真夏の夜の夢

 珍しくも盛りにして涼しさが増していた夏のある日のことだ。
 うららかな昼下がり。シュウが所有している住処のひとつで、マサキはゆったりとした時間を過ごしていた。ソファの上でくつろいでは、シュウと他愛ない会話を重ね、意味もなく点けているテレビを見ては、その内容にあれこれ考えを巡らすような。
 その矢先に歌劇を見に行かないかと誘われたマサキは、あまりにも自分に不釣り合いな場所に、シュウがわかっていて巫山戯ているのではないかと思った。
 そもそも学校の文化祭や芸術鑑賞会で披露される劇でさえ、途中で寝こけて最後まで見れたためしがなかった。しかも過程よりも結論を求めたがる性質なものだから、テレビドラマや映画でさえも展開が遅く感じられてしまって仕方がなくなったものだ。
 根本的に物語を楽しむのに向いていないマサキに、それをどう期待すれば、大舞台で披露される芸術作品の鑑賞が務まると思えたものか。俺が歌劇って柄だと思うか。反射的にそう口にしていたマサキに、大丈夫ですよとシュウは微笑みかけてくる。
「大丈夫な訳ないだろ。そんなの途中で絶対に寝るに決まってる」
「どうしてもつまらなく感じるというのであれば、寝てくださっても構いませんが」
「なんだよ、それ。随分内容に自信がありそうじゃねえか」
「あなたでも楽しめると思っていますからね」
 云いながらシュウは一冊の本を差し出してきた。重厚な皮表紙の本のタイトルは真夏の夜の夢。作者名はウィリアム=シェイクスピアと書かれている。
 タイトルに聞き覚えはなかったものの、いかに文化的な知識に乏しいマサキであっても、流石に劇作家シェイクスピアの名ぐらいは聞き覚えがある。まさかこのシェイクスピアって――と、本を受け取りつつシュウに尋ねてみれば、そのシェイクスピアですよ。しらとシュウは云ってのけた。
「シェイクスピアの代表作と云えば何を思い浮かべますか」
「ハムレットだろ……後は、ロミオとジュリエットか」
「そう。他にもマクベスやリア王、オセロなどが有名ですね。重い話を創り出すのが得意な作家なのでしょう。現代に残っている作品には世の不条理を説いたものが多く、先ほどあなたが挙げたハムレットなどを含めた作品群は、シェイクスピアの四大悲劇などと呼ばれています」
「俺が楽しめる作品じゃないだろ、それ。いくらなんでも無理だ。間違いなく寝る」
 どう優しく見積もっても、マサキが観劇していい作家ではない。歴史に名だたる作家シェイクスピア。著名な作家の創り上げた作品が、つまらないものである筈がない。極上のエンターティメント。そうでなければ、どうして現代にまで語り継がれる名作となったものか。
 けれどもそれをマサキが理解出来るかとなると、それとこれとでは話が違ってきたものだ。
 どれだけ厚かましい性格であるところのマサキであっても、多少は自分自身のことも把握している。飽きっぽく、気が短い。だからこそ、素直に自分がそういった世界に不向きであると云っているのに。それを聞いているのかいないのか。シュウはシュウで、どうあってもマサキを観劇に連れて行きたいらしい。最後まで話を聞きなさいと、ぴしゃりとマサキの言葉を封じると、歌劇の内容を説明し始めた。
「真夏の夜の夢はウィリアム=シェイクスピア作の喜劇です。『父の云い付けに背く娘は死刑』という古い法律を持ち出して、娘であるハーミアとその恋人たるライサンダーの仲を引き裂こうとする父イージアスに、自身もまたアマゾンの国のヒポリタとの結婚を控えているアテネ公シーシアスは、自分たちの結婚式が行われる四日後までに、イージアスが選んだ結婚相手であるディミートリアスと結婚するか、それとも死刑になる道を選ぶか決めるようハーミアに告げます。ここにディミートリアスに好意を抱いているヘレナや、妖精王オーベロン、その妻である女王ティターニア、そして悪戯好きな妖精パックが絡むことで、それぞれの男女の関係がより入り組んだものとなるのですが、さて、ではこの先彼らはどうなってしまうのか――と聞いたら、あなたでも少しは興味が出てきませんか」
「だから無理だって云ってるだろ。喜劇つっても、俺が思うような喜劇じゃないだろ。何だよ父の云い付けに背く娘は死刑って。そんな無茶な法律があるかよ」
