可愛いひと

「残念ですね、マサキさん! ご主人様は先程研究を終えて、ソファに倒れ込んだばかりですよ」
 勝手知ったる他人の家であるシュウの家に上がり込んだマサキは、リビングから飛び出してきたチカの言葉に眉を顰めた。
「何徹目だ」
「今回は控えめですよ。三徹です」
 趣味が研究と云い切る男は、寝食忘れて研究に励むことが良くあった。
 サプリメントを片手に研究室に篭るぐらいならばまだいい方で、十分程度の仮眠で五日間ぶっ通しで研究を続けたこともあった。流石にその時のシュウは、研究室を出たところで力尽きたらしい。チカの呼ぶ声にも反応せず、床の上で昏々と眠り続けること丸一日。偶々家を訪れたマサキに発見された彼は、いい加減にしろと怒ったマサキに対して、「睡眠時間の帳尻は合っているのですから」と、涼しい顔で云ってのけたものだ。
「飯は」
「いつも通りにサプリメントです」
 絶望的なチカの返答に、表情を険しくしながらマサキはリビングに入った。
 三徹後とは思えぬほど静かな寝息。チカの倒れ込んだという台詞はあながち間違ってもいないのだろう。ソファに伏して眠りに落ちているシュウのだらりと下がった腕を取り上げながら、おい、シュウ。マサキは彼の名を呼んだ。
「ここで寝るんじゃねえよ。風邪引くだろうが。ほら、ベッドに行くぞ」
 担ぎ上げようとすれば、流石に目を覚ましたようだ。ぴくりと肩を震わせたシュウが顔を上げる。
「ああ、あなたですか。マサキ……」
 生彩を欠いた瞳。その濁った輝きが、彼が襲われている睡魔のほどを表している。
 だのにベッドに向かう気はないようだ。マサキの手を振りほどいたシュウが、続けてソファの上で寝返りを打つ。気だるそうにマサキを見上げるシュウの表情は、今にも再び眠りに落ちてしまいそうだ。
 いい加減にしろよ。シュウを睨めつけながら、マサキは言葉を継いだ。
「三徹な上に、碌に飯も食ってないってチカから聞いたぞ」
「人生の尺度からすれば誤差ですよ。平均すれば睡眠も食事もきちんと取れています」
「誤差? 誤差な筈があるか。お前、何度目だと思ってるんだよ、こういうの」
 マサキは再度、シュウの腕を掴んだ。ほら、起きろって――そう口にしながらシュウの身体を引っ張り上げようとするも、強情で意地っ張りな男は云うことを聞く気がないようだ。逆に腕を引くとマサキを自分の胸の上へと導いてくる。
 仕方なしにマサキはシュウの胸の上に伏せた。
 先ずはこの男を鎮めなければ。
 趣味だと云い切る割には、研究が一段落つくと解放感を感じるらしかった。そこかしこで寝てしまうシュウは、体調を案じるマサキの言葉を悉く退けた。恐らくは、難題をクリアしたという達成感が後押しをしているのだろう。そうでなくとも自信家な彼は、自分に対する自信を更に深めてしまっていた。
 それは能力に限らず、健康も含まれる。
 偏った食生活を送っておきながら何を云っているのかとマサキは思うが、シュウ自身は至って真面目に自らの健康が優良であると思っているようだ。でなければ健康を案じるマサキの忠告を何度も無碍にはしないだろう。そう、シュウ=シラカワという男は、そういった意味で非常に扱い難い男だった。
 一種の万能感に浸っている彼に云うことを聞かせるには、その機嫌を取ってやるのが一番手っ取り早い。だからマサキはシュウに身を任せた。そして自らの髪を撫でているシュウにさせたいようにしてやりながら、彼をベッドに運び込む機会を窺い始めた。
「今日のあなたはいつにも増して可愛らしく映りますね、マサキ」
「お前なあ……俺は男だぞ。可愛い可愛い云われても、嬉しくもなんともないだろ」
「私のことを心配せずにいられないところなど、私には可愛く見えて仕方ありませんよ」
 マサキの身体を持ち上げたシュウが、頬を撫でてきながら額に口付けてくる。
