沈むリアル

 ずっと貴方を捜していました。シュウがそう云った瞬間、少年は目をしばたかせながら首を傾げてみせた。
 夕陽が照らし出す世界。黄金の穂が波打つ原野に肩まで身体を埋めながら、彼は沈みゆく太陽を眺めていたようだ。誰? 今の彼よりも幾分、幼い姿。歳の頃は九、十歳といった所だろう。穂を踏みしだいて姿を現わしたシュウを、あどけなさの色濃く残る瞳で捉えながら、変声期もまだな声で問いかけてくる。
 あなたの知り合いですよ。シュウがそう答えると、彼は途端に表情を一変させて、嘘だと悲鳴にも近い叫び声を上げた。
「俺はあんたなんて知らない」
 そしてぷいとそっぽを向く。
 彼の感情表現が豊かなのは、今に始まったことではないらしい。ころころと表情を変えたかと思うと、遠慮なく自分の感情を言葉にする。それが例え、本来の自分では及ぶべくもない存在であろうとも。
 大胆不敵にして自由自在。彼はシュウにないものを全て持っているように、シュウの目には映ったものだった。だからこそ、いかにも彼らしいその態度が微笑ましく感じられて仕方がないのだ。
 それはそうでしょうね。そう云いながら、シュウは顔を背けたままの彼に一歩近付く。
 警戒をしてはいるようだが、だからといって、突然目の前に姿を現わした未知なる男を、一足飛びに無視しようとも思えないようだ。黒目を動かして、ちらちらと。シュウを盗み見てくる彼に、子供の相手が得意ではないシュウはどうすべきか迷ったものの、何もせずにいるのも警戒心を強めるだけ。そうっと笑いかけてやると、彼はどう反応すればいいかわからなくなった様子でシュウを上目遣いに見上げながら、変なヤツ。そうとだけ呟いた。
「私は未来のあなたの知り合いですよ」
 その台詞に好奇心を擽られたのだろう。未来、と繰り返した彼は、身体ごとシュウに向き直った。
「どうやって?」
「術を使ったのですよ」
「術? 魔法か何かか」
「そうですね。魔術、と云ってあなたに信じてもらえたものかどうか……」
 シュウは彼の目の前で手を広げてみせた。色取り取りに染まったシャボン玉が手のひらの内側から、空へと。さわさわと穂を鳴らしている風に吹き上げられるようにして上ってゆく。子供騙しの術ではあったものの、そこはまだ幼子でもある。彼にはその現象がとてつもなく神秘的なものに映ったようだ。わあ、と声を上げると、尽きることなく湧き出るシャボン玉を追いかけて顔を空に向けた、
「簡単に見せられるものとなると、このぐらいが限界ではありますが」、
 逢魔が時。黄昏の空に消えてゆくシャボン玉は茜色の光を受けて、星の瞬きのように輝いている。その儚くも幻想的な光景を暫く黙って眺めていた彼は、ややあって、シュウに視線を戻すと、「でも、どうして?」と当たり前の疑問を口にした。
「何で俺の所に来たんだ? 用があったから来たんだろ?」
 思い付きでも子どもの歓心を買うことはしてみるものだ――すっかり警戒心を解いた様子の彼にシュウは手を戻した。そして最後のシャボン玉が宙に上ってゆくのを待ってから言葉を継いだ。探している人がいるのですよ、と。
 勿論、ただ会いたいから、だけでシュウはここまで足を運んだのではない。すべきことがあり、その為に必要だからこそ、この姿の彼に会いにきた。まだ幸福だった時代に生きている彼に。
「口が悪くて、躾がなってなくて、人の顔を見れば噛みついてばかり。けれども私はそんな彼に恩義を感じています」
「なんか、その云い方だと、恩人って感じじゃないな」
「そうでしょうね。でも、そういった性格も含めて、彼の存在が私には微笑ましく感じられて仕方がないのですよ」
 ふうん。わかったようなわかっていないような生返事。それでもまだシュウの話を聞く気はあるようだ。彼は筋が糸引く三白眼でシュウを見上げながら、それで――と、続きを促してくる。
「その彼が心を閉ざしてしまった」
「何があったんだ」
「幼くして両親をテロで喪った彼は、だからこそ戦いに身を投じたのです。それが自分のような人間を二度と生み出さずに済む方法だと思ったのではないでしょうか。テロリズムさえも横行しないような平和な世界。それを目指して戦い続けた彼は、けれどもある時、ふと気付いてしまったのです」
 きっと、自分のような幼子が、迂闊に口を挟んでいい問題ではないとでも思ったのではないだろうか。もしかすると、まだ幼い彼には難しい話に聞こえたのかも知れない。だからこそ、なのだろう。真っ直ぐにシュウを見詰めてくる真摯な眼差し。彼は黙ってシュウの話の続きを待っている。
 そんな彼を目の前に、シュウはゆっくりと口を開いた。残酷な真実を告げる為に。
「――彼が斃してきた敵にも家族がいるという当たり前の事実に」
 ごくり、と彼の喉が鳴った。いつしか額にうっすらと汗が浮かんでいる。何かを必死に堪えているかのような表情。挑むようにシュウを見据えてくる彼に、ほらとシュウは手を差し出した。
「私は彼を取り戻したいのですよ。そう、あなたをね。