「だから喜劇だと云っているでしょうに」
 そしてシュウは本を膝の上に乗せたままのマサキに対し、壁に掛けてあったラングラン式の礼服を渡して来た。ずっとおかしいと思ってたんだよ。云ってマサキは盛大に顔を顰めた。シュウのものにしてはサイズが小さい礼服が、何故壁に掛けられていたのか。その答えを知ったマサキは、どうすればシュウが気を変えてくれるかと考えを巡らせて、少しもしない内に頭を垂れた。
「着替えて劇場に向かうには丁度いい時間ですよ、マサキ」
 一度こうと決めたことは絶対に譲らない男なのだ。有無を云わさないシュウの言葉に、マサキは仕方なしと観劇に付き合う決心を固めた。膝の上の本をソファに置く。寝ても文句を云うなよ。云いながら礼服を片手に立ち上がると、それは勿論と歌うような調子でシュウが云う。
 機嫌を良くしたのだろう。他人の前では決して見せない歓びに満ちた表情。まなじりを細めて笑みを浮かべているシュウに、マサキは、現金な男だ――と呟いて、礼服への着替えを済ませるべくリビングを後にした。

※ ※ ※

 タイトなスラックスにチェスターコートといった趣きのジャケット。タイこそないものの、太いバンドでジャケットの前襟を留めているからか、胸元が窮屈に感じられて仕方がない。そもそも、全く着る機会のない礼服に袖を通しただけでも落ち着きを欠こうというものだろうに、普段は雑にブラシを入れる程度の髪の毛までも、どうせだったらとシュウによってセットされてしまっている。それに加えてこの座席だ。マサキはシュウと揃って足を踏み入れた劇場の前から数えた方が早い座席の位置に、内心、生きた心地がしなかった。
 舞台のみならずオーケストラをも間近に見渡せてしまう舞台正面席。これでは寝たくとも寝られない――むしろ寝てしまおうものなら、連れであるシュウの沽券に係わる事態になりかねない。上流階級の人間と思しき人々が客として陣取っている特等席プレミアム。シートに身体を収めたマサキは、その座り心地の良さに驚きながらも、パンフレットに目を落としているシュウを横目に、そりゃあこんなにいい席を手に入れたら舞い上がりもするとひたすらに長い溜息を洩らした。
 いくらマサキが観劇の世界の事情に疎くとも、シュウがプラチナチケットの争奪戦に勝ったことぐらいは理解出来ようもの。どれだけの金額を支払ったのか想像だにしたくないが、金銭感覚の異なる男がしでかすことだ。マサキが想像する金額の倍、もしくは三倍。下手をすれば桁が違う可能性すらある。しかもそれを2シート分。さしたる贅沢をしないマサキとしては、そんな席に果たして自分が座っていていいものかと気が気ではない。
 あまりにも落ち着かないものだから、この席にかかった金額をシュウに尋ねてみるべきかと思いもしたものだが、それは流石に無粋に過ぎる。
 そもそもマサキを誘うつもりで取った席かも不明なのだ。幅広い人脈を誇る男。もしかするとそういった相手と行くつもりで取った席やも知れない。それが何某なにがしかの理由で叶わなくなってしまった……充分に有り得る可能性に、尚の事圧し掛かってくる重圧プレッシャー。だったらひとりで来るべきだった、などとシュウに思わせてしまわないようにしなければ。マサキは落ち着かない気持ちを鎮めるべく、違う話題を口にすることにした。
「しかしお前が喜劇を見るなんてな。何かこう、もっと格調高い内容のものを見るんじゃないかって思ってたもんだが」
「シェイクスピアで好きな歌劇を上げろと云われれば、マクベスかリア王ではありますが、衆俗的なエンターティメント性に溢れているという意味で作品をひとつ上げろと云われれば、真夏の夜の夢を選びますね」
「面白いと感じてるのかそうじゃないのかわからない表現をしやがる」
「それは勿論。面白いと感じないものを見るのにあなたを誘いはしないでしょう」
 ほら、と手にしていたパンフレットを渡されたマサキは、何も知らずに見るよりかは作品に対する造詣が深まるやも知れないと、膝の上でそれを開いて目を落とした。シェイクスピアの功績から始まり、真夏の夜の夢の公演の歴史、そして今日の出演者や楽団がどれだけ有名かを書き立てるパンフレットは、紙質に拘った重厚な造りの外見ではあったものの、中身としては至ってオーソドックスな記事構成だった。
