いつも通りに起床し、いつも通りに身支度を済ませ、けれども特にすべきこともなく、持て余した暇を消化する為に訪れた城下町。うららかな陽気のラングランはいつも通りの賑わいに満ちていて、平穏な一日が恙なく過ぎてゆくのだと大通りを往くマサキに感じさせた。
「よお、戦士さま。元気かい?」
「俺はいつだって元気だぜ。おっちゃんはどうだよ?」
顔馴染みの商店の店主たちと言葉を交わしながら、町の中心部へと上ってゆくこと暫し。少し先の四つ辻の角に、二頭立ての馬車が停まる。
どこぞの貴族が馬車を仕立てて買い物に出てきたようだ。
普段であれば気にも留めないありふれた光景。流行の最先端をゆく城下町には、ラングラン国内からありとあらゆる階級の人間が集まってきた。きっとあの馬車も、例に洩れず流行りを求めてやってきたに違いない。そう思ったマサキは、だからこそ視線を道に戻すと、そのまま四つ辻を真っ直ぐに通り抜けようとした。
ふと、視界の隅に何かが映り込んだ。
マサキは通りを挟んだ反対側の角に停まっている二頭立ての馬車に、今一度目を遣った。開いた馬車の扉から降りてきた男性が、逆側の扉の前に立つ。すらりと伸びた長躯に特徴的なシルエット。シュウだ。マサキは目を剥いた。
開く馬車の扉。直後、扉の奥に向けて手を伸ばした彼の手に、レースの手袋を嵌めたしなやかな女性の手が重なる。
シュウの手を頼りに馬車より降りてきた妙齢の女性は、あまり女性に興味のないマサキでさえ見惚れるほどに美しかった。
抜けるように白い肌に、腰まで覆うプラチナブロンドの髪。可憐とも高貴とも表現し得る美貌は、その場を通りかかった人々を即座に魅了したようだ。辺りから誰のものともつかぬ溜息が聞こえてくる。
華奢な作りをした身体を包むのは、一目見てそれと知れるぐらいに高価なホワイトドレスだ。それも、豪勢に金糸と銀糸で刺繍を施したスレンダーライン。レース仕立ての袖が手首の辺りで細やかなドレープを描く優美なデザインは、女性の容姿の麗しさをいっそう強くマサキの胸に刻み付けた。
彼女のエスコートをする為に、容姿を隠すこともせずに城下に姿を現したのだろうか。冴え冴えとした月明かりのような怜悧な美貌が、女性と並んだ瞬間に微かに和らぐ。きっと、人も羨む美男美女のカップルとはあれを指すに違いない。長らく彼らに見惚れていたマサキは、けれども次の瞬間にはっと我に返った。
馬車を回ったシュウが、彼女とともに角に建つ建物の中へと姿を消してゆく。
黒を基調とした重厚感溢れる外壁。慌てて顔を上げれば、どっしりと構えた看板が目に入る。金文字で綴られた店名を読み取るに、どうやら宝飾店であるらしい。一体、何の用で――。親し気なシュウと女性の様子が気にかかって仕方がなくなったマサキは、その場で彼らが出てくるのを待つべきか逡巡した。
「あっれー、マサキ? もしかして、暇してる?」
背後から響いてくる朗らかな声。渡りに船だ。振り返ったマサキは、視線の先に立っているミオに、剣呑な笑顔を向けた。
※ ※ ※
宝飾店の斜め前にあるパーラーにミオを引っ張り込んだマサキは、宝飾店を見張れる窓際の席に陣取ると、いつもの喫茶店よりも値が張るメニューに舌打ちしたい思いに駆られながら、コーヒーとサンドイッチ、そして自らの奢りとなるミオの分のオレンジジュースとパフェを注文した。
「……それで、マサキはあの宝飾店を見張ろうと思った訳?」
先に届いたコーヒーをちびちびと飲みつつ、これまでの状況を伝えるも、ミオとしては気乗りがしないようだ。これまで散々、マサキの愚痴を聞かされてきたからだろう。嫌気の滲み出る表情を浮かべながらストローを咥えている。
「本人に聞けばいいじゃないのよ。まどろっこしいことが嫌いなマサキらしくない」
「お前、あの光景を見ても同じことが云えるのかよ」
マサキは空となったカップの縁を指で弾いた。甲高い音がやけに胸を騒がせる。
