左右の壁沿いに並ぶ背の高い書棚には、どれも隙間がなかった。背表紙からして一般書籍とは開きがある書物。息苦しくなるほどの圧迫感を覚えながら、書斎の奥に置かれているオーク材で出来たデスクにシュウが着くのをマサキは待った。
「見せたいものって何だよ」
「少し待っていなさい。直ぐに用意しますよ」
天板の色と揃いの黒色。革張りのアームチェアに腰を落ち着けたシュウが、手慣れた様子でデスク上にホログラフディスプレイを展開する。マサキはシュウの背後に回った。何を見せる気かは不明だが、彼がマサキに見せたいものはこの情報処理端末の内部にあるようだ。
ディスプレイの中央に浮かび上がるログイン情報を求めるダイアログ。何かのシステムを起動しようとしているのだろうか。マサキは固唾を飲んでシュウの動作を見守った。シュウがラ・ギアス世界全土に及ぶ情報網を独自に構築しているのを知ってはいたが、その実物を目にことがない。もしかすると彼はマサキにそれを見せようとしているのではないだろうか……期待と不安に胸を苛まれながら待つマサキの目の前で、システムのロックをシュウが解除する。続けて、起動したばかりのシステムのウィンドウが拡大された。
「それは、何だ」マサキは言葉を発した。
そこに映し出されているのは、ノートのようなシステムだった。
フリックでページが捲れるようだ。暫く白紙のページを捲っていたシュウが、やにわに右上のメニューアイコンをクリックする。と、広めのテキスト入力ボックスが、日付入力プルダウンと縦並びに画面にフレームインしてくる。恐らくはここに入力した内容がページに反映されるのだ。マサキはそう見当を付けたものの、肝心のシュウの意図は読めないままだ。一体、このシステムを使って何をするつもりなのか。訝しさに首を傾げていると、シュウがマサキを振り返った。
「交換日記をしましょう、マサキ」
「こうかんにっき」
一ミリも予想をしていなかった単語の登場に、マサキの脳内が真っ白になる。
もしかしたら、何かの弾みに自分はまた次元の壁を超えてしまったのではなかろうか。マサキは脳内で交換日記とは何かを考え始めた。こうかんにっき……コウカンニッキ……交換日記……馬鹿の一つ覚えのように脳内でその単語を繰り返してみるも、交換日記の新たなデータは思い浮かばない。
「ってことは、ここは俺が良く知るラ・ギアスってことか」
「あなたが何を考えているかの予想は付きますが、敢えてそこには何も云わずにおきましょう」
「だって、お前。今、間違いなく交換日記って云っただろ」
「云いましたね。それが何か」
そう、シュウが口にした交換日記とは、あの交換日記に他ならなかった。友人や恋人間で回される、極めて私的な日常の記録。面倒臭がりなマサキからすれば、それはどこに存在意義があるのか不明な自己主張の応酬に他ならなかったが、小学生時代の同級生の間では何度かブームが起こっていて、重なり合う人間関係の中で何冊もの交換日記が回っていた記憶がある。
「交換日記って、あの交換日記だよな」
「他に交換日記というものがあるのであれば、むしろ教えていただきたいところですが」
それがさも当然のことであるかのように、しかも口元に笑みさえ浮かべながら、余裕たっぷりに云いきるシュウにマサキは訳がわからなくなった。もしかしたら、ここは重なり合う別の世界線であるのかも知れない。いつだったかシュウが語って聞かせてきた多元宇宙論の概要を思い浮かべながら現状確認を済ませたマサキは、「元の世界に戻りてぇ」極めて真剣にそう口にした。
「ここは間違いなくあなたが召喚されたラ・ギアス世界ですよ、マサキ」
「わかってたよ。ああ、わかってたさ。万が一の可能性に賭けた俺が馬鹿だった」
マサキは絶望的な気分でホログラフディスプレイに目を向けた。よくよく見てみれば、日付入力プルダウンの隣に入力者を選択するアイコンがふたつある。恐らく紫色のアイコンがシュウで、緑色のアイコンがマサキであるのだ。マサキは両足を踏ん張った。わかってはいたが、いざ参加者が自分たちだけに限定されているのを見ると眩暈がする。更なる絶望を味わったマサキは、何を云う気力もなく項垂れた。
