ボイジャー1996

 夜風に吹かれて散歩しようと思った。

 マサキは一人、そうしてゼオルートの館を抜け出し歩いていた。
 いつもならば放浪に愛機を使うマサキだが、偶には自分の足で歩いてみようて思うこともある。とりたてて変化のない日常で、その日、何かしらの変化があったとしたらその気まぐれに尽きるだろう。手足のように動く魔装機を面白がって動かす年齢はとうに過ぎていたからこそ。
 心地よい夜風と虫の音が、そろそろ涼やかな秋の訪れを告げていた。
 背を向けた先にあるゼオルートの館では、いつものように仲間たちが寄り集まって浮かれ騒いでいる。その時々の贅を尽くした料理を肴に樽で用意された酒を酌み交わしながら、その日の、或いはそれまでの空白の日々にあった出来事を語り合いながら、笑い、時に泣く……その喧騒から一人抜け出して、特にあてもなくそぞろ歩く。
 ラングランの夜は暗い。集落から集落へ続く街道沿いに街灯などという文明の利器はなかったし、手持ちのランタンの灯りを頼りに道を往くのが常だった。だからこそ、ある程度の規模の集落でなければ夜の煌々とした灯りは望むべくもなかった。
 暗い平原の向こうには、街灯りが弾け飛ぶ花火のように明滅していた。城下に近い街だ。カーニバルでなくとも不夜城のように光を放つ規模の街が近いのは幸いだっただろう。そうでなければ夜半は常に家に篭るか、魔装機を駆るかどちらかしか選択肢がなくなってしまっていたのだから。
 終わりなき光芒を放つ街に視線を移して暫く。そこから更に頭上に視線を移せば、雲ひとつない満点の星空が、歪曲する大地の果てに伸び行くのが見える。マサキが視線を移して僅か、すい……と、その頬を撫ぜる風が髪を払った。
 踏みしだかなければ先を往くのも頼りない獣道。脇に倒れた草むらを膝で擦りつつ、足元に転がる小石を蹴り上げる。見事とはいかないまでも、小石は放物線を描いて平原の先に消えた。
 ふと右手の丘に目がゆく。獣道はそこまで伸びてはいなかったけれども、ゆるやかな勾配を踏みしめながら頂上を目指す。
 そよぐ風を全身に受けて夜空を見上げるのには絶好の場所だ。特にこんな夜には相応しい――。
 そう、それもまたそぞろ歩きの醍醐味だったからこそ、マサキは行先を定めずに放浪するのが好きだった。気まぐれに歩み、気まぐれに行き先を決め、気まぐれに足を止める。行きつ戻りつ、そうして気の向くままに歩いて、疲れたら宿り木でもあるゼオルートの館に戻って身を休める。
 マサキにとって、ラングランの自然をこうして感じながら歩む夜は、日常においての唯一の娯楽らしい娯楽だった。
「湿地でなくてよかった」
 足の裏に踏みしめた大地の感触が、その息吹を伝えてくる。勾配に沿って吹き抜ける風が、その息吹を伝えてくる。
 空が、大地が、今、マサキを取り巻くもの全てが生命を謳歌している。
「いい風だ」
 マサキが丘を登りきると一際強い風が吹いた。
 舞い上がる草の欠片や砂粒に目を瞑り、再び開くと、なだらかな傾斜の先に見覚えのある白い衣装がひらめいているのが見えた。またどうしようもない偶然もあったものだ――と、マサキは目を見開く。よもやゼオルートの館近くで会うとは思ってもいなかったからこそ。
 広域指名手配犯をこのまま見逃すのはどうかと思いながらも、さして迷惑をかけるでもない独り歩きの様子にマサキは逡巡した。その背なに彼の愛機グランゾンが控えていたのであったのならば、迷わずに自分も自らの愛機を呼び出しただろうに。
 けれども、だからといってこのまま立ち去るのは、自らが見つけたロケーションを他人に盗られてしまったようにも思える。先住権を有しているのは、その場に立つ彼にあるのは明白だったけれども。
 意地を張るのは自分の専売特許。場所取りで譲らないのも自分らしさではないか――そんなことを思いながら、近眼には鮮やかに浮き立って見える白い衣装に近付く。
 彼が話しかけてきたのであれば、その時はその時、今晩のマサキは機嫌がいい。世間話と洒落込むのもいいだろう。
 そう覚悟を決めて、数メートルも離れていない場所に陣取り、草むらに寝転ぶ。
 マサキはぼんやりと、何を思うでもなく空を見上げていた。肌を撫で付ける風の流れに身を委ね、ゆるやかに過ぎ行く時間を堪能する……日頃、西へ東への遠征を繰り返している身とあっては、それはただのそぞろ歩きであったけれども。見知らぬ土地を訪れた時の感慨のように胸をざわめかせ、弾ませた。
 何にも煩わされない、日々の雑音からの開放感。暫くの間、マサキはそうして、彼の存在すらも忘れて、草むらに身を委ねていた。
「珍しい所で会いますね」
 かけられた声に目を開くと、彼はやはりこちらに気付いたとみえる。代名詞ともなった取り澄ました微笑みが、言葉少なに自分を見下ろしているのを見て、マサキは頷いた。どういうつもりかはわからないが、彼――シュウもこの場に腰を落ち着けるつもりらしかった。マサキが頷くのを見て取ると隣に腰を下ろす。実は気付いていたとも云えないマサキは笑いつつも、「てめえと会うにはおかしな場所だ」と、うそぶいた。
「星を見ながらあなたと話をするのも、また一興かも知れませんよ」
 珍しくもの殊勝な物言いに、マサキは顔だけシュウに向けつつ、
「そういうのは女とやれよな。俺とやっても面白くないだろ」
「あなたこそ、一人見には寂しい景色でしょうに」屈託なく、忍び笑いを洩らす。
「そうかね」言いかけて、マサキは苦笑した。「一人で見たい時もあるよな」
 今、自分で言ったばかりだというのに、それをその端から否定しては矛盾も立場がないというものだ。わかっているのだろう、シュウはただ笑いを噛み殺している。こちらも随分と機嫌がよろしいらしい。酒でも入っているのだろうか――吹き抜ける風が運んでくるのは、香水にも似た甘い香り……ひとつ咳払いして、マサキは視線をシュウから空へと戻した。
 瞬く星々が自分たちを見下ろしている。赤く、青く、黄色く、そして白く。その色彩はまるで自分たちが乗る魔装機のようにも映る。恐らく、宇宙を駆け抜ける魔装機はあの星々の如く煌めいて見えるに違いない。
 時に力強く、時に消えてしまいそうな程に弱々しく。
「子供の頃、あなたは何になりたかったですか?」
 マサキが物思いからついと溜め息を洩らすと、隣で沈黙を保っていたシュウが口を開いた。
「何だよ、突然」マサキの疑問には答えず、私は――と呟くようにシュウは言葉を継ぐ。
 あの嫌みなまでの微笑はなりを潜め、どこか物悲しさすら感じさせる無表情がそこにはある。彼は感情がこもればこもるほどに、その表情を正しいものから遠ざけてしまうのだと知ったのは、――いつだっただろう。
「宇宙を駆けたかった」それは、限りない沈黙。
 マサキは何を言うべきか言葉に詰まっていた。子供の頃、空、或いは宇宙と云った自分が住まう世界と異なる場所に憧れたのは確かだった。けれども人型汎用機ロボットに搭乗して駆けたかったというと、そうした憧れはなかったに等しい。
 単純に美しいものだと思っていた。
 無限に続く星空が。
「――夢が叶ったってことじゃないか」
 気の利いた言葉も浮かばず、そうとだけ言うと、シュウはふ……と表情を和らげた。そこにはもう、いつもと変わらない皮肉めいた微笑みが浮かぶだけ。
「そうですね」草のささめきに遮られ、囁きよりも頼りない声が同意を告げる。ややあって、彼はマサキの答えを聞けぬと悟ったのだろう。「星座はないのですよ、この世界には」
 唐突に話題を変えた。
 気の利いた台詞は出てこない。マサキはただ黙ってシュウの次の台詞を待った。
 こういった雰囲気は、もしかしなくとも初めてのこと。顔を合わせれば皮肉の応酬、稀に普通に接する事があってもそれは僅かに気安さを感じさせる程度のささやかなものだった。昨日の強敵は今日の友を地でゆく関係だったからこそ、マサキはシュウに気を許しきれなかったし、それはシュウにしても然り――だっただろう。