 刹那、ドンッ、と身体を揺り動かすような衝撃が走ったかと思うと、地面に亀裂が生じた。それはシュウと彼の足元を裂くように深みを増してゆく。マサキ。シュウは彼の名前を呼んだ。先程までとは一変した険しい表情が、シュウを捕らえている。
 ――嗚呼、嗚呼、ああ、ああ、アアアアアッ!
 亀裂は増々深みを増し、シュウの足元をも飲み込もうとしていた。けれどもシュウは怯まなかった。戻れないかも知れないと覚悟を決めた上で、マサキの精神世界この世界に来たのだ。どうしてこのままこの場を去れようか。
 意識の表層から深層へと。無意識の世界に近付けは近付くほど、マサキの心象風景は幼い頃の世界へと戻って行った。まるで今の彼を取り巻く世界が、ひととき身を置くだけの仮初めの世界だとでも云いたげに。そう、彼にとって完成された世界とは、もしかすると幼かった頃。まだ彼の家族が揃っていた時代にあったのやも知れない。
 掴んでは逃げられる。逃げられては深く沈む。シュウはマサキの精神世界を彷徨い続けた。
 今度こそ。
 マサキの世界は次第に意味を為さなくなりつつあった。有象無象の切り取られた時間が折り重なるだけの、時間を持たない世界ばかりが続いた先に、ようやく見付けた黄金の原野。夕餉前のひとときを切り取ったような世界で、ようやく再びマサキの姿を捉えたシュウは、それでも真実を告げることを躊躇わなかった。
 ――やめ、やめろっ……俺を、起こすな……ッ!
 身悶えるマサキの姿が視界の中央から上へと流れてゆく。シュウの足元にもう大地はない。飲み込まれるがままに、沈むがままに。昏く地の底へと続いているだろう亀裂の上に、シュウの身体が踊る。アアアアアッ! マサキの身体を捩じ切る勢いで迸る絶叫はまだ続いている。それでも、一縷の望みを懸けて、シュウは視界を覆い尽くした茜色の空に向けて手を伸ばした。
「馬鹿野郎……ッ」
 宙に飛び出してその手を掴んできたマサキの姿は、最早あのあどけなさを残す少年のものではない。シュウは掴んだマサキの手を引き寄せて、その身体を強く抱き寄せた。
 幾層にも渡るマサキの複雑な精神世界を、シュウは孤独にもひとりで何日もかけて、終わりも間近なここまで降りてきたのだ。そうしてようやく掴んだマサキ自身。二度と離してなるものか。馬鹿、落ちる。踏ん張るものを持たないマサキの身体が、シュウとともに暗闇へと落ちてゆく。見る間に遠ざかる空。その闇の中に、点々と。まるで瞬く星のように小さな光が幾つも浮かび上がった。
「目を覚ましたようですね、マサキ」
「お前、この状況でよくそんな呑気をことを云ってられるな」
「ここはあなたの精神世界ですからね。あなたの認識次第でどうとでも姿を変えてみせるものですよ」
「本当かよ……」
 疑い深くも、止まれ。と、マサキが口にする。
 まるでその言葉を待っていたかのように、幾条にも筋を引いて流れ去る光の群れが、徐々にそのスピードを緩やかなものとしていった――かと思うと、次の瞬間。柔らかな衝撃がふたりを包み込む。それと同時に、照明が灯るようにぱあっと、辺りに新たで鮮やかな世界が広がる。
 乾いた大地に、点在するクレーター。地平線の彼方に青く輝く地球の姿が映っているということは、どうやらここは月であるようだ。
 ――ここがマサキの精神世界の底であるのだろうか?
 だとしたら彼にとって月という場所は、シュウと同じように特別な場所であるのだろう。シュウはマサキを一層強く抱き締めた。この光景を目に出来ただけでも、危険を冒してここまで来た甲斐はあった……一歩間違えば、己の精神は二度と身体に戻ることが出来なくなる。シュウはそういった危険を省みず、自我を失ってしまったマサキの心を取り戻す旅に出たのだ。
 自らの精神を懸けた旅は、だからこそシュウに予想以上の収穫を齎してくれたのやも知れない。乾いた大地に身を横たえて、マサキを腕に抱きながら、シュウはひたすらに自らが得たものに対する感慨に耽った。けれども歓びに浸ってばかりもいられない。マサキはマサキで、ようやく取り戻した自我に思う所があるのだろう。もう、離せよ。そう云って、シュウの腕から逃れようとする。
「私がこの手を離したら、あなたはまた何処かに行ってしまうのでしょう」
「そんなことはねえよ。っていうか、どうやったら元の世界に戻れるんだよ、これ……」
「あなたが大丈夫だと云い切れるのであれば、このままあなたを連れて外の世界に戻りますが」
 そうしてシュウはマサキの髪の匂いを嗅いだ。太陽と草と風の匂いがする香りを。
 仕方ねえな、とマサキが面倒くさそうに言葉を次ぐ。「もう、大丈夫だ。だから一緒に、ここから出ようぜ」
 本当に、と尋ねながらシュウは地に付けている背中を中心に、魔方陣を展開させ始めた。ああ、と力強く頷いたマサキの姿が、世界とともに揺らぎ始める。シュウの耳に最後に言葉を残しながら。

 ――きっと大丈夫だ。今ならそう云える。

こんなお話いかがですか
シュウのお話は「ずっと貴方を捜していました」で始まり「きっと大丈夫だって、今なら言える」で終わります。