ったのはいつのことだっただろう。キラキラと輝く宝石のような思い出の数々こそが、今の自分を形作っている礎なのだとマサキはわかっていたけれども、同時にそれは決して取り戻せない平和だった日々でもある。意識して過去を振り返るまいとしてきたマサキにとって、だからこそ過去の記憶が現れたその夢は悪夢以外の何物でもなかった。
地上で繰り広げられたテロや戦争の数々は、一体どれだけの縁をマサキから奪っていったことか。マサキはそれを思い出すのも、改めて確認するのも嫌だった。他人にあって自分にないものがある。その事実は平凡な幸福が、誰にしも平等に約束されているものではないことを意味していた。
普遍的に語られる「普通」という枠組みは、恵まれた環境にあるものに与えられる幸福の上乗せみたいなものなのだ。自分の身に振り掛かった過去の奇禍を思い出したマサキは、胸を締め付ける記憶の数々に、ベッドの上で大きく息を吐いた。普通の人生なんてクソ喰らえだ。魔装機神の操者として戦いに身を投じることを選んだマサキは、そんな自分の心の奥底に眠っている願望に蓋をするように、勢いよくベッドから身体を起こした。
枕元にある携帯電話で時刻を確認してみれば、まだ夜半も夜半。昂った気持ちを抱えたままでは、再びの眠りに就ける気がしもしない。考えあぐねたマサキは、取り敢えず、ミオにメッセを送ることにした。起きろよ。どうしようもなく素っ気ない。いや、そもそも、話し相手を求めている人間が送る台詞にしては、上から過ぎる物言い。自らが打ち込んだ言葉の身勝手な響きを目の当たりにして、マサキの気持ちは更に沈みかけた。
その矢先に。
着信を示す画面。淡く光を放つ画面に記されている発信者情報に、マサキは盛大に顔を顰めながら電話に出た。起きてましたかと、スピーカーから響いてくる耳に残る低めの声。そう尋ねるくらいなら、こんな時間に電話してくるんじゃねえよ。マサキは携帯電話をスピーカーモードに切り替えると、枕元に置いて、ベッドの上に寝そべった。
「何の用だよ、何の。つまらない用事だったら直ぐ切るぞ」
「研究がひと段落着いたので、誰かと話をしたいと思ったのですよ。着信履歴にあなたの番号が残っていたので、試しにこうしてかけてみたのですが」
先日、番号を教えたばかりの男はそこまで云って、マサキの言葉を待つように言葉を切った。
番号を教える為に試しがけした番号がそのまま着信履歴に残っているのが、男の限られた人付き合いの幅を表しているようだ。マサキは指折り、男に番号を教えてから過ぎた日数を数えてみた。一日……二日……三日……。馬鹿らしい。マサキは溜息とともにその作業を中断した。
既に自分の携帯電話からは、男の携帯電話への発信履歴は消えてしまっている。それ以外の事実を欲しがって何になる。そもそも、必要になることもあるだろうと、求められたからこそ教えただけだった。たったそれだけの理由だった筈だのに、まるで気安い知り合いのように電話をかけてきた男に、気分の優れないマサキは不機嫌を隠すつもりもなく。
「つまんねえ用事の中でも最高潮につまんねえ用事だな。話したいからかけてきたって、お前がそんな柄かよ」
「機嫌が悪いようですね。何かありましたか、マサキ」
「別に、何もねえよ。あったとしてお前に云う必要性を感じねえ」
それでもついさっきの自分は話し相手を求めていた。
決して自分の不機嫌の理由を話すつもりはなかった。昔の出来事が今に尾を引いているとしても、その現実を慰められた所でで何が変わったものか。過去は変えられないのだ。それはどう足掻いてみたところで厳然と存在する事実であったし、マサキが戦いに身を投じることを決めた理由でもあった。
ひとりで乗り越えられそうにない夜。夢見の悪さに寝付けなくなることがあるのは、きっとマサキだけに限らない。必ずしも物わかりが悪いばかりでもないマサキは、自分の胸の中でせめぎあっている感情が、理想と現実のコンフリクトからくるものであることに気付いてしまっていた。だからこそ、そういった自分の甘えに似た気持ちを払拭してくれるものを、他愛ない会話に求めてミオにメッセを送ろうと思ったのだ。
「だったら何も聞きませんよ。無理に話をさせてしまって悪かったですね、マサキ」
放っておけばそのまま電話を切ってしまいそうな様子の男の言葉に、マサキは思いがけず焦りを感じてしまっていた。このまま電話を切られたくない。発作的に浮かんできた感情に、だからこそマサキは続けてこう思わずにいられなかった。やはり自分は話し相手を求めているのだ――と。
例えそれが日常的に会話を交わすような仲でない男であろうとも、ひととき気を紛らわすのにどうして事足りないと思えたものか。ましてや後腐れのない相手。日常生活で交わることのない男は、マサキの弱味を誰にも語らずに胸の奥に仕舞っておいてくれることだろう。そう考えたマサキは、気を取り直して電話に向き合った。