「映画のパンフレットとそう変わらないんだな。もっと難解に書かれてるもんだと思ったが」
「映画にせよ劇にせよ娯楽ですからね。気を張って観るものではないでしょう」
「そうは云ってもな。ドレスコードを求められるようじゃ、一般大衆向けじゃないだろ」
「娯楽とは非日常を愉しむものですよ。だからこそ余所行きの服を着て普段とは異なる世界に浸る。今となっては娯楽も日常的なイベントのひとつとなってしまいましたけれど、かつての娯楽とは、それこそ事前に準備をして行うに値する本当のイベントであったのですよ」
 娯楽ねえ。マサキはそう呟いて周囲を見渡した。特等席プレミアムには相変わらず大元の生活様式からして異なるとしか思えない客層が顔を並べている。マサキのような人種はそもそもこういった場に興味を持たないのだろう。持ったとしても特等席プレミアムを手に入れられるだけの財力がないに違いない。上質な衣装を優雅に着こなし、上品な言葉遣いをネイティブに使いこなす人々は、オペラグラスや扇子を片手にゆったりとシートに身体を収めて開演を待っている。いかにもな佇まい。そういった場にぽつんと置かれてしまっては、いかに隣にシュウが居るとはいえ、マサキにも思うところは出るものだ。
「日々社交に精を出しているような連中ばかりな気がするけどな」
「相変わらず口が悪い」
 云いながらも気を悪くした様子もなく、むしろ面白がってすらいる様子でシュウはふふ……と笑ってみせた。
「今日の歌劇は完全公演なのですよ。だから客層がいつもと比べると上質になっているのです」
「完全公演?」
「シェイクスピア劇に限った話ではありませんが、娯楽が限られていた時代に創られた劇というものは、基本的にどれも上演時間が長いものなのですよ。ですから現代でそれを上演する際には、冗長なシーンをカットしたりして、上演時間を短く収めるようにしているのです。現代人はタイトなスケジュールの中で生活していますからね。娯楽も巷に溢れていますし。真夏の夜の夢で云うのであれば、冒頭のアテネ公シーシアスに父イージアスが願い出るシーンや、六人の職人の話し合いのシーンなどは、カットされやすいシーンとして知られています」
「それも今日はやるって?」
「そうですよ。しかもこのキャスティングにオーケストラですからね。それはこれだけの客層が集まりもするものです」
 マサキは盛大に顔を顰めた。聞けば聞くだに無事に済みそうにない。
 そもそも映画ですらまともに最後まで見れたためしのないマサキに、映画を見るくらいの気軽さで見ればいいなどと、ここに来る道すがら云ってのけた男なのだ。マサキがどれだけ観劇に向かない男なのかなど、常識の異なる世界に住む男。考えも及ばないに違いない。不安しかねえ。思いがけず口を衝いて出た言葉に、休憩時間もありますから大丈夫ですよと、シュウは相変わらず余裕綽綽といった態度だが、果たしてそれもどこまでもったものか。
「……寝ても絶対に文句云うなよ」
「あなたが寝てしまったら、それは私の人選が悪かったということです」
 上演開始のブザーが劇場内に響き渡る。気を楽になんて見れるもんか。マサキは気を引き締めて、徐々に暗くなる劇場の中。これから幕が開く舞台に姿勢を正して向き直った。

※ ※ ※

 観客と俳優、そしてオーケストラと、全てが一体となったラストシーン。静かに幕が下りきると同時に、観客席は熱狂と興奮の坩堝るつぼと化した。次々と座席を立つ観客たち。ある者は惜しみない拍手を捧げ、ある者はハンカチを振り、またある者は賛辞の言葉を叫ぶ。ただの一度も寝ることなく観劇を終えたマサキは、彼らが放つ熱気に圧倒されてしまっていた。
 悲劇的な幕開けとは裏腹に、コミカルな登場人物たち。狂言回しの役割を果たす妖精パックが登場してからは、加速するように舞台の面白さが増していった。マサキは興奮冷めやらぬ劇場内で、ひとり。それまでの名場面を振り返っていた。
 ハーミアとライサンダーの恋。ヘレナとディミートリアスの恋。オーベロンとティターニアの恋。そしてシーシアスとヒポリタの恋。真夏の夜に絡み合い、もつれ合った恋模様は、笑いを多く含みながらも、しんみりと胸を打たせるものでもあった。
