夏が盛りを迎えて暫くした頃。用事があってゼオルートの館近くを通りかかったシュウは、その館の庭から聴こえてくる賑やかな声にふと足を止めた。
鮮やかな青い空と中天に浮かぶ太陽が美しい日だった。
庭に顔を揃えているのは、マサキとプレシア。リューネにテュッティ、ミオ。平原を抜ける伸びやかな風を浴びながらシュウが遠目に窺ってみたところによると、彼らはどうやら野菜を収穫しているらしかった。
――ほら、見て! おにいちゃん、こんなに大きいトマト、あたし初めて見た!
――こっちも凄いぜ。こんな綺麗な色のトウモロコシなんて、市場でも滅多にお目にかかれねえ。
籠を片腕に抱えて、庭に作られた畑の中を収穫に行き来するマサキとプレシア。そしてふたりの仲睦まじい姿を見守りながら、自身もまた籠を手に収穫を手伝う三人の女性たち。その長閑な光景は、研究三昧の日々に少しばかり疲れていたシュウの心を充分過ぎるぐらいに癒してくれた。
庭を彩る野菜は夏の代表的な作物であるようだった。トマトにキュウリ、ナス、トウモロコシ。ピーマンにオクラ。はちきれんばかりの笑顔で大地の恵みを収穫している彼らに、今日は季節の野菜でサラダを作ろう。そんなことをシュウが考えた瞬間だった。
「おい、シュウ!」
運動神経に優れる彼は視力も滅法いいようだ。即座にシュウの姿を見付けて声を掛けてきたマサキに、シュウは返事をするかどうか悩んだ。当たり前のことではあったが、彼の隣に立っているプレシアやリューネはあまりいい顔をしていない。
「どうした! ほら、こっちに来いよ!」
けれどもそうした義妹やリューネのシュウに対する敵愾心には慣れてしまっているのだろう。いや、作物の収穫期を迎えたことが単純に嬉しくて、そこまで気が回っていないという可能性もなきにしもあらず。マサキ=アンドーという男は、周囲の人間が思っているより鈍感な性質であるのだ。
いずれにせよ、ここまで強く呼びかけられては無視しきる訳にもいかない。シュウは柵の向こう側で待っているマサキの許へと歩んで行った。収穫期ですか。尋ねれば、「凄いだろ。俺もここまで育つと思ってなかった」鼻の頭に土を付けたマサキが笑う。
「あたしが育てたんですけどね」
その後ろでシュウを睨みながらプレシアがぼそりと口にする。
「俺もちょっとは手伝っただろ。だからそんな顔をするな」
マサキの言葉に、成程。と、シュウは得心した。家事に料理に庭作りと、家庭的な作業を得意とするプレシア。その延長で今度は畑作りに挑戦をしたのだろう。とはいえ土づくりなど力仕事が必要になる作業。そこで義兄たるマサキに手助けをしてもらったに違いない。
「でも、おにいちゃん」
不満そうに口唇を尖らせているプレシアの頭をマサキが撫でる。頭ひとつ以上の背丈の差。歳月が過ぎても変わらぬふたりの絆の深さに、シュウは微かに口元を緩ませた。
「どの道、俺たちだけじゃ食べきれないんだ」
「それはそうなんだけど」
「折角お前が丹精込めて育てた野菜だぞ。俺は駄目にするなんて絶対に嫌だからな」
だから――とシュウを振り返ったマサキが、ビニール袋に入った野菜を柵越しに差し出してくる。
大ぶりのトマトが二個に、一本のトウモロコシ。三本のキュウリとナスに、三個のピーマン。そして、両手いっぱいのオクラ。流石に通りがかっただけの自分がこんな量は受け取れない。と、シュウは固辞したが、それでもビニール袋を押し付けてくるマサキの押しの強さに結局は負けた。
「わかりました。これは有難くいただくことにします。けれども、どうやって食べたものか」
「サラダにすればいいだろ。ナスは揚げるか、煮るか……」
「それもひとつの手ではあるのですが、ありきたりに過ぎますね」
シュウはビニール袋を片手に提げた。
