「珍しいこともあるものです」
シュウは淹れたばかりの紅茶をウエンディに差し出した。
体型維持に気を配っている彼女は砂糖やミルクを入れるのを好まないようだ。シュウ自身も折角の茶葉の香りを愉しんで欲しいという望んでいるからこそ、客人側から云ってこない限りは砂糖やミルクを出したりはしない。特に何も云わずに紅茶の入ったティーカップを受け取った彼女に、それで良かったようだ。と、シュウは自身の分のティーカップをテーブルの上に置いた。
「私も偶には遠出をしたくなるのよ」
ゆったりと香りを嗅いでから、ひと口。紅茶を啜ったウエンディの表情がぱあっと明るくなる。美味しい。もう四十近くになるとは思えないほどに若さを保った容姿。典雅に微笑んだ彼女はそう云って、続けてもうひと口と紅茶を口に含んだ。
今日のラングランも温暖な気候だ。まさに常春と称するに相応しい。柔らかい太陽の光が一面の窓から差し込んでくるリビングは、空調を必要としないぐらいに暖かかった。
普段はマサキぐらいしか訪れる者のない家。そのリビングで、シュウは何の前触れもなく家に訪れてきたウエンディと対面していた。
勿論、彼女はひとりでここまで足を運んだのではなかった。
玄関前にひとりで立っていた彼女にシュウが尋ねたところ、マサキが操縦するサイバスターに乗せてもらってきたのだという。マサキには適当な時間に迎えに来てもらう予定だと笑った彼女に、仕様のない。シュウは照れ屋な彼のわかり易い行動に苦笑せずにいられなかった。
気紛れにシュウの許を訪れては、気が向くままに。まるで渡り鳥のように羽根を休めてゆくマサキは、この場に自分がいようものなら、シュウとウエンディに色々と当て擦られるとでも思ったのではないだろうか。気まずさを覚えるより先に逃げることを選ぶ辺り、今だにマサキは色恋沙汰に慣れてはいないようだ。
けれども、長い付き合いとなっても変わることのない彼のそうした純粋さは、世間ずれして久しいシュウの心を温めてくれる。今頃彼はラングランの雄大な大地を駆け回っていることだろう――マサキを想ったシュウは、だからこそ口元を緩ませずにいられなくなった。
「なあに、その顔。何だか嬉しそう」
ウエンディに指摘をされたシュウはクックと嗤った。
「果たしてマサキが無事にあなたを迎えに来れるのかと、そんなことを思ったのですよ」
「本当かしら?」茶目っ気に満ちた表情。シュウの顔を覗き込むように上半身を傾けたウエンディが微笑む。「だってマサキ、もう何度となくここに足を運んでるのでしょう。今更迷うこともないと思うのだけど」
「三度に一度は迷っているようですよ」
「相変わらずなのね。レーダーが使い物にならないのは仕方のないこととはいえ、行き慣れた道ぐらいは普通に覚えてもいいものだけど」
「彼の目印の取り方は私たちと異なり、独特ですからね」
落ち着き払った態度を取ってはみせているものの、マサキ=アンドーという人間は、注意力散漫な性質であるようだ。唯一の泣きどころである方向感覚の鈍さ。どうも彼は目印を取ったら負けだとでも思っているのか、行き慣れた土地でもまともに道を覚えられた例がない。
いつだったか、あまりにも見当違いな道にばかりマサキが入ろうとするものだから、どうやって目的地までの道を覚えているのかと見兼ねたシュウが訊いてみたところ、「全ての道は何処かには通じてるもんだろ」と、自信たっぷりな答えが返ってきた。
「そうなのよ。この間城下に出た時なんて、野良猫の親子がいた通りって云ったのよ。足があるものを目印にするのは危険だから止めなさいって、今まで散々云ってきてるのに」
「他人から悉く同じことを云われているのに、何故それが出来ないのでしょうね。私は時々、マサキが私たちとは異なる生き物なのではないかと思いますよ」
「それでしょっちゅうはぐれてるのにね」ふふ、とウエンディが笑う。
幼い頃から目にしてきたウエンディの稚さは、今となっても変わることがない。懐かしさをシュウの心に運んでくるウエンディの笑顔に、シュウは目を細めた。少しばかり歳を取ったようにも映るが、出会った頃そのままの姿がそこにある。
彼女といると、シュウは過ぎ去った歳月のことを忘れてしまいそうになる。
いつ会っても、前回の続きから関係を始められる女性。人間関係が入り組むことを避けたいシュウとしては、女性はなるべくなら関わり合いになりたくない存在だ。けれどもウエンディは違う。四半世紀もの間、下心なくシュウと付き合い続けてくれた女性。それはシュウとマサキの関係が変わっても変わることがない。
穏やかで、たおやかで、無邪気な童女。プライベートに他人を踏み込ませることを好まないシュウが、彼女の突然の来訪を素直に受け入れたのは、それだけウエンディという女性が稀有な存在だからでもある。
「今は何の研究をしているの?」
ひとしきりマサキの話に花を咲かせたところで、一区切りとばかりにウエンディが尋ねてくる。
彼女はシュウの心に土足で上がり込むような真似をしない。過ぎた月日の間に何をしていたのかさえも尋ねてくることがない。もしかするとマサキから聞いているのかも知れなかったが、少なくともシュウの前では、彼女はいつでも現在進行形の話ばかりを尋ねてきた。そう、こんな風に――。
