宵待ち草

 夜半も過ぎ、夜の帳に裾まで覆われた森を、マサキは歩いていた。
 野犬の遠吠えが遠くに聞こえる。今宵は満月。梢の間から差し込む黄金色の光が獣道を照らしている。
 目指すのは森の深部。街で耳にした噂を頼りにマサキはここまで来た。
 One-wheel grassと呼ばれるその植物は、満月の夜にのみ咲くと言われる伝説の花。透き通った白い花弁に淡い緑が幾条も線を引き、その中央に蜜柑色の雌しべが収まる。
 台座に嵌められた宝石のようだと詩人に歌わせた幻想的な容貌。装飾類の題材になる事も多い。
 指輪を、していたのだ。
 ――今まで溜めたお金が半分以上消えちゃったわ。
 テュッティの細い中指に嵌めらた花は、繊細に咲き誇っていた。熟練した職人の技巧が必要なカッティングは、想像以上の金銭を必要とする。相場にも拠るが、オルハリコンのインゴットが買える値段を口にしたテュッティにマサキは呆れつつも――安堵した。
 パンツルックを好み、装飾品は耳のピアス程度に留める女性は、無理に女という性を封じ込めようとしているように見えた。
 ――本物のお花はもっと綺麗なんだろうね、お兄ちゃん。
 うっとりと指輪に見入るプレシアの言葉が、やけに印象に残っていた。
 宝石店に飛び込んだのは、少女への変容を遂げようとしている妹へのささやかな贈り物を得る為に。艶やかに美しく咲き誇りたいと願う、そしてそれを本来支えるであろう母を持たぬ少女へ。
 マサキは与えたかったのだ。
 自分が得られなかった家族の絆を。
 指輪のサイズが分からず、さりとてピアスは早いと思い、ネックレスは活動的なプレシアではチェーンを切ってしまいそうで、頭を抱えて悩むマサキに店員が告げた噂。
 バゴニアの国境近くの森に、その花は咲いているらしい。
 鳥獣指定保護区となっているその一角は、人も住まわぬ動物の楽園。希少生物が多く生息し、人間の立ち入りは制限されている。点在する監視所を潜り抜け、マサキはここに来た。
 この森に、あの花が咲く。
 装飾品よりも、植物の方が稚い少女にはよく似合う。贈られる相手の話を聞かされた店員もそう思ったのだろう。よもや、マサキがこの地まで赴くとまでは予想していなかっただろうが。
 ぬかるむ道――近くに川のせせらぎが聞こえる。地下水がどこからら流れ出しているのだろうか。足を取られぬように慎重に歩を進める。
 木々が開ける。なだらかな隆丘の腹一面に咲く白く透き通った花。蜻蛉が舞うように涼やかな風に凪ぐ。確かに、見惚れる程に美しい。
 蛍だろうか。花の上を舞う光にマサキは目を凝らした。
 それが、花々が飛散させる花粉なのだと気付き、ただ感服する。
 自然の脅威とは、時に有り得ない現象を引き起こす。One-wheel grass――天然の花園に誘われて、マサキは足を踏み出した。
 発砲音。熱い痛みが頬を掠め焼いた。
 咄嗟の判断で木陰に身を潜ませたマサキを続けて追う弾道。幹に突き刺さる弾が弾ける。
 猟銃だ。それも散弾銃。
「―人影だったぞ」
「そんな馬鹿な、同業者か」
 男達の声が聞こえてくる。複数人の人間がこの森に隠れていたらしい。
「とにかく、口を封じなくては」
「どこに逃げた」
 草を踏む音が徐々に近付く。逃げなくては――だが、ぬかるんだ道では音を立てずに逃げ出すのは難しい。息を潜めて様子を窺うマサキの目に、男達の姿が浮かび上がった。
「な……!」
「何だ、どうした!」
 背後から現れた人影が男達に重なると、一人が倒れた。
 銃声が響き渡る。そして、悲鳴も。
「……お、前は……だ……」
 呻きを洩らして地に這いつくばる男達に、振り下ろされる一筋の剣。
 森は不気味な静寂に包まれた。
「出てきたら――いかがですか」
