恋しくなった

 ひらめくカーテン。細く開いていたリビングの窓から風が入り込んでくる。
 それまで滞留していた空気が突然流れ出したのは、玄関の扉を誰かが開いたからだった――と、云ったところで、誰が訪れたのかはシュウにとっては明白だった。渡した合鍵を十二分に活用している彼の為に、きちんと施錠するようになった玄関扉。彼はどういった気持ちで鍵を開けているのだろう? いつか訊いてみるのもいいかも知れないと思いながら、シュウはその人物がリビングに顔を出すのを待った。
 とんとんとんと床を踏む彼の靴の音。ややあって、よう。と、リビングに顔を出した彼の表情は、まだ昼日中だというのにどこかしどけなかった。
「何かあったのですか、マサキ」
「別に……」
 尋ねた先から耳を赤くするマサキに、何かがあったのは間違いないとシュウは思うも、図太い神経の持ち主である彼がこういった反応をするような出来事など数に限りがあろうというもの。
 何せ、異性との身体的な接触ですら意に介さないのだ。リューネに腕を組まれようとも、ウエンディに頭を撫でられようともなんのその。その癖、性的な接触には初心なところがあるときたものだ。
 ――また、プラーナの補給でも受けたのだろうか。
 だとしたら腹立たしいこと他ない。人目に触れる場所で大っぴらに触れることの出来ない恋しい人。それさえもシュウは飲み込んでマサキの傍にいようと誓っているが、だからといって簡単に嫉妬心が消せるほど、自分たちの仲に自信がある訳でもなかったし、達観してもいなかった。
 シュウはマサキのらしくない雰囲気の理由を探ろうと思った。マサキ――と、その名を呼ぶ。
 けれどもその瞬間、マサキはシュウが予想だにしていなかった行動に出てみせた。ソファの前に歩んでくるなり、シュウの膝の上に開かれている書物を取り上げ、空いたスペースに片付けた彼は、そのまま、シュウの膝の上に乗り上がっていた。
 とろんとした瞳。扇情的にも限度がある。他人の目には決して触れさせたくない表情でシュウを見上げてきたマサキは、続けて、ん。と、催促するように声を上げた。
 珍しいこともあるものだ。
 シュウはマサキの腰を引き寄せながらその口元に口唇を重ねていった。待ち望んでいたかのように開かされた口唇から、厚ぼったい舌が這い出てくる。程なくして口腔内を探り始めたマサキの舌に、シュウ理由を尋ねるのを後回しにして、彼の口唇を貪ることにした。
 稀にはあることではあったものの、ここまで穏やかにマサキがシュウを求めてくることは滅多にないことだ。
 彼は大抵、爆発寸前の感情を鎮めるようにシュウを求めてきた。
 怒りに哀しみ、虚しさに遣り切れなさ。胸に堆積した苦々しい感情の数々を、彼はシュウの温もりで塞き止めようとしていていた。魔装機神操者として立ち回る彼は決してそういった弱味を表に出すことはしなかったが、シュウにはそういった時のマサキが助けを求めているようにしか見えなかった。
 けれども今日のマサキは違う。
 シュウの膝の上で身を乗り出してシュウの口唇を貪っている彼は、限りなく満たされた表情でいる。
 シュウは頃合いを見てマサキから口唇を離した。何があったの? 髪を撫でてやりながら尋ねると、頬を上気させながら、笑うなよ。話す決心を付けたらしいマサキが口を開いた。
「さっき、喫茶店で昼飯を食ってたらさ、窓の向こうの大通りに凄い仲の良さげなカップルがいてさ。何となく見てたら、立ち止まってキスし始めてさ」
「……あまりまじまじと見るものではないでしょうに」
「そこで目を逸らしたんだよ、俺は。ちゃんと」
 頬を膨れさせたマサキが、やっぱいい。と、顔を背ける。シュウはマサキの両頬を手のひらで包み込んだ。拗ねた表情が堪らなく愛くるしい。
「野暮なことを云いましたね」
 性的な接触に初心なマサキのことだ。目の前でそういった光景を繰り広げられては、さぞ落ち着かなかったことだろう。シュウはマサキの顔を自分の方へと向けさせた。続けて、マサキ。そう促すと、拗ねた表情が少し和らぐ。
「……別に、何もねえよ。ただ、その瞬間、お前が恋しくなったって、それだけ――」
 刹那、シュウの心臓が割れんばかりに跳ね上がる。弾かれたようにマサキを抱き締め、感情の赴くがまま。遮二無二そこかしこに口付ける。いつもなら、僅かにみせてくる抵抗の印は、けれども今日はない。どこかうっとりとした表情でシュウの口付けを受けているマサキに、その気持ちのほどを知る。

 ――彼でも、自分を恋しいと感じることがあるのだ。

 遣り切れない胸の内をぶつけるようにシュウを求めてきてばかりだったマサキ。彼の本心をほんの少しばかり垣間見たシュウは、もしかすると彼はシュウが思っているよりも、シュウ=シラカワという人間に対して心を開いているのかも知れないと――その温もりに溺れながら感じ入らずにいられなかった。