※ ※ ※
「練金学士協会で研究漬けの生活を送っているとね。息抜きをしたくなるの」
ようやく迎えに来たようだ。三時間ほど話し込んだ後に外から響いてきた聞き慣れた魔装機神の駆動音に、自由になる時間の終わりを感じ取ったのだろう。ウエンディがぽつりと呟く。
「研究だけに専念していられればいいのだけど、色々な雑務もこなさないといけないでしょう。そうすると、私、こういうことをする為に練金学士になったのかしらって思っちゃって……」
「宮仕えの辛いところですね」
「そうね。幾らラングランの政治機関と関係がないとはいっても、練金学士協会のバックアップをしているのはラングランだもの。無関係とはいかないわよね」
不世出の才女として練金学士協会で恵まれた地位を築いているウエンディにも、彼女なりの悩みはあるようだ。無理もない。彼女の言葉を聞いたシュウは静かに頷いた。
一見、華やかに映る世界にも、裏の顔はあるものだ。ラングランのバックアップを受けている関係上、練金学士協会では国の利益に供与しない研究の予算申請は通り難かったし、無事に予算が認められても、政治機関からの圧力や干渉などの苦難が待ち受けている。
彼らが立案した研究は、その大半が手を付けられることもなく消えてゆくのだ。
協会内部での足の引っ張り合いは日常茶飯事であったし、協会外の練金学士からのやっかみや攻撃もまた然り。その世界で果敢に戦い続けるウエンディ。彼女の苦労を察してやれないほど世間知らずではないシュウとしては、協会に所属出来ない我が身こそ幸福なのではないかと思ったりもする。
「あなたが羨ましくなることもあるわ、シュウ。何のしがらみもなく研究に集中出来るのだもの」
それは彼女も同じだったようだ。
シュウは音の止んだ窓の外に目を遣った。今日も美しき白亜の機神。そこから降りてきたマサキが家に向かって歩いて来るのが見える。彼は勝手知ったる家だからか、家主たるシュウに断りを入れるつもりはないようだ。程なくして、ぎぃ。と玄関扉が開く音がしたかと思うと、入るぞ。と、その声が屋内に響き渡った。
今更いちいち返事をする仲でもない。シュウはウエンディに視線を戻して、彼が姿を現わすのを待った。
「あなたぐらいの実力者であれば、練金学士協会を離脱してもやっていけると思いますよ」
「あら、随分買い被ってくれるのね」
そう云ってどこか寂し気な笑みを浮かべたウエンディは、それ以上言葉を継ぐことはせず。恐らくはテューディとサイバスターのことを気にしてだろう。近付いて来る足音の主を求めるように、リビングの入口へと視線を向けた。
「悪い。遅くなった」
どかどかと騒がしい足音を立てていたマサキが、二匹の使い魔とともにリビングに入ってくる。前髪を逆立てている彼は相当に急いだのだろう。それを直してやりながら、本当に。と、ウエンディが云った。
悲恋を迎えて尚、変わることのない彼女とマサキの付き合いに、シュウが何かを思うことはなかった。彼女はシュウが思っているよりも強かで、芯の強い女性だ。結果の出たことにしがみ付くような真似をするような人間ではない。
シュウは彼女に全幅の信頼を寄せているのだ。
マサキとの付き合いもシュウに接するのと同じように、前回の続きから――と寛容に受け入れているウエンディ……彼女がこの先どういった道を選ぶつもりでいるのか、シュウは彼女から聞いたことはなかったが、きっと強情な面を持つ彼女のことだ。新しい恋を積極的に探すような真似はしないに違いない。
「急いだんだが、中々知ってる場所に出なくてな」バツの悪そうな表情。そこからは、シュウとウエンディが想像していたことが起こったらしいことが伝わってくる。「本当に悪かった、ウエンディ。一時間もしたら迎えに来るって云ったのに、約束を守れなくて」
「もう。だから云ってるでしょう。足のないものを目印にしなさいって」
迎えが遅くなったことをしきりと詫びるマサキに、笑いを堪えながらウエンディが云う。
「うん、まあ、目印にはしてるんだがな……」
「森や林や山は目印にはなりませんよと云った筈ですが」
「わかってるよ」シュウの言葉にマサキが鼻の頭を掻く。「湖とか神殿とかだろ。わかってるけど迷うんだよ」
ウエンディの顔がシュウを向く。笑いごとではないのだが、常々迷っている割には最終的に目的地に辿り着いてしまうマサキの豪運の所為か、滑稽に感じられること他ない。
シュウはウエンディと顔を見合わせて笑った。
どれだけ辛抱強く注意喚起を続けても治ることのない彼の方向感覚。唯一の弱点が、けれども愛くるしく感じられて仕方がない。ひとしきり笑ったシュウは、そうして不貞腐れたような表情でいるマサキを振り仰いだ。
「そろそろ夕食の時間も近くなりましたし、どうです? 三人で一緒に食事に出ませんか」
「お前らの話に俺がついて行けると思ってるのかよ」
「そういった話はもう充分し尽くした後ですよ」シュウは立ち上がって、壁に掛けてあるコートを手に取った。「後は穏やかに近況報告でもすることにしましょう」
シュウは視線をウエンディに向けた。「ねえ、ウエンディ」シュウの言葉に花が零れるような笑顔を浮かべた彼女は、まるで童女のように無邪気さも露わに頷いてきた。