緊急事態だとチカに呼び出されたマサキは急ぎサイバスターを駆って、彼の道案内を受けながら、シュウが現在住んでいるというアパートメントに向かった。
「来たね、マサキ。チカから話は聞いたかい?」
玄関チャイムを鳴らすと出てきたのはテリウスだった。一体、何が起こったというのか。道案内に必死なチカから話を聞けぬままここに来てしまったマサキとしては、先ずは緊急事態の内容が知りたいところだ。
「聞いてねえよ」
「話せるほど、マサキさんに方向感覚はないので」
マサキとチカの言葉を聞いたテリウスが、だよね。と、納得した様子をみせる。
「だよねって何だよ。てか、あいつらはどうした」
「一気にふたつも質問を重ねないでくれないかなあ。まあ、いいけど」
そう云って、家の中に上がるよう促してきたテリウスに、マサキは一羽と二匹の使い魔を引き連れて続いた。
こじんまりとしたアパートメントの部屋数は三つであるようだ。恐らくはキッチンとリビングと寝室だろう。廊下の左側に並ぶに扉のひとつをテリウスが開く。一面が窓となったリビング。中天に座す太陽からの光が眩いくらいに溢れている室内で、勧められたソファに腰を落ち着けたマサキは、向かいに腰を下ろしたテリウスからの説明を待った。
「先ず、さっきの話だけど、君の方向音痴が重症なのはラングラン国民も知るところ。ラ・ギアス世界を縦横断しても道に迷ってるって気付かないのは君ぐらいだからね。チカが命懸けで君の道案内をしたのも頷けるよ。次、サフィーネと姉さんは、諸事情によりここには立ち入れない。これでいいかい?」
「謎が増えただけじゃねえか。俺の方向感覚の欠如についてはさておき、諸事情って何だ」
「シュウの家に立ち入る許可を出したら、ふたりとも相手を出し抜くのに必死になるからね。だからここは立ち入り禁止にするってシュウがさ」
「あいつも相変わらず苦労してんのな」
金魚の糞――と決して褒められた例えではなかったが、サフィーネとモニカのふたりは、放っておけば四六時中をシュウに引っ付いて過ごしてくれたものだ。
それは彼が読書に励んでいようが、自機の整備をしていようが関係なく。
僅かな隙を見付け出しては手伝いをさせろだの構えだの喧しい彼女らに、さしものシュウとしても思うところが出来たのだろう。彼女らをシュウが立ち入り禁止にしたと聞いたマサキは、彼と彼女らの捻れた関係をこれまでさんざん目にしてきていたからこそ、シュウに同情せずにいられなかった。
「”も“、かあ。君の周りの女性たちに同情するよ」
「煩えなあ」マサキは眉を顰めた。
テリウスはそれほど口が堅くない。彼はマサキが口止めした話を、ここだけの話として直ぐにモニカの耳に入れてしまう。
マサキを恋敵と認識しているモニカが、そういった話を耳にして黙っている筈がない。その結果、リューネに責められるのはいつでもマサキである。マサキとしては、シュウの話が自分のことにまで飛び火するのは避けたかった。
「いいからさっさと本題に入れよ。緊急事態が何だって?」
「シュウの目が見えなくなってね」
「は?」
さらりとテリウスが放った言葉に、マサキの脳が理解を拒否する。
「まあ、召喚システムをマイクロセンサーに組み込んで、地底世界から地上軍の動きを電波探信儀に反映させようなんて妙なことを考え付いたシュウが悪いんだけど、システムを組み込んでる最中で事故っちゃって」
「それで失明した? お前、その割には暢気過ぎるだろ」
「別に永遠に失明するって訳じゃないからね。頭を打った衝撃で一時的に見えなくなっただけだって医者は云ってたし」
「本当かよ」マサキは宙を睨んだ。「まあ、あいつなら自力で治しそうでもあるしな……」
マサキには原理や構造の理解が出来ないシステムだの理論だのを作り上げてみせる男に、不可能の文字は似合わない。死ねば生き返り、記憶を失えば取り戻す。恐らく彼は今回も自身の力なりで、苦難を跳ね返してしまうのだろう。
「そうなんだよ。だからあんまり心配はしてないんだ。で、僕は今日これから用事があって、明日の朝まで戻って来れないんだけど……」
「あー、それで俺にあいつの世話をしろって」
「御明察」テリウスが、ぱん。と、両手を叩く。「普段ならいざ知らず、シュウの目が見えていない状態だろ。姉さんたちに任せたら、何をしでかすかわからないから」
「あいつ、お前らの他に知り合いいねえのかよ」
「それはシュウに直接聞くんだね」
「冗談だろ。誰がんなこと出来るか。で、世話って何をすればいいんだ」
マサキは視線をテリウスに戻した。世話をするといっても半日程度であれば大したことでもないだろう。だったらそのぐらいのことは手伝ってやってもいいかも知れない。そう思いながら、念の為にテリウスに尋ねてみる。
「食事の世話と、風呂の世話と、着替えの世話と……後は本を読んで聞かせるぐらいかな。退屈してるみたいだしね」
本。とマサキは鸚鵡返しに口にした。そして視線を宙に彷徨わせた。
よもやシュウ相手に絵本を読めという話でもあるまい。
「俺にお前らが読むような本が読めると思ってるのかよ」
「大丈夫だって。読めないところはシュウが推測して読み方を教えてくれるだろうから」
「その回数が問題だろ。虫食いの本になっちまう」
「やってくれなきゃ、さっきの話をモニカ姉さんに云うけど?」
どうやらテリウスからの情報流出は確信犯的な行為であったようだ。
突っぱねても良かったが、自身の肉体的なダメージを考えると気乗りはしない。ウエンディはまだしもリューネは時として肉体言語に打って出てくるのだ。そのダメージたるや、鍛えられた肉体を持っているマサキですらそれなりの傷になるほどだ。
「わかったよ。やるよ。やりゃあいいんだろ」
マサキは盛大に舌を鳴らして、ソファに仰け反った。
「いやあ、助かるよ。マサキ」
云うなりソファから立ち上がったテリウスが、後は任せたよ。と、慌ただしくリビングから出ていこうとする。おい、待てよ。細かい説明のないテリウスに、マサキは抗議の声を上げるも聞く気はないようだ。
「わからないことがあったらシュウなりチカなりに聞くといいよ。じゃあ、また明日」
そうして、最早、一刻の猶予もないといった様子でアパートメントを出て行ったテリウスに、マサキはソファに並んでいる一羽と二匹の使い魔を見渡して――役に立つのかねえ。と、ただただ深い溜息を洩らした。
「まあ、ご主人様のことですからね。目が見えないくらいでどうとなる人じゃないですよ。直ぐに良くなると医者に云われてもいますしね。あたくしが家を出た時も、大人しく寝室でラジオを聞いてましたし。いい大人なんですから、やれることは自分でやりますよ。マサキさんはテキトーに食事や飲み物を運んで、ちょっと話し相手にでもなってくれればいいですって」
途方に暮れたマサキに、慰めてくれているつもりなのか。チカが長々と語りかけてくる。
それで済む話でもねえだろ。と、マサキはソファの上に伸びた。
