マサキが目的地に辿り着くと、家の扉はおろか鎧戸までもが閉ざされていた。家の周りを一周してみるも、屋内から人の気配は窺えない。
とんだ無駄足だったかと踵を返し、もと来た道を歩き始めてこれからの予定を考える。
早く帰って来いと言われて家を出たが、そのまま帰るのでは余りにも早すぎるし、何より折角の休日だ。一分でも長く楽しみたい。毎日顔を突き合わせて生活している人間と、休みの日まで共に過ごすのは息が詰まる。
見上げれば、青い空。
今日もラングランは快晴だ。
どこに行こう、と平原沿いの馬車道に出て、周囲を見回す。見渡す限りに建物の影はなく、深く、或いは鮮やかに緑が繁っている。
草はそよぎ、木々が薫る。
そんな穏やかな春の或る一日。
今までも繰り返してきたその日が、今日に限って特別に感じられるのは何故だろう。
通りがかる馬車を待ち、路傍の石に腰掛けて、マサキは足高く生える草を千切った。
それを二つに折って、口に添える。息をそっと吹きかけると、即席の笛は甲高い音を平原に響かせた。風に乗ってどこまでも届いていきそうなメロディを奏でつつ、道の端を臨む。
その彼方に土煙が立つまでに、そうは時間はかからなかった。
小さな荷馬車。一頭立ての馬車の後ろに幌もない荷台が繋げられ、樽や木箱が僅かばかり積まれている。人が一人乗っても充分に余る荷台の開いたスペースを見て、マサキは立ち上がった。
そして気付く。
その馬車を引く、見知った顔に。
馬車は近付く毎にスピードを落とし、マサキの目の前で停止した。鼻息荒い馬の手綱を引くのは、村娘と呼んでも差支えないほどに焼けた小麦色の肌に、不揃いに切り揃えた黄金の髪をなびかせる少女。
腕についた筋肉をタンクトップの下から覗かせて、リューネは白い歯を零れさせて笑った。
「何してんの、マサキ。こんな所で会うなんて」
「俺がお前に聞きてぇよ。お前が来た方向に在るのはちっぽけな村だろ。そんなトコに馬車引いて、一体何しに行ってったんだか」
「あの村のチーズとトマトは美味しいって有名だからね。オードブルにはもってこい、なんてね」
「オードブル? お前が?」
上品とは縁の薄いリューネの口からオードブルなどという言葉が出ると、その不釣合いさに顔も顰めたくなる。怪訝な表情で見上げるマサキに、リューネは肩を竦めて、
「あたしだって似合わないコトしてるなって思うよ。で、マサキは何でこんなトコに」
言いかけて彼女はポンと両手を打った。
「待ちぼうけかあ。マサキ、残念だったね」
「うるさい」
その含み笑いにマサキが短く言い捨てると、その様子が可笑しかったのか、リューネは尚更に笑った。
「いやあホントに残念。けど、この後どうするの? よかったら家まで乗っけてこうか? 途中で苺と牛乳を買いにノドスの村に寄るけど」
「そりゃあ丁度いい」
荷台の縁に手を載せて、腕の力で乗り越える。
マサキは荷台に座り込むと、木箱にもたれて空を仰いだ。たなびく雲が、東から西へと抜けて行く。青空に霞む大地を掠めて。
「早く帰って来いって言われて、行って帰るだけじゃあわせる顔がねぇ」
「テュッティに? たまには言う通りにしてあげたら」
ゆるい振動と共に馬車が走り出す。
平坦な道に見えても、小石転がる馬車道だ。時折、腰を打つ振動に痛みを覚えながら、「それも癪に障るんだよ」と、マサキは手にしたままだった草笛を吹いた。
※ ※ ※
「あら、随分早く帰ってきたのね」
リューネの買い物に付き合ったにも関わらず、帰宅するなり顔を合わせたテュッティが、驚いた顔で言い放つ。その後ろで馬車から降ろした荷物をリューネがキッチンへと運び込んでいる。