「まあ、いい。それで何を話すんだよ。お前の研究内容がどうだとかいうような堅苦しい話は御免だからな」
「あなたに話して聞かせて、あなたが理解してくれるというのであれば、そういった話もしてみたいものではあるのですがね。残念ながら、あなたはそういった話に、興味や関心を引かれるタイプではないでしょう」
落ち着いた穏やかな声のトーン。こうして電話越しに男の声を耳にしていると、機嫌の悪いマサキを気遣っているのだろうか。普段とは異なって聞こえるように感じられる。
恐らくは、むつかしい表情をすることも多い顔を見ずに済んでいるからでもあるのだろう。男の優しい声音は、心地良くマサキの耳を擽ってくれた。それはマサキの昂った気持ちを鎮めるのに充分な効果を発揮したようだ。すうっと、それまで心の中で燻ぶっていた蟠りの数々が、まるで引き潮のように引いてゆく。
先程までの気分が嘘のようだ。マサキはすっかり落ち着いた気分で言葉を吐く。
「お前の云うことは尤もなんだけどな、そこまで期待されていないって思うと、それはそれで微妙な気分になるもんだな」
「なら、加圧コンプレッサーの小型化について話して聞かせて差し上げましょうか。従来、加圧コンプレッサーというものは、求められる出力に対して比例するサイズが必須とされてきたのですが、近年、時間圧縮技術が実用化レベルにまで研究が進み……」
全く理解は及ばないものの、いつまでも聞いていたいと思うまでに、マサキを安心させてくれる声。このまま眠りに就ければいいのに。微かに感じ始めた眠気にマサキはふと欠伸を洩らす。
「眠いようですね。やはり、あなたにはこういった話は向かないようだ」
「そうだな。でも、嫌じゃねえ」
「何故? そんなに眠そうな声を発しているというのに」
どうやら男は自分の話がマサキの退屈を引き起こしてしまったと思っているらしい。少しばかり棘のある言葉に、そうじゃねえよ。マサキはもう一度、今度は男に悟られないよう、口を衝いて出る欠伸を噛み殺した。そうしてこう言葉を続けた。お前の声を聞いてたら、嫌な気分が吹き飛んじまった。
「それはいい意味で捉えるべきなのでしょうかね」
苦笑しきりな男はきっと、その言葉さえもネガティブな方向に意味を捉えているに違いなかった。マサキは頷きながら目を閉じた。いいに決まってるだろ。そうして、あっさりと自分の拗れた感情を解きほぐしてくれた男に、静かに感謝の意を述べた。
「ありがとな。お陰で気持ちが落ち着いた」
「私は何もしてませんよ、マサキ」
「お前の声は不思議だな。顔を見ているとそんな風には感じないのに、こうして電話越しに聞いてると、何だかとても穏やかな気分になれる」
「それは私の顔に不満を感じていると云っているのと同義なのですがね、マサキ」
男の指摘に失礼なことを口にしたとマサキはそこでようやく気付いたものの、けれどもどうやら男はその言葉を不快に感じているようではなさそうだ。マサキの無礼に慣れていることもあるのだろう。可笑しくて仕方がないといった様子で、押し殺した笑い声を洩らしながらそう云った男は、電話越しに聞こえてくるマサキの眠たげな声に口にせずにいられなかったのだろう。寝ますか? と、続けて尋ねてきた。
「出来れば、このままお前の声を聞きながら寝たいもんだけどな……」
どうかすると落ちていってしまいそうになる意識を留めながら、必死に言葉を紡ぐ。
――ねえ、マサキ。
男が聞き慣れない話しかけ方をしているのが耳に届いたような気がしたものの、最早、それについて尋ねるだけの気力がマサキには残っておらず。うとうとと浅い眠りと覚醒を繰り返しながら、男が話を終えるのを待つ。
「そういったことは、私ではなく、恋人に頼むものですよ」
「別にいいじゃねえかよ。俺がそうして欲しいって望んでるのに」
「思ったより我儘な性格をしているのですね、あなたは」
それでもマサキの我儘を寛容にも受け止めるつもりでいるようだ。穏やかな調子で言葉を吐いた男は、さあ、寝なさい。まるで夜中になっても眠れずにいる子どもを諫めるようにマサキを宥めると、
「私もこれで落ち着いて休めそうですよ。では、おやすみなさい、マサキ。いい夢を」
惜しむ様子も見せずに電話を切った男に、途切れた通話音。その味気ない態度に物足りなさを感じながらも、これでひとつ、夜中に電話に出る愉しみが増えた――と、緊急の用件が多い夜半の電話を振り返ったマサキは、何故か浮き立つ気持ちを抱えながら、今度こそ安らかな眠りに就いた。
貴方が恋に落ちた瞬間はこちらです
マサキさんが恋に落ちたのは、『声を聞くだけで安心した時』です。