 やがて再び幕が上がり、舞台に俳優たちが顔を揃えたカーテンコールが始まった。鳴り止まぬ拍手に迎え入れらた彼の表情は誰もが誇らしげだ。娯楽たる舞台とはこういったものであるのだ。マサキは学校の授業の一環で見た舞台に思いを巡らせた。芸術であることばかりが強調されたそれらの舞台は、観客から自由に観劇する気持ちを奪ってはいなかっただろうか。
 それと比べて、今日の舞台はどうだ。演じ、歌い、踊っていた俳優たちの生き生きとした姿。彼らからは、自分たちが演じている演目がシェイクスピアであるといった気負いは感じられなかった。観客たちにしてもそうだ。笑い、泣き、喜ぶ彼らは、舞台上の登場人物たちとともに真夏の夜を生きていた。
 だからこそ生まれた一体感。今日この劇場に集った人々は、誰もが皆、今日のこの舞台を娯楽として楽しむことに一生懸命だったのだ。
 カーテンコールの終わり。歌劇を陰から支え続けたオーケストラに満場の拍手が送られる。ゆっくりと下りてゆく幕とともに、ぽつりぽつりと劇場内に明かりが灯ってゆく。そうして動き始める劇場内の時間。非日常から日常へ。人々が次々と劇場を後にする段階を迎えても、マサキは座席から動けずにいた。
 だから云ったでしょう、といった表情でマサキの様子を眺めていたシュウは、特等席プレミアムに陣取った観客がその姿をまばらにする頃になって、ようやくマサキの肩を叩くと席を立つように促してきた。
「どうでしたか、真夏の夜の夢は」
「面白かったよ。全体的にコミカルなのが良かったな。深刻になり過ぎない感じでさ」
「そこは演出家の力ですね。人によってはオーバーに悲劇を描くことで滑稽さを演出したりもしますよ」
「へえ。それはそれで見てみたくもあるけどな。お前、もしかして同じ原作の劇を何度も見たりするのか」
「演出家が異なれば、劇の雰囲気も変わりますからね。気に入っている原作の劇は概ね何度も見ますね」
 観客席の間にある階段を上がってホールを出れば、入り口ホールは今さっき観劇を終えたばかりの客で溢れ返っていた。ポスターやパンフレットを求める人の群れ。先程までの興奮冷めやらぬといった様子で立ち話に興じている人々。この熱狂の中にいつまでも身を置いていたい。マサキはそう思いながらも、娯楽は非日常。去り難い思いはあれど、いつかは日常に帰らなければならない。
 見送りに立つスタッフの間を抜けて劇場を後にしたマサキは、そのまま歩いてシュウが予約を入れていたらしい近場のレストランへ向かった。
 流れてゆく人の波。観劇を終えた人々は、誰しも似たような考えでいるようだ。劇場近く。レストラン以外にもバーやクラブが並ぶ歓楽街に足を踏み入れると、周囲にいた礼服の観劇者たちが、それぞれ馴染んだ店へと姿を消してゆく。
 マサキもシュウに続いてレストランの扉を潜った。
 薄暗い店内に、仄かに灯る橙色の明かり。足元が確認出来る程度には明るい。
 そこそこの埋まり具合なテーブルには、劇場から流れてきたと思しき礼装の客の姿もあった。耳に届く会話を拾い集めるに、彼らは今日の舞台の出来を論じているようだ。そんなの論じるまでもねえ。舞台の出来に充分に満足をしていたマサキは、食事と会話を楽しむ客で賑わっている中を、ウエイターに案内されながら進んで行った。
 どうぞと勧められたのは窓際の席。白いテーブルクロスがかかった丸テーブルには、扁球体の灯火器ランプと白い花ばかりを集めた花瓶が飾られている。どうやら客を迎えた席の灯火器ランプに明かりを灯すシステムになっているらしく、ウエイターはマサキたちが着席するのを待ってから、芯の長いライターで灯火器ランプに火を灯した。
 ぱあっと色を鮮やかにするテーブル。いっそう白さが際立つ。
 ひと仕事を終えたウエイターが恭しく一礼して去ってゆく。その後ろ姿を眺めながら、マサキは口を開いた。
「お前が選ぶ店っていつもこんな感じだよな。やたらと雰囲気があるっていうかさ、かしこまってるっていうかさ……」
 ジャンクフードばかりを口にしている訳ではないものの、気軽にぱっと立ち寄れる店でばかり食事をしているマサキは、当然ながら自ら進んでこうした店に足を踏み入れたりはしない。勿論、稀には魔装機の女性陣に連れられて、オーガニックだのヴィーガン食だのといった少し気取った店に入ることもある。とはいえ、それとてカジュアルな雰囲気には違いなく。