「お前、時々酷くポンコツになるよな……」
「これは異なことを。あなたとの相互理解の為に、時間をかけて考えというのに」
「その結果が交換日記って時点で、お前の相互理解の道筋はどこかずれてるんだよ」マサキは顔を上げて、シュウの説得にかかった。「大体、相互理解ってのはな、一朝一夕に『はい出来ました』ってもんじゃないだろ。同じ時間を長く過ごして、それなりに対話をした先にこそあるもんじゃないのか」
「そうあなたは云いますが、そもそものその時間を取らせてくれないのはどなたでしょうね」
即座に返す刃で切って捨てられたマサキは、う――と、言葉を詰まらせるしかなかった。
三ヶ月振りの訪問。その前は一週間だったが、更にその前となると二ヶ月の間がある。シュウの恋人としての自覚があるマサキとしては、もう少しこまめに彼の許を訪れたい気持ちがあったが、いかんせん公の立場が立場だ。治安維持の為の巡回に、紛争地域への派遣。細かなところでは、剣技の指南や演習などもある。もっと云えば、情報局の書類整理もマサキたちの仕事にされている。
そう、科せられる任務が多岐に渡るマサキは、簡単には身体が開かないのだ。
確かに、こういった状況では、シュウもコミュニケーションの手段をネットワークシステムに頼りたくなるだろう。しかもマサキ自身、王都での生活にかまけてシュウへの連絡を疎かにしがちな自覚があるのだ。それはぐうの音も出なくなったものだ。
「理解出来ましたか、マサキ」
「う、うう……まあ、お前が云いたいことはわかった……だけどメッセンジャーツールとか、他にもやれる方法は幾つかあるだろ」
その瞬間にシュウの顔に浮かんだ悪魔的な笑みを、マサキは一生忘れることはないだろう。
「私はね、マサキ。私の目の届かない場所であなたが何をしているかを、あなたの言葉で聞かせて欲しいのですよ」
マサキはシュウの言葉を、三度、絶望的な気持ちになりながら聞いた。
シュウ=シラカワという男はこういう男なのだ。マサキが何処で何をしているかを逐一把握したがる。しかも、どうせ独自の情報網に上がっているものを、そ知らぬ振りでマサキ自身に報告させようとするような捻れた人間性の持ち主でもある。
「良く云うぜ。そこの情報網で全部把握しやがってるクセに」
だからマサキはシュウにそう告げた。
既に知られているものを改めて言葉に起こす必要などない。それはマサキのささやかな抵抗でもあった。もう成人してかなりの年月が経ったいい大人ふたりが、システム上でとはいえ交換日記を始める。これが滑稽でなければ、何が滑稽となったものか。マサキは苦々しい思いで口唇を結んだ。
けれどもマサキの目の前の男は、その程度の言葉では怯まなかった。むしろ、その言葉を待っていたのだとばかりに口を開く。
「あなたが嫌と云うのであれば、仕方がありませんね」クックと肩を震わせたシュウが、余裕に満ちた表情をマサキに向けた。「情報網の信頼性を確かめる為にも、あなたにログをお送りすることにしましょう。当たっているかいないかぐらいの返答でしたら、幾ら筆不精のあなたでも」
「そんな恐ろしいものを俺に見ろって云うのか、お前は!」
マサキは声を荒らげた。
いつのことだったかマサキは忘れてしまったが、ここを訪れるなり、シュウに一週間の食事のメニューを正しく云い当てられてしまったことがあった。それ以外にも、外で偶然鉢合わせしたりと不審な点は多々存在している。
シュウからすればマサキの情報は、それだけ仔細漏らさず把握したい種類のものであるのだろう。その行動の是非をマサキは問うつもりはない。自分の知らない場所でやる分には幾らでもやってくれと思うばかりである。
そもそもその内容を知らなければ、『ない』も同義なのだ。シュウが毎日のようにマサキの行き先に姿を現すというのであればさておき、偶の邂逅であれば偶然の範疇だろうに。だからこそ、マサキはシュウがどれだけ勧めてこようが、情報網内部の自らの情報にアクセスするような真似はしてこなかった――のだが。
「ですから自己申告の方が気が楽だろうと申し上げているのですが」
そのマサキの考えを理解しきっているに違いない。シュウの勝ち誇ったような表情に、絶望を上塗りされたマサキはついに白旗を振った。
