戦場で口にするにしては高級な茶葉の香りがする。
長く続いた戦闘で汚れたコントロールルームを出て、他の魔装機操者たちと寄り集まって食事を終えたマサキは、食後の一杯とミオから渡されたアルミ製のマグカップを手にした瞬間に、そこから流れ出てきた匂いを嗅いでそう思った。
どこかで嗅いだことのある匂い。頻繁に新しいフレーバーを試すテュッティにいつか飲まされた紅茶のいずれかだろうか。そうは思ったものの、かなり特徴的な香りだ。ゼオルートの館で毎日のように開かれている茶会で口にしたものだったら、いかに舌が貧しいマサキであっても即座に思い出せそうである。
――この香りは……
一度飲んだら忘れられそうにない匂い立つ茶葉の香り。それを自分は何処で嗅いだのか。マサキはそっとマグカップに口を付けると、普通の紅茶と比べると色の薄い液体の味を確かめるべく、ひと口ばかり口に含んでみた。
「蓮の花、だよな」
口の中にじんわりと広がる風味に、記憶を呼び覚まされたマサキは、反射的に言葉を発していた。
「あら、マサキ。知っているの?」
どうやらその茶葉を用意したのはテュッティであったようだ。意外といった表情で対面からマサキの表情を窺ってくる。
彼女曰く、何処の紅茶専門店でも少量しか入荷しないが為に、いつ訪れても品切れだったフレーバーを、今回の出動前に奇跡的に手に入れることが出来たのだそうだ。ところがそれを茶会で出すよりも先に任務が発生してしまった。それだったらいっそ任務の息抜きに使おうと考えた彼女は、その貴重な茶葉を戦場に持ち込むことにしたのだとか。
「勿体ねえことをするな。これ、相当に高い茶葉だろ」
「普通のフレーバーの三倍の値段になるわね」
よもやそんな値段であったとは思ってもいなかったようだ。既に紅茶を飲み干してしまっていたミオが、そんなにするの!? と声を上げた。すぐさま物惜しそうに空になったマグカップを覗き込んだ彼女に、ちらとだけ視線を投げかけたヤンロンがさもなんと頷く。
「そうだろうな。普通の紅茶とは味も香りも違う。自然な風味だ」
「かかっている手間が凄いのよ。蓮の花を手摘みして、茶葉に混ぜる雄しべの先のガオゼンを取り除くらしいのだけど、百グラムの茶葉に使用するガオゼンを集めるのに蓮の花が百本必要になるとかで」
「百グラム百本!? ひええ……」
「茶葉そのものも二年間寝かされたものが使用されているのよ。中々入手出来ないのも納得でしょう」
「いやあ、凄い。でも、よくマサキが知ってたね」
自分でも不思議に感じていたその理由を、マサキはテュッティの話を聞く内に思い出してしまっていた。それはかつては王族のみが飲むことを許されていた特別で高級な茶葉だった。そう説明しながら蓮の花のフレーバーが特徴的な紅茶を、他のフレーバーティーと交互に、マサキに口移しで飲ませてきたのは何処の誰だったかを。
※ ※ ※
蓮の花が最盛期を迎えて半月も経つと、その年の蓮茶が市場に出回るようになる。王宮で口にした選りすぐられた蓮の花で作られた最高級の茶葉には及ばないものの、そのままでも舌を満足させるには充分な出来である蓮茶を、馴染みの紅茶専門店でどうに入手したシュウは、これが今年最初で最後の蓮茶になるだろうと思いながら自宅へと持ち帰ると、早速その味を愉しむことにした。
かかる手間もあり、僅かな量しか市場に流通しない茶葉。高級茶葉に分類されるからには、されるだけの理由があるものだ。その茶葉を丁寧に時間をかけて蒸したシュウは、最初のひと口を口に含むと舌先で転がすように味わった。
期待通りの味に、今年の蓮茶も出来がいい――そう思いながら、今年最初の蓮茶を存分に味わったシュウは、ティーセットを片付けながら、去年の蓮茶に纏わる出来事に思いを馳せた。
今年と同様にシーズンの始まりと同時に蓮茶の茶葉を手に入れたシュウは、半分をモニカとテリウスに分け与え、残りを自分の分とすることにした。手元に残った茶葉のさしたるものでもない量に、シュウは噛み締めるようにたった一杯の蓮茶を日々味うこととした。その茶葉が残り数杯の蓮茶を淹れるだけの量となったところで、計ったように自宅に来訪したのがマサキだ。
