恐らく、マサキの趣味嗜好に合わせてくれているのだ。街に出て食事をする時、シュウが自らの嗜好に合致する飲食店にマサキを食事に連れて行くのは、五回に一回と相場が決まっていた。酒を飲む場所にしてもそう。暇を持て余して昼間から飲んだくれているような男が集まる大衆酒場にばかり足を運んで、彼が好みそうなパブやバーといった場所には中々足を運ばない。
確かにマサキは堅苦しい場が好きではなかった。
礼装を求められるような場所や、マナーを遵守しなければならないような場所はどうにも気詰まりする。
だからといって、シュウが自分の嗜好を蔑ろにしていい道理はないだろう。だからマサキは外食の度にシュウに「お前の好きな店でいい」と釘を刺しているのだが、どうも彼にとってマサキと赴くそれらの店は、彼自身の好奇心を満たしてくれるものであるようだ。こういった店こそ市井の人間の息吹が感じられるのですよ。と、物好きにも限度がある台詞を吐いてはその入り口を潜ってゆく。
回数にまで一々気を回してはいなかったものの、その日はどうやら五回に一回の日であるらしかった。
服装にまでマナーを求められるような店ではなかったものの、マサキがひとりで入店するには敷居の高い小洒落た店構え。店先に並ぶ、観葉植物とメニューボード。軒下にも植物の寄せ植えが吊り下げられている。
彼が好んで通う店は何処も内装に拘りがあるようで、店内には細かいアイテムが散りばめられていた。卓上の灯火器を勿論だったし、多肉植物の寄せ植えにしてもそうだ。壁には額装された旧い広告や絵画。スポットライトのようにテーブルを切り取っている照明は、隣り合う席の客がお互いに興味を持たないようにとの配慮であるらしい。
きちんと給仕服を身に纏ったウエイターに案内されて席に着いたマサキは、慣れた手付きでメニューブックを受け取るシュウを目の前に、いつまで経ってもこうした場に慣れない我が身を恨めしくも感じていた。
理解はしている。彼の嗜好がそうであると。
ただ、絶望的にマサキの柄ではない。
コース料理がメインの店のメニューリストに並ぶ見知らぬ酒。単品料理は食事用というよりは酒のともらしく、華美な更にちんまりと盛られている写真が添えられている。そのメニューに料理の金額が載っていないことに気付いたマサキは、シュウに勧められるがまますることとなった自らの格好に、彼の意図をようやく汲み取った。
「あんまり派手に金を使うなよ」
先んじてそう釘を刺せば、日頃から金額を気にしないような金の遣い方をする男は薄く微笑った。
デザートはソルベか僅かな量のフルーツ盛り合わせのいずれか。ソフトドリンクは当然、細身のグラスに注がれて出てくる。きっと会計時に驚くような金額が記された明細を目にすることになるのだろう。マサキはシュウに気取られぬように小さく溜息を吐いた。
懐具合を気にするような資産状況にはないマサキだったが、だからといって庶民性までもを失ってしまった訳ではない。払うと云っても聞かぬシュウを目の前にして、儚い抵抗だな――マサキは半ば諦めたような気分でいた。
「この辺りでしたら、飲み易いですよ」
シュウの指が辿るメニューリストを覗き込んでみたものの、何がどれであるかわかるようなメニューではない。任せた。マサキはそう云ってナフキンを膝に広げた。
こうったことは知っている人間に任せるに限る。少なくともシュウ=シラカワと人間は、こういった場でマサキが食べられない、或いは飲めないといったメニューを注文したりはしない。長い付き合いでマサキの味覚を把握しているのだろう。「なら、レッドワイン・クーラーにしましょう」と、あっさりと今日の酒を決めたシュウに、「苦くなければなんでもいい」マサキは答えた。
そのレッドワイン・クーラーが先んじてテーブルに運ばれてきた瞬間、マサキは微かに目を瞠った。琥珀色のグラーデーショントーンのタンブラーグラス。洋梨にも似たどっしりとしたシルエットは、酒を注ぐには珍しい。
「へえ。こんなグラスがあるんだな」
色合いはさておき、この形は可愛いものが好きな義妹に好まれそうだ。
既に食器類が揃ってしまっているからか。自分の好みで新しく買い揃えるということをしない義妹。目新しいものを好むマサキの嗜好にも合致する。グラスを傾けながら、こういうのが一揃いあってもいいな。ふと言葉を継げば、
「あなたにしては珍しいことを云いますね」
マサキに合わせてカクテルを嗜むつもりはないようだ。ワインをボトルでオーダーしたシュウが、こちらもグラスを傾けながら口にする。
「俺んちもそうだが、お前のところも変わり種の食器ってないじゃねえか」
云いながらグラスに視線を向ける。
どこか懐かしさを感じさせる曲面グラス。眺めれば眺めただけ雰囲気を感じずにいられなくなって、揃いにしようぜ。すうっと喉から出てきた言葉に、自分のことながらマサキは驚いた。
「お前と俺で一個ずつ。考えてみたら揃いの何かって持ってなかったしな」
けれども、澱みなく紡がれる言葉。どうやら、心のどこかで有していた願望が形となって溢れ出たようだ。
そう、彼と揃いの何か。それが自分は欲しかったのだ。長い付き合いになる割には、趣味嗜好が異なることもあって、揃いの何かを持つことなくここまできてしまった。指輪や腕時計など、身に付けるアクセサリーを揃えてみることも考えたりもしたが、いかんせん柄にもないこと。自ら云い出すのは腰が引けてしまう。
一対のグラスならそういった気負いからも解放される。我ながら妙案だ。マサキはようやく辿り着いた答えに心を弾ませながらシュウの返事を待った。
「ですが、マサキ。そのグラスは何処に置くのです」
「何だよ。嫌なのかよ」
「嫌ですね」シュウはふふと笑った。「グラスだけあって、それを使う相手が中々訪れないなどという状況は」
そう云ってワインを口に含んだシュウが、ゆっくりとグラスをテーブルに置く。
ちゃんと使いに来なさい。笑いながらも、マサキの目を真っ直ぐに見詰めて云った彼に、わかったよ。マサキは確りと頷いて、手にした曲面グラスを頭上の照明に掲げた。