 誤魔化されないからな。そう呟きながら、口喧しい使い魔の姿を探して目を動かす。マサキの二匹の使い魔は、チカとの会話の時点でセンサーが働いたようだ。厄介事を避けるように、リビングの向かいにあるキッチンに逃げ込んでいる。そこに混ざるつもりでいるのか。こそこそとリビングから出て行くチカの後姿に、マサキはほっと安堵の息を吐いた。
 ここから先も続くだろうシュウの甘ったるい台詞の数々を、チカにだけは聞かれたくない。何かの折に持ち出しては、マサキを弄り倒すチカ。彼がいなくなったことで幾分気が楽になったマサキは、相変わらず額だの頬だの目尻の際だのこめかみだのと、届く範囲の全てに口付け続けているシュウに視線を移した。良く出来た彫刻のように端正な面差し。普段は美丈夫を地でゆく男は、何故かマサキを傍にすると調子を盛大に崩す。
「今回はどれだけここにいてくれるの」
「さあな。飯の支度もしなきゃならねえし、掃除や洗濯も片付けねえとな。かといって、それで終わりじゃ何の為に来たのかわかりゃしねえだろ。まあ、いつもと一緒だ。その気になったら帰る」
「本当に可愛らしい」
 発作的に感情が高ぶったようだ。マサキの身体を抱え込んだシュウが、髪に顔を埋めて大きく息を吸った。
「いつもいつも甲斐甲斐しく私の世話をしてくれるあなたには、感謝をしても足りませんね」
「そう思ってるんなら云うこと聞けよ。いつも我儘ばっか云いやがって……」
「そういったあなたも可愛いからですよ」
「人の困った顔を見たい、みたいなことを云いやがる」
「それは勿論」クックと嗤い声を上げたシュウが、マサキの顔を覗き込んでくる。
「笑ったあなたの顔も、怒ったあなたの顔も、拗ねたあなたの顔も、全てが可愛く見えて仕方がない」
「何だよ、本当に……お前、今日はいつにも増して恥ずかしいことを口にするじゃねえか」
「そうでしょうかね」
 日頃は余裕たっぷりにマサキの勝手にさせている男は、存外執着心と占有欲が強いらしかった。日頃は大っぴらにすることはなかったが、酔ったり睡魔に襲われたりして理性の箍が緩むとそれが露わとなる。今になってマサキを手放そうとしないのも、そうした感情が表に出てきているからなのだろう。
「いつもあなたに出来るだけ伝えているつもりではいるのですが。それとも、あなたはこのぐらいでは足りない?」
「足りるどころか過剰に感じるけどな」
「私は云い足りないのですよ。ねえ、可愛い私のマサキ」
 自身を立派な成人男性だと自認しているマサキは、シュウのこうした自身への扱いを、諸手を挙げて受け入れられはしなかったが、それらが自らへの愛おしさからくる行動だということは理解している。時に鬱陶しく感じることもあれど、彼のなずがままでいるのは、マサキもまたシュウ=シラカワという男を愛おしく感じているからだ。
「ひとつだけお願いがあるのですが」
「何だよ」
「私が帰っていいというまでここにいて」
「馬鹿か、お前。それじゃあ俺、一生帰れねえじゃねえかよ」
 それにシュウは答えない。ただ、眠たげな瞳でマサキの顔を見詰めるばかり。
「わかったよ。いるよ。いればいいんだろ」
 その返答で満足したらしかった。ベッドで寝ますよ、マサキ。そう云って、マサキを抱えたまま身体を起こしたシュウは、どうやらマサキと一緒にベッドに入るつもりでいるようだ。抱き締める腕を解くことなく立ち上がった。
 ――仕方のねえヤツ。
 続けて抱え上げられた身体に、マサキは両手を彼のうなじに置いた。食事の支度だの掃除だの洗濯だの、やることは山積みだったが、こうしなければベッドに入らないというのであれば仕方がない。マサキはシュウにしがみ付いて、彼とともにベッドルームへと入っていった。

リクエスト
「シュウさんが酔ってるか、寝ぼけてるかして、マサキの頬をもちもち揉んだり、髪をスンスン吸ったり、顔中にチュッチュッとバードキスをしたり…。とにかく意識がぼーっとしてるシュウさんがマサキを“可愛い可愛い”と愛でる」