本音と罪悪感

「で、何の用だって?」
 勝手知ったる他人の家と合鍵を使ってリビングに上がり込んだマサキは、用があると自分を呼び付けておきながら、ソファで読書に余念がないシュウの前に仁王立ちになった。
 人を殴り殺せそうな厚み。中に何が書いてあるかなど、マサキに理解出来る筈もない。彼が手にしている書物をちらと覗き込んでみれば、案の定、意味もわからなければ読み方もわからないような用語が並んでいる。はあ。マサキは溜息を吐いた。本の虫たる男は、恋人であるマサキを目の前にしてもその態度を改める気はないようだ。
「今日は地上の暦でホワイトデイなのだそうですよ」
 膝の上に開いた書物から一瞬たりとも顔を上げることなく、シュウが口にする。
「何だ? 何かくれるってか」マサキは冗談めかして返した。
 シュウ=シラカワという男は、時に無精でずぼらな面を露わにする。例えば家事。研究や読書に専念し出すと、埃ぐらいでは人は死なないとばかりに掃除に手を付けなくなる。洗濯にしてもそうだ。洗濯籠に収めるのですら億劫になるらしく、脱いだ服をそこいらに平気で放置してゆく。そういった状態であるのだから、料理などする筈もない。サプリメントで食事を済ませるシュウに、マサキは幾度口を酸っぱくしてまともな食事を取れと云ってきたことか。
 マサキが贈ったプレゼントに対する礼もそうだ。
 王族であった故に貢がれるのに慣れているからだろうか。彼はマサキからのプレゼントに、まともなお返しというものをしてきたことがなかった。有難みは感じているようで、その日の夜のベッドなどは相当に大変なことになったものだが、後に残る形での何かがマサキにそれとわかる形で渡されたことは一度もない。もしかすると、ふたりでいる際の金払いが異様に良いシュウである。彼からすれば、それこそがマサキに対する礼のつもりであるのかも知れない。
 だからマサキは考えた。横柄な面のあるシュウは、自分へのプレゼントを催促することを躊躇わない。その彼が、わざわざマサキを呼び付けて、ホワイトデイだのと口にしているのだ。これがプレゼントの催促でなければ何であろうか。
「つうか、欲しいものがあるならさっさと云えよ。バレンタインと違ってホワイトデイの選択肢は多いからな。苦手な物とか先に云ってくれないと、俺だって選びきれねえ」
 そこでようやくシュウが顔を上げた。ぱたん、と音を立てて書物の表紙が閉じられる。
「流石にホワイトデイまでもとは思いませんよ」
 苦笑じみた表情が浮かぶ顔から察するに、どうやらシュウはマサキの返答に呆れているらしかった。逆ですよ、逆。肘当てに腕を置いたシュウが、マサキの顔を斜めに見上げてきながら言葉を継ぐ。
「バレンタインのお返しを何にしようか考えあぐねていましてね。なら、あなたに尋ねた方が早いかと」
「本気かよ、お前」
 驚きで口が開く。マサキはまじまじとシュウの顔を見詰めた。
 まるで優れた彫刻作品のように均整の取れた面差し。緩く合わさった口唇に筋の通った鼻ときて、深い紫紺を湛えた切れ長の瞳。人間味乏しくも感じられるその顔が、マサキの反応を意外と感じたのだろう。微かに歪む。
「私からのお返しを期待していなかった――と、いう表情ですね、その顔は」
「あ、いや、だって……」
 それが例え自ら催促したプレゼントであっても、気分が高揚するのだろう。マサキからのプレゼントを受け取ったシュウは、自らの気持ちの導きのままにマサキを抱いては愛の言葉を囁いてきた。そう、昼日中から夜更けまで延々と。
 ――愛していますよ、マサキ。
 そうした台詞を普段の彼が吐かない訳ではなかったが、決して日常的に聞かされる台詞ではなかった。だからこそ、マサキはそうやって彼と過ごした時間を一種のご褒美として受け止めていた。そう、彼の本心が聞けるのであれば、こんなに安いプレゼントもない。そう考えるくらいには。
「だって、その、お前……俺が何かやると、滅茶苦茶、するだろ……だから、俺、それがお前からのお返しなんだろな、って……」
 出掛けましょう。と、突如ソファから立ち上がったシュウが、壁に掛かったコートを取り上げる。どこにだよ? いきなり誘われても、問答が続くと思っていたマサキは頭がついていかない。
 けれども、気を悪くしてのことではなさそうだ。それが証拠にコートに袖を通すシュウの横顔には笑みが浮かんでいる。
