雨がそぼ降る日だった。
濡れた窓を横目に、シュウはリビングで読書に励んでいた。
うららかな気候が常のラングランにしては珍しく続く雨。晴れては曇るを繰り返した三日目。ついに降り始めた雨は、止むことを知らず。既に四日にも渡って大地を濡らしている。
お陰で庭先の草花もすっかり頭を垂れてしまった。疲労を覚え始めた瞳を休めるべく窓の外に目を遣ったシュウは、生彩を欠いた外の景色に溜息にも似た息を吐いた。
どれだけシュウが無類の読書好きであっても、物には限度がある。当たり前のように広がっていた青空が恋しく感じられ手仕方がない。読みかけの本をソファに置いて立ち上がったシュウは、紅茶のおかわりを淹れるべくキッチンに入った。
いつもならばリビングからの光で明るいキッチンも、今日は薄暗い。照明を点けてキッチンに立ったシュウは、水を入れたやかんを火にかけながら、自身の使い魔が暇潰しに眺めているリビングのテレビに目を遣った。
タイミングがいいと云うべきか。丁度、天気予報の時間であったようだ。画面に映し出されている週間天気予報。そこから察するに、どうやらこの雨はあと二日ほど続くらしい。
昨日までの降りしきる雨とは裏腹に、弱まった雨足。気詰まりを感じているシュウではあったが、それでも外に出ようとは思えなかった。何せ、悪天候に不慣れなラングラン生まれである。ぬかるんだ道を歩くぐらいならば、完全なる天候の回復を待つ。そう考えるラングラン国民はシュウだけに限らない筈だ。
シュウは戸棚に手を伸ばした。
茶葉を取り出すついでに食料の備蓄を確認する。
パスタにソース、缶詰にライス。これならば地面が乾くまでもつだろう。
ただひとつ難点があるとすれば、チカだけを話し相手とする生活にシュウが飽き始めているということだ。
主人に忠実な使い魔であるチカも、流石に四日も主人と顔を突き合わせる生活に飽きてきているのだろう。今日に至っては数えるほどしか会話をしていない。口数多い使い魔の明らかな異変。朝からの彼との会話を思い返したシュウは、日頃は望まぬ来客がこれほど待ち遠しく感じられることもそうない――と思いながら、淹れたての紅茶を片手にリビングに戻った。
ソファに腰を落ち着け、先ずはひと口。紅茶を啜る。
その瞬間だった。
玄関のドアが開く音がしたかと思うと、人が入り込んでくる気配がした。
来客を望まぬシュウが家に上がり込む許可を与えている人間などひとりしかいない。風の魔装機神サイバスターが操者、マサキ=アンドー。シュウが与えた合鍵を十二分に活用している彼は、ほどなくして二匹の使い魔を連れてリビングに姿を現した。
「何だ? 通夜みたいに湿っぽいじゃねえか」
雨であろうが、彼の健やかなる精神性は損なわれないようだ。溌溂とした表情。先にチカに飛びかかって行った二匹の使い魔に「程々にしろよ」と声をかけつつ隣に腰を落としてきたマサキに、シュウは首を傾げずにいられなかった。
どういった風の吹き回しか。綺麗にラッピングされた一輪の花を手にしている。
それも紫の薔薇だ。
活発な彼には高雅な色は不似合いだ。繁った草木を想起させるボトルグリーンの瞳は、彼のイメージを端的に表している。
百歩譲って、情熱的な赤、或いは健康的な黄色の薔薇ならまだイメージ通りとシュウも頷けたものだが、夕闇を思わせる濃紫の薔薇である。果たして、どういった経緯で手にすることになったものなのか。マサキと薔薇。意外な組み合わせを訝しく感じながら彼の手元に視線を注いでいると、流石にマサキもシュウが云わんとしていることに気付いたらしかった。お前にだよ。そう口にしながら薔薇を差し出してくる。
「私にですか、マサキ」
「柄でもないことをしている自覚はあるぜ」
その割には堂々としている。シュウは不敵に笑うマサキの手から紫の薔薇を受け取った。
「くれるというのであればいただきますが、あなたが自分で考えた手土産とは思えませんね」
シュウはソファを立った。
