白河愁の独白

 頭でっかちの思考機械。学会や研究室で、私はそういった陰口を叩かれることがままあった。
 答えは正確だが人間味に欠けている――と。
 学者世界の人間は、得てして感情より理論を優先したものだ。原子爆弾アトミックボムのエピソードなどはその最たるものだろう。それが数多の人間の命を奪う兵器であるとわかっていながら、立てた理論の正確性を確認する為だけに作り上げてしまう。しかもその完成を、結果の証明を、無邪気に喜ぶ。学者とは倫理に背いていることを、理論の正しさの名の下に、実行に移してしまう悲しき生き物なのだ。
 無論、それこそが知の徒であることの証左ではある。
 誰しもその欲に誘惑されたことはあるだろう。押してはならないボタンを押した時、世界に何が起こるのか。そこでアクセルを踏み込んでしまう精神性がなければ務まらない世界。私はその一員として、出来る限り正しき知の徒でいようと努めてきたつもりだ。
 だが、私のそれはどうやら群を抜いているらしい。
 入力に対して、より精度の高い結果を出力する。それも誰よりも早く。
 そこに迷いや躊躇いはない。当たり前だ。私は科学者の端くれとして、正しき理論と解の繋がりを誰よりも早く導き出すことが、学者世界で栄誉に与る最短の道のりであることを理解している。
 より良い世界? 技術の進歩? 誰がそんなものに囚われて学者になろうなどと思うものか。私たちは真理を求める考える葦でしかない。りたいことをただる為だけに生きる。それが証拠に世界を創るのは我々ではなく、為政者たちであるだろう。技術などというものは、世界の頂点に上り詰めた彼らの前では圧倒的に無力だ。彼らは理屈や理論を容易く飛び越えて、世界に暴虐なる楔を打ち込む。ならば我々は、自らが生きるにあたって必要な唯一無二の使命を、粛々と果たすだけである。
 そもそも、理論を実現した先にどういった世界が待っているのかを考えるのは、科学者の仕事ではなく、倫理学者たちの仕事だ。
 だから私は、私の理知エトスが命じるがままに、命題ロゴスを求める人間であろうと努めていた。だが、そうした私の在り方は、数多くの学者の反発を招いた。何故? そんなことは私にはわからない。同じく真理を求める仲間が、どうしてそうも感情に囚われることを良しとしてしまえるのか。
 だが、私の足りなさを、的確に把握している人間はいたのだ。
 いつだったか、ビアン=ゾルダークに云われたことがある。「君には人間が当然のものとして有している揺らぎが足りない」まるで日常会話の延長線上にあるようなさり気なさで、研究に専心する私の作業に割り込んできた彼は、それを読めばわかるとばかりに『フラクタル理論』の書を私に差し出してきた。
 勿論、私が既に修めた理論の一つであることを、認識した上でだ。
 とはいえ彼は、世界最高峰に数えられる知の巨人のひとりであった。だから私はその単純な理論の羅列に過ぎない書を読んだ。そして首を傾げた。新たな発見など何もない、既知の知識で埋め尽くされた書。まだ青臭さが残る私には、彼の云いたいことが理解出来なかった。
 自然界に蔓延っている揺らぎ。規則性の振れ幅が大きなその世界を、私という人間にどう落とし込めばいいのか。それとも彼がこの書を私に渡してきたのは、『自然もまた生き物のひとつに数えられるものである以上、生物たるヒトもまた同様の揺らぎを得ている筈である』とでも云いたかったからなのか。そんな馬鹿な。私は首を振った。無駄を排した合理的な戦術を好むあのビアンが、DC総帥の座に就くカリスマが、そんな安直な論に傾くとは到底思えない。
 一晩、その書を前に考えた私は、「私には必要のない世界であるようです、博士」とビアンにその書を返した。
 そもそも人間性というものは、組み立てられた機械に意図して組み込まれている『遊び』などとは根本的に異なるものである筈だ。遊び程度に収束する揺らぎしか人間にないのであれば、意図せざる崩壊は事前に防ぐことが出来る筈である。だが、実際はどうだ? ラングランの預言システムを総動員しても、魔装機計画を発動せずに私の動きを阻むことは出来なかったではないか!