「ねえ、テュッティ。全部食料庫に入れちゃっていい?」
「いいわよ。まだ片付いてないでしょ、そこ」
自分で使うように言っていた食材の数々。不思議に思いながら、マサキがキッチンを覗きこもうとすると、それをテュッティが体で塞いできた。見るからに不審な行動に抗議の視線を向けると、
「部屋で休んできたら」
素っ気なくかわされる。
そうでなくとも、キッチンからは賑やかな声が聞こえてくる。プレシアにミオ、シモーヌにベッキー。楽しげに笑う声の中、一人厳しい声で火の扱いを注意をしているのはヤンロンだ。焼肉パーティだ、海水浴だとよくよく集まって騒ぐのが好きな連中だが、マサキを中に入れまいとするテュッティの態度がやけに引っ掛かる。
「あれ、もう帰ってきたんですか?」
口の閉まった篭に、釣り道具を抱えたデメクサが、人の良い笑顔を浮かべて姿を現した。
「お前までそう言うのかよ。俺はいつもいつもどこかに行ってる風来坊じゃねぇ」
日頃は大人しく、控えめな男にまで言われては立つ瀬がない。今更、子供でもあるまいに、自分の立場や行動ぐらいは節制出来る。マサキが反論すると、テュッティは苦笑して、
「どうかしらね、あなたは目を離すと直ぐに散歩とか口実を付けて出掛けてしまうし」
「ですよねぇ。珍しい気紛れもあるものです」
「うるせえよ。デメクサ、お前は何しに来たんだ」
「いい魚が釣れたのでお裾分けです。ついでにご飯も頂いていこうかな、と」
戸惑い残る微笑みでキッチンに向かうデメクサについて歩こうとすれば、またテュッティがその進路を塞ぐ。
「覗くくらいいいじゃねぇかよ」
「あなたはあれもこれも口を挟もうとするじゃないの」
キッチンから漂ってくる香りは何だろう。バターに香辛料、甘い香りはお菓子だろうか。食べ物絡みのパーティは良く行なわれる。こんな風に全員がキッチンに入ることは滅多にないし、それぞれが参加するなら鍋物が中心になるのが今迄のパターンだった。
鍋物となるとマサキがやたらと口煩くなるのは自分の国の料理だからで、あれやこれの他の料理にまで口を挟む程料理に精通はしていない。それに、これだけの人数が調理に携わっているのに、自分一人仲間外れにされるのはどうにも不愉快だ。
テュッティがキッチンに立たないのはその味覚に問題があるからで、これは当然の処置とも言えるが、それと同列に自分が扱われているのかと思うと尚更不快になる。
「少しだよ、少し。っていうか、俺だって料理のひとつくらい」
「あれえ? マサキもう帰ってきちゃったの?」
焼きたてのスポンジケーキを両手にミオがキッチンから出てくる。座布団並みの大きさのスポンジケーキをテーブルに置く。
「お前もか。俺がさっさと帰ってくるのがそんなに不満かよ」
「珍しいこともあるなあって。ねえ、あたしと暇潰しにトランプでもやる?」
「暇潰しってなんだよ。そんな戦闘態勢入りまくりの格好で」
ラム酒の入ったコップと刷毛を手にスポンジケーキの前に立つミオは、胸から膝まで覆うエプロンをしている。普段、ここでキッチンに立つ時は、もっと気軽な装いであるのだが。
「あっらあ、これでちょっと暇になるから暇人同士慰めあおうと思ったのに」
「お前とトランプやるくらいなら、部屋で一人で寝る」
「この間スピードで負けたのが口惜しいんでしょ」
「うるせえ。一対一の勝負は俺には向かないんだよ」
先日の対戦成績は0勝5敗。ストレートで完敗したのを思い出すと、負けず嫌いの虫が騒ぐより事実を忘却したい気分が勝る。とにかく、マサキが手を出す間を与えないスピードでカードを重ねるミオの動きには、先ず勝てる気がしない。
