甘くない誘惑

 目を開けると、シュウが常時身に付けているネックレスが目に入った。
 マサキは顔を上げた。マサキの身体を抱えてソファに横になっていた男は、今はマサキを胸の上に乗せたまま、片手で読書をしている最中なようだ。
 寝覚めの頭はまだぼんやりしていたが、身体が空腹を感じているのは明瞭はっきりとわかった。腹が減った。マサキはシュウの胸に手を付いて身体を起こした。あー、良く寝た。云いながらソファの端に身体を潜り込ませる。
「チョコレートならありますよ」
「チョコレート? 珍しい。甘いものはあんまり食わねえんじゃなかったか」
 独りでいると食事の支度が億劫になるのだそうだ。昼や夜は外に食べに出ることもあるようだったし、気が向けば自分で料理をすることもあるようだが、シュウの食事は基本的には経口栄養補助剤サプリメント――若しくはシリアルやオートミールと相場が決まっていた。
 アフタヌーンティーの席でもそうだ。その場に菓子類を揃えようとはしない。
 元王族とは思えぬほどに質素な食生活。それをマサキは何度か改めるようにとシュウに忠告していたが、彼からすれば食事に時間をかけることほど無駄なことはないらしい。今日に至るまで、彼の食生活が改善されたという話は聞かない。
「ちょっとしたことで手に入ったのですよ」
 マサキに次いで身体を起こしたシュウが、のそりとソファの上を移動する。
 きっと読み始めた本の内容が思いがけず興味深かったのだろう。ソファの中央に座って読書の続きを始めたシュウが、本から目を離すことなくマサキに向けて手を伸ばしてくる。
 その手がマサキの腕を掴んだかと思うと、そのまま自分の方へと引き寄せてくる。お前さあ。そう云いながらも、他に何もしようがない。マサキは彼の隣に腰を下ろした。
「何か不満でも」
「本も読みたい。俺も側に置きたい。って、そういう我儘をどうにかしろって云ってるんだよ。俺は人形じゃねえんだぞ。大体、腹が減ったって云っただろ」
「ですから、チョコレートがあると云ったのですよ」
「家主の自覚がねえ」マサキはソファから立ち上がった。「冷蔵庫か。それとも戸棚か」
 訊ねながらキッチンに向かえば、背後から冷蔵庫ですよとの声。勝手知ったる他人の家とはいえ、ずぼらにも限度がある。
 マサキは冷蔵庫を開けた。
 中には想像していたよりも豪華な化粧箱が収められていた。シュウが手にしている本よりもサイズが大きい。箔押しされた花々に紋様。そして中央に踊るCHOCOLATEの文字。
 見た目でこれならば、中身も相当なものだろう。化粧箱の雰囲気に気圧されたマサキは、その箱を手に取っていいものか悩んだ。そして止めた。いずれにせよ、甘いものをあまり好まない彼が気紛れで買い求めた品ではないようだ。
「おい。これ、贈答品じゃないのか」
「サフィーネたちからの贈り物ですよ。どうやら日本では年に一度チョコレートを贈る習慣があると聞き付けたらしく」
「そういうもんを俺に食わせようとするなよ」マサキは冷蔵庫のドアを閉めた。
 幾らマサキが育ち盛りであるが故に食欲が旺盛であったとしても、他人への恋心を食い尽くすほど食に飢えてはいない。仕方ねえ。マサキは戸棚を開いた。そこには以前来た時に買っておいた乾燥パスタとパスタソースが、手付かずのままで残っている。
 お前も食うだろ。そうシュウに尋ねようとマサキは振り返った。
「妬いているのですか」
 瞬間、気配を殺してひっそりと。いつの間にかキッチンに入り込んできていたシュウが、身を屈めてマサキの耳元にそう言葉を吐きかけてくる。
「そうじゃねえだろ。これはあいつらの気持ちがこもったお前へのプレゼントだって云ってんだよ」
「しかし私が甘いものを得意としていないのは、彼女たちも知っているのですがね」
 シュウのルーツとなる文化を知り、それを実践することで、少しでも彼との距離感を縮めたいのだろう。しばしばそれが行き過ぎたミーハーとなる彼女らは、バレンタインデーという習慣に我慢が利かなかったのだろう。自分たちの満足感を優先させてしまったようだ。
 その結果がこの冷ややかな眼差しだ。
 サフィーネとモニカから先のことを考えずに渡されたチョコレート。それにシュウが不満を感じているのがありありと伝わってくる。
「まあ、それは良くねえよな。押し付けになっちまうし」
「ですからあなたに食べて欲しいのですが」
「お前が食うなら食う」パスタを手に取ったマサキは、それをダイニングテーブルの上に置いた。「その前にちゃんとした飯だ。お前も食うだろ」
 しかし、例えそのチョコレートが彼女らの自己満足の結果であろうとも、気持ちが込められた贈り物なのは揺らぎようのない事実。そうである以上、ひとりで食い尽くすのは筋が通らない。そう考えたマサキはっとシュウの顔を見詰めた。
 こういった豪華な菓子は、日に少しずつ、ゆっくり味わって食べるものなのだ。
 だからこそ先ずは食事だとマサキが胃袋を満たすことを提案すれば、マサキの頑固さに覚悟を決めねばと思ったようだ。シュウは苦笑しながら、「仕方ありませんね。どちらも食べますよ」そう云って、リビングへと戻って行った。