二人で一からはじめよう

 酷い喧嘩をしてしまった。
 三ヶ月ぶりの大喧嘩に家を飛び出して行ったマサキを案じながら、シュウはソファの上でひとり、どうすればこういった事態を二度と起こさずに済むものかと考えていた。
 マサキ=アンドーという人間は、終わった話を蒸し返されたり、同じ忠言を繰り返されることを嫌う。
 しかも感情的になり易く、激高し易い。
 前者はさておき、後者は魔装機神操者には必須の資質でもある。故に、彼のそういったナイーブな一面を寛容に受け止めてやるのも年長者としての務めであるとシュウは思っているのだが、時に話を大きく飛躍させたり、時に関係ない話と結び付けて非難を始めるマサキに物を云い聞かせるのは至難の業だ。
 特に彼は、シュウの冷静さを嫌う傾向がある。
 自身の挑発に対して、理路整然とその論の欠陥を述べ立てられるのが堪らなく嫌なのだそうだ。それがシュウには理解出来ない。ただ、マサキの気持ちを慮ってやりたいという気持ちはある。あるからこそ、そうした噛み合わなさをわかっていながら毎度同じ過ちを繰り返してしまう自身に、シュウは歯噛みしてしまうのだ。
 始まりは些細なことだった。
 三日ほどシュウの家に泊まり込んでいる割には、トレーニングらしいトレーニングをする気配のないマサキに、シュウはそろそろ身体を動かしてはどうかと剣の稽古を勧めた。それを笑って受け流したマサキに重ねて云ったのが良くなかったようだ。
 ――誰の所為で身体がまともに動かないと思ってるんだよ。
 恐らくは、虫の居所も良くなかったのだろう。憮然とした表情で云い放ったマサキに、そこまでの無理を強いたつもりではなかったシュウは、私があなたを労わってないとでも? と、ついついきつい物云いをしてしまった。
 喧嘩のきっかけなどいつもその程度のことだった。家の壊れた鍵を直す直さない。家に帰れいや帰らない。そして始まるマサキの飛躍した理論を根拠とした反論。大体お前はから始まるマサキの非難の言葉を、いなせるだけの余裕をシュウが持てばいいだけの話なのはわかっている。
 だのに止まらない理屈の応酬。
 それはやがて売り言葉に買い言葉の口喧嘩に発展し、顔を見るのも口を利くのも嫌だと思わせるほどに、マサキの心を追い詰めてしまうのだ。
 全く不合理だ。シュウは自らの幼さに溜息を洩らす。
 三日もいたぐらいだ。家を飛び出したついでに、マサキが王都に戻ってしまう可能性は低くない。
 シュウはソファから立ち上がった。そして周囲を見渡した。ソファの上で開きっ放しになっている読みかけの雑誌、背もたれに引っ掛けられたままの上着、冷蔵庫の中に眠る食べかけの菓子……部屋に残る彼の痕跡を、いつまた訪れてくるかもわからないからこそ片付けなければ。そう思って、先ずは雑誌と手を付けた瞬間だった。
 カタン、と玄関扉が開く音がした。
 そうっと扉を開いたに違いない。続く小さな足音は、マサキが感じている気まずさの表れだ。
 喧嘩の後はいつもそうだ。静かに家に帰ってくるマサキを、シュウは幾度何事もなかった振りをして家に迎え入れただろう。意気消沈したような表情。程なくしてリビングに姿を現わしたマサキに、お帰りなさい、マサキ。シュウは努めて穏やかに声を掛けてからキッチンへと向かった。
「何を飲みますか」
「アイスティーがいい」
 謝罪の言葉など必要なかった。些細な行き違いで起こった喧嘩をいつまでも根に持って、ひたすら相手が折れるのを待つような根競べをするほど、マサキもシュウも幼稚な精神性を有していない。そう、マサキもシュウもそのぐらいには歳を取り、そのぐらいには相手を思い遣ることが出来るようになった。
 反省することを覚え、相手を許すことを知り、昨日よりも明日の自分と成長を重ねてゆく。だからシュウもマサキも、謝罪の言葉がなくとも、喧嘩の前の時間の続きから再び始めることが出来るようになったのだ。
 それはもしかすると、他人の目からすれば、臭いものに蓋をしているだけのように映るやも知れない……シュウはマサキの為にアイスティーを用意してやりながら、馬鹿々々しい。と、その自らのくだらぬ物煩いを払拭した。
 他人に在り方を決められるほど、マサキもシュウも未熟な人生を送ってはいなかった。激動の日々。地上に召喚されたばかりだった少年も、今や立派な青年となった。シュウもまた、その時間の分だけ歳を重ねている。敵として、そして味方として、幾度も同じ戦場に立ったマサキとシュウは、その経験の分、独りよがりだった自分を捨ててきた。
「後で散歩に行かないか」
「珍しい。あなたがそういった風に私を誘うなんて」
「死ぬほど空が綺麗なんだ。いつもと変わりない空の筈なのに、凄く色鮮やかに見える」
 濃い目に淹れた紅茶を、氷で満たしたグラスに注ぐ。出来上がったアイスティーをマサキに渡せば、どこぞか走回りでもしたのだろうか。半分ほど一気に飲みくだしたマサキが、青葉の頃を思わせる爽やかな笑顔を浮かべた。
「風も気持ちがいいんだぜ。涼しくて気持ちのいい陽気だ」
 マサキの言葉に、シュウは窓の外を見遣った。厚く白い雲が勢い良く流れてゆく空。今日のラングランの気温は少しばかり暖かい。夏ほどとまではゆかなくとも、マサキがジャケットを脱いで半袖になるぐらいの陽気。
 じきに夏が来る。
 シュウは目を伏せた。肌を露出させたくないシュウとしては、一年で一番不快な季節であった筈の夏。けれどもそれが、今では愛おしさすら感じるまでに好きになっている。
 それもこれもマサキがそこにいるからだ。
 活動的なマサキに一番似合う季節の到来が間近に迫っている。溌溂と動き回る彼の姿は、世界が色を増し、景色を鮮やかに彩る季節にこそ相応しい――。
「いいですよ。空を眺めに行きましょう。あなたと一緒に」
 シュウは目を開いてマサキを振り返った。
 瞬間、いつの間にそんな表情をするようになったのかと思うほどに、柔らかで穏やかな笑みがマサキの顔を彩った。
「その前にアイスティーを飲んでしまいましょう。時間が経つと美味しくなくなりますからね」
 そこに先ほどまであった蟠りはもうない。こうして何度でも、そう、何度でも、シュウはマサキと一緒に、一からふたりの時間を積み重ね直してゆくのだ。それは崩れた積み木をまた積み重ねるように。
 ありがとう、シュウ――と、弾む声でマサキが云う。
「何もあなたにお礼を云われるようなことはしていませんよ」
 マサキの言葉に微笑んだシュウは、彼と久しぶりの散歩に出るべく、手にしたアイスティーのグラスを口元に近付けていった。