「あー、もう! わかった! やるよ、やる! 交換日記をやればいんだろ!」
※ ※ ※
システム上で始まった交換日記は二週間と経たずに終わった。
アクセスが容易なだけに、暇となるとつい覗いてしまう。そうした自らの性格に問題があるのはマサキもわかってはいたが、そもそも好んでシュウの恋人でいるのだ。離れている間に彼が何をしているのか。気になるのはマサキも一緒だった。
最初の三日は穏やかな気持ちで見ていられた。過多な自分に対する記述の数々も、名残惜しさの表れだと微笑ましく思っていた。
けれども日が経ってもその傾向が改まらないとなると、流石に少々怖くなった。
数行に一度は出てくる自分の話題。何かの折に思い出したといった態で始まるそれらの記述は、シュウの日常がどれだけマサキに浸食されているかの証明だった。
内容は様々だ。いつかのマサキとの思い出に、これからの展望。それが尽きれば妄想逞しいたられば話。よくもまあネタが尽きないものだ――と、笑っていられたのは五日目までだ。何と云っても大半は妄想の産物である。そんなものを大量に摂取していれば、それはどれだけ恋しい男がすることであっても辟易したもの。
「リップサービスのつもりだったのですがね」
だからこそ、多忙な日々の合間を縫ってマサキが直談判しに向かえば、書斎で書きものに専念していたシュウは涼しい顔で云うばかり。
「リップサービス、だと……?」
「折角ふたりきりで使えるシステムを構築したのですよ。少しは恋人らしい記述をするべきでしょう」
シュウの返答にマサキは唸った。どうも彼は『恋人同士はこうするもの』という固定観念に侵されているらしく、それがマサキをしてやり過ぎに感じられることがままある。今回にしてもそうだ。自らの日記の内容が悪いとは微塵も思っていない態度。彼からすればあの膨大な量のマサキへの言及は、『恋人としてかくあるべき』を独自解釈した結果であるのだ。
「てか、お前。交換日記の意味、絶対わかってないだろ。俺が書くより先に、何日分も書くんじゃねえよ。ただのホラーじゃねえか」
「アクセスログであなたが見ているのはわかっていましたしね。私が例を見せた方があなたも書き易いでしょう。とはいえ、あなたの反応からするに、私の日記の書き方は良くなかったようですね。わかりました。間隔を開ければ問題はないのでしょう」
「いや、まあ。ううん……確かに、毎日のようにあれを見せられてたからってのはあるな」
「なら、こうしましょう。マサキ、手を出して」
デスク越しに手を出すことを求めてくるシュウに、首を傾げながらもマサキは手を差し出した。その視線の先で、引き出しを開けたシュウが中から一冊のノートを取り出してくる。何やらポップな色彩なのが気掛かりだが、今更手を引っ込めるのも気が引ける。
「どうぞ、マサキ。これを」
彼からノートを受け取ったマサキは、その表紙にでかでかと記されている題字を目にした。そして、頭を抱えたくなるほどの脱力感を味わった。
――交換日記。
恐らくは子どもが使用するものであるに違いない。ファンシーな作りが目を惹く専用ノート。早速ページを捲ってみれば、可愛らしいキャラクターが隅っこで思い思いのポーズを取っているのが目に飛び込んでくる。
「郵送で遣り取りすれば、きちんと交互に日記が書かれたノートになることでしょう」
自らが用意したノートのファンシーさに思うところはなさそうだ。至って平然とシュウが云い放つ。
「ですから、今度はあなたから日記を書いてください。ああ、勿論、あなたが楽なペースで進めてくれて構いませんよ、マサキ」
稀には冗談を口にすることもあれど、基本的に生真面目な性格であるシュウ。万が一にも、巫山戯てこうした行動に出る男ではない。そう、このノートひとつ取っても、彼なりに真剣に考えて考えて購入したものであるに違いないのだ。それでも、この現実を丸ごと受け入れるのには覚悟がいる。そうじゃねえんだよなあ。シュウのずれた行動に呆れ果てたマサキは、交換日記のノートを手に立ち尽くすより他なかった。

リクエスト
「交換日記するシュウマサ(上部画像を参照)」