空を飛ぶ夢を見た。
長く閉じ込められていたアーチ状の籠の扉を開いて、遮るもののない世界へと飛び出し、唯一の光にむけてひたすらに翼をはためかせた。視界には一面の青。雲一つない空を見上げながら、どこまでもどこまでも太陽を追いかけ続けた。
やがて次第に背中に痛みを感じるようになった。深みを増してゆく空の青さに宇宙が近いのだと感じながら、目の前に迫り来る太陽目指して、それでも翼で空気を掻いた。目的の地に辿り着いて何をするつもりだったかは、もう思い出せなくなってしまっていた。
瞬間、一陣の風が舞った。いつしか羽根の大半が抜け落ちていた翼が、ぽきりと音を立てて根元から折れた。見る間に滑降してゆく身体。ふと下界を見下ろしてみれば、凄まじいスピードで迫り来る大地がある。飛ばなくては。そうは思うものの、折れた翼は最早ぴくりとも動くことはなかった。
――ここで、死ぬのだ。
それならば確りとその瞬間の景色を目に焼き付けておこうと、世界を見渡した。空の果てに聳える山々。地平の果てに広がる海原。大地を隆々と埋め尽くす木々。その合間に点々と湖が水を湛えている。凪ぐ風に波打つ平原のなんと滑らかなさま。そのどれもが自分が愛した世界、籠の中から見ていた自由なる世界だった。
自分は籠の中で大人しく世界を見守り続けるべきだったのだろうか? 今更に後悔を感じながらも、時間は巻き戻らない。最後に眩く世界を照らし出す光に顔を向けて、手を伸ばしてみた。その手が届くことはないのだとわかっていながら――……。
そこで目が覚めた。
しっとりと濡れている肌。額に髪が貼り付いている。シュウはベッドの上、上半身を起こした。決して心地良い眠りではなかったようだ。今しがた見終えたばかりの夢の内容を反芻しながら、夢見の悪い――そう呟きつつ、薄く明りを通しているカーテンの向こう側に影を落としている木々に目を遣った。
さわさわと吹き付ける風に撫でられては、緩やかに枝を揺らしている。
そうして、暫く。ゆったりと過ぎてゆく時間に身を任せた。まるで未来をも知れない生活を送っている自分の現状を表しているかのような夢だった……ひととき羽根を休めては、西へ東へ。流されるように戦場へと足を踏み入れてゆく。目指しているものは明確でありながら、何を成したいのかが見付からない。シュウは目先の問題に飛び付いては、それを処理してゆくだけの自らの人生に、疑問を持つようになってしまっていた。
世界の幸福=個人の幸福になるとは限らない。咎人たるシュウにとって、残りの人生は限りなく続く贖罪の旅なのだ。他人が満ち足りた人生を送ることを幸福と称するのであれば、シュウにとっての幸福とは赦されることであるのだろう。決して自ら望んではならない願いではあったものの、湧き上がる感情を抑えきれる筈もない。それは確かな欲として、常にシュウの心の片隅に巣食っている。
誰に、ではなく、世界に赦されたい。この豊かなる世界に牙を剥いてしまった己の弱さを。
それはもっと強靭な精神をシュウが有していれば、避けられたやも知れない事態だった。サーヴァ=ヴォルクルス。憑依を繰り返す精神体は、その強大な力で以て、シュウを自らの傀儡に仕立て上げだ。より原始的で混沌とした世界、無たる世界を創り上げようと……。
シュウは深く息を吐き出した。戦い続ければ、己が目的とする復権は果たされるのだろうか? それとも咎人は咎人として、歴史にその名を刻むことになるのだろうか? 幾度となく繰り返してきた問いを、今また答える者のない自らの胸の内に投げかける。
そこに、ううんと呻くような声が響いた。シュウははっとなって、隣に眠っている人物に目を落とした。すっかり思考の外に追いやってしまっていた同衾者。いつも気紛れにシュウの許を訪れては、気が済むまで家に滞在してゆく彼は、眩しそうに目を細めながらシュウの方を向いて、「今、何時だ……」と、気だるげにも尋ねてくる。
さらさらと額に落ちてゆく前髪を掻き上げてやりながら、もうじき昼になると告げると、明け方近くまでシュウに付き合わされ続けていた彼は億劫そうに身体に起こして、飯の支度をしなきゃな、と呟くと、ベッドから抜け出そうとする。その腕をシュウは、咄嗟に掴んでいた。
「何だよ。もう、付き合わねえぞ」
愚痴めいた言葉には答えず、黙ってその身体を抱き寄せる。あなたがいて良かった。太陽と草と風の香りがする神に顔を埋めてそう呟くと、そうっと。様子がおかしいと感じたのだろう。シュウを案じるように背中に腕が回された。
「夢を見たのですよ。空から落ちてゆく夢を」
「その程度の夢を怖がる年齢でもないだろ」
「自由を得られると思って、開いた籠の中から、空へと羽ばたいて行ったのですよ。けれども、それは束の間の解放でしかなかった」