「じゃあ寝てなよ。マサキと勝負するといつまでたっても終わらないか、拗ねてゲームにならなくなるかどっちかだもんね。ね、テュッティ」
深々と頷くテュッティが、マサキの頭を軽く撫でた。
子供扱いをされるのは好きではない。マサキももう、ここに召還されたばかりの幼い少年ではなくなったのに。しかしそれをテュッティに言ったところで、彼女は決して変わりはしないのだ。
いつまでも幼かった自分をその中に見ているのだと。そして自分もまた、あの頃の大人だったテュッティを今でもそこに見ているのだ。
「準備が出来たら呼ぶから、のんびり寝てらっしゃい」
何があってもマサキには何もさせないつもりらしい。釈然としないがここでごねてもテュッティの態度は軟化しそうにない。マサキは自分の部屋に向かった。
軋む階段を上って、そろそろ室内の空気の動きでがたつくようになった扉を開く。油を差しても直らなくなった不快な音は、錆びた蝶番のせいだ。休みの日に外にばかり出ていたからだろう。テュッティは日曜大工が苦手だ。
庭の手入れや部屋のシーツやカーテンの交換、花瓶に生けた花の世話はこまめに行なうものの、花壇の崩れたレンガを積み上げたり、窓枠のぶれを補正したり、屋根の補修をしたりするのはマサキの役目と見向きもしない。それで一言言ってくれればいいものを、マサキが気付くまではそ知らぬ顔で、手を付け出してからやっととばかりに文句を言う。
階下に集まっている操者達は酔い潰れるまで騒ぐのが目に見えている。かといって、それに備えてただ部屋で眠るのも、時間を無駄にするようで面白くない。それに、テュッティに追い出された身分では不貞腐れているようにも見える。
「仕方がねぇなあ……磨くか」
誰にともなく呟いて、マサキは二階の納戸を開いた。バケツにブラシと研磨剤と雑巾を放り込んで、廊下の奥へと向かう。玄関から居間まで吹き抜けになっていて、天窓から太陽の光がまんべんなく差し込む屋敷の二階は、各々の部屋の扉が吹き抜け側に向いている。階段を上って直ぐの自分の部屋から一番遠い客間から、マサキは片付ける事にした。
「ちょっとお、ワゴンどこ?」
「ここにあるよ。うわあ、結構きれいに盛り付け出来てるじゃん」
「では一口」
「待った! 味見はこっち!」
料理するのも大騒動な連中の声を聞きながら、一人で黙々と蝶番を磨く。滅多に使われない客間の方が錆が酷い。まめにテュッティが扉を開けて空気を通しているのだが、年間通して温暖な過ごしやすい気候のラングランでは湿気も篭り易い。ほんの僅かに浮かんで見える壁の染み、そろそろペンキも塗り替え時かとマサキは溜息を洩らす。
いっそ全員がここに住んでくれれば、煩わしさでマサキを悩ませるこれらの手入れから少しは解放されるだろう。だがそれも今更だ。
長い年月が過ぎて、一人、また一人と生きる場所を確保していった。こうして頻繁に集まれることの方が奇跡に近い。それほどに全員が全員、見事にラングラン全域に散らばって生活している。
それならそれで、自分もここを出て行けばいいのに、何故か出来なかった。
「ちょっと! テュッティ! その瓶は何!」
「シロップは禁止ですよ」
毎度繰り返されるお馴染みの諍い。テュッティは懲りもせず、甘味を食事に混入しようとしているらしい。これが始まると、料理の準備が終わりに近付いていると知れる。
彼女は厨房に立たせて貰えなくとも不満は洩らさない。だが、テーブルに料理が並ぶと我慢の糸が切れるらしい。ふと思い立った風に砂糖壷やらシロップや蜜が詰まった瓶を持ち出し、あれにもこれにもふりかけようとしだすのだ。
「あれは治らないだろうな……」
口元に自然と浮かぶ笑み。マサキは呟いてバケツを持ち上げた。
