映画館での敗北

 何故、こんなことになっているのか。

 マサキ=アンドーは混乱していた。
 偶にはデートらしいデートをしましょう。そう誘ってきたシュウに従って街に出たマサキは、どうやらチケットを用意していたらしい彼に続いて映画館に入った。
 ここまでは良かった。
 本当にごく稀にではあったが、シュウはマサキを娯楽施設に連れて行くことがあった。前回は三ヶ月前の遊園地。娯楽とは縁遠い生活を送っているシュウでも、人並みのデートがしたいという欲求が生じるらしい。騒々しい場が苦手なこともあってか、殆どのアトラクションはマサキが一人で入ることになりはしたが、そういったマサキの姿を見ているだけでも満足なようだ。帰り道での彼は、また行きましょう。などと、上機嫌でいた。
 二人で楽しみたい欲が強いマサキとしては、実のところ、その遊園地の思い出はあまり楽しいものではなかったりするのだが、かといって、いついかなる時でも平静を保ってみせる男が、遊園地のアトラクション回りに積極的なのも違和感がある。だからこの件に関しては、シュウの欲求を満たしただけでも良しとしよう――と、細かいことに拘らないマサキは割り切ってしまっていた。
 とはいえ、不安はあった。一人で楽しむことを求められるのは、想像以上にしんどいものだ。それでも、それがシュウの望みであるのであれば叶えるのは吝かではない。
 それだけに、今回のシュウの映画館というセレクトに、マサキは安堵していたのだ。
 学術書ばかりでは気が張るからか。シュウは時々軽めの文章を求めて、小説本を読むことがある。
 暇を見付けては研究三昧な学問の徒である彼にも物語を楽しむという気持ちはあるらしく、読み終えたばかりの物語の感想を饒舌にマサキに語って聞かせてくることもある。
 そんな彼とは異なり、マサキは文字が苦手だ。数ページも読み進めると目がチカチカしてくる。のみならず、こめかみの辺りが痛んできたりもする。
 まともに読みきれた小説本は数えるほど。かといって、物語にまで拒否感を覚えることはない。積極的に映画館に足を運ぶほど熱狂的に求めるような真似はしなかったが、テレビで流れている映像作品を見ることはよくあった。
 ふたりで同時に共通の物語を視聴する。これに不満を感じることなどありはしない。むしろ彼がどういった作品を自分とのデートに選んだのか――映画館の入り口を潜ったマサキの胸は期待に弾んでいた。
 だのに。
 なんでだ。マサキは隣に座っているシュウの横顔を盗み見た。マサキの肩を抱き寄せつつも、視線を正面の巨大スクリーンに注いでいる彼の表情はいつもと何ら変わりない。なんでだ。マサキは繰り返し、自分が置かれている不条理な状況に、胸の内で疑問符を発した。
 そもそも、シュウが事前にチケットを用意していた時点で、マサキは警戒をすべきだったのだ。
 あるべき肘置きのない座席、横に長いシートに、シュウとマサキは二人で並んで腰かけていた。俗にカップルシートと呼ばれる座席だ。一般席とは一線を画す造り。二人きりの世界へようこそ――というコンセプトでもあるのか。側面から上部までカバーで覆われている座席は、周囲の視線を完全にシャットアウトしてくれる。
 とはいえ、この座席を目にした瞬間のマサキの底なしの絶望感! これを斃せなければ世界が滅ぶといった強敵を目の前にしても、ここまでの絶望感は感じない。そのぐらいに凶悪な造りをしたシート。だのにシュウと来た日には、意味がわからないと混乱するマサキの手を恭しく引いてみせると所作も優雅に席に着いてみせたものだ。
 とかく当たり前が嫌味に映る男である。
 はあ。マサキは小さく溜息を洩らした。
 それに気付いたのではなかろうが、無言で映画を視聴し続けているシュウの手がマサキの肩を撫でた。
 意識してのことなのか、無意識での行動なのか、シュウとテレビを見る機会が少ないマサキにはわからない。ただ、彼がこの映像作品の世界に没頭しているらしいことだけは理解出来た。でなければ、どうしてスクリーンから片時も目を離さないでいるものか。
 マサキは正面のスクリーンに視線を戻した。
 シュウの奇行は今に始まったことではない。特異な才能に恵まれ、希少な立場に生まれ付いた男は、どうも『普通』であることに憧憬を抱いているようだ。しかし、残念ながら普通であることと無縁な彼にとって、それはある種の演技が必要になるものでもある。前回の遊園地の件にしてもそうだが、彼が『普通』を実現しようとすると、大抵おかしな結果になるのはだからだ。
 きっと、シュウ=シラカワという男にとっては、これが『普通のデート』であるという認識なのだろう。
 だったらそれは、甘んじて受け入れるべき厚意でもある。
 マサキは腹を括った。映画館という衆目が集まる場での蛮行に羞恥を感じはするが、幸いというべきか、マサキが座しているのは他人の目に付き難い造りをしているカップルシートである。ならば、場内が明るくなるまでは、映画を視聴することに専念しよう。マサキはシュウの肩に頭を預けて、スクリーンに映し出される物語の成り行きを見守った。