 さあ――。コートを羽織ったシュウが余裕に満ちた表情で、マサキに手を差し伸べてくる。出掛けると云っても、何処に行くつもりなのかさえ聞いていない。迷いながらも、用があるとマサキを呼び出してきたのはシュウである。なら、付き合うのも用件の内なのだろう。そう考えたマサキはシュウの手を取った。
「どういった望みであろうとも叶えてみせますよ。行きたいところに行って、したいことをしましょう、マサキ」
「まさか、それがバレンタインのお返しだってか?」
「物足りない?」
「いや、突然云われても途惑うっていうかな……」
 瞬間、シュウの腕に力が込められる。手を引かれたマサキは、よろめくようにして彼の腕の中に収まった。
 鼻腔に潜り込んでくる甘ったるい麝香の匂い。シュウが好んで付ける香水の香りに包まれたマサキは、すみませんでした。頭上から降ってきた言葉に慌てて顔を上げた。
「あなたにそんな風に思わせてしまうほどに、私はあなたに甘えてしまっていた」
 滅多に表情を変えない男は微かに眉を顰めただけでいたが、発した言葉の息苦しいまでの重々しさと相俟って、彼がマサキの反応にどれだけ苦悩しているか。痛いほどに伝わってくる。
「そんなことは、ねえよ」
「そうでしょうかね」シュウの目が細まる。「せめてきちんとしたお返しをあなたにしていたら、そういった台詞は吐かせずにいられたものを」
「気にすんなって」
 欲を果たす為にシュウの許を訪れてばかりのマサキには、シュウが何故そこまで自分を責めるような言葉を吐くのかが理解出来ない。そう、いつだってマサキは気紛れだった。賑やかな日常の隙間に、ふと脳裏を過ぎる想い。会いたい。その気持ちの赴くがままにここに足を向けてきた……。
 だからマサキは、自身のプレゼントに物質的なお返しを期待していなかったのだ。
 大胆な行動で周囲の度肝を抜く男ではあるが、マサキとの付き合いに於けるシュウはいじらしいぐらいに控えめだ。自らマサキに会いにくることなど、年に数度あるかないかくらい。それも、マサキの充実した生活を自分の存在で乱したくないというのが理由であるらしいのだから恐れ入る。
 だのにマサキは、そうした彼の度量の大きさに甘えてばかりで、彼との時間を増やそうといった努力をしてこなかった。
 プレゼントの後に与えられる本音を剥き出しにした甘い言葉。それはマサキにとっては赦しでもあった。シュウに忍耐を強いてしまっている自覚があるからこその罪悪感。マサキが一方的にシュウにプレゼントをし続けたのは、そうでもしないと後ろめたさで胸が押し潰されそうになってしまうからでもある。
「だから、気にすんなって」
 壊れ物を扱うような柔らかい抱擁。シュウはいつだってそうだ。当のマサキはシュウの都合など鑑みもしないのに、マサキの都合を優先してばかりいる。
「ですが、マサキ――」
 愁眉を集めたシュウの顔。元が端正な顔立ちだけに、胸に迫るものがある。けれども悲しんではいられない。マサキからすれば、そうした表情を彼にさせているのは他ならぬ自分。自らの身勝手な振る舞いの所為だ。
 だからマサキは考えた。どうすれば、この寛大にして欲の薄い男を慰めてやれるだろう。この世で最もマサキに心を捉われているこの男を救えるのは、彼またはマサキのみだ。ならば、マサキの役目は、彼に赦しを与えること。それをわかり過ぎているぐらいにわかっているマサキは、だからこそ表情を引き締めるとシュウに向き直った。
「どうしてもお前の気が済まないっていうなら」マサキはシュウの頬に手を置いた。「もう少し、お前の気持ちを俺に聞かせてくれよ」
 十指に及ぶ博士号を有するまでに明晰な頭脳をもってしても、真意が理解出来なかったようだ。マサキの言葉に考え込む素振りをみせたシュウに、仕方ねえな。明瞭はっきりと伝えることに照れ臭さを覚えるマサキは、むず痒さを抑え込んで彼の顔を覗き込んだ。
「いつもプレゼントを受け取った後に、お前が云うだろ。ベッドの中で」
「それでいいのですか」
「それがいいんだよ」
 高貴で気高い花が咲く。
 マサキ。口元を緩めたシュウが、穏やかに、そして慈しみを込めてマサキの名を呼ぶ。

 ――愛していますよ。

 彼の『答え』に、どうしようもなく幸福な気持ちになりながら、爪先を上げて。マサキはゆっくりとシュウの口唇に自らの口唇を重ねていった。