返事はない。
言葉を探しあぐねている彼の身体をいっそう強く掻き抱いて、シュウはその耳元で囁きかけた。あなたは私を赦してくれますか、マサキ。たったひとことの救済の言葉を求めるシュウに、けれども彼はその愚かさをあざ笑うかのように、こう言葉を吐くのだ。
「赦す、赦さないの問題じゃねえだろ。やっちまったことは取り返せねえ。時間は巻き戻せないんだ。それともお前は、俺に赦して欲しいのか」
「そうですよ。私は誰かに赦して欲しい。私の罪を、もういいと」
シュウの返答に、彼は虚を突かれたようだった。ぴくりと身体を硬くすると、次の瞬間には長く息を衝く。そうして訪れた沈黙。それをシュウは自らが求めるものを拒否する意思と受け止めた。
彼は安易に嘘を吐けない性分だ。それでもシュウの胸中を慮ったに違いない。さりとて喪われた命の数々を無かったことには出来ない。だからこその、沈黙。答えを曖昧に濁して遣り過ごそうとしている……シュウは途方に暮れたような表情をしている彼の顔を、自分に向けて仰がせた。嘘ですよ。きっと今の自分は寂し気な表情で笑っているに違いない。そう思いながら、全てを無かったことにする言葉を吐く。
そうじゃねえよ。彼は怒ったような、拗ねたような調子でそう吐き出した。
「自分を赦せるのは、自分だけだ」
そんなことはわかっている。けれども犯した罪の重さが、時にシュウを酷く悩ませるのだ。決して自身が引き起こしたいと願った事態ではない。だからこそ、裁かれることから逃げた。逃げて、逃げて、償いを求めるように戦場を駆け抜けて、彼らに自らの罪を贖わせるかのように武力で挑み、けれども残ったものは己の罪状だけ。
如何にすれば、シュウは自らが望む救済を得られたものかわからない。
「俺にはお前が何処に行き着くのか、見届けることしか出来ない。答えを出すのだとしたら、その後だ。近い未来に区切りを作っちまって、それにお前が甘んじてしまうようなことがあったら……俺は誰に何を詫びればいいんだ」
わかっていますよ。シュウは彼の言葉に頷いた。世界の守護神たれと生み出された魔装機神の操者である彼に、どうして容易くその言葉が吐けたものだろう。彼はシュウを赦したくとも赦せない立場に在る。
けれども、と、シュウは胸の内で言葉を継ぐ。
終わりのない戦い。今日も、明日も、明後日も。その、先の知れない生活が、着地点を見出せないシュウにとっては、無限に続くように思えて仕方がないのだ。何処かに区切りを求めなければ、折れてしまいそうになるまでに。
倦んでいる。そう、シュウは繰り返されるだけとなった不穏な日々に、嫌気が差してしまっている――……
挫けるつもりもなければ、諦めてしまうつもりもない。シュウが生きていくと決めた場所は、ささやかな幸福の獲得を目指して生き抜く市井の人々の、生命の息吹か息衝いている世界だ。平凡ながらも広く、限りもなく、未知なる可能性に満ちた輝ける世界。たったひとりの白河愁として生きていける世界で、思うがままに与えられた生命を謳歌してゆく為にも、シュウは自らを陥れた者たちを許す訳にはいかなかった。そう、彼らにこそ自身に被された罪を償わせるに相応しい……
そうでなければシュウは報われない。人生の大半を、ヴォルクルスの支配下に置かれて生きるしかなかったシュウは、奪われたものを再び獲得する為に足掻いている。
それを彼に悟られたくない。
愚かなまでに浅ましい欲。過ぎてしまった時間は取り戻せないのだ。当たり前の、けれども不変の理。だからこそ、シュウは赦しを求め続ける。彼にこうして支えられるようにして生きながら。
そうしていつの日にか、宙に拳を突き上げて、こう快哉を上げるのだ。
私は自身の運命に打ち勝った――と。
その日が明日になるのか、それとも死後のことになるのか、シュウには予見出来ない。先のことを見通す瞳など、神でないこの身には獲得し得ないものだ。シュウは、マサキ、とその名を呼んだ。そうして彼の身体を今一度、縋るように強く抱き締めながら、シュウはこう言葉を紡いだ。
「赦さなくていい。ですからどうか、その最期の瞬間まで私から目を離さないで」
大丈夫だ。彼の言葉が力強く、肌を伝わってくる。本当に? シュウは声に出せない言葉の数々を胸の内に押し込んだ。戦いの場で生きることしか出来ない彼と自分。先に戦場の露と消えるのはどちらになることか。
その答えを、シュウは。
本当は知っていた。
あなたに書いて欲しい物語
@kyoさんには「空を飛ぶ夢を見た」で始まり、「本当は知っていた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば2ツイート(280字)以内でお願いします。