シュウはいつもそうだ。何かが起ころうものなら、それが例え彼自身の手でどうにかなりそうなことでも、ここぞとばかりにマサキを頼りとしてくる。その貸しを相応の行為で返してくれればまだいいのだ。だが彼は、マサキが困っているとみるや否や、頼みもしていないのに手を貸してきては、勝手に借りを返したことにしてしまう。
悪意と善意の押し付けにも限度がある。
マサキは天を仰いだまま、暫く身動ぎせずにいた。どうせ今回も、シュウがマサキを呼べと云ったに決まっている。
「ねえ、マサキ。本当に本を読むの?」
「マサキに読み聞かせは無理だと思うんだニャ」
「お前らにまでそう云われると流石にムカつくな」
マサキはソファから立ち上がった。そしてチカに行くぞと声を掛けた。
いつまでもリビングでじっとしている訳にもいかない。
昼近くに呼びに来たチカに先導されて、遠路はるばる駆け付けること二時間余り。果たして彼は昼食を摂っているのか。先ずはそこを確認しなければならないだろう。マサキは一羽と二匹の使い魔とともに寝室に向かった。
「ごっ主人様ー。お待ちかねのマサキさんでっすよー」
扉が開くなり、呑気にも限度がある声が上がる。人の善意を何だと思ってやがるんだ。マサキの肩を離れて寝室の中に飛び込んでいったチカに苦々しい思いを抱えつつも、その後に続いてマサキもまた室内に足を踏み入れた。
部屋の中央にベッドがひとつあるが、目が見えないからといって寝ているのは性に合わないらしい。窓際にあるふたり用のこじんまりとしたテーブル。太陽の光を浴びるようにしてテーブルを前に、一人掛けのソファに腰掛けているシュウは、今はベッド脇のサイドチェストの上にあるラジオに耳を傾けているようだ。
流れ出るのは荘厳且つ重厚なオーケストラ。とかく重苦しい。大衆文化で盛り上がりをみせている軽い曲調を好むような男ではないとはマサキにしても思っていたことだが、ここまで予想通りの嗜好をしているとそれはそれで面白味がない。入るぞ。声をかけたマサキは、シュウの対面のソファに腰掛けた。
「待っていましたよ、マサキ」
声の方角で判断しているようだ。顔を向けてきたシュウの目は開いているものの、どうにも焦点が合っていない。
見えていない以上は仕方のないこととはいえ、見慣れない表情をしているように感じられる。やり難い。そういった思いが顔や声に出易いマサキは、なるべく普段通りに振舞うように努めることにした。
「大したことは出来ねえぞ。てか、お前。他にこういったことを頼める奴はいねえのかよ」
「そうニャ、そうニャ。マサキを扱き使うニャニャんだニャ」
「困ったら直ぐマサキに頼るって都合がいいニャのよ」
シロとクロの抗議の声に、そうは云われましてもね――と、シュウが肩を竦めてみせる。どうやらマサキを頼ったのは、それなりに事情があってのことのようだ。
「私の知り合いは自分で自分のことをやらずに済む人たちが多いのですよ。後はこの機会に記録をと経過観察を始めるような人々ですね。どちらにせよ、こういった事態に対しては役に立たないでしょう」
「あー……」マサキは様々に思いを巡らせた。「そりゃ確かに、俺の方がまだ役に立ちそうだ」
上流社会の人間であったり学者世界の人間であったりと、シュウの世界はマサキとは層の異なる人間で構成されている。
それも已む無し。教団に長く身を置いていた彼は、彼らに取り込まれて生きることを余儀なくされていた。王家を離れた今、属するコミュニティを持たない彼は一から人間関係を構築するのが難しい立場にある。そうである以上、人間関係の主軸を王室時代の人脈に置かざるを得ない。
限られた世界で限られた社会の人間としか接触を持てなかった彼に、庶民的な感覚を持つ知り合いを探せというのは難しい話だ。そういった意味では彼に庶民感覚で接せるのはマサキたちぐらいだろう。
「なら早速働くかね。お前、昼飯は食ったのかよ」
「それはテリウスが用意してくれましたからね。あなたに期待するのは暇潰しの相手ですよ。目から情報が入らないとなると、音に頼らざるを得なくなるので」
「テリウスは本を読んでやってくれって云ってたけどな」
「テリウスならまだしも、あなたに私が好む本を読めというのは無理があるとわかっているつもりですよ」
「じゃあ何をしろって? まさか話し相手をしろとか云い出すんじゃねえだろうな」
「そのまさかですよ」クックと声を潜めて嗤うシュウに、マサキは顔を顰めた。「今日はじっくりと腰を据えて話をしましょう。ねえ、マサキ」
マサキは再び途方に暮れた。
対して共通項もないシュウを相手に明日の朝まで話をして過ごせとは、随分と無茶な注文もあったものだ。そもそも、他人に対しては寛容な態度で接してみせるシュウは、マサキ何が彼の精神をそこまでささくれ立たせるのか。マサキが相手となった途端に、攻撃的に物を云ってくることが珍しくない。
「何回、喧嘩することになるかね」
これまでのことを考えても、穏やかに済むとは考え難い。
すると、テリウス同様に自覚があったようだ。流石に今日は自重しますよ――そう口にしたシュウは、続けて飲み物の準備をしてくれないかとマサキに頼んできた。
「お前は何を飲むんだよ」
「紅茶で結構ですよ」
「お前にとってはたかが紅茶じゃねえだろ。誰に物を頼んでるんだ」
「マサキ=アンドー。魔装機神サイバスターの操者ですね」
さらりと云ってのけたシュウにマサキは唸った。
シュウが茶類に拘りを持っているのは、マサキたちといった周囲の人間にとっては周知の事実だった。慇懃無礼な性格の持ち主なだけに、わざわざ語って聞かせてくるようなことはなかったが、誰かに訊ねられようものなら際限なく蘊蓄を語り続けてみせたものだ。
味や香り、茶葉の産地、煎り方……いつだったか、喫茶店でシュウが飲んでいる紅茶を試しにマサキが注文してみたことがあった。運ばれてきた紅茶の見てくれ! 表面に浮かぶ黄金の輪はまるで金環食のように眩かった。
濁りのないストレートティー。爽やかな茶葉の香りが鼻にすうっと入ってくる。そしてその芳醇な味わい。飲み物の質にあまり拘わらないマサキですら美味いと唸らずにいられない紅茶の味は、誰の記憶にも一生ものとして残ることだろう。
舌の上を滑らかに転がってゆくあの日の紅茶の味を思い出したマサキは、果たしてそういったレベルの高い茶類に慣れてしまっているシュウが、マサキの淹れた紅茶に納得出来たものか――と、不安を抱かずにいられなくなった。
当然だ。あれは通り一遍の淹れ方で出る味ではない。そのぐらいはマサキにもわかる。
「お前が納得出来るような紅茶を淹れられる気がしねえんだが」
「そうニャそうニャ! 不器用なマサキにレベルの高いことを求めるニャニャんだニャ!」
「マサキに出来るのは鍋奉行ぐらいニャのよ!」
だからこそ不安を口に出してみれば、日頃の鬱憤を晴らすかのように、二匹の使い魔が尻馬に乗って主人をくさし始める。
「お前らに云われると猛烈にムカつくな」