シュウは神経質なきらいのある男だ。そして我が道を往く性格でもある。気に食わないことがあれば、マサキが相手であろうともそれなりの表情をしてみせるような。
他の人間相手ともなれば尚更だ。
そうである以上、昨日今日知り合ったばかりの女性にああまで気を許した表情もしまい。ましてや上流階級に属すると思しき女性である。恐らくは王宮時代の知り合い――マサキが動揺しているのは、だからだ。
「そうは云われてもねー」
「お前なあ。少しは俺の話を真面目に」
瞬間、頭上から降ってくる「お待たせしました」の声に、マサキは言葉を止めた。サンドイッチとパフェを届けにきた男性店員に、ついでと追加のコーヒーを注文する。見知らぬ他人であっても、色恋沙汰の話など聞かれたくはない。それはマサキの見栄であった。
「そもそも、マサキのその手の愚痴って、全部勘違いで出来てるじゃないのよ」
店員がテーブルを去る。それを待って言葉を継いだミオに、マサキは即座に眉を顰めていた。
確かに、その点においてはマサキに非があった。
寝言で女性の名を呼んでいた。書斎のカレンダーに女性の名が記されていた。立ち寄った街で女性と立ち話に興じていた。マサキがミオに話したシュウ絡みの愚痴は、全てがマサキの早合点による誤解だった。
寝言で口にしていた女性名は王宮時代の年輩の家庭教師の名前であったし、カレンダーに記されていた女性名は共同研究者の名前であった。街で立ち話に興じていた女性にしても、いきつけの紅茶専門店の店員だ。それではミオも、先ずシュウに確認しろと云ってくる筈である。
しかし、自らに懸想するサフィーネとモニカを、今に至るまで仲間として侍らしている男なのだ。ウェンディやリューネと付き合いがあるからこそ、シュウのことばかり目くじらを立てるのも――と、そこには目を瞑っていたマサキだったが、そうした現実が揺らがない以上、恋人の座に胡坐を掻いてばかりもいられない。
「恋人なんて云ったって、法的拘束力がある訳じゃねえしな」
自棄になってそう口にすれば、マサキの湿っぽさが耐え兼ねたらしい。はあ。盛大な溜息を吐いたミオが、いい? と、パフェスプーンの先端をマサキに突き付けてくる。
「今更、浮気だの心変わりだのなんてないでしょ。何年付き合ってるのよ、マサキ。大体、シュウってそういう性格じゃないでしょ。執念深い上に、執着心も強い。マサキが飽きても絶対手放さないタイプじゃないの」
「だからって、いつまでもこのままの関係を続ける訳にもいかねえだろ」
そう、とどのつまりマサキは保障のないシュウとの関係が不安だったのだ。
自分を強く求めてくる男に絆されるようにして始まった関係だった。今更情けで付き合っているなどとは、さしものマサキも云いはしない。雪が積もるようにゆっくりと育まれていった彼への愛情。シュウに対するもどかしさは、マサキがそれだけ彼を好いているからでもある。
マサキは目の前にサンドイッチに手を付けられぬまま、ただただ長い溜息を洩らした。
あと何回、こうした想いを自分はすることになるのだろう。逢瀬はいつだって気紛れで、約束を交わして会うことなどなかった。そう、マサキとシュウの付き合いは、どちらかが連絡を断てば終わってしまうぐらいに儚いものなのだ。
「これはこれは……珍しい場所で顔を合わせますね」
と、背後から響いてくる聞き慣れたシュウの声。
どうやら物思いに耽っている間に宝飾店を出たようだ。そのついでにパーラーに足を伸ばしたのだろうか。思いがけない展開に、マサキの鼓動が早まる。
だのに、身動きがままならない。
マサキはテーブルの上に置いた手を握り締めた。あの女性はお前の何だ。聞きたくて堪らないのに、振り返るのが怖い。
「あ、シュウ。いいところに。てか、女の人はどうしたの?」
ミオの底抜けに明るい声が、空虚に頭の上を通り過ぎてゆく。