 愚かな私は、揺らぎの構造を単純化した比較でわかったような気になっていた。そう、正確無比なコンピューターとも揶揄される私は、そういった意味では、人間の果てしない可能性を信ずる楽観的な夢想家だった。
 五十回の試行回数。
 ひとつの天気予報が発されるのに行われる天候変化予測シミュレーショトの回数だ。私たちがほぼ当たると信用している最も身近なシステムは、これだけの回数の試行を経て世に出されている。その数に私は可能性の収束を見た。そこに至る道筋が仮に五十通りあったとしても、出るべき結論は『雨か晴れか曇り』といった片手に収まる程度の数に絞られる。尤も、そこに人間性に値する揺らぎを見て取るのは吝かではない。だが、自分の行動が予見可能なものであったとして、その行き着く先は何だ? それこそ確定的な未来ではないのか。
 気が遠くなるほどに重なり続ける現在いまの連続が、たったひとつの未来に向かって揺らいでいるだけなのだとしたら、生きる意味はどこにあるというのか。それはどれだけ揺らぎの幅が広かろうとも、定められたレールの上を歩き続けているだけに他ならないのではないか。
 クリストフ=マクソード、或いはシュウ=シラカワとして、栄光に彩られた人生を送ってきた私は、自分が『何かを成す側の人間』だと思っていたからこそ、ビアンの指摘に不服を覚えずにいられなかったのだ。
 尤も、今であればそれは大いなる誤解であったことがわかる。
 彼は私に多少ならずとも素直であれる自分を求めていたのだろう。いや、もしかすると、感情や情動を理性の支配下に置こうなどという愚かな思想――ラングランに於ける純粋理性至上主義に染まりきらぬようにと心を砕いていてくれたのかも知れない。いずれにせよ、私が忌避しているほど感情や情動というものが汚らわしいものではないということを、ビアンは流石の慧眼で見抜いていたに違いなかった。
 そこにこそ、命の輝きは宿るものである。
 でなければ、どうして有象無象の集合体に過ぎない地球連邦軍の遊撃部隊ロンドベルが我々を斃したものか。
 彼らは人間味溢れる兵士、或いは戦士の集まりだ。戦場に生温い理想論だの感情論だのは必要ないのにも関わらず、時にそれに足を引っ張られて大きな失敗ミスを犯してしまうような。
 とはいえ、戦術というものは突き詰めていけば、残虐性を抜きにして合理化を図れないものでもある。確実なる勝利の方程式土地を汚染と人の全滅だ。しかしそれをヒトの倫理は許さない。国際条項で戦争に於ける禁止条約が定められているのは、戦争を逃れられない悲劇と認めた彼らがみせた精一杯の譲歩だった。倫理に則って、せめて被害を最小限に留める戦いをせよ。彼らの主張は単純明快でわかり易い。
 無論、人間味に欠けると云われる私にも、一匙くらいの感情はある。それは私に、効率の為により大きな犠牲を認めることを良しとはしてくれなかった。戦争終結の最短ルートが見えていたにも関わらず、私がその道を進むことなく、ビアンとともに迂回路を往き続けたのは、だからだ。
 戦争とは、支配、或いは服従を求めてなされる単純な暴力行為だ。
 そうである以上、それは威嚇以上の意味を有してはならなかった。稀に立場が異なる人間に憎悪を抱き、その感情の赴くがままに殺戮を繰り返す軍隊などもあったが、私に云わせればそれは元来の気質が大量殺戮者シリアルキラーであっただけのこと。憎悪が生むのは憎悪でしかない。敬虔なカトリック信者であろうとも、右の頬を無為に打たれれば怒る。ましてや左の頬を差し出せる人間などどれだけいたものか。そうである以上、人命を無駄に消費する攻撃など、その後の展開を見据えているのであれば、むしろ避けるべき戦術であるだろう。
 効率的な戦いとは、最小限の犠牲で成されるものでなければならないのだ。
 そういった意味で、有象無象の集合体であるロンドベルは正しく効率的であった。自ら立ち上がることで、軍の一兵卒の消費を減らし、世界各国を転戦することで、軍が各地の治安維持に兵力を費やせるように導く。それをさも当たり前のように為してみせるなど、並大抵の兵士に出来ることではない。
 私はロンドベルという一団の戦争への考え方には思うところがあるが、彼ら自身の働きや影響力には素直に敬服の意を示す。
 感傷的且つ夢想家な人間で構成されるロンドベルは、成程、確かに彼らへの批判に現れているように、理想という霞を食べて生きている集団であるだろう。だが、彼らはだからこそひたむきで、幾度踏みしだかれても立ち上がる葦のように逞しい精神性を有していたのだ。
 それもまた人間性の証左である揺らぎの一種である――と、私が気付くのは後々のことであったが、彼らとの戦いなくして私がヒト、或いは人間性の真実に目を覚ますことはなかったのは間違いない。