マサキは口をへの字に曲げた。擁護がまるで擁護になっていない。
確かにマサキは飲み物に限らず、食べ物の味でさえ拘るタイプではなかったが、それはラ・ギアスの食文化の正解を知らないままからだ。生まれ育った世界でない以上、他人の言葉が全て。そういう味だと云われれば信じるしかない。
焼き物、炒め物、煮物……異国だけあって、中には流石にこれは食べられないという味の料理もある。それでもマサキは出された料理に文句を云ったことはなかった。その代わり、自身の故郷の味――日本食を作る時にはとことん拘った。
マサキはそのくらいの手間を料理にかけられる人間だ。
決して、シロやクロが云うような不器用な人間ではない。だのに何故かマサキの周囲の人間は、マサキが不器用だと信じて疑わないのだ。げに恐ろしきは先入観だ。
そうしたマサキの真実を、果たしてどこまで気付いているのか。あまり気にしていない様子のシュウが、大らかに言葉を継ぐ。
「いつも家でやっているようにで結構ですよ。云ったでしょう。あなたに求めているのは、私の話し相手だとね」
「本当かよ。だったら、どうなっても絶対に文句を云うなよ。後から不味いなんて云うのは絶対ナシだからな」
何がそんなに愉しいのか。それともそれだけ退屈していたのか。瞬間、緩やかに彼の口元に笑みが広がる。直後、ええ――と、しっかり頷いたシュウに、マサキはソファから立ち上がった。
「なら、ちょっくら茶を淹れてくるかね」
チカにシュウの元に残るように告げ、二匹の使い魔とともにキッチンに向かう。
シュウ曰く、冷蔵庫や戸棚の中身は好きに使っていいということだった。使い込まれていないキッチンの様相からして期待は出来なさそうだったが、だからといって中身も確認せずでは何を作れたものでもない。
マサキは先ず戸棚を開いた。
調味料にクッキー缶、インスタントコーヒー、紅茶の茶葉。レトルト食品も僅かながらある。マサキは続いて冷蔵庫を開いた。牛乳、チーズ、卵……使いかけの野菜に、ハムとソーセージ……必要最小限は揃っているが、物足りなさを感じるのは否めない。
恐らくこの家は、シュウが一時的に身を置く場所であるのだろう。
急いで買い揃えたと思しき食材がその証。あれだけ味に拘ってみせる男の割には一種類しかない茶葉。どの紅茶を選ぶかに頭を悩まさずに済むのは結構なことだが、それだけに失敗が出来ないというプレッシャーが強い。
「シュウはああ云ってたけど、マサキ紅茶を美味しく淹れる方法ニャんて知らニャいんじゃニャいの?」
「そもそも茶葉から紅茶を淹れる方法を知ってるのかニャ? いつもティーパックで済ませてた気がするんだニャ」
「まあ、テュッティの遣り方を真似りゃなんとかなるだろ」
幸い、食器棚の中にティーポットがある。ここに茶葉を入れれば何とかなるに違いない。マサキはテュッティの遣り方を思い出しながら紅茶の準備を進めていった。
最終的に砂糖で台無しにしてしまう割には、ティーパックで淹れる紅茶をあまり好まないテュッティ。無駄なことをすると思っていた彼女の拘りがこんなところで功を奏すとは。思ったよりもいい香りに包まれたキッチンに、ひとり満足したマサキは自分用にコーヒーを用意し、戸棚の中にあったクッキーを皿に出す。
それらをトレーに乗せてシュウが待つ寝室へと戻ったマサキに、匂いでわかったようだ。思ったりよりいい香りですね。次いでテーブルの上に並べられたカップに皿を、たどたどしく指で辿りながらシュウが云った。
「大丈夫かよ。飲むときには云えよ。カップを掴ませてやるから」
「そうしていただけると有難いですね。一生というのであればこうしたことにも慣れなければなりませんが、今日明日には治ると云われているものの為に、目が見えない生活に慣れるのは不合理だと感じていたところですので」
「お前とことん合理主義だよな。トイレとかどうしてるんだよ。必要なら道案内はするが」
「ここから何歩でどの方向に向かえばいいのかぐらいは、昨日の内に覚えましたよ」
「まあ、流石はご主人様ってところですかね。何だと云いつつも適応力は高いんですよ。前に記憶を失くしたときも、あっさりと現状を受け入れて適応していましたからね」
チカの言葉に成程とマサキは頷いた。
どうやらシュウ=シラカワという男は、マサキが思っているより、生きることに対して貪欲且つ前向きな人間であるようだ。普通の人間にとっては、一生に一度あるかないかという奇禍に巡り合おうとも平然としている。そう、彼は目が見えなくなろうとも、記憶を失おうとも、挫けるということをしないのだ。
悲観的になりそうな状況でも、先ずは受け入れて、その上で自分をその状況に適応させてゆく。
それは並大抵の精神力では為せない業だ。
様々な人間の生き様を戦場で目の当たりにしてきたマサキだからこそ、彼の芯の強さがわかる。人は危機に直面すると本性を露わにする。悍ましいまでに命乞いをしてみせる人間や、浅ましいまでに正体を失う人間をマサキはどれだけ目にしてきたことか。
自分が彼と同じ状況に置かれたらどうしているだろうか? マサキはふとそう思ったものの、明確な答えは出せそうにはなかった。
※ ※ ※
「そしたらデナリ山に出たのニャ!」
「何で?」
「ニャんでって云われても着いてしまったものはどうしようもニャいのだ!」
「いやいやバンコクに向かった筈がアラスカ山脈に到達ってッ!? おかしいですよ、あなたたち! てか使い魔の癖にナビゲートも出来ないとか終わってるでしょ! あー、良かった! マサキさんを迎えに行ったのがこの超☆有能なあたくしで良かった! 他の人に任せてたら一生ここに辿り着かないところでしたよ! ねえ、ご主人様?」
何か面白い話を――と、シュウに所望されたマサキはどうしようか悩んだ末に、今まで行ったことのある土地での印象的なエピソードを話すことにした。だが、悲しいかな。口喧しい三匹の使い魔たちが同席している場なのが災いした。
彼らが黙ってマサキの話を聞く筈がない。特にシロとクロの二匹、はそれが迷った挙句の不時着であると知っているだけに、いちいち余計なエピソードを付け加えてきては話を脱線させてくれたものだ。
結果、「訪れた土地での心温まるエピソード」が、「どれだけマサキが方向音痴か」という話に成り代わること一時間ほど。ついに我慢の限界を迎えたらしいチカが、シュウに激しく同意を求め出した。
「そうなると思っていたからこそ、あなたに頼んだのですがね、チカ。しかし、相変わらず酷い方向感覚の欠如ですね。それで良く決定的に遭難しないものです」
「その豪運ですよね。何で目的地に辿り着けるんでしょ、この人たち。っていうか、そこに至るまでの道筋で欠片もこの二匹のポンコツ使い魔が役に立っていないのが、あたくしもう不思議で不思議で」
「だって、あたしたちマサキの使い魔ニャのよ?」
