恋の花咲く季節だから

 まるで写真立てのフレームのように、窓枠が城下町の景色を切り取っていた。
 今日のラングランも好天だ。中天に座す太陽が温かな光で辺りを照らし出している。遠くに王城のシルエットが浮かぶ中、目の前の大通りを通りを行き交う老若男女。腕を組んで歩くカップル……仲の良さそうな親子連れ……喫茶店の窓に映し出される人間模様を、頬杖ついて眺めていたマサキは、いよいよ重くなってきた沈黙に耐え切れなくなって口を開いた。
「恋バナでもしようぜ」
 瞬間、目の前の席に座しているシュウの眉間に皺が寄った。
「何だよ、その顔」
「いえ、一体どういった了見で恋バナなどという単語があなたの口からでてきたものかと思いましてね」
「何だよ、お前。顔を合わせりゃリューネやウェンディをどうするつもりなのか尋ねてくる割に、てめぇの話をするのは嫌だってか」
 マサキは目の前のグラスをストローで掻き混ぜた。そして中身を啜って顔を顰めた。
 氷が大分溶けて水の膜を張っていたアイスコーヒーはすっかり味を薄くしてしまっていて、飲み応えのないこと他ない。こうなるとシュウの前にあるティーカップが羨ましく感じられたものだ。俺もホットにするか。メニューブックを掲げてウエイターを呼んだマサキは、ホットコーヒーを注文してシュウに向き直った。
「で、恋バナだよ。するのか、しないのか」
「鈍感が服を歩いているようなあなたにしては積極的な発言ですね」
「お前もするんだよ」
「あなたが自分の好みについて語りたいのであれば、聞くのは一向に構いませんが」
「面白くねえヤツだな、お前」
「下世話な好奇心は身を滅ぼすと知っていますから」
 うっすらと笑みを浮かべてはいるものの、心の底から笑っているとは言い難い表情。シュウ=シラカワという男はいつもこうだ。マサキはこれまで目にしてきた彼の表情を思い浮かべながら、なのに何故――と、この場で彼とテーブルを挟んで座っている自分に疑問を抱かずにいられなくなった。
 付き合い易い人間ではないのだ。
 穏やかで理知的ではあるものの、超然とした態度。孤独を恐れぬ男は、マサキとは異なる視点で世界を眺めている。それは神の視点とでも呼ぶべき大局観で、地にへばりついて生きているようなマサキからすれば、受け入れ難い感情を呼び覚ますことがままあった。
 何せ、彼の表情一つ取ってもそうなのだ。良く出来た仮面のように固定化された表情の数々。それは物怖じしないマサキをして時に恐怖を感じさせる。
 そもそも、シュウは個人的な感情を些末なものと考えているようだ。優先されるべきは実証された理論。彼の主張には幅のある感情など排斥すべきだという確固たる意志が窺えた。まるで――そう、まるで、機械のように正確無比な理論に支えられた世界を彼が望んでいるかのように。
 だからマサキは、シュウと話をしていると、自分がとてつもない愚者になった気になるのだ。
 付き合わなければそういったコンプレックスを抱かずに済むのはわかっている。だのにマサキはこの場にいてしまっている。それはシュウがマサキを誘ってきたからに他ならなかった。
 そこの曲がり角で顔を合わせるなり、奢りますよ。と、いつもと同じ声のトーンで喫茶店を指し示したシュウ。それならば少しぐらいは付き合ってもいいだろうと応じてしまったのがマサキの運の尽きだった。
 久しぶりの再会に話が弾んだのは十分だけで、その後は沈黙だった。マサキの言葉を待つように紅茶を啜り続けるシュウに途惑ったマサキは、だから話題を求めて窓の外に目を遣るしかなくなった。
