それは眠るのを先延ばしにするようにベッドに入って暫くの間、他愛ない話を繰り返していた腕の中のマサキが、それはまるで玩具のロボットが突然電池切れを起こしたかのように、「寝る」と呟いて本当に眠りに落ちてしまった後のこと。
シュウはまんじりとしない気持ちで、安らかな表情で眠りに就いているマサキの表情を眺めていた。
幸福である筈の時間に不安を感じるようになってしまったのは、自らの中にあった情熱が薄れてしまったように感じられてならなかったからだった。平穏な――それはフラットと呼び変えてもいいような情動。マサキがいることが当たり前となった日常は、確かにシュウが望んだ世界であった筈なのに、彼の行動ひとつに心を揺さぶられていたかつての日々が嘘のように、感情の起伏に乏しいものとなってしまっていた。
心が波立つことがなくなった安穏たる日々。嵐のような日々の後に訪れた静かな時間は、シュウのマサキに対する向き合い方を変えた。それまでマサキにアクションを求めてなかりだったシュウは、マサキからのアクションを待つようになった。激しく縛り付けるよりも、静かな受容を。それがシュウの心さえも変えてしまったのだろうか? それとも、それこそが飽きであるのだろうか?
人間とは手に入れた瞬間からそれが大事なものであればあっただけ、失うことを恐れるようになる生き物だ。少なくともシュウは、自らをそうした執着心の強い小心者であると認識している。だからこそマサキを手に入れた後も、彼に激しい執着心を抱き続けるものだと思っていたのだ。それだのに。
日々鳴りを潜めてゆく情熱が怖かった。
あんなにも執着していたマサキ=アンドーという人間に、シュウは決して興味を失った訳ではなかったけれども、縮小していくように感じられてならない所有欲。波風立たぬ生活というものは、もしかすると人間の欲を奪ってしまうものであるのやも知れなかった。とはいえ、それにしても理解が及ばぬまでに穏やなる『何か』へと変貌してしまった感情に、シュウはもしかすると自らのマサキに対する気持ちが潰えてしまったのではないかと疑わずにいられなく。
まだこういった関係を望むことさえ考えていなかった頃に、シュウの中にあった滾るような感情の数々は、そのどれもが理性では抑えきれないまでに心をさんざめかせてくれたものだった。考えただけで沸き立つ心は、目にすれば強く縛られたものだったし、爪痕のような余韻を残さずにいられないものでもあった。更には厭世観の強いシュウを現世に引き留めてくれるものでもあったし、掻き抱いてくれるものですらあった。だからこそシュウは、それがもしかするとマサキを遠ざけてしまうだけの結果になるかも知れないと頭では理解していながらも、愚かにも何の計画性もないままに、自らの感情を行動で示すようになっていったのだ。
時に途惑われ、時に反発を生み、時に突き放されては、それでも諦めきれずにマサキを獲得しようと藻掻いた日々。それはシュウに果てしのない執着心を与えてくれたものだった。それがどうだ。今のシュウはマサキがいる日常を、当たり前のものとして甘受してしまっている。
もしかすると自らの恋心というものは、ただ自らが満足出来る勲章を欲するだけの気持ちだったのやも知れない。思いがけずマサキを手に入れてしまったシュウは、不器用に距離を探りながらも辿り着いた今日という日々に、何故か少なからず不満を抱いてしまっている。ただただひっそりといつしか奪われていった情熱は、その表れでもあるのだろう……そうまで考えてしまったシュウは、自らに秘められた傲慢さに溜息を洩らさずにいられなかった。
――幸せなのだ、自分は。いや、幸せであるべきと云い換えるべきか……
いったい自らの心はどうしてしまったというのか。手に入れた当初こそ浮き立った心。薔薇色の人生とはよく云ったものだが、そういった世界が自らに拓けるとは思っていなかったシュウは、これがそういった状態であるのか――と新たに得た知見に興奮せずにいられなかった。きっと、これからもそうした発見を重ねながら、マサキと生きていくに違いない。あの頃は確かにそう思っていた。そう、これからもそうした日々が続いていくものだと……。
それともこれが倦怠期というものであるのだろうか。うん……と小さく呟いて寝返りを打ちたそうにしているマサキに、シュウは自らの腕を解いてやった。くるりと向けられる背中。自らにとっては小さく感じられるこの背中に、彼は様々な期待を背負っているのだ。そう思いはするものの、心が強く動かされるあの感覚は生じない。
支えてやりたいとは思っている。助けてやりたいとも思っている。それなのに、何故。
子どもが手に入れた玩具に飽きてしまった時のように、簡単に手放すような真似だけはしたくない。けれどもそう思う気持ちが執着心からきているものなのかさえも今のシュウにはわからないのだ。俗物根性の強いシュウは、それがもしかするとただの見栄である可能性も捨てきれないと思っている。そうだとしたら、自分はなんと傲慢で身勝手な人間であろうか! 手に入れた存在を、自分は自らの見栄の為に消費している!