「いやいやだからって主人と一緒に迷っていいなんて誰も云ってませんて! あたくしたちは魔法生物なんですよ? いいですか? 魔・法・生・物! 人間をアシストするのがあたくしたちの役目! せめて道案内ぐらいは普通に出来るようになりましょうよ! 今のままじゃ、あなたたちが何の為に生み出されたのかがさっぱり見えてきません!」
「おいらたちにニャにを期待してるんニャ、お前は。ニャのだ!」
「あたしたちはハイ・ファミリアとして突進するのが使命ニャのね!」
「きぃぃぃぃぃぃぃ! 何なのこの二匹! ホント、主人以上にポンコツ!」
普段は真面目な二匹の使い魔は、いつでも捕食出来るという余裕があるからか。チカに対しては酷く強気に出る。それが悔しいのだろう。自身の羽根をくちばしで噛んで絶叫するチカに、見兼ねたマサキは声をかけた。
「あんまり真面目に付き合わない方がいいぞ。こういうノリになると止まらねえからな、こいつら」
「慣れすぎでしょ、マサキさんも! ここは一発、ビシッと云ってやった方がいいんじゃないですか? だってこのポンコツ二匹、マサキさんと一緒に迷い続けるんでしょ!?」
チカがマサキを正面にしてと気炎を吐くも、マサキからすれば、彼らは立派なパートナーだ。その有能振りは身を持って思い知っている。
「思ったよりは有能だぞ、こいつら。お前と違って余計なお喋りも少ないし」
「その余計なお喋りがどれだけ役に立つかご存じない!? これでもあたくし、この口で敵を誘い出すぐらいは出来るんですよ!」
「てか、お前ら使い魔はどれだけ俺たちのサポートができるかが命だろ。そういった意味じゃ、サイバスターの操縦補助に長けているこいつらは有能なんだよ」
マサキの手足のように動くサイバスター。それは、シロとクロが適切なサポートをしているからだ。マサキひとりではこうは動かせない。疾風のように動き回る風の魔装機神。それにはそれだけの技能が必要になる。それを補って余りある二匹の使い魔の働き……マサキの弁舌に耳を傾けたチカは、「親の欲目ですかねえ」そう云ってシュウを振り仰いだ。
「口ばかりのあなたよりかは、余程、きちんと働いているかと」
「ひぃっ! これはとんだ藪蛇! あたくしまだ命は惜しいです、ご主人様!」
「だったら私の役に立つよう、精々働いてみせるのですね」
あっさりと自身の使い魔を一蹴してみせたシュウは、声の方角で見当を付けているようだ。そこでマサキに向き直ると、そろそろ食事の時間ではないかと尋ねてきた。
腹でも空かせたのだろうか? マサキは寝室の壁に掛けられている時計を見た。いつの間にかそろそろ夕方も終わる時刻になっている。
「何だ、もうこんな時間か。ちょっと待ってろ。何か作ってきてやる」
気付けば窓の外も暗くなり始めている按配だ。マサキはソファから立ち上がったついでとカーテンを閉め、更についでと部屋の明かりを点けた。そして夕食の支度に取り掛かるべく、キッチンへと向かいかけた。
マサキ。寝室から今まさに出ていこうとした瞬間、シュウに呼び止められる。
マサキは振り返った。
どうやらマサキたちの話は彼をリラックスさせるに足りたようだ。心なしか薄らいで見える眉間の皺に、騒々しいとしか思えなかった時間でも役に立つことがあるのだとマサキは思った。
「あなたに優しくされるというのは、案外気持ちのいいものですね」
「今だけだからな。一生、こんな風に優しくしてもらえるなんて思うなよ」
「わかっていますよ」シュウの口元がつと緩む。「次は私の番です」
まさか優しさにまで貸し借りの法則を持ち込むつもりなのだろうか。不安を煽るシュウの台詞に、どういうつもりだよ。と、マサキは尋ねるが返答はない。代わりにチカが、「ご主人様に優しくしてもらえるんだからいいじゃないですか。それの何が不満で?」と、呑気に言葉を吐いた。
「それが怖いんじゃねえか。こいつの優しさなんて想像が付かねえ」
「おっかしいなあ。ご主人様、マサキさんには結構優しい筈なんですけど」
はあ? マサキは声を上げずにいられなかった。こうも貸しだ借りだと煩いシュウの何処に優しさがあるのか。
そもそもここにマサキが居るのも彼の差し金である。少しでも借りられると思えば、直ぐにマサキを頼ってくる男。遠慮なく厄介事に巻き込んでくるシュウに優しさがあるというのならば、マサキなどは聖人君子の部類に入るに違いない
「マサキではわかる筈もないのでしょうね」
だのに澄ました顔でシュウが云ってのけるものだから、マサキとしては耳を疑わざるを得ず。
「お前、今日は自重するって云ってなかったか?」
「云いましたね。それが?」
「自重=しないって意味ではありませんからねえ。まあ、ご主人様としては充分に自重しているつもりなんじゃないですか? 現にここまで一度も喧嘩をせずにこれてるんですし」
「本当にああ云えばこう云う奴らだな! お前たちの料理にだけタバスコを大量に入れるぞ!」
どうせ今日の彼は目が見えていないのだ。食べ物の色が変わっていようともわかる筈がない。だからこそマサキがそう脅しを口にしてみれば、何がそんなに可笑しいのか。クックと声を潜めて嗤ったシュウが、「匂いで気付きますよ、マサキ」
「美味そうな匂いで味が壊滅的な料理ってないかね」
「嗅覚と味覚は連動していますからね。その希望を叶えるのは非常に難しいかと」
「人間って上手い具合に身体が出来てるよなあ」
減らず口に苦々しさを感じながらも、「まあいい。行くぞ」と、二匹の使い魔に声をかけたマサキは、今度こそと振り返りもせずにキッチンへと向かった。
「ニャにを作るんだニャ?」
「さあ。何を作ったもんか。大した食材もねえしな。簡単に作れるものを作るしかねえけど」
煮物、焼き物、炒め物……何を作るか冷蔵庫の中身を覗き込みながら考えるも、これだというものが思い浮かばない。
マサキはうーんと唸った。魔装機の面々の中では料理が出来る方だが、手の込んだものとなると面倒臭さが先に立って上手く作れた例がない。特に香辛料をあれこれと使うような料理に関しては、味の足し算が複雑過ぎるからか、レシピですら覚えられずにいる。
「何か、旨いもんが食いてえな」
わざわざ遠路はるばる駆け付けて、シュウの話し相手を務めているのだ。少しぐらいはマサキの我儘を通してもいいだろう。マサキは何を作るか決めた。日本食だ。そう口にして、牛肉、玉葱、卵と、あまり充実していない食材の中から、料理に使う材料を取り出してゆく。
「日本食ってニャんにするの、マサキ?」
「他人丼だな」
「他人丼? ニャあに、それ」
「鶏肉以外の肉を卵でとじたモンだ。結構美味いぞ」
日本米と比べれば少しばかり水分に乏しいものの、ラ・ギアスにも米はある。マサキは調理に取り掛かった。先ずは米を研がなきゃな。云いながらボウルの中に米を放り込む。
「マサキはいいけど、シュウは大丈夫ニャの、それ。日本食って、箸を使うんでしょ?」
「あんまり凝ったモンを作っても、あいつが食べるのに苦労するだけだろ。丼ものだったらスプーンでも食えるしな」