マサキはそろりと窓の外を窺った。まさか女性を先に帰らせたとでもいうのだろうか? 姿を消している二頭立ての馬車に、狐に抓まれた気分になる。マサキはテーブルの脇に立ったシュウに目を遣った。
「見られていたようですね」
ミオの言葉で合点がいったようだ。感情を読み取らせないポーカーフェイスが微かに揺らぐ。出来れば席を外していただきたいのですが。即座にそう口にしたシュウに、はあーい。と、素直に返事をしたミオが、素早くパフェの残りを口に押し込んで立ち上がる。
「じゃあ、後はごゆっくり!」
「あ、おい。お前――」
絶望的な状況。軽快な足取りでパーラーを出て行ったミオと入れ違いに、シュウが目の前の座席に身体を収めてくる。
「何か云いたいことはありますか」
きっと、今の自分は世界で一番醜い表情をしているに違いない。マサキは視線をシュウから横に滑らせた。窓にうっすらと映る自分の横顔が、情けないぐらいの膨れ面。わかってるくせに。マサキはそう呟いてから言葉を続けた。
「彼女は何者なんだ」
「私の友人の婚約者ですよ」
「婚約者がいる女性と宝飾店ってどういう了見だよ」
「友人の誕生日にサプライズプレゼントをしたいのだそうですよ」どこか困った風に、シュウが目を瞬かせた。「そういったことは本人に直接聞くべきだとは云ったのですが、あれで中々強情な令嬢ですからね。長い付き合いの私なら、友人の好みを把握しているでしょうと聞く耳を持ってくれなかったのですよ。しかも、昨日の今日で家に迎えに来たものですから」
そうか。と頷きはしたものの、早鐘と化した鼓動は治まりそうにない。
不安でどうしようもないのに、それを素直にシュウにぶつけることの出来ない自分。それがシュウとの距離感を表しているようで、マサキにはとても耐え難く感じられるのだ。
ああ、いっそこの場から逃げ出したい。押し黙ったマサキに、どうにかしなければと思ったのだろう。マサキ。テーブルの上に置いていた手に、シュウの手がふわりと重なった。
「云いたいことはきちんと全て云いなさい」
口にすれば何かが壊れてしまう予感がしていた。だからこれまでのマサキは、云いたいことの全てに蓋をして飲み込んでしまっていた。シュウとの気楽な時間を失いたくない。何より、シュウに責任を求めるということは、マサキもまた彼との関係に責任を負うということだ。
それでも、云いたいことは口にしなければ伝わらない――マサキは大きく息を吸い込んで、長く口にしたかったその言葉を吐き出した。
「なら、聞くけど。お前、俺のこと責任取るつもりあるのかよ」
瞬間、まるでマサキからのその言葉を待っていたかのように、シュウの端正な顔が優美な笑みで彩られた。嫌になるくらいに美しい。舌打ちしたくなる思いに捉われながら、マサキは続くシュウの言葉を待った。
「勿論ですよ」マサキの手を握り締めてきたシュウが、当たり前のように言葉を吐く。「あなたがそう願ってくれるのであれば、直ぐにでも責任を取りたいと思っています」
「本当かよ。こんな何年も適当な付き合いを続けておいて」
「そうあなたに感じさせていたのであれば、それは私が至らなかった所為ですね」
「俺、本当に、毎回不安で仕方がなかったっていうのに」
「それについては謝罪をしますよ、マサキ。ですから、もうそういった悲しい表情をしないで」
切羽詰まった話し合いの席とは思えない幸福に満ち満ちたシュウの笑顔。だったらもっと早く云えば良かったと悔しさに口唇を噛んだマサキに、伝票を取り上げたシュウが行きましょうと席を立ちあがる。
「何処にだよ」
「先ずは揃いの指輪を買いましょう。そこの宝飾店で」
マサキの手を引いて悠然とキャッシャーに向かうシュウの背中が、やけに力強く映る。その次は式場探しですね。心なしか浮かれているようにも聞こえる声でそう続けたシュウに、長い物煩いの終わりを感じ取ったマサキはゆっくりと首を縦に振った。