 気短な面があるマサキにとって、素早く栄養補給が出来るファストフードやキッチンカーは、偏重して利用してしまうほどに都合のいい食事処だ。きちんとした食事を取りたくなったら、大量の客を捌くことに慣れている定食屋に赴く。そう、大いに庶民的。そうしたマサキの食生活を知っているからだろう。彼女らはマサキを連れて行く場所を、きちんと選んでいるのだ。
 だからこそ、しみじみとそう口にせずにはいられなかったマサキに、その発言の真意を窺いかねたのか。それともマサキの普段の生活に考えを及ばせたからか。シュウは少しばかり怪訝そうな表情になった。
「話をするのにも気を遣うような店は選んでいないつもりですが」
「悪いっていう意味で云ったんじゃねえよ。偶にはこういう店もいいなって云おうと思っただけだ」
「あなたの食生活はある意味不摂生そうではありますね」
「お前の偏った食生活よりかはきちんと栄養を取ってる気がするけどな」
 そこまで話をしたところで、テーブルに水とメニューブックが届けられる。舞台に夢中になっていたからこそ気付かずにいれたものの、マサキの腹は相当に減っていた。何にするかな。マサキは云いながらメニューブックを開いた。
 簡易的なコース料理。前菜、スープ、メインディッシュにデザート。そして食後のドリンク。それぞれに幾つかのメニューが存在している。例えば前菜には、生ハムかチーズの盛り合わせ。若しくは温野菜か自家栽培の野菜のサラダ。スープならポタージュ、ミネストローネ、コンソメスープ……どうやらここは自分でメニューを細かく選んで組み合わせたコースを作るタイプの店なようだ。面倒臭え。ぽつりとマサキが呟くと、云うと思ってましたよ。シュウはそう云って笑った。
 シュウに付き合わされる内に、少しずつ覚えるようになったメニューの数々。マサキはシュウに尋ねながら、ひとつひとつメニューを決めていった。前菜、スープ、メインディッシュにデザート。食後のドリンクを決めたところで、窓に映る自分の姿がちらと目に入った。
 そこには、日常の自分とは一線を画した、この場に相応しい装いの青年が存在していた――……。

※ ※ ※

 レストランでの話題は、やはり今日の舞台の感想が主なものとなった。物語の再現性や、俳優たちの演技にオーケストラとの調和。監督の演出力。話すべきことは山ほどあった。舞台の世界に明るくないマサキは主観的な意見を述べるしかなかったものだったし、そこには的外れな感想もあったに違いなかっただろうが、どの意見にもシュウは確りと耳を傾けてくれたものだ。
 シュウ曰く、舞台の演出や演技をオーバーなものとさせないところが、この監督が評価される理由であるのだそうだ。喜劇だからと云って笑わせることを意識せず、恋心に親子や夫婦の確執と、きちんと演じさせるべきところは演じさせ、それぞれの登場人物に感情移入させている。だからこそ、狂言回し的な役割であるパックの活躍が生きてくるのだと、シュウにしては珍しくも控えめな云い回しでそう述べた。
 成程、そう云われてみれば、真面目な登場人物の中にあるからこそ、コミカルなパックの存在は際立っていたようにも感じられる。
 何組ものパートナーが登場するややこしい人間関係が纏まりをみせているのは、求心力があり、また独立した存在である妖精パックというキャラクターが、悪戯好きだからこそ為せる手法で彼らに絡んでいくからだ。その過程が面白く感じられるのは、それぞれ我が身に降りかかった問題を、登場人物たちが真面目に演じてみせたからに他ならない。これがオーバーアクションな演技で、喜劇一辺倒な物語とされてしまっていたら、捻くれ者でもあるマサキのこと。果たしてこの舞台を面白いものとして受け止められていたかどうか。
 マサキはさあ笑えと押し付けられているような笑いの世界は、笑うべきポイントが明瞭はっきりとしているからこそ、あまり得意ではないのだ。
