「シャワールームを覗きに行こうぜ」
言い出したのは甲児だった。
「……本当に好きだな、甲ちゃん」
毎度毎度の事ながらマサキは呆れて言葉が続かない。その都度見付かっては散々な目に会っているというのに、全く懲りないのだから溜め息のひとつも洩れる。付き合ってしまう自分も自分なのはマサキも承知しているのだが、ガキ大将そのままに大きくなった甲児の性格は嫌いではなく、むしろ馬が合うくらいだ。だから愚痴りながらも結局最後には、その悪巧みに荷担してしまう。
それが困りものでもあるのだが。
その過去を振り返らない潔さは、いい意味でも悪い意味でも如何無く発揮される。学習しないのはお互い様とわかっているが、マサキは少なくとも自分の方が思慮分別はあるのだと思っている。否、思っていたい。
「……こないだも冷水ぶっかけられたばかりじゃねえか」
戒めてはみるものの、それで踏みとどまる性格でないのも承知。
案の定、甲児はかんかと笑って、
「なあに、今度は上手くやるさ。一度で駄目なら二度三度、男から女体の神秘への興味が失われたら終わりだぜ」
意味不明な理屈を吐く。
「諦めが肝心って言葉もあるけどなあ」
「諦めたらそこで終わりだ。粘り強さが勝負の鍵っつー言葉もあるぜ」
いざ行かん、シャワールームへ! と意気揚々と走り出す甲児の背中に、やれやれと肩をそびやかしてマサキは後に続いたのだが。
※ ※ ※
水の流れる音が通路にまで響いている。それに紛れてはっきりと聞き取れはしないが、女性の声らしきものも聞こえてくる。はしゃぐような弾けた笑い声らしきものを聞いて、甲児はしてやったりと振り返って笑った。
マサキの願いも虚しく、シャワールームには人がいるようだ。
――っていうか防音にしろよ無防備にも限度があるだろこの野郎。誰だよこの戦艦設計した奴は。このドアの薄さは絶対趣味だろ趣味。何ヨコシマナナメシマなこと企んでやがるんだよ。この調子だと覗き穴とか隠しカメラとかあるんじゃねーのかもしかして。
ここに来る度に思う疑問を今一度反芻しつつ、マサキは渋面で甲児がその扉に手を掛けるのを見守る。今回はどんな洗礼を受ける事になるのか、などと覗く前から失敗すると決めつけてしまっている自分が切ないやら滑稽やら。巻き添えを食らうのにも慣れたと言えば慣れた。
マサキは覚悟を決め、苦笑しながら甲児の肩越しに、細く開かれた扉の奥を覗き込んだ。ここで覗かなければ覗かないでやいのやいのと言われるのだ。お前は男として失格だの、一人だけ楽しようとしてるんじゃないだの、実は不能なんじゃないかだの。興味がないかと聞かれると、あまり、としか答えようがない。
自分の居所に戻れば鋼の女性陣が、当たり前と洗濯物を広げている。風呂上がりにはタオル一枚で姿を現す事も珍しくはないのだから、シャワールーム如きでマサキは興奮しようがない。慣れとは実に恐ろしい。
籠に納められた衣類の中に覗く下着を見ても、あれはプレシアが好きそうだ、等とついつい冷静に観察してしまう悲しい性。同年代の普通の男だったら、ここは興奮する所なのだろう。現に鼻息荒い甲児を見下ろして、マサキはまたもや苦笑する。
「――何をしているのですか」
背中から、冷水を浴びせ掛けられた如き冷ややかな声が降り注いだのは、甲児がまさに脱衣所に足を踏み入れようとした瞬間。反射的にその襟元を引っ掴んでマサキは通路に引き擦り出すと、慌てて扉を閉めた。
「何だよこの野――」
床に倒れ込んだ甲児が首を押さえて立ち上がり、マサキに詰め寄ろうとして一歩足を踏み出したが、そこで起こっている事態に気付いたらしく、元より大きい目を更に剥いて小さく叫んだ。背後で侮蔑の視線を投げ掛けているのはシュウ。ただでさえ冷淡な顔立ちが、いっそう冷ややかに二人を見下ろしている。
「……これはこれは白河様、ご機嫌麗しゅうて」
硬直しきった顔に引き攣った笑顔を浮かべ、甲児は、ではご機嫌よう、と脱兎の如く逃げ出す。気が合う者同士、やはり甲児も真面目さが気障にすら映る男は苦手らしい。甲ちゃん――、とマサキは手を伸ばして、掴み損ねた腕の遣り場に困惑したまま、
「……また妙な所で会うもんだ」
嫌応なしに向き合うしかなくなった無表情を見上げる。冷淡さは成りを潜め、浮かぶ笑顔は優美なもののやはり一抹の侮蔑を残したままで。
馬鹿にされるのは本意ではない。かといって、この状況では申し開きも出来そうになく、
「健康な青少年なら当然の行動だとは思いますがね」
言葉を全く裏切った表情でシュウが言う。
「だったら何か文句がありやがるかこの野郎」
こちらは付き合っただけとも言えず、怒りに任せてマサキは開き直る。
売り言葉に買い言葉だ。こうなるともう止まらない。常に冷静だが、冷静だからこそ棘のある言葉が浴びせ掛けられるのは先刻承知。他人に対してはそれ程でもない割に、自分が絡むからか、シュウはマサキに容赦ない。
「だからこそ節度ある行動が出来ておかしくないのではありませんか。仮にもここは軍の一部隊。遊撃担当と言えどもある程度の規律は守られるべきだと思いますがね」
