その日のマサキはツイていなかった。
家の掃除をするからと、プレシアとテュッティに追い立てられるようにゼオルートの館を出たのが、午前7時。愛機サイバスターを駆って、あてもない放浪をしていたところで、真紅の機体もなめかましいサフィーネに出会ったのが、午前8時。朝も早い内からの出会いと通信に、好奇心半分で耳を傾けてみれば、こちらも掃除の最中だと云う。
ウィーゾル改でどこまで出るつもりかは知らないが、こちらは日常の掃除ではなく、どうやら拠点の変更に伴う大掃除らしかった。買い出しに出るところだと云うサフィーネは、――その拠点の場所を自分に教えようというのが、間違っているとマサキは思うのだが――、男手が必要なのだと訴え、すべきこともないからと受け入れたマサキが向かったところ、いると思っていたモニカとテリウスは不在で、恐らくは家主になる予定のシュウが一人で、黙々と室内の片付けに励んでいるところだった。
その細身の身体のどこにそんな力が潜んでいるのか、キッチンといった生活に必要なスペースを全て無視して、やたらと分厚い書物の運び入れに余念がないシュウに、サフィーネに頼まれた旨を伝えると、
「テリウスとモニカが、イヴン神官の手伝いに呼び出されたからですね」と苦笑して、
「好きに過ごして下さって結構ですよ。使うのは主に私ですから」
珍しくも殊勝なことを云う。
とはいえ、応接間のソファからして埃まみれの有様だったし、手を入れないことには身体を休める場所すらない有様では、手伝うなという方に無理がある。「どこで休めと言っているんだか」と愚痴て、仕方なしにマサキは大掃除を手伝うことにしたのだが。
油汚れに、煤、蜘蛛の巣……このままでは昼飯にあり付けるかすら怪しいキッチンの惨状に、先ずはここからだと不器用なりに掃除を始めようとする。どうやらサフィーネもここからと思ったらしく、床にはスポンジ入りのバケツが残されていた。
水道を捻ると蛇口から水は出る。シンクだけは綺麗に磨き上げられているのだが、いかんせん竈が怪しい。溜まりに溜まった灰と煤は油でこびりついていて、落とすのに相当の苦労が必要な様子だったし、その所為だろう。鼻を衝く臭気が漂っている。
この為の男手か――と思いつつ、マサキはたわしを探す。これだったら家で掃除を手伝った方が、まだ楽だったに違いないだろう。サフィーネとも会わずに、気楽に方々を流離っていられたに違いない。そんなことを思いながら、キッチンの片隅に忘れ去られたように置かれている古びたたわしに手をかけてみれば、
「あなたでも、そこから掃除を始めるのですね」
思いがけなく端近に声を聴いたのは、その瞬間。いつ、どうやって、そんな至近距離にまで近付いたのか、全く気付かぬままに囁かれて、マサキは焦る。
「客人のもてなしまでは手が回りませんが、大人しくくつろいでくださっても結構なものを」
と、言われたところで、くつろげる場所がないのだから仕方がない。
「お前、あのソファの惨状で、どうやってくつろげって? それにこのままだと、昼食にありつけるかわからないじゃないか。いくらなんでも、最低限の生活は出来る場所じゃねぇと――」
振り返って言った矢先に、軽く口唇を吸われて、茫然となる。
「確かに」
興奮も、動揺も、熱情も――、一切合切の感情を感じさせない微笑みでシュウは言ってのけた。
※ ※ ※
キッチンの掃除を終えるころには、戻ってくるだろうと思っていたサフィーネが戻らぬまま。小一時間ばかりの手間で使える程度には整ったキッチンを眺めて満足する間もなく、マサキは応接間に向かった。
――あなたがキッチンを受け持ってくれるのであれば、私は応接間を受け持ちましょう。
どういった気まぐれか、それとも神の天啓でも受けたのか。書架を漁る以外はとんとずぼらだと、その使い魔に嫌というほど聞かされている家の主は、どうやらそこまで面倒くさがりではないらしい。そう言い置くと、自らはキッチンと続きになっている応接間へと姿を消した。
掃除をしないことには使えない場所ばかりなのだから当然か――と、思いもするも、マサキは腑に落ちない。突然の口付けに戸惑いを覚える程度には、純情さも保っている。先ほどの口付けが、彼が時折やりたがる”お礼”なのかはわからない。けれども、気まぐれに行われる礼にしては、珍しくも機嫌がよく感じられた。