「今日はあなたの率直で忌憚のない意見が聞けて良かったですよ、マサキ。何事もそうですが、先入観のない素人の方が、物事の本質を的確に捉えることに優れていますからね。人間という生き物は不思議なもので、下手に知識や経験を重ねてしまうと、自分の意見に固執するようになっていってしまう。私にもそういう面があります。だからこそ、あなたの感想の数々は、傾聴に値すると私は思いましたよ」
 湯水のように溢れてくる言葉の数々。マサキは興奮していたのだ。演劇という未知なる世界に自分が馴染めたその事実に。話せば話しただけ、これまでの経験からくる劣等感が嘘のように消えてゆく。だからこそ、シュウを差し置いて自分ばかりが話をしている現実に、ふと気づいてしまったその時に、マサキはいたたまれないほどの気まずさを感じてしまったのだ。
 特等席プレミアムのプラチナチケットを手に入れた男が、この舞台に掛けていた期待はどれだけのものであっただろう。どれだけ想像力が貧困なマサキであっても、シュウの胸中は容易に予想が付いた。気に入っている原作の劇を何度も見ると云う男なのだ。きっと、的外れなマサキの意見に物思うところもあっただろうに。
 だのにシュウはマサキの一方的な話に付き合い続けてくれたのだ。
 これでマサキが己を恥じれなければどうかしている。
 ――そもそもあなたを誘ったのは私ですからね、マサキ。誘った人間がどう感じたかを知りたいのは当然のことでしょう。楽しめないものに誘おうとは思わないものの、万が一にもつまらないと感じさせてしまったら? いたたまれない気持ちになるのは私の方なのですよ……
 帰り道。少し散歩をしましょうと、シュウに誘われて立ち寄った公園は、賑やかな歓楽街に人が集まっているからか、ひっそりと静まり返っていた。ひとり、ふたりと擦れ違う者があるものの、直ぐに姿を遠くする。きっと、ここを通り抜けて歓楽街へと向かうのだろう。
 草木のささめきが耳に届く。
 今日はとてもいい一日でしたよ。不意にそう言葉を吐いたシュウが、足を止めて青く突き抜ける空を見上げた。夏ですね。云われたマサキもまた空を見上げた。そうだな。春から切れ間なく夏を迎えた空は、まるで先程までいたレストランのテーブルクロスのような白さの雲を携えている。
 通年過ごし易い陽気のラングランの夏。涼やかさが増す最近の陽気でも、富みに過ごし易い。真夏の夜だ。マサキが劇のタイトルにかけてそう云うと、シュウは小さく声を上げて笑った。
「真夏の夜の夢の夜というのは、夏至の夜のことなのだそうですよ。原題が日本語に訳された時に、その意味を変えてしまったのだとか」
「夏至? じゃあとっくに過ぎてるってことじゃないか」
「けれども、恋人たちが過ごす夜は、夏至よりも真夏の方が似合っていると私は思いますがね」
 振り返ったシュウの手が、マサキの髪にかかる。きちんとセットされた前髪。涼しい額が面映ゆい。
 ふたりの周りを風が駆け抜けてゆく。ラングランの心地良い風。天へと続く地表を滑るようにはしってゆく風は、マサキの髪を爽やかに嬲ったものだったけれども、いつもは乱れがちな髪も今日ばかりは整ったままだ。
 そんなマサキの髪を弄んでいたシュウは、やがて、見たいものが見れた。そう呟くと、柔らかく。マサキの口唇に自らの口唇を重ねてきた。
「……そんなに真夏の夜の夢が好きなのかよ、お前」
 人目も憚らないシュウの行為に途惑いながらも、口付けを黙って受けることにしたマサキは、シュウの口唇が離れると同時にそう口にしていた。
 喜劇よりも悲劇を好みそうな男だ。確かにそうした舞台にも造詣が深そうではあったものの、見たいものを見れたと口にするからには、それだけの理由が存在している筈だ。理屈っぽい男は、ただ好きだから、程度の感情ででそこまで口にするような可愛らしい性格をしてはいないのだ。
 何が一体、そこまでシュウを満足させたのか。マサキは知りたかった。けれども、次の瞬間。まさかとシュウは肩をそびやかしてみせた。なら、何故。訳がわからないマサキは、相当に怪訝な表情をしていたに違いない。ふふ……とシュウが忍び笑いを洩らす。
 マサキの疑問に答えるつもりがあるのだろうか。シュウはそっとマサキの耳元に口唇を近付けてくる。
 ――あなたのその姿ですよ、マサキ。
 そして囁くように答えを口にしてみせると、呆気に取られているマサキの目の前で、これ以上となく満足気に微笑んでみせた。