――この胸に巣食う『何か』の正体は何なのだろう。
それがシュウの心を、感情を、情熱を、穏やかなものに変えてしまった。時間と立場、そして構築されてゆく柵は、確かに人の在り方を変えていってしまうものであったけれども、本質までもは変えられない筈だ。少なくともシュウが見てきた人間というものはそういった生き物であったし、シュウ自身もまたそういう生き物のひとりであった。にも拘わらず、蘇らない情熱。もしやシュウ=シラカワという人間は、生得的には感情を持ち得ない生き物であったとでもいうのだろうか。
まさか、とシュウはその考えを打ち消した。いかにシュウが元来感情に乏しい人間であったとはいえ、それはシュウが自らの感情を節制することを知っているからだ。確かにその在り方はシュウから人間性を奪ってしまったかも知れないが、マサキに対する感情然り、戦いに懸ける思い然りと、発作的に生じる熱情までもを斬り捨てて生きてきた訳ではない。そう、シュウ=シラカワという人間には、自らを懸けて挑みたいものが存在している。
――ならば私はマサキを失ったらどう感じるのだろう。
瞬間、心がざわめいた。これまで通りの日常に戻るだけだ、とは思ってみても、そこにはもうマサキの存在はないのだ。遠く存在していた彼と、会うことさえも叶わなくなる。それはどれだけシュウの心を殺すことになるだろう! シュウは狼狽えた。それまでの考えなど誤謬でしかなかったと思うまでに、訳もなく動き回りたくなるような衝動性を仮定の話に感じている!
シュウは『何か』の答えを得たような気がした。
好意が恋へと変わるのであれば、恋が変わる先は何であろう? 関心を寄せるのが好意であり、激しく情熱を引き起こすものが恋であるならば、穏やかに心を満たすこの感情は何であろう? そうだ。と、シュウは思った。自分は失ってなどいない。穏やかなるその感情を手に入れてしまったからこそ、激しく身を焦がした恋心を失ってしまったと錯覚しただけなのだ。
ねえ、マサキ。シュウは背中を向けているマサキの身体を、彼が起きてしまうかも知れないのを承知で抱き寄せた。う、ん……何だよ。うっすらと開いた目が、けれども大事を告げるものではなかったからだろう。再び閉じられたかと思うと、またも寝息を立て始める。そうしたシュウの発作的な行動を、寛容に受け止めてくれるマサキの態度が、シュウにはどうしようもなく有難く感じられて仕方がなかった。
――私はもう望まなくとも良くなったのだ。
乱れ騒ぐ感情を懐かしく感じてしまうのは、都合のいいことばかりを自分が覚えているからでもある。その裏側にあった、悩み、傷付き、苦しんだ夜の数々など、今となっては手のひらに掬える程度にしか思い出せない。確信めいた思いが胸の中に渦巻いている。シュウはゆっくりとマサキの耳元に、自らの口唇を寄せていった。
そして自らが得た感情を口唇に乗せる。愛していますよ――と。そう、シュウはマサキによってまた新たなる知見を得たのだ。それこそが愛情。穏やかに心を満たす湖のような感情の正体であったのだ
君に恋したあの日から。
シュウマサへのお題【おやすみ、マイスイート。/幸せだ、と自分を騙した。/突き離される程好きになる。】