米を研ぎながら答えれば、二匹の使い魔はマサキがそこまで考えていたとは思っていなかったようだ。感心した表情になると、口々に感嘆の声を上げた。
「マサキにしては考えてるのニャ!」
「凄いのね!」
「お前ら、本当にいつか三味線にするぞ!」
いつだったか、地上に出たついでに、三味線の実物を知らない二匹の為に博物館に行ったことがある。本物を目にした二匹は、それはそれは衝撃を受けたようだ。綺麗になめされた猫の皮。猫の原形がなくなった胴に、彼らはマサキが三味線とひと言口にするだけで大人しくなるようになった。
「うう、三味線は怖いのニャ……」
「まだ剥製の方がいいニャのよ……」
研ぎ終えたコメは水を多めにして炊くことにする。炊飯器に米を移し替え、そのスイッチを入れたマサキは、続いてと玉葱に手を掛けた。
足元で震え上がっている二匹の使い魔を尻目に、玉葱の皮を剥く。買ったばかりと思しき玉葱だけあって、身は綺麗な乳白色だ。マサキは次いでまな板と包丁を取り出した。
皮を剥いた玉葱を二つに割って、薄切りにする。トントントンとキッチンに響き渡る包丁の音。その音に誘われたようだ。カウンターに乗り上がってきた使い魔たちが、不思議なものを見るような目でマサキの手元を覗き込んでくる。
「マサキって不器用ニャのに、料理は出来るのよね」
「知恵の輪が外せニャいのに、不思議ニャんだニャ」
「あれとこれとは絶対に身体の使う部分が違うだろ。てか、お前らそれ絶対に食うなよ」
「わかってるんだニャ」
「毎回マサキそう云うけれど、あたしたち魔法生物ニャのよ。それニャのに中毒を起こすのかしら?」
「わからないからこそ、食わない方がいいだろ。何かあったら俺じゃどうにも出来ないからな」
実際のところ、マサキは魔法生物である彼らがどういった構造をしているのかわかっていない。もしかすると彼らには生物と同じような内臓器官はないのかも知れない。いつでも元気な二匹の使い魔にマサキはそうも思うも、だからといって、自在に外見を変えられる生き物でもない。彼らが立派な猫の姿をしている以上、用心しておくに越したことはないだろう。
「しっかし、謎が多い生き物だよな。お前ら。ちゅーるには飛び付くしよ」
「あれはめちゃうまニャんだニャ!」
「本能には逆らえニャいのね!」
玉葱を切り終えたマサキは鍋に水と調味料を入れて火にかけた。そこに薄切りにした玉葱を投入して煮立たせる。ふと、懐かしい光景が脳裏にフラッシュバックした。あれはいつの日だっただろう? エプロンを着けた母親がキッチンに立っているのを見上げていた記憶……
きっと幼稚園ぐらいの記憶に違いない。自分が手にしている玩具を見たマサキはそう思った。
「人間って、いつの間にかでかくなるよな」
「ニャあに、それ。何だか自分が人間じゃニャいみたいニャ云い方ニャのよ」
昔はこんな風に両親が台所に立っていた。それを乞われてのこととはいえ、今度は自分が他人の為にやっている。そう考えると、如何に鈍感なマサキとて不思議な気分になったものだ。
今は偶に仲間たちに料理を振舞う程度だが、いつかは日常的に家事をこなす日も来るのだろう。マサキは現在の生活を支えてくれているプレシアの存在に有難みを感じながら、再びカウンターの前に立った。
玉葱が煮えるまでの間に肉の準備だ。
薄くスライスされた牛肉を食べ易い大きさへと切ってゆく。それを鍋に投入したら、今度は灰汁取り。細かく灰汁を取って具材を煮詰めていると、段々といい匂いがキッチンに充満してきた。
「かなり煮てるけど大丈夫ニャんだニャ?」
「焦がしたりしニャい?」
「まだこんだけ煮汁が残ってるんだぞ。それに、俺は玉葱がくたくたな方が好きなんだよ」
とはいえ、結構な時間を煮てしまっている。マサキはうっすらと色が付き始めた玉葱をフォークで突いてみた。すんなりと先端が入る辺り、煮え具合としてはいい頃合いなようだ。
マサキは卵を溶き始めた。
空気が入らないように溶いた卵。白身がざっくばらんに残っているが、荒さもまた味だ。鍋に溶き卵を回し入れたマサキは、少しだけ火を通したところでコンロを止めた。半熟の卵が食欲を盛大にそそる。
瞬間、マサキの腹が盛大に音を立てた。
いつの間にか空腹を覚えてしまっている自分に、それもそうだ。マサキは炊飯器に目を遣った。地上の炊飯器と比べると早く炊き上がるように出来ているのは流石の技術力だったが、それでも炊き上がるにはまだまだ時間がかかるだろう。
「腹が減った」
「マサキ、お昼ご飯食べてニャいんじゃニャいの?」
「そうなんだよな。朝食後直ぐだったもんな、チカが呼びにきたの」
「これで量が足りるのかニャ?」
「足りなかったら冷蔵庫の中のソーセージでも食う。そのぐらいはしてもいいだろ」
一度、寝室に戻って時間を潰すことも考えたが、猛烈に減った腹がマサキにキッチンから立ち去るのを躊躇わせた。とにかく米が炊き上がるのが待ち遠しくて仕方がない。マサキはカウンターの向こう側に置かれてる椅子に腰掛けた。そうして、二匹の使い魔と話をしながら米が炊き上がるのを待った。
シュウがどうやって実験事故を起こしたのか……そもそも彼の仮説は実現可能なものだったのか……話題の中心は目の見えないあの男だ。この場にいないのをいいことに、あれやこれや想像を逞しくしていると、やっと炊飯器が音を立てた。
「ピーピー云ってるのね」
「炊き上がったんだニャ」
ようやく炊き上がった米に、盛り付けを始める。
黄金色の他人丼は、マサキが自分で云うのも何だったがいい出来だ。食べるのが楽しみで仕方がない。いい加減くっつきそうな腹と背中に急かされるように、マサキは深皿に盛ったふたり分の他人丼を手に寝室に戻った。
気配でマサキが戻ってきたことに気付いたのだろう。ぼんやりと天井の明かりを見上げていたシュウが、マサキの方へと顔を向けてくる。
「待っていましたよ、マサキ」
「何だ。天井なんか見上げて。何か見えてるのか?」
「光があることぐらいはわかるのですよ。他は全くですがね」
「ああ、そういうことか。見えるようになったのかと思ったぞ」
キッチンまでシュウを連れてくることも考えたが、二人掛けとはいえ立派なテーブルセットがあるのだ。迂闊に彼を動かしてしまった結果、怪我でもさせてしまっては笑い話にもならない。この先も彼の目が見えないままであるのならまだしも、いずれは治るのだ。リスクは最小限に留めておいた方がいい。
ここでいいよな。マサキはシュウに尋ねた。彼もまた迂闊に動き回るのは避けたかったのだろう。ええ、と頷いて、「いい匂いですね」目の前に置かれた他人丼の匂いを嗅いでみせた。
「スプーンならお前も楽に食べられるだろ」
「気を遣ってくれたのですね。ところで、これは何です」
「他人丼。お前が食ったことがあるかわからねえけど、まあまあ美味いぞ」
マサキはシュウの手にスプーンを掴ませた。そうして彼が深皿の位置を片手で探り当てるのを見守った。
深皿の位置を確認したシュウが、先ずはひと口と他人丼を口に運んでゆく。
