将を射んとする者はまず馬を射よ

 午前中のトレーニングを終えたマサキがシャワーを終えてリビングに戻ってみれば、ソファで読書に耽っていた筈の家主の姿がなくなっていた。何処に行ったんだ、あいつは。マサキは洗い立ての髪にタオルを当てながら、家の主人たるシュウを探すべくリビングを後にした。
 カバーが掛けられているだけのソファ。読んでいた本ごと姿を消しているということは、次の本を選びに書庫に向かったか、場所を変えて読書の続きをしようと思い立ったかのいずれかだ。
 もしかしたら百万分の一ぐらいの確率で、急な用事の為に外出している可能性もあったが、超が付くほどのインドア人間たるシュウのすることである。天気が良ければ読書日和だと云い、雨が降ればこんな日は家に篭って読書だと云う。彼にかかればどういった天気でも読書に適した気候に早変わり。日頃から知識の収拾に余念のない男が、どうして一冊の本を読み切るより先に家を出たものか。
 彼はマサキと出掛けるにしても、先ず今読んでいる本を片付けてからという奇特な人間であるのだ。そうである以上、彼が客人たるマサキを置いて外出をするなどといった非常事態に当たるのは、最後の手段にしか為り得ない。
「おい、シュウ」
 僅か4LDKの仮宿。一番奥に位置している書庫に足を踏み入れたマサキは、背の高い書棚が所狭しと並ぶ室内をぐるりと一周して、やはり姿が見えない家主に書斎へと向かった。
「ここでもないか」
 蔵書の全てを詰め込んだといった態の書庫と比べて、すっきりとした室内。壁一面の書棚とデスクセットが一式。シュウ曰く使い勝手を重視した部屋には、必要最低限の物しか置かれていない。だからだろう。広々とした空間には、掃除のついでと開け放した窓から気持ちの良い風が吹き込んでいた。
「後は寝室だけだが、この時間から寝て過ごすだと? あいつらしくねえ」
 書斎の向かいにある寝室の扉は薄く開いている。恐らく、風を通す為であるのだろう。涼やかな風の匂いが香ってくる扉を開けば、ぶわ、と早春の風がマサキの身体に吹きかかってくる。どうしようもないほどに気持ちがいい。マサキは訳もなく騒ぐ胸を抑え込んで、室内へと目を遣った。
 窓際に舞うカーテン。部屋の中央にあるベッドの上には、寝そべって本を読むシュウと、その胸や腹の上で寛ぎきっている二匹の使い魔がいる。
「ホント、お前らはよ……」
 マサキはベッドの端に腰掛けた。シャワーを浴びている僅かな時間の間に何が起こったのかは不明だが、リビングで日向ぼっこと洒落込んでいた二匹の使い魔は、実に気持ち良さそうにシュウに身体を預けているではないか。
「この家に来る度こうだ。シュウにばかり引っ付き回りやがって」
「妬いてるんだニャ?」
「焼きもち焼きニャのね」
「そういう話じゃねえよ」
 ぴったりとシュウに引っ付ている二匹の使い魔の揶揄を軽く受け流したマサキは、脚を上げてベッドに乗り上がった。
 涼しい顔をして読書に励んでいるシュウがちらと視線を向けてくるが、二匹の使い魔を乗せているからだろう。動く気配がまるでない。マサキはシュウの隣に寝転んだ。特注サイズのベッドは、ふたりで寝転んでもお釣りが出るくらいには広い。
「何で寝室で読書なんだよ」
「今日の風があまりにも気持ちがいいものですから、のんびりと風を感じながら読書をしたくなったのですよ」
 マサキも大概気紛れだとは云われるが、この男の読書が中心となった気紛れの数々には勝てる気がしない。はあ。と口から洩れ出る溜息。客人を放ったらかしにしてベッドで読書三昧とはいい身分である。
 けれども、確かに今日の風は心地良い。
 ベッドの高さが合っているのだろうか。肌を滑るように通り過ぎてゆく冷えた空気。窓から差し込む太陽の陽射しが暖かいからこそ、温まった身体を適度に冷やしてくれる。
 このまま眠りに就いてしまいたい――と、思ったマサキは二匹の使い魔同様にシュウに身体を寄せていった。偶にはこんな日があってもいい。けれども、瞬間、シュウが手にしている物体を目にしたマサキは、弾かれるように目を見開いていた。
「……あんまりこいつらを甘やかすなって云ってるだろ」
 そのひと言で、シュウはマサキの云いたいことを察したようだ。嫌になるくらい取り澄ました表情。薄い笑みを浮かべながら、顔を傾けてきたシュウがマサキに視線を合わせてくる。
「しかしあなたの使い魔ですからね、マサキ」
「どういう意味だよ」
 片手に本。片手に猫用のおやつを手にしている男は、チューブタイプのそれをシロとクロに交互に与えてやりながら、クックと声を上げて笑ってみせた。
「将を射んとする者はまず馬を射よ。あなたを手に入れる為には、先ずは彼らを手懐けるところから始めなければ」
 馬鹿じゃねえの。反射的にそう言葉を返すも、きっとこの真面目が服を着て歩いているような男のことだ。八割以上は本気で云っているのだろう。ぺろぺろと幸せそうな顔で、シュウから差し出されるおやつを舐めている二匹の使い魔に、だったら俺にも何か寄越せよ――と、マサキは云わずにいられなかった。