君の名を

 変わり者の王太子であった彼は、マサキたち魔装機操者にその立場に関わりなく自分を扱うようにと云ったのだという。
 温和で聡明と健やかなる精神性を有する彼は、世に不平等を生み出している王族という立場を誇りに感じているようではあったが、かといってその立場を笠に着ることなく、気さくに地上人たちに声をかけていたようだ。立場の違い故に気軽に何処かへ共連れするなどといったことはなかったが、彼らがつれづれに自分の許を訪れることを大層喜んでくれていたらしい。
「凄ぇ怒られてなあ……」
 懐かし気に彼の話をすることが増えた近頃のマサキは、彼と出会った当初のことをそう口にした。
「『好きに呼んでくれていい』って云うから名前で呼んだのに、後から側仕えの侍従やら側近やらから色々云われてさ。挙句の果てには元老議会で槍玉にまで上げられちまって……」
 命の限りを知った王太子。世界に平和が訪れることを願っていた彼は、残された時間の少なさにより強大な力を頼ることを選択した。その、彼の野望を打ち砕いたのがマサキたちだった。長く正魔装機の操者たちを纏め上げてくれていた巨星を自ら墜とさねばならなかった無念。だからこそ、あまり誰かと振り返りたい思い出ではなかったのだろう。彼の話となると口を閉ざしてばかりだったマサキ。年に一度、彼の命日に必ずシュウの許を訪れてくる彼は、ようやく自らの気持ちに決着を付けたようだ。
「それで『殿下』ですか?」
「ミュッヘンハイマーのおっちゃんは『王太子殿下」と呼べって煩かったけどな」
 そう云ってあははと声を上げて笑ったマサキが、ソファアの上、シュウに凭れかかってきながら、そろそろおっちゃんのトコにも行かねえとな。と、呟いた。
 幼い頃からフェイルロードの面倒を見てきた世話役がひとり。厳格で頑迷な侍従長ロードチェンバレンもマサキにかかってはこの扱いだ。豪放磊落でマイペースな性格であるマサキは、他人を自分のペースに巻き込んでしまうことがままある。特に石頭と呼ばれるカテゴリーの人間に対してそれは顕著だった。
 決められた型に嵌まることを嫌うマサキだったが、社会に対する反発心といったネガティブな要因からしていることではないからだろう。無邪気な彼の魅力は一度その懐に飛び込んでみれば良くわかる。謹厳実直な侍従長をしてこの扱いを許させてしまう風の魔装機神の操者。シュウは自分の知らないマサキの人間関係を耳にする機会が増えたことを素直に喜んでいる。
「知ってるか? あの偏屈じじい、酒なんか一滴も飲まねえって顔をしてさ、ブランデーが大好物なんだぜ。自宅のコレクションが凄いの何のって。偶に里帰りした時にやる一杯が最高なんだとさ。だから、行く時にはいい酒を見付けて持って行きたいんだがな……」
 ビルセイア家に仕えていたミュッヘンハイマーのことをシュウは顔ぐらいしか知りはしなかったが、マサキの口から語られただけで、いかめしい顔つきの彼が相好を崩しているところが瞼の裏に描き出される。
「なら、彼が好みそうなブランデーを見繕っておきましょう。必要になったら訊きに来なさい」
「いいのか? いや、いつも酒屋に任せきりで、こういうのどうなのかとは思ってたけどさ」
 マサキ=アンドーという人間は、その人物の生の姿を表現するのが上手い。決して語彙が豊富という訳ではなかったが、彼の周りに集いし人々が彼に対して自然と懐襟を開いてしまうからだろう。彼らが最も輝けるエピソードを沢山持っているマサキの口から語られる彼らは、実に生き生きとしている。
「構いませんよ」
 シュウは肩に頭を預けているマサキに目を遣った。そこには以前の思い詰めたような表情はもうない。フェイルロードのことを、その周りにいた人々のことも含めて、今の彼には懐かしく語れるだけの余裕があるようだ。ならば、私がすべきことはもうない。シュウは長く続いたマサキの物煩いが決着したことに安堵した。
「まあ、あなたの話を聞くに、ミュッヘンハイマーはあなたが持って来る酒なら何でも喜びそうではありますがね」
「そうかねえ」ふんと鼻を鳴らしてマサキが宙を睨む。「もっといい酒を持って来いって煩いぜ」
「偏屈な人間はそう簡単には喜びを露わにしませんよ」
 そう云うことならば、ミュッヘンハイマーが腰を抜かすぐらいに高級なブランデーを用意することにしよう。シュウが密かに決心を付けた瞬間だった。肩から離れる彼の頭。頭の置き場所を膝へと変えたマサキが、ソファの上で身体を丸める。
「こんなこと云うのも何だけどさ、お前が王室に残らなくて良かったよ」
「私としてはその方があなたとの付き合いが面白いことになりそうだったとは思いますが」
「巫山戯ろよ、お前。堅苦しいのは嫌だからな、俺」
 口元に笑みを浮かべながらシュウを見上げてきたマサキが、殿下なんて呼びたくねえよ。云いながらシュウに向けて手を伸ばしてくる。シュウは彼に誘われるがまま、上体を屈めた。首に絡まる腕。頭を上げたマサキがシュウに口付けてくる。
 毎年、重苦しい空気が降り積もるばかりだったフェイルロードの命日。
 それもついに終わりを告げた。
 幾度か重ねられたマサキの口唇の柔らかい温もりに、シュウは彼の心変わりの理由を知りたくなったが、彼の深いところにあるその存在に絡む彼是を暴くことがいいとは限らない。
 むしろ大事に仕舞い込ませておく方が、彼の為になるのではないだろうか……マサキのことであっても深く詮索することを嫌うシュウは、だからこそ自身の膝に頭を戻したマサキに、ところで――と、別の話題を提供することにした。
「気付いているのか忘れているのかわかりませんが、セニアも『殿下』ですよ、マサキ」
 悪戯めいたシュウのひと言の効果は覿面だった。呆気に取られた表情がシュウに向けられる。
「今度、呼んでみてはいかがですか」
「絶対嫌だ」
 困惑した表情で首を横に振るマサキにシュウは声を潜ませて嗤いながら、今日のこの日をこうしてマサキとただ懐かしい縁を振り返ることに使える喜びを――胸の内でじっと噛み締めた。