どうだよ? マサキは尋ねた。成程、だから他人丼と云うのですね。シュウは使われている材料で料理名の由来を覚ったらしかった。美味しいですよ。うっすらと口元に浮かんだ笑みに、満更でもなさそうだ――と、マサキも続いてスプーンを手に取った。そして思い切り他人丼を頬張る。美味い。口の中一杯に広がった甘じょっぱい味に、堪んねえな。マサキは顔を上げた。
「自分で云うのもなんだが、美味いな」
「思ったより、あなたは料理が出来るタイプなようですね」
腹が減っていたこともあったし、久しぶりの日本食なこともあったが、自分で作ったとは思えないぐらいに美味しい。これだったらもっと作っても良かったな。静かにひと口、ひと口よ咀嚼してゆくシュウの向かい側で、マサキはひたすらに他人丼を貪り食った。
決して品が良いとは云えない食べ方ではあったし、シュウの目が見えていようものなら、眉のひとつも顰められたに違いなかっただろうが、そういったことに構っている余裕はもうなかった。
「美味しかったですよ、マサキ。御馳走様でした」
マサキが深皿を空にしてから10分ほど。ようやくシュウが食事を終えた。
目が見えていないとは思えないほど、綺麗に中身を片付けられた深皿。その食器をキッチンのシンクに片付けたマサキは、すっかり暗くなってしまっている外に時計を確認した。そして、とうに夜と呼ぶに相応しい時刻に、寝室に取って返して、今日の風呂をどうするかをシュウに尋ねた。
「タオルで背中拭いてくれるだけで結構ですよ。髪でしたら昨日、テリウスに洗うのを手伝ってもらいましたしね」
「だったら先にシャワーを借りていいか。髪に付いた埃を洗い流したい」
「構いませんよ。浴室にあるソープ類は好きに使ってください」
シュウの許可を得たマサキは浴室に向かった。
大したことをしていないのに、怒涛の勢いで一日が過ぎていっているような気がする。恐らく、居慣れない家で過ごしているからなのだろう。思ったよりは広いバスルーム。空のバスタブを隣に、マサキはシャワーのコックを捻って熱い湯を頭から被った。
生き返る。ほうっと口から衝いて出た息。あまりの心地良さにバスに浸かりたくもなったが、他人の家でのこと。勝手にあれこれ使ってしまうのには躊躇いがある。
マサキはそのままさっと身体と頭を洗って、浴室を出た。そして洗面所でシュウの為のタオルと湯を用意する。
「早かったのね、マサキ」
「まあ、俺だけゆっくりシャワーを浴びるのもな」
「気を遣い過ぎニャ」
「いや、でもな。ここは俺の家じゃないしな。気を遣って損はないだろ」
湯が冷めない内にとそれらを手に急いで寝室に戻れば、変わらずにソファに腰掛けたままでいるシュウがチカと、マサキに清拭をしてもらうことについて会話をしているところだった。
「しっかし、いいんですか、ご主人様。マサキさんに身体を拭いてもらうって」
「背中だけですしね。他は洗面器を濡らしてもらえさえすれば、自分でやりますよ」
「潔癖ですもんね、ご主人様は。その柔肌の割にしっかり擦らないと気が済まないというか……」
「何だ? 俺が邪魔だって云うなら、席を外すぞ」
どうやら話に熱中していてマサキの存在に気が付いていなかったようだ。マサキの言葉にびくっと身体を震わせて、チカが飛び上がる。
「いるならいると云ってくださいよ、マサキさん。びっくりしたじゃないですか!」
「ちゃんと今、声を掛けただろ。ほら、シュウ。背中拭くぞ。こっちに座れって。それとも俺たちは席を外した方がいいか?」
慌てふためきながら宙を舞うチカを無視して、湯を張った洗面器とタオルをサイドチェストの上に置く。いいえと首を振ったシュウがソファから立ち上がる。こっちだ。マサキはシュウの手を取って、ベッドの端へと彼を連れて行った。
「少し待っていてください。今、上着を脱ぎますから」
そう云って、マサキに背を向けたシュウのシャツの下から白い肌が露わとなる。
よく女性の滑らかな肌を雪のようとは云ったものだが、それと張り合えるぐらいに際立った白さ。だのに程良く引き絞られた身体。妙にバランスを欠いた彼の裸体に、マサキは微妙な表情になる。
「予想はしてたが、恐ろしいぐらいに白いな」
「マサキの肌の色で割ってもお釣りが出そうニャのよ」
「おいらの毛の色と張るんだニャ」
元々、顔や手といった露出している部分の肌にしても、白磁のような色艶をしている男だ。日に当たらない部位が更に白いのも頷ける。
だのに、何か言葉を続けたいのに、上手く言葉が出てこない。面食らうとはこういった状態を指すのだろう。指先でベッドの縁を探り当てて腰を落としたシュウの背中に、マサキは黙って濡らしたタオルを押し当てた。
「肌を露出するのが好きではないのですよ」
「暑かろうが関係なしだもんな。お前のその祭司服。少しぐらい焼けよ。不健康に見える」
「あなたは健康が服を着て歩いているような肌の色をしていますからね」
どうあっても焼くのは嫌とみえる。話をはぐらかしにかかったシュウの背中を拭いてやりながら、マサキは言葉を続けた。
「焼かないのはアレか。宗教的な理由か」
「まさか。精霊信仰にそういった戒律はありませんよ。個人的な事情です」
「個人的な事情ね。まあ、嫌だっつうもんを無理に脱がせて焼かせるのもな」
うなじから背骨、そして肩甲骨。少し強めに擦ってやると、気持ち良く感じているようだ。幾分上機嫌な声で、「読書や研究ばかりしていると、身体が硬くなるのですよ」シュウの口から言葉が洩れる。
「運動不足なんじゃねえの?」
「トレーニングはしているのですがね」
「やりゃあいいってもんじゃねえだろ。ストレッチも大事だぜ」
肩甲骨から下がって腰骨に脇腹。云われてみれば、マサキの身体よりも硬いように感じられる。きっと、必要以上には身体を動かさない生活をしているのだろう。ある意味こいつらしい――。マサキは呆れながら、タオルでシュウの身体を擦った。
「ひと息ついた時などにやってはいるのですが」
「足りねえんだよ、そりゃ。お前、どれだけの時間机に向かってるんだ」
「長ければ三日程は」
「馬鹿じゃねえの」
シュウの背中を拭き上げたマサキは、タオルを洗面器の中に放り込んだ。
そして両手をシュウの頭に置く。
「お前みたいに机に向かってる時間が長い奴は、ここをマッサージするといいんだよ」
「頭、ですか。確かに髪を洗うと気持ち良くは感じますが」
「俺も理屈は良くわからねえんだがな。ヤンロンが云うにはここをマッサージでほぐしてやると、血の巡りが良くなるんだってさ」
頭頂部に近い位置にあるうなじを指の腹で押すと、かなりの硬さだった。マサキは開いた指を彼の髪の中に埋めた。頭頂部から側頭部へと向かって、ゆっくりと頭皮を揉みほぐしていく。
「目の疲れが溜まってるんだろ。俺とは比べ物にならないぐらい硬いぞ、お前」
「そうかも知れませんね。読書をしたからといって、マッサージをしてきた訳でもありませんし」