こうした騒動を端で聞いているのも楽しいのだと納戸を開く。残す蝶番は自分の部屋だけ。それなら後回しにしても構わない。そろそろ階下に下りても邪魔者扱いはされないだろう。
何か特別なものに感じる今日という日。それに騒ぎ立てる心を押さえるのもそろそろ限界だ。
マサキが片付けを終えて、スロープからテーブルを見下ろすと、いつにも増して豪華な食事が並んでいた。酒が目的であるから、普段の宴会ではつまみが中心になる。クラッカーやカナッペが中央に陣取るどこか物足りないテーブルと比べれば雲泥の差だ。
肉に魚にスープにサラダ。ケーキにフルーツとデザートも上々。
「……腹が減った」
ふらふらと吸い寄せられるようにテーブルに向かう。
「待った! マサキ、まだ食べちゃ駄目だよ!」
少しならつまんでもばれないだろう。マサキがテーブルの端の料理に指を付けようとした瞬間、目ざとくミオに手を叩かれる。
「腹が減ったんだよ、俺は」
「もう少し待ってよ。まだ、準備が終わってないんだから」
準備が終わってないと言う割には、テーブルセッティングは済んでいるように見える。そして、手持ち無沙汰そうにテーブルを囲んで、雑談に興じる操者たち。訝しく思いながら、マサキは自分がここに居続ける理由が解った気がした。
誰かがここに残らなければならなかった。
こうして、全員が集まれる場所を守る為に。
「まだって何が終わってないんだよ。もうすっかり準備が出来てるように見え――」
玄関のベルが鳴る。
居並ぶ顔触れを見回すに、いつもの宴会メンバーは揃っている。むしろ、普段は顔を出さないデメクサやアハマドまでいるくらいだ。他に誰が来るのだろう。
「出ないの?」
テュッティが当たり前のように言う。
「んだよ。俺が出るのか……こういう時ばっか人使いが荒いよな」
愚痴りながら扉を開ける――と、視界が何かで塞がれた。
それが布地らしいと気付くのに、一瞬の間が空く。頭から被せられたそれを引っ剥がすマサキの視界に飛び込んで来たのは、見慣れた白い衣装に抱えられた花束とその脇で極悪な微笑みを浮かべるセニアだった。
「遅かったわね、二人とも」
「近年ではこういった風習は行なわれないようで」
マサキが手にした布を取り上げてシュウが言うと、セニアがその後を引き取った。
「衣装を探すのに一苦労。近世歴史研究家だかの所までわざわざ足を運んで貸し出して貰ったのよ。だからそれ汚さないでね、マサキ」
「汚すも何もこれは何だよ」
マサキは着せられた衣装をしげしげと眺める。やたらと裾が長く、緞帳のように重い布地で作られ、さながらマントといった様相だ。腕を振ると、金糸で縁取られた白い衣装が翻る。
「あらやだ、今日が何の日か気付いてないの。折角宝物庫から300年物のシュベールワインをくすねてきてあげたのに」
セニアはその手に掴んだワインの瓶を振った。貼られているラベルはくすんでいたが、辛うじて生産年度は読み取れた。ワインの価値などマサキには解らない。だが、セニアの言葉が嘘でないのはその年度で判断出来る。
「そういう風習が昔はあったのよ。その日の主役にはこういう衣装を着せるって」
「だから今日は何の日だよ」
見慣れない豪華な食卓に、揃いも揃った顔触れ。
高価なワインに花束。
「非常に月並みな贈り物ですが、特に思いつきもしませんでしたし」
シュウに渡された花束をマサキが受け取ると、背後で一斉にクラッカーが鳴り響いた。
間髪入れずにセニアが指揮者の振りを取り、その腕が振り下ろされると同時に、マサキは悟った。朝から感じていた特別な日の意味も、何故か浮かれ騒ぐ心の意味も、訪ねた相手が不在だった意味も。
「ハッピーバースデイ、マサキ」