 その中には彼もいる。
 マサキ=アンドー。地底世界ラ・ギアス最大国家、ラングランが発動した魔装機計画における最後の切り札。風の魔装機神を操る彼は、ロンドベルの中でも群を抜いてしぶとかった。
 地底世界で策謀を巡らせ、ラングランに壊滅的なダメージを与えた私は、その主戦場を地上世界に移すこととした。それを追ってきた少年マサキ。月での最終決戦で、彼が私の目の前に立ちはだかった瞬間のことを私は生涯忘れることがないだろう。
 彼を目にすると、私の心は騒がされた。人々の期待を一身に受けて、その操者になりたいと自らもまた望みながら、届かなかった風の魔装機神。白亜の機神を我が手足のように扱ってみせる彼の能力が、他の操者候補たちよりも並外れていることは直ぐにわかった。彼の身体能力は、常人のそれを遥かに凌駕する。
 それでも私はマサキの存在が稀有なるものであることを認められなかった。この世に私より優れる人間など、数えるほどにしか存在していない。彼らは私に様々に世の道理を説いて聞かせた。それは、彼らがそれを許せるほどの人格者であったことを意味している。だのにマサキはどうだ? 向こう見ずなまでに直情的。私は彼が私よりも優れた能力者であることを、どうしても認めたくなかったのだ。
 それこそが、私の揺らぎ。
 いや、むしろひずみであると云うべきか。
 養父を殺し、彼の第二の故郷であるラングランを破壊した私を、マサキは寛容にも赦した。いや、もしかすると、彼は私がヴォルクルスに操られて破壊行為に手を染めてしまったことに気付いていたのかも知れない。いずれにせよ、私の存在を認めるようになった彼は、以前のように私を遮二無二追いかけるということをしなくなった。
 だのに、治まらない胸騒ぎ。
 私はマサキの姿を目にするだに襲いかかってくる衝動と戦い続けた。
 心の奥底で吠え猛る何か。私は名を知らぬその感情をどうにか彼への皮肉へと変えることで、精神の均衡を保った。暴れ馬の制御ですらここまで難しくもないだろう。そのぐらいにままならない衝動。決壊したダムのような濁流に、私は翻弄されていた。
 今ならわかる。
 あれは明確な嫉妬で、そして明確な憧憬で、更には独占欲ですらあったのだと。
 ひとつの壁を乗り越えては、柔軟な成長をみせてゆくマサキ。出会った頃と比べれば雲泥の差だと感じるほどに、彼は精神的に逞しくなった。
 それと比べて私はどうだ。いつまでもひとところに留まっていはしまいか。
 それは偏屈で、偏狭で、意固地な己を浮き彫りにした。
 自己に拘っていなように見えて、拘り続けている私。決して付き合い易い人間ではない私。過去に囚われて一歩も前に進めずにいる私。そう、私は――自身が面白味のない人間であるということを、マサキの豊かな感情表現を目にすることでようやく悟ったのだ。
 彼の柔軟さ。彼の伸びやかさ。
 未来を純粋に追い求めるひたむきさに、目の前の難問に体当たりで挑んでゆく逞しさ。
 私には持ち得ない輝けるものを幾つも手にしているマサキ。彼の背中には、彼が駆る風の魔装機神と等しい翼が生えている。彼が軽やかに人生を歩んでいけるのは、紛れもなく目に見えないその翼のお陰である筈だ。
 それが私は欲しくなった。
 かといって、今更大きく変われる己でもない。私は私自身の中身をマサキに入れ替えて想像を膨らませてみた。滑稽だ。この底光りするメスのような顔立ちは、実に良く私の内面世界を表してしまっている。だから私は諦めた。頭でっかちな思考機械であるところの私は、増え過ぎた知識が変革を邪魔することもあるということを、引き返せないところまで到達してしまってから気付いてしまったのだ。
 それならば――……
 私はマサキを欲した。彼を手に入れたいと望む、その欲に執着した。
 人々の望みや憧れを体現したかのような在り方。それを意識せず自然に行うことが出来るマサキは、私にとって自由であることのひとつの答えでもあった。心のままに生きる。勿論、その道は決して平坦ではなかったが、自らを追求することは、かけがえのないものを手に入れることと同義である。
 私は自己探求の先にある発展を、マサキの隣に立つことで叶えたのだ。
 彼が本音の部分でどういった感情でいたのかは私は知らない。憎しみに近い感情を抱いたこともあっただろう。怒りしか浮かばなかったこともあっただろう。或いは無常、或いは悲哀。それを私はマサキに尋ねようとは思わない。ただ、ヒトの揺らぎ、或いは人間性というものは、時に暴虐に他者に牙を剥くものだ。
 それでも、私は最終的に、自らの最大の願いを遂げた。
 そして知った。
 私が辿ってきた道こそが、揺らぎ――そして私の人間性の発露であったことを。