 呼び掛ける声に、マサキは木陰から身を現す。
「お前、何で」
「珍しい場所で会うものです」
 動かぬ男達の所持品を検めるシュウの背後から様子を窺う。彼が手にしたのは一枚のプレート。それを胸に納めてシュウは立ち上がる。
「こいつらは……」
「密猟者ですよ。希少生物は闇のルートで高く取り引きされる。富める者の権力を誇示するひとつの手段……一人や二人減った所で害にはならないでしょう」
「だからって、殺すのは」
「所詮は末端――捕えて突き出した所で、蜥蜴の尻尾切りで終わりです。それに生産的な価値をあなたは見出せますか」
「てめぇはそうやって、詭弁を」
 言い掛けたマサキを言葉でシュウが制する。
「あなたは殺される所だったのですよ。生温い理想論を掲げるのもいい加減になさい――目的があってここに来たのではないのですか」
 マサキは振り返る。幻想的な白い花が男達の死を嘆き悲しむ。
 それは葬列だ。花粉を抱いて舞う光の輪が成す。
「お前の目的は……何だ」
「私の目的はこのプレートですよ。彼らを識別する信号を出しているこれを追えば、本体に辿り着く」
「簡単に喋りやがったな」
「あなたとは決して交錯しない道と知っていますから」
「そうか……」
 苦悶の表情を浮かべたまま絶命している男達を見下ろす。鮮やかな切り口からは未だ血が流れ出している。これで良かったのだろうか、と自問する反面、起こってしまった現実はどうにもならないのだとマサキは認めている。
「剣じゃなくて、咒文で薙ぎ払えば良かったんじゃねぇか」
「それをここですれば――」
 シュウが木に手を付いた。
「この自然も只では済みませんよ。精霊達は魔力に弱い存在ですから」
 巨大な樹木は樹齢100年を越えるだろう。雄雄しく生い茂る樹木がこの森には大量に生息している。葉が繁る枝に宿る鳥を、幹に住まう昆虫や小動物を、生る実を食す獣をこの自然が育てているのだ。
「そうか……そうだな……魔力は精霊の力を消費する」
「そう、そして精霊は生体エネルギーを消費して存在するのです。その均衡を一時的とはいえ崩してしまっては、この調和を保つ森の生態系を崩し兼ねない」
「そうだな……そうなんだろうな。小さな行いが大きな結果をもたらすなんてのは良くある話だ」
 今一度、花を見る。
 プレシアには今日の冒険談を、心配させない風に脚色して話そう。伝説は伝説のままだからこそ、憧れさせるのだ。手に届く場所にあっては有難味も失せる。
 何より、この株を持ち帰った所で、繊細なこの花は根付きはしないだろう。
「結構、気を遣ってるんだな。お前も」
「彼らと同じ所業を繰り返したくないだけです」
「こいつらと?」
「その背後にいるであろう存在ですよ。密猟者如きに構っていられる程、暇ではありませんので」
「それは――」
 問いを投げ掛けたマサキに影が差す。口付けを黙って受けて、マサキは目を開いた。
「……安い礼だ。後で利子を請求されそうな気がするぜ」
「それがお望みとあらば」
「冗談も程ほどにしろ」
「時間がないのが残念だと思いますよ」
 胸を掴んだままのマサキの手を、ゆっくりと引き剥がしてシュウが歩き出した。
「先程の答えですが」
 自分が来た方向とは明後日の方角に進むシュウを追えず、マサキはその場に留まったままその言葉を聞いた。
「光在る所に闇が在り、闇の世界には常にその存在が在る――あなたは、答えられますか」
「……それは、何だ」
 足を止めたシュウが振り返る。口元に笑みを、だが瞳には忌避を。
 瞳が表情を裏切る凄烈な面立ちで、彼は静かに宣告した。

「……ヴォルクルス」

 それは、一時の平和がラングランに訪れていた頃の話。
 一度は収まった三国の騒乱が幕を開けるのは、これから三ヵ月後の事である。