経緯はさておき、マサキが自分の為に持ってきた手土産には違いない。そうである以上、ぞんざいに扱うなど以ての外だ。シュウは床の上でじゃれ合っている一羽と二匹の使い魔を踏みつけないように部屋を回り込んだ。そして作り棚の上に置いてあるガラス製の花瓶を手に取った。殺風景な部屋を飾るオブジェクトのひとつとして購入した花瓶であったが、本来の意味で役に立つ日が来ようとは、さしものシュウも予想だにしなかった事態だ。
シュウはキッチンで薔薇を活けると、花瓶を作り棚の一番目に付きやすい場所に置いた。作り棚に置いてあるオブジェクトのバランスが崩れてしまったような気がしたが、マサキが持参した薔薇の魅力には劣る。じんわりと染み出す薔薇の香りを嗅ぎながらソファに戻ったシュウは、自らの目線の高さに紫の薔薇があることを確認してからマサキに向き直った。
「雨が続いて売り上げが落ちてるんだってよ」
「何の話です」
「テュッティが良く家に飾る花を買ってる花屋の話さ」
「それでこの薔薇を買ったと」
実にマサキらしい理由だと、シュウは感心した。
口ではぼやいてみせつつも、最後には相手の頼みを聞き入れる。マサキ=アンドーという人間は、ラ・ギアスに召喚された時からそうだった。魔装機操者という命がけの使命も、困っている相手を見過ごせないという単純な理由で受け入れてしまった。
それと比べれば、花を買う買わないなど遥かに軽い選択だ。金に困らぬマサキであれば、容易く受け入れたに違いない。
「雨で外に出られないだろ。だから食い物でも手土産にって思って探してたら、店の前で顔を合わせてさ。何か買っていけって呼び込まれちまって。まあ、お前はあんまり俺の手土産食わないし、それよりは喜んもらえそうかなって」
成程とシュウは頷いた。
確かにシュウはマサキの手土産に少ししか手を付けなかった。だが、それは自分が気に入ったものを買ってくるマサキにより多く食べて欲しかったからでもある。
――そこまで自分はマサキの手土産を喜んでいないように見えたのだろうか。
自らの気遣いが空回りしていたことにシュウは軽いショックを覚えるも、マサキが自分をより喜ばせたいと考えて花を持ってきたのには変わりない。この気持ちに勝るプレゼントが他にあるだろうか。視界の端で咲き誇る紫の薔薇に誇らしさを感じながら、しかし――とシュウはもうひとつマサキに尋ねた。
「何故、紫の薔薇にしたのです」
「折角だからプレゼントにするって云ったらさ、どういった人にあげるか教えてくれって云うんだ。それに合わせた花を用意するのが花屋の矜持だとかなんとか。頑固なんだよ、あの親父」
「それで一輪の紫の薔薇とは、随分と良心的な花屋もあったものですね」
「一輪しかなかったんだよ」花瓶に活けられた薔薇に視線を向けてマサキが続ける。「他の花も混ぜてくれって云ったんだけどさ、いやこの薔薇が主役じゃなくなるって煩えのなんの」
「いまどき珍しいくらいに職人気質な主人のようだ」
シュウはマサキの横顔を見詰めた。
きっと目立つ場所に飾ってもらえたのが嬉しかったのだ。薔薇に視線を注いでいるマサキの顔は満ち足りていて、微笑ましさにシュウの口元もついつい緩む。だが。シュウはマサキの耳に口唇を寄せた。何だよ。マサキがシュウを間近に振り返る。
「聞きたいことがもうひとつあるのですよ」
「もうひとつ?」
「どう私のことを花屋の主人に説明したの」
シュウはマサキに額を付き合わせながら尋ねた。と、即座にその頬が染まる。
「いいじゃねえかよ、そんなこと」
「あなたにとってはそんなことでも、私にとっては大事なことですよ」
紫の薔薇の花言葉は誇りと気品だ。勿論、花屋の主人がそれを知っていたかどうかなどシュウにはわかりもしない。だが、他にも紫の花があるにも関わらず、わざわざ気高さに勝る薔薇の花を選んだくらいである。それはそれだけの力をマサキの言葉が持っていたということだ。
「ねえ、聞かせて。マサキ」
「やだ。絶対にやだ」
気恥ずかしさが最高潮に達したのだろう。頬を膨らませたマサキがシュウを睨んでくる。
「云わないのであれば、云わせますよ」
最早、答えはわかったようなものである。それでも聞きたいものは聞きたい。シュウはやだやだと繰り返すマサキの手を掴んだ。そして、愛おしさの赴くがままに。瞳を合わせられずにいるマサキの口唇に自らの口唇を重ねていった。