「少しはやれよ。身体が凝ると、思うように動かせないことも出てくるんだからよ。いざって時に日頃の不摂生が祟ってピンチに陥ったじゃ笑い話にもならねえだろ」
側頭部が終われば後頭部だ。うなじに向けてマッサージをしながら、指を徐々に襟足に向けて下ろしてゆく。
かなり血の巡りがわるかったようだ。しっとりと汗を掻き始めた肌。ほう……と、シュウの口から溜息にも似た吐息が洩れる。
「顔が熱くなってきましたよ。汗を掻いているのが自分でもわかります」
「テュッティが云うには表情筋のマッサージも効くらしいぜ」
「確かに。長く読書をしていると、頬の上の辺りが強張る感覚がありますね」
「だろ。長く研究者生活を続けたかったら、その辺りのメンテナンスはしっかりするんだな」
最後に襟足周りを念入りにマッサージする。
元々肉が少ないこともあるが、それを差し引いてもかなり硬い。筋張っているというよりは、完全に血行が悪くなって凝ったという感じた。マサキは丹念に彼の凝った襟足を揉みほぐしていった。
いつしか柔らかさを増した肌。そろそろ充分だろうと、そこでマサキはシュウの頭から指を離した。
どうやら頭が軽くなったように感じられているようだ。首を左右に傾けたシュウがすっきりした様子で言葉を吐く。
「あなたの優しさに感謝しなければなりませんね、マサキ」
「本当にな。俺がお前に施すなんて、一生に一度ぐらいしかないぞ」
「この借りは必ず返しますよ。いつか必ず」
そう云ったシュウの手が、何かを探すように周囲を彷徨い始めた。タオルか? マサキは尋ねながら洗面器の中に浸けておいたタオルを絞り、シュウの手に掴ませてやった。
「見えないということは、思った以上に不自由ですね。この程度のことも自分では出来なくなるとは」
「でもまあ、一生じゃないんだ。少しの間の辛抱だろ。医者はいつぐらいだって云ってたんだ?」
「明日、明後日ぐらいには回復するだろうという話でしたが、さて……」
顔を拭い、首周りを拭き、腕へとタオルを滑らせてゆくシュウの背中を眺めながら、マサキはベッドの上で、「明日ねえ」と呟いた。
医者の見立てはあくまで予想だ。もしかすると回復が進むかも知れなかったし、その逆で回復が遅れるかも知れなかった。いずれにせよ、自分がいる間のシュウは視力に難を抱えた状態のままだろう。マサキはぼんやりと明日の朝食をどうするか考えた。シュウの為にも楽に食べられるものにしてやらなければ。
「お願い出来ますか、マサキ」
後ろ手にタオルを差し出してきたシュウからタオルを受け取ったマサキは、洗面器でタオルを洗い、最後に脚を拭くつもりでいるらしいシュウに、再びタオルを掴ませた。
「ニャんだかチームワークばっちりニャのよ」
「まるでとうが立った夫婦ですね、ええ!」
「何だお前ら。焼き鳥と焼き猫になりたいのか?」
「おいらニャにも云ってニャいんだニャ!」
「日本には連帯責任って言葉があるんだよ」
ただ見ているだけなのも退屈らしい。茶々を入れてくるようになった使い魔たちに、適当に応じてやること暫く。どうやら満足ゆく程度には身体を拭き終えたようだ。タオルをマサキに渡して立ち上がったシュウが、ベッドの端に置いた服を指で探し始めた。
「お前、俺に声を掛けろよ。ほら、これだろ」
マサキはベッドの上からシュウが脱いだ服を取り上げた。上質な布で作られた衣装は手触りからして違う。高そうな服だ。マサキはぽつりと洩らしたが返事はない。仕方なしにシュウに服を掴ませてやる。
「手間をかけますね、マサキ」
重罪人の咎を受け、市井の人間に身をやつすようになっても、シュウは自身の身の上に対する誇りは捨てていないのだろう。マサキは指に残る衣装の柔らかな感触にそう思った。
「次はねえぞ」
「そうならないように気を付けますよ」
「どうだかな。お前は望む望まざるとトラブルに巻き込まれ易そうな星回りに生まれ付いてそうだしな。何にせよ、俺をあまり巻き込むなよ。俺だっていつも身体が空いてる訳じゃないからな」
「あなたに頼るのは最後の手段にしているつもりですが」
「お前は俺を駆り出すレベルの非常事態を起こし過ぎだ」
マサキの言葉にシュウが肩を竦める。その肌が目に入ったマサキははっとなって目を見開いた。右胸から鎖骨まで走る裂傷の痕。かなり深く何かで抉られたようにも見える痕は、彼の肌の色が白いだけに際立って映る。
もしかすると彼が肌を晒したがらないのは、この傷痕の所為なのだろうか? マサキは不思議なものを見るように、シュウの胸の傷を眺めた。
戦争請負人とでも云うべき立場にいるマサキの身体には、大から小までの様々な傷痕があった。ひとつの戦いを終えればひとつの傷が残される。まさかな。マサキは首を振った。そうして付いたたったひとつの傷痕を気にして肌を晒すのを躊躇うなど、幾度となく戦場に赴いていった男にしては小心に過ぎる。
「何も聞かないのですね、あなたは」
「何がだよ」
指先で服の向きを確認しながら着替えを進めていたシュウが、不意に口を開いた。この胸の傷――、と彼が口にしかけたところで、聞いてはならないことを彼が口にしようとしている気がして、マサキは咄嗟に言葉を放ってしまっていた。
「戦ってりゃ大なり小なり傷は付くだろ。俺にも消えない傷が幾つかあるしな」
その言葉はシュウにとっては思いがけないものであったようだ。微かに見開かれた瞳。虚を突かれた表情になった彼は、次の瞬間、顔を伏せるとふふふ……と声を抑えながら笑い始めた。
「その通りですよ、マサキ。全くその通りです」
マサキはその瞬間、シュウの傷が戦いで付いたものではないのだと覚った。けれども今更気付いたところで遅きに失す。理由を尋ねる機を逃してしまったと思うも、とはいえプライドの高い男のことだ。訊いたところで答えは返ってこないことだろう。
多分、これで良かったのだ。
そう自分を納得させたマサキは、シュウの着替えが終わるのを黙って見守った。マサキの二匹の使い魔も、同じように考えたようだ。突如として静まり返った室内に、やっぱりマサキさんって凄いんですね。何故か感心した様子のチカの言葉が響いた。
※ ※ ※
それから夜更けまで、マサキはシュウとの他愛ない会話に時間を費やした。
さして共通点などないのに尽きぬ話題。時折、一羽と二匹の使い魔が口を挟んできては、更にまた話が広がってゆく。最初にどうすればいいのかと案じていたのが嘘のようだ。心地良く耳を満たす会話の数々に、マサキはすっかり寛いでしまっていた。
だからといって無限に話をし続ける訳にもいかない。気付けば日付も変わる時刻となった時計。その秒針が時を告げる鐘の音を呼び寄せるのを見届けてから、「そろそろ寝るか」とマサキは云った。
リビングのソファで寝ると云ったマサキに、シュウは寝室のベッドで一緒に寝るよう勧めてきた。キングサイズのベッドはふたりで寝ても余るぐらいの広さはあったが、男ふたりで枕を並べるのには抵抗がある。決して寝相が良くないマサキとしてはひとりで寝る方が気が楽だ。何より、シュウと話していたチカの言葉が気にかかって仕方がなかった。
