気紛れな恋人

 ソファに伏せて雑誌を読んでいたマサキは、近付く気配にも顔を向けずにいた。
 不意の来客を構うことのない家主は、かれこれ三時間ほど地下にある実験室に篭りきりだった。喉でも渇いたのだろうか。ようやく感じ取れたシュウの気配に、この三時間を孤独に過ごさざるを得なかったマサキとしては、安堵したような、それでいてひとりの時間を邪魔されたような気持ちになる。
「何を読んでいるの」
 マサキの傍近くに寄ってきたシュウが、声をかけてきながらマサキの背中の上に重なってくる。決してそこまで体重のある男ではなかったが、上背の差の分だけ、シュウの方がマサキより重い。背中に感じるずしりとした重みに、重い。と、マサキは肩越しに雑誌を覗き込んでくる鬱陶しい男に云った。
 普段はつれないぐらいに一定の距離感を保ってみせるシュウだったが、長く研究を続けていると流石に人恋しくなるらしかった。思い出したように実験室を出てきては、こうして放ったらかしにしていたマサキにじゃれついてくる。
 冷たい。マサキは顔を顰めた。
 ひんやりとした温もりは彼の専売特許だ。身体を寄せ合っても温かみが感じられないシュウの身体に、けれども余計に鬱陶しさが増した。人を突き放すような真似をしておきながら、こういう時ばかり。お前さあ。シュウの気紛れな振る舞いに耐え兼ねたマサキはごちた。
「自分のそういうトコ、鬱陶しいって思わねえ?」
「ベッドの中でだけ距離を近くする方が問題だと思いますね」
 外に出ても手ひとつ繋ぐこともない。家にふたりでいても肩を寄せ合うこともない。成程、云われてみれば、確かにマサキがシュウとの距離を近くするのはベッドの中ばかりだ。
「それはそうだな」
 マサキはシュウを払い除けようとして突き出していた腕を元に戻した。
 それで許されたと思ったようだ。シュウの顔が距離をより近くする。視界の端に収まる彼の端正な横顔。マサキの頬に頬を重ねてきたシュウが、雑誌から目を離すことなく尋ねてくる。
「それで、何を読んでいるの」
「この間行った街のタウンガイドだよ。何でも神殿の前庭に、ラングラン随一の花時計があったとかでさ。そういや見てなかったなあって」
「これから行ってみますか」
 マサキを放置して研究に専念していたことに、少しは後ろめたさを感じているようだ。早速とマサキにデートの誘いをかけてくるシュウに、マサキは正面にある窓に目を遣った。
「流石に今日は無理だろ。時計見ろよ。もう夕方だぞ」
 窓の外から差し込んでくる陽射しは大分弱まり、そろそろ茜色に染まり始めている。
「なら、明日」
 だが、シュウはその程度でマサキとのデートを諦めるつもりはないようだ。今日が無理なら明日と、普段の彼からは想像も付かない拙速さでマサキに約束を迫ってくる。
 何なんだこいつは。
 ここに来てから三時間というもの放置されっ放しだったマサキは、シュウの手のひらを返したような態度にただただ呆れるより他なく。
「お前、その思い立ったが吉日的な動き止めろよ。こういうのはちゃんと計画して行くもんだろ」
「気紛れに私の許を訪れるあなたに云われたくはないですね。それに、こういったことは急がないと、あなたの気がいつ変わってしまわないとも限らないでしょう」
 溜息混じりの言葉に対する返事としては上等だ。マサキは宙を睨んだ。
「明日ねえ……」
 マサキはシュウの身体を押し退けた。そうして彼の胸の下。身体を逆に返すと、自分を見下ろしているシュウの頬に手を当てた。
「お前が全部出せ」
「全部、ですか」
「足もお代も全部だ。それなら明日行く」
「わかりました」
 横暴にも聞こえる無茶な願いも、この男にかかれば易いもの。マサキはそれを知っているからこそ、シュウには気兼ねなく無理難題を吹っ掛ける。シュウもマサキの我儘に慣れたのだろう。頬にあるマサキの手を自らの手でそうっと掴むと、なら、明日。と、マサキの顔を映している瞳を柔らかく細めていく。