 ――リー……リリー……

 どこか侘しさを引き連れる秋の夜風に虫の声、その雰囲気に流されてそう感じるだけなのだろうか。

 ――リー……リリー……

 澄んだ鳴き声を響き渡らせる虫の音に耳を傾けながら、マサキはシュウの乏しい表情を伺う。
 違う。今日のシュウは明らかに――愁いている。何かを。

 それが何であるかマサキにわかる由もなかった。わからない以上何かを言ってやれる訳でもなかった。黙って話を、その端正な口元から紡がれる台詞を、ただ待ち、ただ聞くだけしかできない。無力を嘆くというよりは歯痒かった。滅多に経験できないその本音を聞けるやも知れないこの瞬間に、それを引き出す術を持たない自分が。今更ながらにお互いの隔たりを自覚して、マサキはその立場ゆえに今迄取ってきた態度をもどかしく思う。
「オリオン……」
 シュウはそうとだけ、呟くと立ち上がった。
「行くのか」
「ええ。そろそろ戻らなくては」
 愁いを湛えた濃紫アメジストの瞳がマサキを見下ろしている。何も語りそうにない無表情な瞳が。
「ガガーリン少佐は本当に、地球は青い、と思ったのでしょうかね」
「さあ……そうは言われてるけどな。それが本当かどうかは、過去じゃなく今の世の中に生きる俺たちには確かめようがない」
 ふ……とその瞳が細められる。
「宇宙に煌めく星々の方が美しいと思いますよ」
「地球よりもか」

 ――訊ねるまでもないでしょう。

 誰に聞かせるでもないような口調でシュウが言った刹那、
 風が、吹いた。
 よりいっそう強い風が。
 何もかもを巻き上げるような風が丘を駆け抜けてゆく。マサキの視界を髪が塞ぎ、一瞬、シュウの姿を見失う。風の音と虫の声。それに紛れてシュウが何かを言っているような声。けれども彼の台詞はマサキにまでは届かない。
 どのくらいの時が経ったのか。瞬きよりも短い時間だったに違いない。突然の強風が止んだかと思うと――。

 シュウの姿はとうになく――……。