――潔癖ですもんね、ご主人様は。
シュウの潔癖の度合いがどのくらいかはわからなかったが、そう云われれば思い当たる節が幾つかあった。彼はたった一冊の書物であろうと、自分の持ち物を容易に他人には触らせようとはしなかった。グランゾンにしてもそうだ。整備士がいようと愛機の整備や改修は自分の手で行ってみせる。
それが彼の潔癖な部分の表れであるのだとしたら、如何にマサキに気を遣ってのこととはいえ、ベッドに招き入れるなど苦行に値する行為ではなかろうか。そう思ってマサキが遠慮をしてみれば、「夜中にトイレに行くのにひとりでは困るのですよ」と、シュウは尤もな台詞を吐いてくる。
確かに幾ら歩数を覚えているとはいえ、目の見えないシュウが、ひとりで暗がりの中をトイレに向かうのは無理がある。これも俺が呼ばれた理由のひとつか。そう覚悟を決めたマサキは、何かあったら起こせよ。そう云って広々としたベッドの中に入った。
天井の桟にチカ、ベッドの足元にシロとクロ。そしてベッドの左隣にはシュウ。しんしんと降り積もるような静けさに満たされた寝室は、窓からの薄明かりが眩く感じられる程度には暗かった。
輪郭も不確かにぼんやりと照らし出される室内。そろそろ使い魔たちが眠りに就き、その寝息や寝言が聞こえてくるようになった頃。寝心地の変わったベッドにマサキが寝付けずにいると、まだ起きていますか、マサキ。と、囁くような声がひっそりと耳に潜り込んできた。
「何だよ、シュウ。お前もまだ起きてるのか? さっさと寝とけよ。起きたら見えるようになってるかも知れないぞ」
「目を開けても閉じても暗がりの中にいるからか、寝付くまでに時間がかかるようになってしまったのですよ」
「あー……」マサキは天井を見上げた。「そりゃそうだよな。お前にとっちゃずっと同じ景色を見てるのと一緒だもんな」
今更に彼が置かれている境遇に同情心が湧くも、使い魔が眠りに就いてしまった今となっては、改めて明かりを点けるのも憚られたものだ。どうしたもんかな。マサキはこの状態で何をすればシュウが穏やかな眠りに就けるかを考えた。
「昨日もかなりの時間を寝付けずにいたものですから、ひとつの公理が解けてしまったぐらいで」
「よくわからねえが、そのぐらいに物を考える時間があったってことだな」
「忘れない内にメモを取りたいのですが、この状態ですからね」
「俺には無理だぞ。お前が取り組むような難題の答えの口述筆記なんて」
「わかっていますよ」
頬に当たる空気が震えているのは、シュウが声を殺して笑っているからだ。
何が可笑しいのかマサキには不明だったが、今日のシュウは実に良く笑う。昼下がりの会話にしてもそうだったし、食事の時間にしてもそうだった。いつもよりも穏やかにマサキと言葉を紡ぎ合った彼は、やれば出来るのだと思えるぐらいに優しい。
いっそこのまま彼の話に付き合い続けようか。マサキは思った。そうすればどこかでシュウも満足して眠りに落ちることだろう。マサキがそう覚悟を決めた瞬間だった。マサキ。と、シュウがマサキの名前を呼んだ。
「あなたは今どの方向を向いていますか」
「天井だよ。天井を見上げてた。どうしたらお前が眠れるかって考えたんだ」
「その邪魔をするようで申し訳ありませんが、少しでいいですから、私の方を向いてはくれませんか」
「何だよ。向いてもお前にはわからないだろ」
云いながらマサキはシュウの方へと顔を向けた。ぎしりとベッドが軋む。その音で気付いたようだ。シュウの手がブランケットの中から這い出てきたかと思うと、マサキの顔をなぞり始めた。
輪郭を辿るように、頬。瞳の形を見るように、瞼と眉。そして、鼻筋を辿って下りてきた彼の指先が、微かに荒れている口唇へと忍んでくる。何がしたいのかわからない。マサキは黙ってシュウの指に身を任せた。
「……指で見るあなたの顔はこういった形をしているのですね」
まるで二度と見ることのないものを愛でるように、彼の指が口唇をなぞり続けている。
落ち着かない。マサキはそう思うも、止めろというのも躊躇われる。
「思ったよりも彫りが深い。勇ましい顔立ちをしている」
やがて、ふとシュウの指の動きが止んだ。ゆっくりとその顔が近付いてくる。
マサキは咄嗟に顔を引いた。そのうなじにシュウの手が回され、自らの方へと引き寄せてくる。直後、重なった額に、何だよ――、とようやくマサキは声を出した。
「あなたの顔が見れなかったことがこんなに寂しく感じられたのは、今日が初めてでしたよ」
暗がりに潜むシュウの表情はマサキには見えなかったが、低く押し殺したような彼の声は確かに寂しそうだった。
何が彼をして感傷的にしているのか。マサキにはわからない。ただもしかすると、今日という日がシュウにとっては、マサキ同様に楽しいものであったのかも知れないとは思った。
だからこそ、マサキは彼を慰めようとした。
どうせ直ぐ見えるようになるんだ――と。けれども、その台詞をマサキは云えなかった。
柔らかな肉の感触。口唇に触れてきた温もりが、シュウの口唇であると気付くのには少しの時間が必要だった。次第に脳が落ち着きをみせ、状況の把握が出来るようになると、何故か嫌悪感ではなく安堵感に包まれた。
今日は有難う、マサキ。僅かな時間で剥がれた口唇が、そう感謝の意を述べる。
素直にそう云われてはマサキに返せる言葉もない。けれども、今のは。確かに感触を残している口唇に、どうすればいいのかマサキは迷った。何か云うべきなのだろうか? だが、シュウはその言葉を最後に眠るつもりらしかった。
「おやすみなさい、マサキ。また明日」
優しい声で耳元で囁いてきたかと思うと、シュウの身体がベッドの端へとシーツを滑るように移動していく。そして、そのまま眠りに就いたようだ。程なくして静かな寝息が背中越しに聞こえてきた。
※ ※ ※
開けて翌日。シュウの目はどうやら視界を取り戻したようだった。
世話をかけましたね、マサキ。何事もなかった様子でマサキより先に起きてキッチンで朝食の準備をしている彼に、マサキは釈然としない思いを抱えつつも、きっとあれは気の迷いだったのだ。そう結論付けて、自身もまた何事もなかった態で食事を摂った。
三匹の使い魔の目を盗んで行われた、たったひとつの口付け。
マサキは賑やかな朝食の席で、ぼんやりと考えていた。あれはどういった意味の下に行われたものだったのだろう。
その意味を尋ねる機会は恐らくもうない。シュウ=シラカワという人間は、自身が説明した以上の疑問に答えることを滅多にはしないのだ。そうした彼を相手に、わざわざほじくり返してまで尋ねたいとは思わない。
「では、マサキ。世話になりましたね」
「迷わずに帰るんですよ!」
長かった一日の終わり。マサキたちはシュウとチカに見送られながら、サイバスターに乗り込んだ。そして、一日ぶりの我が家へと。マサキは二匹の使い魔とともに帰途へと就いた。