 シュウのパーソナルな情報を知らないマサキからすれば、自分から振れる話題には限りがある。けれどもその当たり障りのない会話に何の意味があるだろう? 普段の彼が何をしているのか。何が好きで、何が苦手なのか。もっと云えば、仲間とどういった付き合いをしているのか……自分について語ることをしない男の私生活は、マサキからすれば謎以外の何物でもなかったが、元々他人の個人的な事情に踏み込むような会話が苦手なこともある。だからマサキは黙った。深く詮索すれば何が出てくるかわからない話題など、マサキでなくとも切り出したくないだろうに。
 だからマサキは、窓の外を歩くカップルを目にして思い浮かんだ話題を口にしたのだ。他意など何もない。ただ、サフィーネとモニカをシュウがどうするつもりでいるのかを聞ければいい。その程度の気持ちだった。それがリューネとウェンディを持て余している自分のヒントになるかも知れない。マサキはそう考えたのだ。それなのに――。
「下世話な好奇心、結構じゃねえか。お互いの近況報告だけで終わるって、それって結局無責任な噂話をしているのと一緒だろうよ」
 個人的な近況報告の筈が、仲間の近況報告になってしまっているのは良くあることだった。シュウも疑問を抱いてはいないのだろう。その話の流れの中で、仲間のプライベートな話を近況としてマサキに語って聞かせてきた。
 ――最近はお菓子作りが楽しいようですよ、あのふたりは。良く一緒に作ったと云っては、私の許に出来たてのお菓子を届けに来てくれています。
 それと恋バナの何が違うのか。マサキにはわからない。わからないからこそ、テーブルに届けられた店のオリジナルブレンドのコーヒーに口を付けながら、シュウの返答を待った――と、確かに。と頷いたシュウが、表情を和らげた。
「あなたの言葉も尤もですね、マサキ。しかしいざ恋バナをするとして、どういった話をするつもりですか。あなたと私では出来そうな会話に限りがありそうな気がしますが」
 きっとリューネやウェンディの話になると思っているのだ。シュウの言葉からそれを察したマサキは、テーブルから身を乗り出した。そして、シュウの端正な面差しを間近に声を潜める。
「ここだけの内緒話だ。好みのタイプについて語ろうぜ」
 シュウの眉目が開く。
 マサキを鈍感が服を着て歩いていると評しただけあって、シュウにとっては意外な発言であったようだ。もしかするとマサキが異性に興味があると思っていなかったのか知れない。彼にしては珍しく、どう反応したものか悩んでいるのが伝わってくる声が響いてくる。
「好み……ですか。しかしそういったものは結局無意味になるものでは? 好きになれば痘痕も靨とは良く云ったものですし」
「いいんだよ。理想を語るって楽しいだろ」
 そうと決まれば早速だ。マサキは座席に身体を深く埋めて窓の外に目を遣った。そして、「ああいうの、いいよな」と目に付いた少女を視線で示した。
 ストレートのロングヘアー。瑞々しい白い肌に黒目と薄紅色の口唇が浮かんでいる。ふんわりとした雰囲気の少女は、見た目に違わぬ楚々とした歩みで喫茶店の窓を横切って行った。
「あなたも男だった――ということが良くわかりましたよ、マサキ」
 どこか呆れた風でもある。
「煩ぇよ。夢見るくらいいいだろ」
「ああいった儚げな少女に限らず、落ち着いた大人の女性にも弱いですし、実際、あなたの好みは普遍的な男性らしさに溢れている気がしますね」
 ティーポットに残る紅茶をカップに注ぎながら、抑揚なくシュウが口にする。
 男性に人気の高いタイプの異性であっても、彼の興味を呼び覚ますには至らないようだ。流石は女性に興味がないと噂されるだけはある。ぴくりとも動かぬ表情。マサキの弱味を指摘したシュウが、澄ました顔でカップに口を付ける。
「それは慣れないだけだ」
 反射的にマサキは言い訳めいた言葉を吐き出していた。
 そう、マサキは女性に不慣れであるが故に、どの女性に対しても弱かった。構えていようとも、照れや恥ずかしさを感じずにいられない……。