言ったが最後、三倍になって返ってくる理屈にマサキが反撃しようとするも、シュウはシュウで言いたい事は言ったとばかりに背を向ける。何処に向かうのか、このままでは癪に障ると、「てめえ、待ちやがれ」マサキは追い縋る。
「聞いてりゃ聖人君子気取りで、ああご立派な訓戒どうもご苦労様ってなもんだ」
シュウは更に先を行く。マサキの言葉を聞いているのかは皆目解らない。解らないが、それでもマサキは吠え続ける。
「大体てめえは一言言えば、三倍の屁理屈で返しやがって大人気ねえとは思わないのかこのトウヘンボク」
カーブを描く通路の奥にはエレベーター。半透明のカプセルタイプの中に乗り込み、まだまだマサキの口撃は続く。
「まさかてめえ、本気で女に興味がないとか言いやがるんじゃねえだろうな。お前の使い魔が面白がって言って歩いてやがるが、それを疑われるような真似はするんじゃねえよ」
シュウが押した階は共有スペースのあるフロアだ。さして時間も経たずにエレベーターを降り、様々な人々が行き交うフロアに出れば、珍しい取り合わせに衆目の元となる。しかし、それがいつもの遣り取りと知れるや否や、フロアは元の賑やかさを取り戻し、その流れをかいくぐってマサキはまだまだシュウを追う。
「それともアレか。てめえがしたくとも出来ないからって口出しか。だったら狭い了見って奴だよな。実の所、この戦艦の設計者ってお前じゃねえの」
円形ホールはまるで公園にも似た趣きで、周囲には草木が繁り、まばらに置かれたベンチで寛ぐ兵士たちの姿が散逸していた。人工灯と空調で自然環境に匹敵する状態が保たれているホールを暫く歩いて、シュウはそこが定位置なのか噴水前のベンチに腰掛けた。
無論、マサキもその隣に腰を落とす。撫然と頬杖を付いてシュウを横目で睨みつつ、脇に置かれっぱなしになっている誰かが忘れたと思しき週刊誌を拾い上げた。視線はシュウに向けたまま、読みもしない週刊誌のページを捲る。
シュウは手にしていた大版の辞典らしき本を開き、こちらは全くマサキには視線もくれず読み始めたかと思うと、
「あなたの文句も出尽くしたようですので、返答しましょうか」
言うなり、マサキに口を挟む間も与えず、一見悠然と、しかし紛れもない反撃の火蓋を切った。
「一つ、大人気ないと仰いますが、その指導こそ年長者の努め。未熟で多感な青少年に、正しき道を示してこその大人でしょう。大人が子供と同じ事をしていては、規律も何もあったものではありません。二つ、女性に興味がないと云うより、興味の対象が異なります。世俗的な事には私は余り興味が持てない。研究に役立つ物であれば、どんな内容でも興味の範疇になりますがね。つまり、あなたとは興味の向かう先が違う、それだけです。三つ、そのような下劣な行為には興味がありません。それでしたら、もっと違う方法を取りますよ。私はあなたより年長ですからね――違いますか」
「……ちょっと待て」
言っている事は至極真っ当で、腹立たしくともこれ以上の反撃は難しい。だが、その並べたてられた理屈の中に、どうにも聞き捨てならない台詞がある。
「違う方法って何だ」 シュウの横顔が――微笑った。
面白がっている、存分に。この状況を。
「さあ……それはあなたのご想像にお任せしますよ」
「お前、こういう時ばかり物体ぶるんじゃねえ」
「あなたと違って大人ですからね」
「そうかいそりゃご苦労様だ。興味がないっていうより性質悪いなこの野郎」
好奇心ですよ、と応えるシュウは肩を震わせて笑いを堪えている。マサキが聞き逃さないのを見越しての発言は、紛れもなく確信的行為だ。わかっていながら乗せられる自分が面白くないのは勿論だが、それ以上に喉に引っ掛かるような腑に落ちなさがある。それがどうしようもなく腹立たしい。
何が腹立たしいのか理解出来ぬまま、マサキは手元の週刊誌のページをやたらめったらと捲った。薄い週刊誌は、直ぐに最後のページに辿り着き、それをもう一度最初から捲る……。その繰り返しを延々と続け、漸く次の言葉を発する頃には、シュウはマサキを――見ていた。
マサキはまともにかち合う視線に怯みつつ、
「……そりゃすげえ実践的な好奇心だな、大人が聞いて呆れるぜ」
「でしたらあなたも試してみればいかがですか。イタ・セクスアリス、若しくは好色一代男など、興味は実践に移すべしと記されていますよ」
言われてわかる筈もない。マサキは本などそうそう読みはしないのに。
知識の差を見せ付けられるのが、また更に不機嫌を煽る。悪循環に陥りながらも止められないのは意地ではなく、多分、恐らく。
認めるに認めたくない感情にマサキは首を振った。
「知るかよ、畜生。ガキに何を聞きやがるんだてめえは。まさか艦の奴とも」
「そんな人間関係に後腐れが出るような真似はしません」
そして、思わず目を見張る程に優しい笑みが浮かび、静かで穏やかな声がマサキに語り掛ける。
――何でしたら、教えて差し上げましょうか。
「お断りだ、この馬鹿野郎!」
叫んでマサキは立ち上がる。
憤然と肩を怒らせ立ち去る背後に、忍び笑いを洩らすシュウが残されて、
――またいつでもお相手しますよ、マサキ。
その言葉はマサキの耳に届かない。