「丁度、いいところに」
シュウは先ず、棚の整理から始めたらしかった。くすんだ色合いだった棚は、一目でわかるほどに磨かれていたし、幾許かの飾り物も、気を遣っただろう配置で置かれている。マサキにとっては、価値のわかりかねる置物やグラスといった飾り物は、それだけで荒れ放題だったあばら家に、人気を感じさせるのには充分足りただろう。
「何かするのか?」
「ソファを運びたいのですよ」
そして今は床の掃除をしているらしかったシュウは、大物のソファを指差して言った。一人では運べない大きさは、放置されていた歳月を思わせるように、底に埃を積み重ねている。
「なるほど」
シュウが立つ対面に向かって歩を進め、窓を背にソファを持とうとマサキは立つ。身を屈み、ソファの隙間に手を差し入れて面を上げれば、またも端近にシュウの顔。
「なんだよ」
「いいえ。一人でやるよりも、手早く終わるものだと」
「まだ他にも部屋があるんだろ」
――ただ過ごすだけならこれだけで充分です。
シュウはそう呟くと、ソファの端を持ち上げた。
※ ※ ※
どうやらサフィーネが、買い出しを口実に逃げたと気付いたのはその数時間後。応接間の埃と煤を払い、ひと心地つける程度に手入れをしてからだった。まだまだその他の部屋は片付いていなかったけれども、昼食時もとうに過ぎている。マサキが何かを作れはしないものかと、食糧庫を漁ってみたものの、居所を変えたばかりだからだろう。こちらの惨状もそれは酷いもので、形を失った元食料品やら、カビの生えた小麦粉やら、変色した卵やら、どれひとつとっても口に入れられたものではないものばかり。
家主たるシュウはシュウで、そうした生活に慣れてしまっているのか、それとも、日頃やり慣れない大掃除に身をやつしたからか、呑気にもソファに身を収めては。持ち込んだ書物の選別に暇がない。どうかすればそれらを読み出しては、その世界に没頭してしまうだろうシュウはさておき、マサキはマサキで朝食もまだだったりするのだから、不満を感じない筈もなく。
「お前、昼飯どうするんだよ」
聞けば、ようやくその事実に思い至ったらしいシュウは、それは優しくも柔和な笑みを口元に浮かべると、
「そうでしたね。私はさておき、あなたは食事もまだだったでしょうに」
サフィーネにも困ったものです。と短く付け加えたシュウはそのまま立ち上がると、壁際に掛けておいた上着を羽織り、
「城下にでも食事をしに行きましょう。あなたへのお礼もしなければなりませんしね」と言った。
※ ※ ※
昼下がりのラングラン城下町を、よもや素顔を晒して元大公子が歩くとは、さしもの民衆も思っていないに違いない。ましてや風の魔装機神の操者と連れ立ってなのだ。訝しげな視線を向ける者も、中にはいるにはいたが、大通りを歩いていても、子供が物珍し気に「魔装機神の操者だ!」と声を上げるぐらいにしか、人々には気にされていないようだった。
大通りから僅かに逸れて、裏通りへ。夜には歓楽街となる一角なのだという。ゼオルートの館で、或いは賑やかな大通りで食事を済ますことが多いマサキと異なり、シュウはそうした情報にも通じているようだった。
「何が食べたいですか」
居並ぶ店の入り口や佇まいは、どれもこじんまりとしたものばかりだったけれども、軒先に並ぶメニューの金額はそれなりに値が張るものばかりで、持ち併せの少ないマサキを、少なからず躊躇わせた。しかも気付けば腹が空き過ぎているとみえて、どれでも同じように見えてくるものだから困ったものだ。
「どうせお前は草食なんだろう?」
皮肉を込めて言ってみせれば――無理もない。よもや大掃除の手伝い如きで、ラングラン城下町くんだりまで男二人で食事に訪れることになるとは思ってもいなかったのだから――、シュウはただただ笑って、
「食べられなくはないと言っているでしょう。稀には付き合いで、そうした食事を摂るのも身体には悪くないと思っているのですよ」
「付き合い、ねえ」