※ ※ ※

 反省はしたのだ。
 前回の遊園地での一幕をシュウから聞かされたチカは、馬鹿なんじゃないですかね。と、ぞんざいな口調で主人をばっさりと切って捨てた。
 ――遊園地に行ってマサキさんを遊ばせて帰ってきたァ? それのどこがデートなんですか? あたくしには保護者が子どもに家族サービスをしているようにしか思えませんが!
 云われてみればその通りである。
 騒々しいアトラクションが苦手なシュウとしては、マサキが楽しんでいる姿を見られればそれだけで良かった。またひとりかよ。そう愚痴りながらも、マサキはそれなりに楽しんでいたようでもあった。だからこれで良かったのだと思い込んでいた。
 ――あのですね、ご主人様。普通の恋人ってのは、同じ体験を二人ですることに喜びを感じるもんなんですよ。そうじゃなきゃ、方々に時間をかけて足を運んだりしませんて!
 チカの台詞にシュウは己の価値判断基準の歪みについて考えずにいられなかった。
 いつもいつも二人で静かに過ごすだけでは彼も退屈だろうと思っていたからこそ、シュウは彼が彼らしくいられる娯楽施設を選んだつもりだった。けれども、チカの言葉が真実であるのだとすれば、それはシュウの独りよがりでしかなかった可能性が高い。
 ならば、次回は彼と二人で同じ体験が出来るものを選ぼう。
 その結果の映画館だった。
 ところがエンドロールが流れ、場内が明るくなり、暫くぶりにマサキの顔に目を遣ったシュウは、どうマサキに声を掛ければいいかわからなくなった。逆八の字に上がった眉。への字に結ばれた口唇。そう、シュウの目に映るマサキは、何故か酷く怒った表情でいた。
 また私は失敗したのだろうか? 不安に駆り立てられながらも、このまま無為に時間が過ぎてゆくのも耐え難い。とにかく、マサキが機嫌を損ねている理由を明瞭りさせなければ……シュウは努めて平静を保ってみせながら、「どうしました、マサキ」と、彼に尋ねた。
「この、馬鹿」
 短く言葉を吐きながらシュウの胸を叩いてきたマサキの瞳に、直後、ぶわ、と涙が浮かんでくる。
「なんてもんを見せやがるんだ。救いが全くねえ」
 どうやら涙を堪えていたが故の怒り顔であったようだ。それが声を発したことで溢れ出てしまったらしい。ぽろぽろと涙の雫を頬に伝わらせ始めたマサキに、彼が意外にも感受性が豊かであったことを知ったシュウは途惑うも、このままにはしておけない。咄嗟に手を伸ばすとその涙を拭った。
 激情家ではあるが、巷に溢れるありふれた悲劇にはドライな目を向けることのあるマサキ。フィクションの世界ともなれば、尚更だろう。シュウはそう思っていたからこそ、映画の内容にそこまで気を遣ってはいなかった。彼の立場を重んじて戦争物を選ばないぐらいの気を利かせはしたものの、それだけだった。
 良くあるお涙頂戴のヒューマンドラマで、こんな風に彼が心を乱すなど思ってもみなかった。
 シュウに涙を拭われたマサキは、止め処ないそれをどうすればいいのかわからなくなったようだ。シュウの胸に顔を埋めてくると、馬鹿々々と云いながら、またも立て続けに胸を叩いてくる。それをやんわりと抱き締めながら、すみませんと云うのがシュウの精一杯だ。
 両親を早くに亡くした兄妹が、世間の荒波に揉まれながらも幸せを掴んでゆくように見えた物語は、中盤の兄の不慮の事故での死から雲行きが怪しくなった。天涯孤独となった妹に襲いかかる容赦ない現実。頼れる相手を失い失意に沈んだ彼女は、それでもどうにか立ち直るのだが、その直後、彼女は自身の身体が不治の病に侵されていることを知ってしまう。
 ラストにスクリーンに映し出されたのは、兄妹が眠る墓に降り注ぐ雨。確かに、マサキが云う通り救いがない。
 監督が何を訴えたいが為にこの作品を生み出したのか、物語に合理性を求めるシュウとしてはまるで理解が及ばなかった。教訓もなければ、救いもない。ただただ過酷な運命が描かれただけ。けれども、腕の中で泣きじゃくっているマサキの反応を目の当たりにするに、監督としてはきっとこうしてただ世の無常や儚さに目を向けて欲しかっただけなのだろう。
「ああ、くそ。酷い目に合った」
 ひとしきり泣いたマサキが、暫くして顔を上げる。
 赤くなった両目。けれどもそこからは、先程までの剣呑さは失われていた。
「お前に情緒なんてもんを期待するのは無駄だと思うけどな、もうちょっと見るものを選べよ」
 苦笑しきりで口にしたマサキだったが、シュウが思うほど気を悪くはしていないようだ。今日はぱあっと遊ぶぞ。そう云って立ち上がると、ほら、とシュウに手を差し出してくる。
「怒っていないのですか、マサキ」
「何でだよ」
 その手に掴まりながら立ち上がったシュウの言葉に、マサキが不思議そうに首を傾げる。
「いえ、デートらしくないものを見せてしまったと思いましてね」
「別にいいだろ。こういうのも時が過ぎればいい思い出さ」
 きっとマサキはマサキなりにシュウの行動の数々に思っていることがあるに違いない。それでも、それを飲み込んで受け入れてくれる懐の深さが彼にはあった。それが愛しくて、そして恋しくて仕方がない。人けのなくなった場内を出口に向かって歩んでゆくマサキの手をしっかと握り締めたシュウは、次こそは彼が喜ぶデートにしてみせようと、何度目の苦い失敗の味を噛み締めた。

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