ずしりとした重みは、マサキとプレシアの努力の結晶である。それだったら、ありきたりな料理で消費してしまうよりも、彼ららしい料理で消費したい。それが彼らの好意に報いる方法だろう。暫くビニール袋を眺めていたシュウは、ややあって顔を上げるとマサキと向き合った。
「あなたが好きな調理法を教えてください、マサキ」
「俺か? そうだな。ナスとピーマンとオクラはカレーだろ。夏野菜カレー。トマトは塩でがぶりといくのが好きだな。トウモロコシは茹でて食べるのが一番だ。後はキュウリか。やっぱ味噌だろ。味噌付けて食うのが一番旨い」
どれも野性味溢れる調理法だ。シュウは笑いを堪えるのが精一杯だった。戦場を誰よりも逞しく駆け抜ける戦士であるマサキらしい料理。けれどもそれは、何故か強くシュウの胸を揺さぶった。
「あなたは素材をそのまま生かすような調理法が好みなのですね、マサキ」
「スパイスだ調味料だってやり過ぎると、大事な味がなくなっちまうだろ?」
にやりと口角を釣り上げたマサキに、その通りですよ。シュウは頷いて、ビニール袋を掲げてみせた。
「では、それでいただくことにしましょう。このお礼は必ずしますよ、マサキ、プレシア」
マサキの背後では相変わらずプレシアが微妙な表情をしていたが、だからといってこの作物の収穫に多大な貢献をした少女を無視する訳にはいかない。シュウは出来るだけ穏やかに映るように微笑んでみせると、片手を上げて彼らに挨拶を済ませてからその場を後にした。
※ ※ ※
それから五十年の歳月が過ぎた。
ひとり減り、ふたり減りと、シュウの周囲からは知己の人間の姿が減っていった。テュッティにミオ、リューネにプレシア。最後まで残っていたマサキもつい先日、精霊界へと旅立った。
夏が巡る。鮮やかな夏が。
彼らと過ごした歳月の分、夏の思い出に限りはない筈だったが、シュウの脳裏に思い浮かぶのはいつでもあの夏――マサキがシュウに収穫した野菜をくれた場面ばかりだった。
あの夏、シュウはただ茹でただけの野菜や、ひとつの調味料でだけで食べる野菜がとてつもなく美味しいものであることを知った。とかく野菜の味が舌に沁みる。だからシュウは、毎年夏が巡ってくる度、あの時マサキから貰った野菜と同じ種類の野菜を、彼に教わった調理法で食べた。
今、シュウが着いているテーブルの上にはそれらの料理が並んでいる。
夏野菜のカレー、塩を振っただけのトマト、茹でたトウモロコシに縦に切ったキュウリと味噌。そこからキュウリを抓み上げたシュウは、それで味噌を掬ってから口元に運んだ。
瑞々しいキュウリが濃い味噌の味を和らげてまろやかな味わいへと変化する。
シュウは今度はトマトに手を伸ばした。噛んだ先からジューシーな汁が溢れ出てくる。
塩気の利いた味はトマトの甘味を存分に引き出してくれていたが、どうしてか物足りなさを感じる。寂しい。瞬間、シュウの心を風が吹き抜けていった。何だか心に穴が開いてしまったかのような気分だ。それがとてつもなく恐ろしい感情に感じられたシュウは、窓の外に広がっている青空を見上げた。
あの日と同じ、青空。
けれどもそれは、シュウの思い出にある青空ほどに色鮮やかには映らなかった。
ひとり減り、ふたり減り――シュウもそう遠からぬ未来に精霊界に旅立つだろう。そうして懐かしい面々と再会を果たす。そう、シュウはそれだけ年齢を重ねた老紳士になっていた。
寂しい。
湧き上がってくる感情をどうコントロールすればいいかわからない。途惑うシュウの胸に、どうせあと少しのこと――そう思っていた死が、その瞬間、例えようもなく遠いものとして浮かび上がってきた。
何故だろう、妙に頬が寒かった。
シュウは皺がれた手を頬に当てがった。そうして、人生で恐らく初めて感じる濡れた感触に目を見開いた。
そこには一筋の涙が、静かに伝っていた。