あまり興味の湧かない城下の博物館にマサキが赴いたのは、リューネの度重なる誘いに根負けしたからだった。
歴史的なアイテムに興味がない訳ではない。だが、それは極々一部――例えばかつての剣聖が使用していたアイテムなどに限られた。しかも、それらの展示品に付随する冗長な説明文は、マサキには理解が追い付かない難解な単語も多く、より深い知見を得るには物足りなさを感じるものだ。
説明文が読めなければ展示品の良し悪しもわからない。
加えてせっかちな性質である。迂回も多い博物館の順路を辿るのは、目的をさっさと果たしたいマサキとしては苦痛度を増すものである。退屈な時間が長く続く館内巡り。かくてマサキは妙に浮足立ったリューネの後をついて歩くだけのオブジェクトと化した。
「あれ……? あれってもしかして」
先史時代の文明に纏わるアイテムのコーナーを抜けた先にあったのは、現存する古書のコーナーだった。そこに見慣れた長躯をマサキが発見したのは、リューネと同時であったようだ。秀麗な面差しに優美な所作は、否が応でも人目を惹く。嫌な場面で顔を合わせることになった――と、マサキが顔を顰めた刹那、ぐにゃりと視界が大きく歪んだ。
「マサキ――……?」
自分を呼ぶリューネの声が遠くなる。
それはまるでサイバスターで次元を転移しているかのような浮遊感だった。雲の上を歩いているかのような足元の覚束なさ。目の前では、景色がサイケデリックに煌めいている。ややあって、ビビットカラーに変化した世界が明滅し始める。
そして、反転。
次の瞬間、来館者の姿が消えた博物館内にはマサキとシュウしか立っていなかった。
※ ※ ※
「どういうことだよ……」マサキは辺りを見渡した。
薄暗いホールに展示されている大量の古書。それらを収めたガラスケースが鋭い光を放っている。先ほどまでマサキが立っていた場所に間違いない。だのに、シュウ以外の全ての来館者の姿が消えてしまっている。
当然、リューネの姿もない。
マサキは少し先に立っているシュウの許に歩んでいった。
「お前、何をしやがった」
不条理なまでに能力に恵まれたシュウは、知能に限らず、剣技や魔術にも秀でている。博物館の来館者を一時的に消すぐらいであれば、容易く叶えてみせることだろう。だからこそマサキがきつく詰め寄ってみれば、
「それは私の台詞ですよ」
珍しくも愁眉を寄せてシュウが呟く。
「あなたこそ、知らず知らずの内に、展示品に触れたりしたのではないのですか」
溜息とともに背後の展示品を振り返ったシュウが、「まさか、本の呪いでもあるまいし――」などと呟きながらガラスケースの中の書に視線を注ぎ始めた。
「お前なあ。この状態で博物館見学を続けるつもりだってか」
この非常事態においても自分のペースを崩さないのは、流石の総合科学技術者だが、何十人といた来館者が、リューネを含めて一度に消えてしまっているのだ。このまま呑気に見学を続けられても困る――シュウの隣に立ったマサキはガラスケースの中を覗き込んだ。古びた羊皮紙が綴られた分厚い本。シュウが『本の呪い』と口にした以上、この本には何らかのいわくがあるに違いない。
「この書を眺めていたのですよ、私は。先ほどまで」
「何の本なんだよ、それ。文字が殆ど掠れちまってるじゃねえか」
「条件を満たさないと解けない呪いをかける書です」
「滅茶苦茶物騒じゃねえか……」
マサキはガラスケースの前面にある説明文が記されたプレートに目を遣った。細かい文字を追うのはマサキにとっては根気の要る作業だったが、そこに記されている情報を総合するに、どうやらこの書は『条件を満たすまでひとつの空間に被術者二人を閉じ込める』類の呪いを発揮する魔術書であるらしい。
「お前、何かしたんじゃねえのか。魔術書だぞ。俺にはどうにも出来ねえ」
「流石に私も展示物に手を付けるような真似はしませんよ」
「てか、呪いを解除する条件って何だよ」
恐らく、悪用を避ける為だろう。解除の条件はプレートに書かれていなかった。ということは、その条件を満たせば消えた来館者が元に戻る可能性が高い。そう見込んだマサキがシュウに尋ねてみれば、彼はとても面白くて仕方がないといった様子でクックと嗤い声を上げると、まるで神の宣託を告げるかの如き厳かな口調でこう宣言してみせた。
「心からの愛の言葉を相手に捧げることですよ」
その瞬間のマサキの絶望感!