 図星を指されたからこそ感じるいたたまれなさ。それがマサキに焦りを感じさせた。だったら今度は自分が訊く番だ――マサキはシュウに向き直って、彼の好みを聞き出そうと試みた。
「だったらお前はどうなんだよ」
「女性は苦手ですので」
「そういうところだろ。お前が変な勘違いをされるの」
「子を産む性としては尊敬の念を抱いていますが、恋愛対象になるかと云われるとそれはまた別の問題ですからね」
「なら男性でもいいぞ。好みのタイプを教えろよ」
「そうですね」カップを置いたシュウが考え込む素振りを見せる。「理論で将来を語り合える相手がいいと昔は思っていましたよ」
 ややあって吐き出された言葉に、マサキとしては目を見開かずにいられない。
「お前、本当に感情に振り回されるの嫌なんだな」
「面倒で厄介なものだとは今でも思っていますね」口の端を吊り上げたシュウが続ける。「ただ、嫌かと聞かれるとそうでもありませんよ。心の動きというものは予測不可能な面が多いだけに興味深いテーマです。過去にも幾人もの研究者が性格類型を分類することに心血を注いできましたが、広く普及したものはあれど、万人を納得させる完成度には至っていないでしょう。それは感情が理屈や理論を飛び越えた先にある本能的な反射活動であるからに他なりません。では、その本能は果たしてどういった由来で我々に宿るに至ったのか。気になりませんか、マサキ」
 軽い気持ちで話を振った結果が、この長広舌である。流石はメタ・ネクシャリストと云うべきか。実にシュウらしい返しであるとはいえ、全く予想していなかった展開に、マサキとしては呆れきるばかりだ。
「なんねえよ。何でお前は話をややこしくするんだ。好きなタイプの話だぞ」
 コーヒーに口を付けつつ言葉を返すも、どうやら科学者としてのスイッチが入ってしまったようだ。シュウの語りは止まらない。
「だから、ですよ。理想とする好みのタイプと現実に選んだパートナーとの差異など、興味深い現象に他ならないでしょう。そもそも、心の在処については長く討論が続いていますが、未だに結論が出ていない問題ですよ。脳の活動は限定的で、心を形成するには足りないとも云われていますしね。ですから、我々の身体のどの部分が感情を生み出しているのか。そして、その感情がどうやって好ましさを選び取っているのか……これらは包括的な問題として研究に値するテーマになるのですよ」
「まるでお前、今好きな人間がいるっていうような口をききやがるな」
「おや、どういった面からそう感じ取ったのです」
 シュウの顔に意地悪めいた笑みが広がったのは、その瞬間だった。
 まるでその反応を待ち構えていたのかのようにも映るシュウの態度。マサキは一瞬怯みもしたが、ここで引こうものならマサキを揶揄うのに一種の愉しさを見出しているらしい彼のこと。嫌になるほど詰められるのはわかっている。
「昔は思ってたってことは、今は違うってことだろ。それに加えて理想と現実の差に興味があるなんて云われりゃ、幾ら鈍い俺でもそう思うに決まってる」
 だからマサキはそう返した。そして、続けて「――で?」と身を乗り出した。
「どこのどいつだよ。お前をそんな風に思わせる相手って」
「それはいずれわかりますよ」
「何だって?」マサキは色めきだった。
 いずれわかるとシュウがわざわざ口にしたということは、その相手はマサキが良く知る相手の内のひとりであるということだ。
「絶対に云わないから教えろよ」
 流石にこの展開までもは予想していなかったマサキは、再びテーブルの上に身を乗り出した。そして「絶対に云わないから」と繰り返しながら、シュウの想い人を聞き出すべく詰め寄った。
 けれども、シュウとしては成就してから報告したい相手であるのだろう。静かに微笑むばかりのシュウが、マサキの問いに答えてくることはなかった。