僅かに残った茶葉をひとりで飲み切るのも興がない。だからこそ、他に来客のないシュウの家の唯一の客人たるマサキに、偶にはそれらしいもてなしをしようと思い立ったシュウは、希少なその茶葉を惜しみなく使い切ることにした。そう、彼にわかり易く由来を説明してやりながら……。
それが口移しでの飲み比べになってしまったのは、シュウのちょっとした茶目っ気だった。茶葉が底を尽きそうになるまで姿を現わさなかったマサキへのささやかな嫌がらせ。折角の機会だからと用意した他のフレーバーティーと交互に飲ませてやりながら、それらの味の違いをマサキに叩き込んだシュウは、覚え終わる頃には己の欲望を持て余すまでに身体を疼かせてしまっていたらしいマサキの身体を思う存分弄んだ。
もしかすると、マサキの中では既に消化されてしまった過去になってしまっているかも知れない出来事。けれどもシュウにとっては昨日のことのように思い出せてしまう思い出のひとつ。シュウはその記憶を振り返った。鮮やかに脳裏に刻まれたマサキとの思い出の数々は、味気ない日常生活を送っているシュウにとっては、日々を彩る大事な縁でもあるのだ。
だからこそ、層となって脳裏に積もる尽きぬその身体の記憶に意識を伸ばしたシュウは、どうしようもなくマサキに会いたいと思った。
マサキの訪れはいつだって突然だ。何の連絡を寄越すこともなく、気が向いたといった体でシュウの家に足を踏み入れてくる。マサキを想うシュウにとっては、その傍若無人さは何よりも尊い現実であるように感じられたものだ。けれどもシュウは知っている。不規則に姿を現わしてみせているように見えるマサキの来訪に、実は規則性があることを。
だからこそシュウは同じ空の下にいるマサキに思いを馳せながらこう思った。あなたはきっと、今年もこの茶葉が尽きる前には姿を現わすのでしょうね――と。
※ ※ ※
「どうしたの、マサキ。気分でも悪いの?」
思い出してしまった去年の出来事に、頬が火照って仕方がない。きっと今の自分はだらしない表情をしていることだろう。羞恥に俯くしかなくなったマサキに声をかけてくるミオは、その表情にまで目が届くことはなかったようだ。ちょっとな……と、言葉を濁したマサキに訝しそうな視線を向けてきたものの、それ以上追及するつもりはないようだ。「しっかし、紅茶の世界も奥が深いのね」と、テュッティたちに向けて言葉を放った。
「日本のお茶だって奥が深いじゃないの。詫び寂び、五月雨、蛙に古池」
「古池や蛙飛び込む水の音か。もう片方は五月雨や集めてはやし最上川辺りか。うろ覚えで日本のイメージを決めるのはどうかと思うがな」
「ほへえ。ヤンロンって俳句にも詳しいのね。あたし日本人だけど最上川は知らない」
「私も聞きかじった知識しかないわ」
「中国の文化が伝搬して独自の発達を遂げたのが日本の文化でもあるからな。だからこそ、日本には茶道があり、中国には飲茶がある。ヨーロッパならアフタヌーンティーか。どの地域にとっても茶というものは、日常生活に欠かせないものであるということだ」
彼らの会話に耳を傾けていたマサキは、ようやく収まった身体の火照りに顔を上げた。
とんでもない茶の飲ませ方もあったものだ。
けれどもそのお陰で、紅茶の味の違いがわかるようになったマサキは、だからこそ今自分が手にしているマグカップの中身が蓮茶であることに気付けたのだ。そう、シーズン以外には出回らない希少な茶葉であることも含めて、恐らくはテュッティが知らない知識までも、マサキはシュウのお陰で知ってしまっている。
「ロータスティー、だよな」
「なあに、マサキ。あなたそれを思い出そうとしていたの」
「気になるじゃねえかよ。わからないままだと」
マサキはゆっくりと空を見上げた。今年はお前の思い通りにはさせないからな。そう思いながらも、意地悪なあの男に会いたくて仕方がない。
マサキはマグカップに口を付けた。じんわりと広がる蓮の花の風味。きっとシュウも希少なこのフレーバーティーを味わっていることだろう……再び巡ってきた蓮茶の季節に、マサキはその茶葉が無くなる前にはシュウの家を訪ねようと心に決めた。
リクエスト「同じ日、同じ時間に、場所が離れていても同時にティータイムを過ごしなぜか繋がってる感じがするシュウマサ」