長い付き合いではあるが、友人と呼べるほど近い関係でもない。かといって仲間というのもまた違う。敵であった期間も長い男がマサキにとってのシュウだ。そういった信頼関係があるようでないような相手にどうやって愛の言葉を捧げたものか。
「……一生解除されないだろ、それ」
「さあ。やってみなければわからないでしょう。ほら、マサキ。云ってみてください、私に」
この緊迫した状況下でマサキを揶揄うつもりであるらしい。悠然と言葉を継いだシュウに、マサキは冗談じゃねえと背を向けた。
シュウに愛の言葉を囁くぐらいなら、博物館から出た方が早い。
そもそも来館者たちが何処にいるかは不明なのだ。別のコーナーに転移させられただけかも知れない。そう考えてのことだったが、次のコーナーに向けて順路を先に進んだところで、見えてくるのは今居る古書のコーナーだ。どうやら無限に通路がループしているらしい。はあ。大きく溜息を吐いたマサキは、黙ってマサキの行動を見守っていたシュウの許に戻ることにした。
「どうするんだよ、これ」
「ですから、やってみればいいだけのことでしょう」
「なら、お前が手本を見せろよ。その結果によっちゃ俺もやってやる」
「それだと面白味に欠けるのですが、いいでしょう。ほら、マサキ。こちらを向いて」
売り言葉に買い言葉とはいえ、こうもあっさりとシュウが自らの提案を受け入れるとは思ってもいなかったマサキは動揺しつつも彼に向き直った。
まるで出来のいい彫刻のように端正な面差し。人間味に欠ける印象を与える鋭い眼差しが、微かに和らぐ。
顔を寄せてきたシュウの口唇から洩れる吐息を自らの口唇で受け止めながら、待つこと暫く。そうっと口唇が重ねられた直後、マサキは確かに彼からの心からの愛の言葉を聞いた。
※ ※ ※
「あれ、マサキ。何処に行ってたの? 滅茶苦茶探したよ」
古書のコーナーで再合流を果たしたリューネの言葉から察するに、どうやら彼女はマサキがいつも通りに道に迷ったと思ったらしかった。
「あ、ああ。悪かったな。ちょっと迷っちまって……」
「いつものことだし、気にしなくていいよ」
周囲の来館者たちの様子にも特におかしなところはない。彼らの中では、消えたのはマサキとシュウの方であって、自分たちは見学を続けていたとなっているのだろう。
――愛していますよ、マサキ。
マサキは夢のようなひとときを思い返した。
天にも昇る気持ちとはあれを指すのだ。幾度も経験してきた口付けとはまた異なる感覚――触れた口唇の冷えた温もりがまざまざと蘇ってくる。マサキが返したのは「俺も」の一言だけだったが、それだけで魔術書の呪いは解けたようだ。呆気なく取り戻された博物館の日常風景に、どことなく物足りなさを感じながらマサキが辺りを窺うと、シュウの姿は既になく。
「それより、マサキ。頬が赤いよ。熱があるんじゃないの?」
「あー、うん。うん、そうかも知れねえ。今日はもう帰るか」
もう暫くこの余韻に浸っていたい。リューネを胡麻化して帰路に就いたマサキは、次にシュウに会ったらどう声をかけるべきなのか。悩ましさを抱えながらも、幸福な気持ちでいた。