機嫌のいい理由はわからなかったけれども、素顔を晒して陽光の元、城下町を歩いてもいいと思う程度には恩に着てくれているのだと、わかったからこそマサキはメニューの看板を眺めて歩き、テュッティが最近嵌まっているいるらしいオーガニックを謳う店を選んだ。無理に付き合わなくとも――と、シュウは多少不満を露わにしていたけれども、どうせ腹に入ればどれも一緒なのだ。偶には馴染みの薄い小洒落た店に足を踏み入れてもいいではないか。どの道、不釣り合いな男二人組の昼食なのだからと、マサキは店の扉を潜った。
※ ※ ※
それは他愛ない話の応酬だった。いつも通りにペーパーブックや、分厚い書物でも片手にランチを楽しむだろうと思っていたシュウは、それは饒舌にマサキに操者の近況を訊ねて寄越したり、また自身に同行する仲間たちの話を語って聞かせた。珍しさもここまで来れば天変地異が起こるレベルだと、マサキは思いもしたが、一人であのあばら家に放置されたシュウの気持ちを思えば、掃除の手伝いに訪れたマサキは、ある意味、救世主に思えたのやも知れない。
「そういやこの間、ヤンロンがさ……」
「そういえばモニカがですね……」
こうした穏やかな時間を過ごすのは初めてだった。少なくとも初めて顔を合わせたあの瞬間から比べたら、どれだけ心安い関係になったことか。
その所為なのかも、知れない。
少なくとも、人の出入りのある玄関と廊下ぐらいは、片付けるべきだろうと思ったマサキは、帰路を促すシュウの言葉を堰き止めて、共にあばら家へと戻ったのだが――。
※ ※ ※
食べ慣れないオーガニックとはいえ、腹が朽ちれば眠くなるものだ。朝も早くから休みなしで動いていた疲労もあっただろう。少しぐらいは休んでもいいかと、応接間のソファに腰かけて、どうやらマサキはそのまま眠りに落ちてしまったようだった。
感謝をしていたのだろう。やけに辺りを憚るように小声で話をするサフィーネの声が、段々と耳に障るようになり、意識の覚醒に気付いたマサキがその両目を開けば、彼女がキッチンに立つ姿が目に入った。
「あら、起きたの?」
「お前、どこ行ってたんだよ」
「いい洗剤がないか探してたのよ。ついでに食料もね。ここの惨状、見たでしょう?」
「食えるものがないっていうのは問題だろうよ。食糧庫を覗いて俺は驚いたね」
「まあ、でも――」
キッチンのテーブルには新品と思われるクロスが貼られていた。サフィーネが買い求めて来たに違いない真新しいクロスは、彼女の趣味嗜好を大いに反映してか、食卓には不似合いなゴシック調だったけれども、出来たばかりのスープやサラダ、魚料理に肉料理が並んでいる。
「でも?」
「頑張ってあたしが片付けたんだから、そこは許して頂戴よ。玄関と廊下もあたしが磨き上げたんだし。聞けば、シュウ様にも奢って貰ったんでしょ」
そこでマサキははたと思い出す。家主たるシュウは何をしているのかと。まさかサフィーネが独り言を呟きながら料理をしていた訳ではないだろうと、辺りを見渡せば、何のことはない。マサキの直ぐ隣で書物をつまびらくのに余念がない。マサキが横になっていたのだから、それはさぞせせこましかっただろうに、それでも隣に座っていたのは彼なりの気遣いだったのか、それとも――。
朝方の突然の口付けを思い返して、頬が火照る。
よもや自分が寝ている間にも、何事かあったのではないかと思いはしたものの、サフィーネの目もある。それをシュウに問い質すのは無理だった。
無理だからこそ、マサキはソファから立ち上がると、壁にかけた上着を手に取り、
「今、何時だ?」と訊けば、
「何よ、あたしの手料理が食べられないって言うの? 昼間、坊やが遠慮してたらしいって訊いたから、これだけメニューを揃えたっていうのに」
ソファにて読書に余念がないシュウを振り返れば、その口元が微かに笑っている。
「終わりましたわよ、サフィーネ」
「いやあ、埃が凄かったね……って、マサキやっと起きたのかい?」
そこにどうやらお互いの個室を掃除していたらしいテリウスとモニカが戻ってくる。「凄い御馳走だね」マサキの返事も待たずに食卓を覗き込んだテリウスが言えば、
「あんたたちが不在で、あたしは買い出しで、その穴埋めをしてくれたんだから、このぐらいの礼は当然でしょうが!」
見た目の蓮っ葉な性格とは裏腹な姐御振りを発揮したサフィーネは、そう言ってのけた。