天つ川

 ピクニックシートに本を積んで読書に励むシュウを隣に、マサキはひとりで釣りに精を出していた。
 云い出したのはシュウだった。
 明日は川に行きませんか。散歩の最中、近くの森にある清流で群れる魚を見たのだという。それでマサキが釣りをすることを思い出し、連絡を寄越したとのことだった。
 確かにマサキは釣りをするが、始めたのは地底世界に来てからだ。しかも釣りを嗜む仲間にお遊び程度に教わっただけ。故に腕はあまり良くない。六時間粘って釣果が一匹などということも珍しくないマサキに、けれどもシュウは期待をしているようだ。釣果は今晩のディナーにしましょう。などと呑気な台詞を吐く。
「だったらお前も釣れよ」
「私はあなた以上に腕がないので」
 やればやったで負けず嫌いの虫が騒ぐのだろう。マサキと釣果を張り合い始める男は、読んでいた本から顔を上げるとそう云って微笑みかけてきた。誤魔化されねえぞ。マサキはかれこれ一時間ほど、ぴくりとも手応えを感じさせない糸を引いた。
 いつの間にか餌が取られてしまっている。
「またですね」
「これで何度目だよ、くそ」
 清らかな川は澄み切っていて、釣り糸の先で泳ぎ回る魚の群れが見渡せるほどだ。だのに奴らと来た日には、上手い具合に餌だけ取ってゆく。釣り人が多いんじゃないかねえ。マサキは川辺に漬けている魚籠の中を覗き込んだ。小さな川魚が一匹、ぴゅんぴゅんと狭い籠の中を及び回っている。
 マサキは溜息を吐いた。これが一時間半の釣果である。いっそ、魚籠に餌を詰めて川に沈めた方がまだ見込みがあるのではなかろうか。そう思いながら、新たに餌を付け直して糸を投げる。
「ところで、何で今日の待ち合わせはここだったんだ」
 いつもならシュウの家を訪れてから目的地に向かう流れだったが、何故か今日に限っては彼は現地でと譲らなかった。何か理由でもあるのだろうか。ふと気になったマサキは尋ねた。
 川を囲う木々が彼の顔に影を作っている。今日のラングランも例に洩れず清々しいまでの好天だ。中天に座す太陽からの陽射しが降り注ぐ森林は眩いばかりの木漏れ日で満ちている。水面にに浮かぶ幾重ものきらめき。確かに美しいが、わざわざ待ち合わせるような場所ではない。
 ――天つ川 川しきよ 牽牛ひこほしし 秋ぐ舟し 波しさわきか
 シュウの返事にマサキは首を盛大に傾げた。
 どうも知識や知能に勝るこの男は、マサキとは異なる思考体系を脳内に築き上げてしまっているらしく、デートひとつ取っても行きたいからといった単純な理由で誘ってくることがない。というより、そもそも家を出ない。まるでそういった動機はマサキの十八番と云いたげに、日長家に籠ってはマサキを傍に読書三昧。精々食事に連れ出してくれるぐらいが関の山だ。
 その男が何を思ったか、川で過ごそうだのと云い出した。
 だからマサキはシュウの動機を疑っていた。果たして彼は魚の群れを見ただけで、マサキを川に誘うような真似をするだろうか。しかもわざわざ、川で過ごす時間を伸ばすかのように待ち合わせを現地に指定してまで。
「今日は地上の暦で七夕ですよ、マサキ」
「それで川ってか? 単純過ぎるだろ、お前」
 一句読んだ直後のシュウの台詞に、マサキは盛大に呆れ返った。
「宇宙に出て天の川を眺めるとか、それが無理なら七夕の笹飾りを作るとか、地上の祭りに行くとかさ。やれることが他にもあるだろ」
 マサキの知らない知識を流暢に披露してみせておきながらのこの有様。地底世界で生まれ育ったからか。出自ルーツの半分を日本に持っている筈のシュウは、その習わしに不勉強を露呈させることがままあった。それが結果、子どもじみた発想に繋がってしまうのだろう。天の川=川になる辺りは如何にも地底世界の人間らしい。
 マサキの指摘でその事実に思い至ったようだ。確かに。と頷いたシュウに、しゃあねえな。マサキは頭を掻いた。
「後で地上に出ようぜ。どっかで願い事のひとつぐらいは書けるだろ」
 そして釣り糸を引く。ぴくぴくと震えるような手応え。小さな魚だが、ようやく二匹目がかかったようだ。マサキは重みを増した糸を慎重に引き上げた。釣り上げた魚の体長は十センチほど。それを魚籠に放り込んで、糸に餌を付け直す。
「てか、さっきの歌は何だよ。秋って単語が出てきてたぞ」
「元々七夕はお盆の時期に行われるものであったのですよ」
「お前、そういうことだけは良く知ってるよな」マサキは竿を投げた。「確かに仙台の七夕まつりなんかは八月だもんな」
「旧暦のお盆は七月十五日。その辺りに行われるのがかつての七夕だったのです。それが新暦に改められる際に、前にずれて七月七日になったのだそうですよ」
「成程ねえ。験を担ぐ日本人らしいや。横並びの数字の日をイベントにしちまう辺り」
 マサキは釣り糸の先に目をやった。魚は確かに群れている。だのに釣れない。
 一時間半で小魚二匹の釣果では、魚料理のディナーは期待出来なさそうだ。まあいいか。マサキはのんびり釣り糸を垂らすことにした。どの道、この後地上に出るのだ。七夕を楽しむついでにディナーを済ませてもいい。
「日本には七夕に纏わる歌がいくつかありますが、やはり織姫と彦星が年に一度会う日だからか、ロマンティックなものが多いですね」
「だろうなあ。恋人の日なんて云われてるぐらいだしな」
 そこで何かを思い付いたようだ。本を畳んだシュウが、マサキに隣に座るよう促してくる。
 何だよ。マサキは竿を岸辺に立てて、ピクニックシートの上に腰を下ろした。例えば――と、マサキの耳に口唇を寄せてきたシュウが諳んじてみせたのは次の一句。

 天つ川 川門かはとし立ちし が恋ひし 君ますなり 紐解き待たむ

 あなたは衣の紐を解いてはくれないの? 続けて囁かれた言葉で歌の意味を覚ったマサキは、後でな。そう云って腰に回されたシュウの手を振り解いて再び川辺に立った。
 やけに頬が熱い。不意打ちの出来事で赤らんだに違いない。そうっとシュウから顔を背けたマサキは、立てていた釣り竿を取り上げると、
「でかいのを釣らねえとな」
 気恥ずかしさを押し隠して、声を張り上げた。